第二二章 永遠の祝福および結論

笹尾鉄三郎

分解

一 新天新地の祝福 15

二 天使の告示 615

三 イエスのあかし 1620前半

四 新婦の応答 20後半

五 祝祷 21

略解

1〕「生命の水の河」聖霊。河は城の美であって、新しいエルサレムには生命の水の河が流れている。「その水透き通りて水晶の如し」それは水晶のように清く、透明であって美しい。「神と小羊の位より出ず」生命の水の川は、神のみ座と小羊のみ座とから出て来るのである。これは生命である清くかつ透明であって、美しい聖霊が、神の民をうるおして、その生命となるためである。聖霊のうるおすところに生命があるのである(エゼキエル四七18912。詩四六4、詩三六79)。

2〕「生命の樹」キリスト。エデンの園に生えた樹であって、罪のない以前のアダム、エバが自由に食し得た樹であった。今はこの新天新地にあっては、自由にその果を食することができる。すなわち、キリストから自由に恵みを受けることができるのである。「一二種の実を結び、一種を月ごとに結ぶなり」この生命の樹は、毎月異なった実を結ぶ。キリストが、私たちのうちに妨げるものなく成長していれば、常に新しい恵みを受けることができるのである。「いやす」病をいやすよりも、生命を強めるとの意である。

3〕「重てのろいあることなし」今の世は神の怒りののろいで満ちているが、新天新地には、のろいはなくなるのである。「神と小羊の位そこにある。その僕これにつかえん」神とキリストの輝いたみ座があって、聖徒がこれにつかえている。これは聖徒の特権であってまた、その幸福である。

4〕僕と神との間に何等の障害物もなく、僕は、直接に神にお会いすることができるのである。「神の名かれらの額にあるべし」神の品性が聖徒のうちにあって、外部にまで現われ、一見して神の僕であることが知られるようになることである。

5〕「主なる神かれらを照し給えばなり」真の光の主が、彼らを照らされるのである。「かれらは世々限りなく、王たらん」二○4の王よりも勝れた王である。その王は、ただ千年の短期間だけ、王となることができたが、今は、永遠の限りなき王となることができる。これが聖徒の栄である。

6〕前のように(一九9、二一5)天使は、神の言が真実であって一言一句信ずべきものであることを告げている。「預言者の霊魂の神なる主」預言の霊が預言者に臨んで示したことは、すべて成就したのである。このように成就させて下さった神は、速かに成就しようとしていることを、献身的に主に従う人たちにたいして示そうとして天使を遣わされたのである。

7〕「われ速かに至らん」キリストが、速かにこられるとき、預言の言を信仰をもって悟り、それを守ったものは、さいわいである。

8〕ヨハネは、その預言をきかされ、感動がその極に達したのである。新天新地の栄を見せられ、天使の言を聞いて感動し、そのすえついに、このようにひれ伏して、知らず知らずのうちに天使を拝そうとしたのである。教会の将来の栄を見てこれを理解したとき、思わずひれ伏して拝するに至ったのである。このような人は、真に黙示録を悟ることのできた人である(一九1)。これに反して教会の将来における堕落を示されたときには驚きいぶかしく思ったのである(一七6)。

9〕感動が極ったとき、目が眩んで過失におちいることがある。「慎めよ、我は汝と同じく僕なり」私たちが神の恵みに感じたときに、神の使者を拝そうとすることがある。しかし、慎しまなければならない。「なんじらの兄弟なる預言者およびこの書の言を守る者と同じく僕なり」旧約における預言者もこの黙示録の言を守る者も同じく神の僕である。「汝ただ神を拝せよ」天使の謙遜と理知の正しいことを見よ、これによって神にのみ栄光を帰す天使の潔さを知ることができる。

10〕「この書の預言の言を封じることなかれ」ダニエル一二49において、ダニエルにこの預言の示されたときには、人の心の準備が不十分であって、黙示を受けるのに足りなかったので、神は、この預言を封じられたのである。しかし、今や封じることなくすべての人に告げ知らせよといわれるのである。それは今の聖霊の働きによって、驚くべき神の黙示が、神を信じる人、敬虔の念のある人の心に理解することのできる時代となったので、このように言われたのである。

