第一四章 二種の刈入れと天使の宣言

笹尾鉄三郎

分解

略解

1〕「シオンの山」エルサレム神殿のあったところである(詩四八2)。ここでは将来に現われるべき新しいエルサレム、すなわち天国にたとえているものである(黙二一2)。
「一四万四千の人」。
 12×12=144……………神の数
 144×1000=144000……完全数
これは先きに七章4節で印を捺された者であってユダヤ人中の選ばれた民のことである。この民の受けた印の対照であって、民は小羊の名を受けた者である。「名」はその実を現わし、性質においてキリストを現わすものである。それゆえ一四万四千の人は、聖霊の印を受けた人々である。

2〕大讃美。天よりの声誰れの声であるかどうかははっきりしないが、恐らくは救われた者の声であろう。

3〕「新しき歌」宝座の前および四つの生物と長老たちの前において、贖い主を讃美する歌であって(五9)、恵みにとかされたときに歌は新しくなる。すなわち真の讃美は、真に満された者でなければ歌うことができない。それゆえ新しい歌は贖われた恵みを味った人の歌うものであって、地から来たもの、地に属するものには歌うことができない。「贖わるる」原意は置かれたとの意である。

4〕「女」後になって来るバビロンのことであり、腐敗した教会のことである。すなわち、世と姦淫したもののことである。「その身を汚ざる潔き者なり」世と姦淫する汚れに染まない潔い者である。「かつ小羊の行くところいずこにてもこれに従う」彼らはキリストの行かれるところには、どこへでも従って行くのである。いかなる十字架があるとしても主に心から服従して進んで行く。「彼らは、人の中より贖い出されたる者」人の中から選ばれた者と人の中より出された者。このように人の中から選び出された者は、再び神によってこの世に遣わされ、多くの人から離れ、人の軛の中にはいないのである。「神と小羊に献げし初めの実なり」神と小羊とに全く献げた初穂の実である(ロマ一二1)。

5〕「その口偽りなし」これは彼らの特色の一つであって、真の選民は虚言がなく、きずのないものである。口では立派に説くが行いがこれに伴わず偽りとなるのである。言行に表裏のない意である。

6〕今の時代では、神は福音宣伝を贖われた者に託しておられるが、この時代になると悪魔が具体的に現われて、超自然の力をもって暴威をふるうために、神は天使に力を与えて、福音を宣伝させられるのである。「永遠なる所の福音」福音の真理が永遠に動かないものであるとの意である。この時代の福音は罪人を救う福音ではなく、今日の恵みの時代における福音と異っている。永遠の福音である。

7〕「神を恐れ、栄をこれに帰せよ」この時代には、偽キリスト、偽預言者が現われて奇跡を行い、渾然とした状態となるが、このように福音の光が輝き来るのである。これは選民にとっては幸いなことである。「神の審判し給うとき、すでに至ればなり」人々は、どのように成って行くのだろうかと思っていたが、神の審判がやって来て偽預言者の勢力を滅ぼす時となるのである。「天地海および水の源を造り給いし者を拝せよ」天地万有の創造主を見のがしてはならない。拝すべき者は、偽キリスト、偽預言者ではなく、天地万有の創造主である。聖霊は拝すべきものを示して下さる。

8〕「バビロン」中心となるものは、偽キリスト、偽預言者であって、宗教の名の下に、隠れて大きな教会を建てる。しかし、これは背教教会である。「倒れたり、倒れたり」偽キリスト、偽預言者などの滅びる預言。天使は、このように成ることを見破って、預言するのである。「バビロン」バベル(創一一9)。「彼その姦淫によりて干る怒りの酒を万国の民にも飲しめたり」彼は、神の名を口にするが、事実は世と姦淫している。それゆえ、神の民と反対である。ただ自分たちが世と姦淫するだけではなく、万国民に世と姦淫することを教えている。今の時代においてもバビロン的分子は教会の中に入ってきているのである。「エクルア」選ばれし者の集るところ。「バビロン」根本から神を恐れず世と姦淫する教会をいう。(注、エクルアはエクレシア)

