第二○章 千年時代および悪魔の運命と最後の審判

笹尾鉄三郎

分解

一 悪魔の禁錮 13

二 第一の復活と千年王国 46

三 悪魔の釈放とその審判 710

四 悪人のよみがえりと最後の審判 1115

略解

1〕「天使」これが誰であるかは、判然としない。このような権威をもっているのでキリストであろうとの説が信じられる。「底なき穴の鍵」この穴は、火の池ではない。その審判を受ける時まで留めおかれる未決監のようである。陰府とは死んだ者の霊魂のある所、墓とは、死人の葬られているところ。底なき穴とは、悪魔の入れられる所である。そして、火の池とは、滅亡の審判を受ける所である。「鍵」権威。「大なる鎖」霊界の動物である悪魔を捕縛するために必要な霊界の大きな力を言う。

2〕「これを千年の間縛りおかんとす」神が人をどのように恵まれても、この悪魔が存在すれば、神の国の建設に妨害となるために、神はこれを千年の間縛っておかれるのである。いかに悪魔といえども神に抵抗することはできないのであって、ただ神の許しによって動き得るだけである。

3〕「その上に封をなし」先に悪魔は人間を用いて、人の子キリストを殺して墓の中に入れ、その上に封印をしたが、キリストはこれを破って出てこられた。今やキリストは、悪魔を穴に入れて、その上に封をされたのである。しかし、悪魔はこの封印を破って出ることはできないのである。「諸国の民を惑わすことなからしむ」人間に罪を犯させる悪魔は、穴に入れられてその権力をふるうことができず、それゆえ人間は惑わされることなく幸福な生涯に入ることができるのである。これが千年時代の状態である(イザヤ一一69)。「その後かならず暫時の間、釈放されるべし」千年時代が終ってのち、神は再び悪魔を釈き放たれる。これは神が悪魔を審判しようとされるためである。

4〕輝く私たちの希望。「多くの位を見しに、その上に座する者なり」冠を受けただけではなく、位をも与えられた聖徒の栄を示す(ダニエル七92227)。「彼ら審判の権を与えらる」栄を受けて楽しむだけでなく聖徒は、この世、また天使をも審判する権威を与えられたのである(コリント前六23)。「イエスのあかし」殉教者、特に患難時代における殉教者が、主を信じる信仰を告白したことを意味する。「神の言」神の言を信じ従ったことを意味する。「この獣とその像を拝せず、その印を額あるいは手に受けざりし者」偽キリストとその像を拝まず、これに従わない者。「皆生きてキリストと共に千年の間王となり」殉教した聖徒たちの身体もよみがえって、永遠の生命をもつ霊と合して千年の間、キリストと共に王となるのである。キリストと共に苦しんだ者は、キリストと共に栄を受けて、後つぎとなるのである(ローマ1718)。そして先ず地上を治め、やがて天下万物を治めるに至るのである(マタイ五5)。キリストと共に苦しみを忍び、彼と共に死んだゆえに、キリストと共に王となり、栄を受けることができるのである(テモテ後二1112)。「生きて」原語の意味は再び生きてである。

5〕「その他の死人」キリストを信じないもの。「これ第一のよみがえりなり」空中再臨のときから患難時代における聖徒の復活である。

6〕「この第一のよみがえりにあずかる者は、さいわいなり。これ聖者なり」この幸福な恵みを示して私たちにこれを受けよと聖霊は言われるのである(ピリピ三1011)。このさいわいな恵みにあずかる者は、潔められた者でなければならない。「このともがらの上に第二の死は、権をとることあたわず」第一の死は、彼らを殺したが、滅亡の刑罰は聖者の上に臨んで来ることはできない(コリント前一五5155)。「彼らは神とキリストの祭司となり」神のため、キリストのために代表者として、あまねく世界の人の前に立つ者となるのである。「キリストと共に千年の間、王たるべし」非常な光栄である。霊眼開けて将来についての希望が、明白となって来れば喜んでキリストの苦しみにあずかることができるのである。「千年」六千年にたいする安息の年である。神は七日目に休み、これを聖別されたのである。同様にこの世の歴史にも労働があり、やがて七千年目には一千年の安息が来て、全世界に平和が満ちるのである。そのとき民となる者は幸いであるが、王となる者はさらに幸福である。これはアブラハムになされた約束を成就するために、神がなされることであって、ユダヤ人にたいする地上の幸福である。旧約におけるユダヤ人にたいする祝福の約束が成就する時である。異邦人は、ユダヤ人の祝福によって、この祝福を受けることができるのである。千年王国の預言(ゼカリヤ一四1621、イザヤ五五14、ミカ四18、イザヤ六○1922、二24、二五69、マタイ一九28、ピリピ三1011、三2021、コリント前一五、ペテロ前四13、コロサイ三4)。

