分解
一 新天新地 1
二 新しいエルサレムの降下と人間の祝福 2~4
三 位に座す者の宣言 5~8
四 新しいエルサレムの状態 9~27
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イ 構造 9~21
ロ 殿 22
ハ 光 23
二 城と万国民との関係 24~27
略解
〔1〕「われ新しき天と新しき地を見たり」今の天地は、神の怒りの火によって焼かれて、新天新地となるのである(ペテロ後三10~13)。私たちの望みは、この新天新地に住むことである。以前には、千年間の祝福を受けたが、のろわれた天地の間にあっての祝福であったので、新天新地となるならば神は、さらに勝った恵みを私たちにお与え下さる。新天新地の出現することは、古い天地が全く消滅するのではなく、審判によって新しくされたことを意味する。すなわち、ただ状態の変化だけである。神のご計画がいよいよこの新天新地において成就するのである。世のはじめに創造された天地は、天使と人間の堕落によって、神の怒りを受けて神からのろわれたものとなったが、神は人間を救う道を立てて、キリストを信じる者を救い、信じない罪人を滅ぼされたのである。のみならず、死、陰府、悪魔をもことごとく滅ぼされて、そして、初めて神が天地万物を造られたご計画が成就するのである。
〔2〕千年時代には聖徒は地上に来ているが、その住所は天にあるが如く、新天新地の時になって文字通り地上に降りてくるのである。主は先ず空中まで降ってこられ、多くの人を携え挙げられる。また患難時代によみがえる人もある。これらの人々は地上再臨の時に地上に来るが、地上に住まず、なお天に住み天にありて地上を治めるものらしい。そして、新天新地の時になって初めて地上に降りてくるのである。「新しきエルサレム」古いエルサレムと比較して、新しいエルサレムである。それゆえ前のエルサレムは、国中においてとくに美しいところである(エゼキエル一六3、14)。「そのさまは、新婦その新郎を迎えんために着飾りたるが如し」新しいエルサレムの様子は結婚のとき、新婦がその新郎を迎えようとして、着飾ったように美しいのである。
〔3〕「大なる声」誰の声であるかわからない。天にある聖い天使が、その有様を見て嘆賞し、このように叫んだのであろう。「神の幕屋人の間にあり」ヨハネ一14と対照せよ。ヨハネ一14の「宿れり」の原語の意味は「幕屋」である。キリストが肉体をもって人の間に宿られたのは、神の幕屋が人の中にあることを示している。しかし、世はキリストを知らないで、彼を拒み、彼を捨てたのである(ヨハネ一10、11)。今や現実に神は、人の間に宿られるに至ったのである。「神人と共に住み、人神の民となり」神は人と共に住んで、人は神の民となるのである。これが真のインマヌエルである。今は人間はさまざまの民に分かれ、悪魔を仰いで王となしているが、新天新地では、すべてが神の民となり、神と共に住むようになる。これが人間の幸福の基である。「神また人と共にいまして、その神となり給うなり」神がその人々と共におられることは、実に幸いである。神は、人々の神となり、すべてを満たす責任者となられるのである。神は生命の親、祝福の源、保護者、またあらゆる方面において人間の神となられて、人間の万事をかえりみられるのである。
〔4〕「神かれらの目の涙をことごとくい拭いとり」今の世は、涙の谷であって、涙に満ちている。人の同情によって、また境遇の変化によって幾分は拭いとられるが、新天新地になってからは、その涙はことごとく拭い去られるのである。「また死あらず」今の世にあっては、死はその勢力をふるって、人の生命を奪っている。二〇14において、死が滅ぼされたので、新天新地に住む人には、再び死ぬことはないのである。「悲しみ、嘆き、痛み有ることなし」今の世に満ちている悲しみ、嘆き、痛みはすべて消え去るのである。七16、17は、聖徒のための祝福であるが、二一章においては地上に住む人にたいする祝福である。
〔5〕キリストの断言。「見よ、我万物を新にせん」人間のいだいている理想を実現するとしても、このような幸福な天地を造りだすことはできない。ただキリストのみが、よくこのことをなし得るのである。私たちは、今このキリストに眼をとめれば、堅固な信仰を受けることができる。私たちの品性も自分の力によっては、切磋琢磨したとしても、何の効果もないが、キリストの力が私たちの中に働くとこのことをよくなしとげることができるのである。「そはこの言は、信ずべくして確実なれば也」あまりにも意外なことなので人間は、これを想像でもあるかのように考えるかも知れないと案じ、これは確実なことで、虚偽ではないことを明言されたのである。私たちは、今や信仰をもってこれを信じればこのことが事実となって現われたときに、さらに勝った事実を見るようになるであろう(一九9後半)。
〔6〕永遠の目をもって見られる神のみ言。「すでに成れり」これは預言であるが、永遠を見貫き、神はその成就のときを知っておられるので、このように言われたのである。「渇く者には、価なしに生命の水の源にて、飲むことを許さん」神は尊い約束を与えられる。神はこの輝いた望みを示して、その確実なことを知らしめて、これにたいして渇望を抱く者には、何の功もなくして、この生命の水の源で自由に飲むことを許されるのである。「源」キリストである。私たちは、キリストご自身に来て、この幸いな恵みを受けることができるのである。このキリストに来て生命の水を飲んだ者は、その人自身が生命の水の源泉となって、多くの人々に生命の水を分け与えるものとなるであろう。
〔7〕「勝を得る者」悪魔に負けずに、信仰を維持し、終りまで信仰を貫いて勝利を得た者のことである。「これらの物を得てその業となさん」これらの幸福を得て、身代財産となすことの意である。「我かれの神となり、彼わが子となるべし」神はその者の神となり、その人々は神の民となるのみならず今は神の子となって、神と親しい関係を結ぶことができるのである。