9〕厳粛な警戒。「獣」偽キリスト。「その像を拝し」迫害を恐れてキリスト教を離れる者。

10〕前節と同様に厳粛な警戒である。「怒の酒を飲まん」神の刑罰を受けることの意(詩七五8、イザヤ五一17、エレミヤ二五15)。「物を混えず」昔、ぶどう酒を用いるのに必ず水を混る風習があった。しかし、物を混入させない純粋な強い酒は、激しい刑罰を表わしていた。「火と硫黄」恐るべき刑罰であることを表わしている。

11〕「尽る時なし」果しない苦痛を現わしている(マタイ二五46)。「夜昼安からざるなり」刑罰の尽きる時のないことを言う。ただ眼前の幸福に目が眩み、永遠の運命を誤って限りない刑罰を受けるに至るのである。

12〕「神の戒を保つ」真の信者は、従順であって神の戒めとイエスを信じる厚い信仰を保つのである。「忍耐ここにあり」忍耐がなければ、しばらくの苦痛や迫害に打ち勝つことができない。たちまちにして獣のために惑わされて、永遠の形罰を受けるようになるのである。ゆえに必要なのは忍耐である。これは、かかる苦しい中にある聖徒を励まして下さる天来の叫び声である。

13〕「この言を記せ」神は信者が来世において受ける幸福と栄光を、一般信者にも示そうとして、このようにヨハネに命じて記されたのである。「今より後、主にありて死ぬる死人は幸いなり」患難時代にある聖徒を励ますみ声である。聖徒はこの時代にあって信仰維持のために殺されるに至った。しかしキリストを信じたために殺される者は、すなわち殉教者であって、来世において栄の冠をうけることをもって幸福となると励まして下さるのである。「霊もまたいう然り」聖徒と共にいます聖霊も、天からの声に和し、信仰を維持するために殺されるに異存はないと言う。「かれらはその労苦を止めて休まん」患難時代には、地において少しの安息もないのみでなく、休むことのほとんどない程、患難が多い。それゆえこの時の聖徒の死は、聖徒をして永遠の安息に入ることを得させるのである。「その功これに従わんと」地上において為したその功績に従って、報奨を得るのである。

14〕「白雲」清くかつ輝いているさま。キリストの栄光を現わす。「人の子」キリスト。「金の冠」神性と王を表わす。すなわちキリストを王として神として審判主として、権威をもって現われて下さる。「利き鎌」罪人を滅す恐ろしい鎌。「座せり」審判の型である(マタイ二五3132)。

15〕「殿より出で」直接に神から出て神の命令を抱いて来るのである。「刈時すでに至れり」審判を下す時がすでに来た。「地の穀物すでに熟したり」地上に罪悪が満ちた(ヨエル三12913)。「汝の鎌を入れて刈れ」審判をなし、罪人を滅せとの意である。

16〕「刈取られたり」一説によれば、ぶどうを刈り集めることは悪人を罰することであって(19)、他の説によれば麦は集めてその倉にいれるべきである(マタイ三12)とあるように、信者の救いにあたると。

18〕「地のぶどうすでに熟したり」罪悪みちみちて、罰すべき時が来たのである。

20〕「城の外」エルサレムの外、ヨシャパテの谷。この時エルサレムには、キリストの聖力の漲るために、迫害する者はいない。すでにその時には一四万四千人の中に数えられる者のみとなっているからである。「血」この血の深さ、広さは、みな罪人の刑罰の恐るべきことにたとえたのである。「馬のくつわにとどくほどに至り」その血の深さをたとえたのである。「七五里」原文には、一六〇〇ステリオム(一ステリオムは、約一一一間にあたる)とある。広いことを示している。(注、ステリオムはスタディオン)。