7〕「千年終りてサタンそのひとやより解き放さるべし」千年が終ったとき、キリストは不思議なみ心により、サタンを解き放たれる。このとき人々はサタンにたいして神のみ旨の不思議なのを見、これを軽視するようになるが、これはすべて神の大きな経綸からでたことであって、これらによって神の大能があらわされるのである。

8〕悪魔は千年の間こらしめられたにもかかわらず、すこしも変化せず千年以前と同様である。これによって私たちは頑固な心のいかに恐ろしいかを知ることができる。この世に属する血肉は、千年間も神の恵みの中に浴してきても、やがて神の敵となることを示している。それは悪魔のために諸国の民が惑わされ、彼らに従ったためである。「ゴグとマゴグ」(エゼキエル三八2)。神に逆う者として現われる。ゴグは、ロシヤ国のことであるとの説があるが断言しがたい。この説によれば、ゴクとマゴグは、ロシヤ北方の野蛮人である。ゴグとマゴグの民は、悪魔のために惑わされて、神に敵する者となり、多く集って来るのである。

9〕「かれら地にあまねく満ちて」いたる所に神に敵する者が満ちたことを意味している。「聖徒の陣営」よみがえった聖徒の治めている場所。「愛せらるる城」エルサレムが全世界の中央政府を意味する。「この時に火天より降りて、彼らを焼き尽せり」悪魔が頼むに足りない者たちを集めて作った軍勢をもって、よみがえった超自然のものとなった聖徒および全能なる神に敵対して戦うことは、実に愚なことである。神に敵対してもただ滅びるだけである。滅びるのは、悪魔だけでなくこれに従う者もまた同様である。神は天からの火をもって、悪魔とこれに従う者を滅ぼされたのである。もちろん、全世界の民にたいしてではない。この時には、キリストに抵抗しない民もあったのである。

10〕偽キリストは、偽預言者のいる地獄の中に投げ入れられたのである。「ここは夜も昼も患難苦しみありて、世々止む時なし」ここは、昼夜の別なく絶えず患難と苦痛とを受けるところである(マタイ二五41)。

11〕「白き」正義の審判の意。「大なる」権威のあること。「大なる位とこれに座する者」審判の座。神から審判の権威をゆだねられたキリストが、審判をなされるところとこれに座しておられるキリスト。「地と天とその前をのがれて、再び留るべきところを得ず」キリストの権威のいかに恐ろしいかを示している。これは天地の消失したその前ではない。キリストの権威の前に、誰も立つことができず、天地さえもその権威の前をのがれることを示している。

12〕「我また死し者の大と小との別なく、皆神の前に立つを見たり」死んだ者とは、聖徒を除いて残っている者、すなわちキリストを信じない者である。このようにキリストを信じない高貴な人も、卑しい人も、あらゆる階級の者がみな、神の前に立つのを見たのである。これは実に厳なことである。「書」記録の書。「生命の書」永遠の生命を与えられた者の名の記されている書。「死し者は皆書に記せるところのことにより、その行いに従いて審判を受けるなり」死んだ者は、その思いと行いとの記録に照して、各自の責任を問われる。そのなしたことによって審判を受ける者の中に聖徒はいないのに、なぜ生命の書が開かれているのであろうか。それは記録によって、その人の行為が明白となり、いかに正しい行いをなした人であっても、ただ刑罰の軽くなるだけであって、決して天国に入ることができるものではないことを、示すためである。

13〕「彼らおのおのその行いに従いて審判を受けたり」各自がその行為によって刑罰の軽重は異っていても、それぞれ審判を受けるのである。

14〕「死と陰府と火の池に投げ入られたり」死と陰府とは、私たちの敵である(コリント前一五26)。悪魔と共同して私たちを苦しめたものである。もちろん私たちの罪に責任があるが、私たちの罪に乗じて、私たちを苦しめたのは死であった。今や神は、私たちの敵である死と陰府とを地獄に投げ込まれたのである。

15〕生命の書に名の記されない者は、いかに行為が美しくても、刑罰を免れることはできないのである。