第一二章 女と龍の異象

笹尾鉄三郎

分解

略解

1〕「大なる異象」ヨハネはこの異象の大きなことに驚いた。第一は、女、第二は男子、第三は龍である。「一人の女」諸説がある。ある人はマリヤであると解し、男の子をキリストと解する。その他エルサレム、またイスラエルあるいは初代教会、ローマ教会(この場合には男の子はコンスタチン帝)であるなどと解釈する人もいる。これは過去の歴史に適応させるべきではなく世の終りのときに起るべきことである。サイス氏の解釈によれば全世界の有形の教会であるという。女は男から生れたものであって第二の女である教会は、第二のアダムであるキリストから出で来たものである。「日を着」女の栄え、日は光輝である。光すなわち栄えの衣を着用するのである。「月を足の下にふみ」勝利。月は夜を司るものすなわち夜の権力である。暗の力を足の下に踏み付けたことであって勝利を現わす(ロマ一六20)、「一二の星の冠を戴けり」冠は王の姿。一二は完全を意味する。星は輝き、すなわち王たること、栄光と勝利と王であることの権威を持つに至る。

2〕教会の特色。はらみ子を産もうとして産みの苦しみを味い、その苦しみによって泣き叫ぶ。

3〕「赤龍」悪魔。赤は血に染まって一目瞭然となった状態をいう。「七の首」全き権力、位である。首は自分を高くすることの意。「一〇の角」権力。一〇は悪魔の数。「七つの冠」悪魔が暗の領分において王となることを現わす。

4〕悪魔の非常な働き、勢力、感化を示す。「天の星三分の一をひき、これを地に落せり」天の星すなわち天使の三分の一が悪魔のために堕落し、悪魔の使者となるのである。「星」天に属するもの、権威あるもの。今ここにおいては天使と解釈する。「産むを待ってその子を食わんとす」教会が子を産み、すなわち信者が出来た時、霊魂が悔改めてキリストを信じた時に、悪魔はその信仰を奪おうとしているのである。

5〕「男子」多くの説がある。キリストであると解する人もあるが、今はキリストと共に栄えを受けるもの、すなわち主が空中再臨の時霊化して携え挙げられ栄えを与えられる聖徒の団体を言う。有形の教会から出て来る聖徒と解すべきである。「鉄の杖」この権威は第一にキリストに与えられるものであって(詩二9)携え挙げられた教会にもまた与えられるのである。(黙二2627)。キリストが、父なる神から与えられた国民を司る権威を教会にも与えられるのである。

6〕「女のがれて野に行けり」携え挙られた後に残った地上の教会は、のがれて野に行って(14)神のみ手に保護されるという予言であって、神は避け所を備えられる。

7〕「ミカエル」キリストであると解する人もある。しかし、天使の長と解すべきである。悪魔と天使との戦い。

8〕悪魔は天にあって暗の権威を司ったが今はキリストの勝利が有形に現われて来たので、天にいることが出来ないのである。

9〕「悪魔」ギリシャ語では訴える者との意。「サタン」へブル語では敵する者との意であって、保恵師の反対。「老蛇」惑わすことは彼の特色であって、奸智にたけた者である。

10〕大讃美。あがないの功により悪魔は十字架上に砕かれたが、有形に現われて来るのは世の終りであって、霊界から追落されたのある。「訴うる者」悪魔の意であって、彼は夜昼神の前に聖徒を悪しざまに訴えつつあるのである。

11〕悪魔は地に追い落されたので、地上において暴虐をふるい、地に残る者を苦しめるのである。しかし、その残りの者は、小羊の贖の血を信じることにより、この悪魔と戦って勝つことができる。勝利を得ることの秘訣は、次のようである。小羊の血、十字架、証しの道、体験談、犠牲の精神、生命を惜まず、すなわち右のように死に至るまで十字架を説き、自分の体験を語り、生命を捨てる覚悟をして進むならば、悪魔を打破り、ついに主にある勝利を得ることができる。私たちも是非そのようであらねばならない。

12〕「天に居る者は喜べ」天に携挙された者は、神を讃美して得るのである。

13〕「女を悩ませり」地上に残された有形の教会は、悪魔からはなはだしく迫害される。

14〕神の特別の保護がなければ悪魔に殺され滅されてしまうであろう。「大いなる鷲の二つの翼」神の救いの力(申三三11。出一九4)である。神の救いの力は再び患難時代に現われる。「野に」イスラエルがエジプトを離れて淋しいシナイの野に来て、天来のマナをもって養われたように、淋しい野に行き難を避けて神の聖手に守られるのである。神の備えられた救の場所をいう。「蛇」悪魔。

15〕「その口より水を河の如く」野にのがれた時、悪魔はこれを追う。淡水の汎濫するように迫ってくる様をいう。

16〕「地……水を呑み尽せり」諸説がある。異邦人から同情者が起り、迫害者と戦って、信者を守るとの説がある。しかし、今は文字通りに、地が口を開いて水を呑み尽す時が来ると理解すべきである。あたかもモーセに背いたコラたち二五〇人を呑んだときのようなことが起ると解すべきである(民一六3132)。

17〕悪魔は、自分の部下が地に呑み尽されたことを見て非常に怒り、聖徒と戦おうとする。「神の戒めを守り」ユダヤ人。「イエスのあかしを持つもの」クリスチャンであると解く人もある。信者はみな神の戒を守り、イエスのあかしを保つ者であるから、ここでは神の民と解すべきである。