第一五章 最後の七の災いを持った七人の天使と勝利者の讃美

笹尾鉄三郎

分解

略解

一四章の終りに見る審判をなお詳細に説き明したものである。

1〕「七つの災い」これは神の怒りの酒ぶねであって、第一、第二と順序よく出てくるのではなく、同時に継続して起ってくるものであると理解すべきである。「神の怒りはここにて尽るなり」最後に起る神の怒りである。「くすしき異象」神の怒りのために現われた異象である。

2〕「火の混りたる玻璃(ぎやまん)の海」四章6節の海とは異っている。聖徒のためには、神の聖と義が祝福として現われるが、罪人のためには、神の怒りをもって審判として現われる。罪人には恐ろしい海である。「獣とその像およびその名の数に勝ちたる者」偽キリストの刻印を受けずに信仰を維持して来た者(一三17)。「海の上に立てる」勝利者は、審判の下に投げ入れられるのではなく審判の上に立つことができるのである。「神の琴を執りて」神の琴とは一四章二節 の琴と同じ美しさを表わす。琴を執るとは、救われた者が喜んで讃美することの意である。

3〕「モーセの歌」教会が種々の困苦患難の中に、サタンと世の悪人の毒手をのがれて神の救済にあずかったことを喜んで、聖徒がモーセのように、神の栄光を讃美する歌である(出一五1)。「なんじの行為は、大なるかな。妙なるかな」大激戦の中にあって苦しかったが、神の保護の力の大きかったことを思い、十字架とよみがえりとによって成就した贖いの神の事跡を心から讃美するのである(詩一一一23、九14)。「万民の王よ」偽キリストは、天下を取ったかのようであったが、神こそは実に万国民の王である。「汝の道は義なるかな。誠なるかな」神の審判の誠実正義であって、公平無私であることを讃美しているのである。

4〕聖徒は、神の審判の現われることを知り、また万国民の神に帰服するときの来るのを知って、このように讃美したのである。

5〕「あかしの幕屋の殿開けたり」あかしの幕屋とは、至聖所を指す。モーセが神の命を受けてシナイ山のふもとにおいて造った幕屋からきた比喩である(出三一18、民一七7)。長く神はかかることをなす約束を与えられていたが、ことごとく成就する時が来たのである。神は悪魔を破り、その大能のみ手を動かされた(一一19)。一一章15節から19節までとこの一五章とは、相似ている点がある。

6〕七人の天使は、一章13節のキリストの御姿に似ている。「潔くして光ある布」透明に見えるほど潔い布。「金の帯」神性を表わす。神を代表して天の殿から出て来る祭司の姿である。

7〕「四つの生き物の一つ」四、五章にあったキリストのかたちをした聖徒が、七人の天使に金の椀を与える務めにあたった。これは尊い任務である。「金椀」祭壇の炭火を盛るために用いた器。

8〕「神の栄光と権力から出る煙」神の威厳ある恐しい煙。煙は神の栄光と権力とを表わしている。モーセが恵みの幕屋を建てたとき、神の栄光が満ちあふれて、モーセが入ることができなかった(出四○3435)。またソロモンが神殿を建てたとき、神の栄光が満ちて祭司の長などが入ることができなかった(列王上八1011)。先には恵みの神として栄光の中に現われたが、今は審判の神として現われる。「殿に入ることを得る者なし」神の怒りが非常に恐ろしくて、誰れも入ることができない。これは神の怒りの炎の燃えるさま、また神の威厳の犯すことのできない状態を示している。