〔8〕神は、私たちに一大幸福と一大災害を示して、いずれをとるかをたずねられる。「臆する者」謙遜で万事控目にすることは美しいことであるが、謙遜ではなく、臆して大胆に信仰を発表しないで、世の人を恐れることは警戒すべきことである(テモテ後一7)。臆することは罪である。神が大胆に進みでて、信仰を告白せよと命じられるとき、従わないのは、すなわち不従順の罪である。「信ぜざる者」神が私たちを愛してこの幸福を与えられたことを信じないで、また神に万事をゆだねてしまわないで、怖れ臆するのは、神にたいしての不信仰の罪である。「憎むべきもの」自分を神とする者に従う人を、神は憎みたもう。「姦淫を行う者」キリスト以外の者を愛する人をいう。「魔術をなす者」悪魔は、霊界の不思議な知恵をもって、人の心を惑わし、神から離れさせるのである。「偶像を拝する者」神以外のものを拝する者。「すべて偽りをいうもの」偽りの父である悪魔に従って虚言を吐く者。「火と硫黄の燃える池にてその報いを受くべし」厳格な神の宣言である。神は少しの容赦もなく、このような刑罰を与えられるのである。
〔9~10〕この城は、すなわち新婦の品性の美を形容したものである。また城とは、有形的なものであって、その中に新婦がいるのであるとの二説がある。ここでは、後者をとる。この時用いられる天使は、最後の七つのわざわいを盛った七つの金椀をとった七人の天使の一人である。この天使は、七つの金椀をとって偽教会を審く恐ろしいさまを示したが(一七1)今は新婦の美しいさまを示している。
偽教会の外形の美(一七4、一八3)。偽教会と新婦とを対照せよ。聖霊は二種の美を示しておられる。それゆえ、私たちが世に属するものに心を奪われているのは、バビロンの美に迷っているからである。「来れ、我なんじに小羊の妻なる新婦を見せん」霊眼を開いてこの小羊の新婦を見るべきである。「われ霊に感じ」霊に感じて、黙示を受けなければ、小羊の新婦を見ることができない。超自然の力に携え挙げられて、地に属するものと、肉に属するものから全く離れたことの意である。「大なる城聖エルサレム」盛大で少しの汚れもない神の栄を持った美しいエルサレムが、今や神のところをでて、天から来るのである。霊に感じた者は、これを見ることができる。
二大壮観――空中再臨および地上再臨のイエス、小羊の新婦が降ってくる光景。
〔11〕この城の栄光を現わすのに、種々の貴い宝玉を用いても、なお不十分である。神の栄光の光り輝く光景をいう。「透き通る金剛石の如し」潔いこと金剛石の如くである。ピリピ二15後半は、霊的の形体であって、やがて本節に示されているように、具体的に光を発するに至るのである。ピリピ二15後半と本節とは、原文においては同文字を用いている。この世において光であるキリストに化せられて、このように今の世にあって光を発する者は、将来においてこの光り輝く主の新婦となることができるのである。
〔12〕「石垣」この城の堅固であって、住む者の安全であることを示している。「天使」門の番兵としての天使がいることの意である。
〔13~15〕文字通りこのとうりであると信じるべきである。
〔16〕「六○○里」一万二千フォークロングスすなわち一二の数に一○○○を乗じたものである。
〔17〕「人のはかりは、天使のはかりと同じ」天使と一致していること。この城の中にある小羊の新婦の美が外部に現われるので、このように美しくなったのである(エゼキエル四八 31~35)。
〔18〕「玻璃の如き純金にて造れり」新婦の品性の顕現、キリストの像が成った者の潔さ美しさ、栄を現わす。
〔19~21〕一二使徒の品性がこの玉によって現われていることと思われる。キリストの像がなった弟子たちの品性の美しさが、各自異っても、皆この特色を発揮しているのである。
〔22〕城の中に神殿のないことと、小羊がその神殿であることとは、この城の特色である。地上にある神殿は、いずれも不完全である。これはやがて来るべき真の神殿の模型であるからである。それゆえ第一降臨のキリストはその弟子にとって、エルサレムの神殿よりも尊く、かつ懐しくあるのである。実に神殿、儀式、祭司よりも勝ったものは、主ご自身である。しかし、地上にあっては主の栄光はなお被われているが、今やここでは神殿の必要もなく、小羊はその民の神殿となられるのである。それゆえこのときには礼拝の儀式もなく、人は神に直接に接し、神を礼拝することができるのである。
〔23〕「日月の照すことを求めず」光について完全絶対者の現われたことを示している。この世においては、いろいろな光があるが、それはいまだ完全なものの現われて来ていないことの証明である。完全な光、すなわち神ご自身の顕現によって、不完全なものは捨てられるようになる。このときには、光においても、完全なものが現われるからである。この光は神と小羊の栄光である。
〔24〕「よろずの国の民」今日の国民ではない。新しくされた民、聖徒以外の民。今日地上にある民が、太陽の光によって歩むように、新地に住む人民は、神の栄光によって歩むのである。「地の諸王おのれの栄と尊きとをもってこの城に来らん」地の諸王たちは、神を崇め、小羊の新婦であるエルサレムを崇めて、ことごとくこれに帰服し、新しいエルサレムに集ってくるのである。
〔25〕自由と平和とを示している。
〔26〕「よろずの民、おのれの栄と尊きとをもて、この城に来らん」万国民がことごとく神に帰し、エルサレムに帰る光景をいう。預言が成就したのである。
〔27〕「必ずここに入ることを得ず」ここに示してあるこれらの者は、どのようにしてもこのエルサレムに入ることができないのである。これによってエルサレムの絶対に潔くして、少しの汚れも入ることのできないことを知るのである。