11〕厳かな警戒。運命は一度定まると変わることができない。今は、恵みのときなので、不義な者も、義しい者となり、汚れたものも、聖なる者となるのである。しかし、やがて人の運命が、定って変ることのできないときが、来るのである。すなわち、永遠の運命の定まるときが来るのである。不義と義は行いに関し、汚れと聖は、性状に関するものである。

12〕「われ速かに至らん。必ず報いあり」キリストは、一面には恵みの賜を携え給うお方であるが、他面には、適切な報いを携えられるお方である。第一降臨のときには、恵みの賜物を携えてこられたが、再臨のキリストは、行為にたいする報いを携えてこられるのである。「各人の行うところに従いてこれに報ゆべし」実に再臨のキリストは、各自の行為にたいして応報をなすためにこられるのである。このキリストは、またその行為に従って信者の審判をなされる。それゆえ忠実に働いた者には、喜ばしい審判が与えられ、怠った者には、恐ろしい審判が下るのである。

13〕「我はアルパなり、オメガなり」永遠から永遠までの存在者であるキリストによって、万事はなり、そして、成就したのである。

14〕「その衣を洗いし者は、幸いなり」キリストの血の能力によって、心のみならず外部までも潔められた者は、さいわいである。

15〕汚れたもの、吐いた物を再び食べ、悔改めたものを再び取り戻す者は、実に犬でしかない(ペテロ後二22)。「偽りを好みて」口で虚言を吐く人のこと。「偽りを行う者」口では虚言を言わないが、その行為において表裏のあるもの。

16〕「我イエス」厳粛なみ言である。私は救い主であると言って、主は私たちに自らの罪人であることを記憶させ、この罪人である私たちを救うためにこられたことを思い出させて下さるのである。主イエスのあかし、すなわち、私たちを救われたキリストが、全世界の教会の信者にたいしてなされたあかしである。「我はダビデの根」ダビデがイエスから出たことを意味している。これは、イエスの神であること、また造物主であることを示す。「その末なり」イエスは、ダビデから出てこられたことを意味する。これはイエスが人間となって現われて下さったことを示す。「我は輝く明けの明星なり」今は、罪悪のために暗の夜となっているが、やがて、あけぼのすなわち、再臨のときに、主イエスは、明星として輝かれるのである。これは、空中再臨のイエス、私たちの望みであるイエスを表わしている。すなわち、永遠の始めからおられたイエスが第一降臨のとき、人となって現われ、やがて再臨のときには明星として現われるのである。それゆえ、暗夜であるこの世にいる私たちは、衛兵が暁を待つように、再臨のイエスを待ちわびなければならない(詩一三〇)。

17〕真の祈り。「霊」信者の中におられるお方。信者の生命となり、すべてとなられる。「新婦という。来れと」この霊に教えられて教会も主イエスよ来り給えと呼ぶのである。教会の最上最大の願いは「主イエスよ、来り給え」である。それゆえ教会にとっては「我速かに至らん」との主の聖言は、喜ばしいものなのである。そこでこの聖言に立って、伝道すべきである。「これを聞く者も来れと言え」霊はこの叫び声を聞く者を教えて、このように祈らしめる。「渇く者は来るべし」未信者にたいするキリストの招きと命令である。主イエスを未だ信じないで、その霊に渇望のある者は、先ず来るべきである。「願う者は価なしに生命の水を飲むべし」自由な救いを言う。何の価も払わずに、何の功もなしに、生命の水を飲むことが許されるという幸いな命令である。この生命の水を飲もうとするならば、自由意思を働かせて願い出るべきである。このようにして物に向って祈る者でなければならない。「飲む」受ける意である。これは信仰である。

18〕この黙示録の言を聞く者には、大きな責任がある。人の意見によって黙示録に書き加える者には、神の怒りから出るわざわいが下るのである。

19〕黙示録の言を削り去る者は、生命の実を食べる特権を失い、聖い都に住むことができない。

20〕「我必らず速かに至らん」三度目の預言には「必らず」と加えられている。「アーメン主イエスよ、来り給え」その通りに主ご自身言われたように「来り給え」と真心から叫ぶべきである。私たちは、真心からでるこの祈りをなすと共に、再臨の主を待ち望むところの準備、すなわち聖化の恵みを全うしなければならない。そして、各自の使命を果すべきである。

21〕ヨハネのまごころからでた私たちにたいする祝祷である。