エペソの教会(二章一~七節)

笹尾鉄三郎

エペソはアジアの光とも言われていた大きな都で、全ての中心点であった。その教会はなかなか盛んで、都にふさわしい大いなる教会であった。エルサレムが滅亡して以来、教会政治の中心はこのエペソにあったので、初代においては重きを置かれた教会である。「エペソ」という意味は「弛み(ラキセーション)」ということである。「使者に書おくるべし」― 一章にこの使者のことを星といっている(一20参照)。この書は伝道者、牧師あるいはまた、一教会の責任者に送られた。もしも自分が教会の権威を授けられていなくても、お互いは皆誰かの魂の責任をもっている使者であろう。それであるならば格別に自分に言われていることだと思って、これを見なければならない。「右の手に七の星を執りまた七の金の燈台の間を歩む者かくの如く言う」―これから第二の点、すなわち主イエスの御姿である。私の願いはこの黙示録一章二章三章に表われている主の御姿を真に知りたいことである。サイスという学者が言っていることに、黙示録は来たらんとすることを言っているのに相違ないが、この書はキリストの顕現を示すものであると。ここにもキリストが示されてあるから、お互い心の眼を開いてみたい。総じてこの二、三章は、未来のことではない。現在教会の中に歩んでおられる主が示されている。イザヤ五十三章の主は過去に於てこの地上を歩み、十字架の死を遂げられた主で、私たちは後を顧みてその主をみた。けれどもここは現在において各教会の中を歩んでおられる主である。この後には、恐るべき審判主として表われなさる。けれどもその後には小羊の婚宴における新郎として表われている。あるいは王の王として、あるいは新天新地の光としてその他いろいろの方面より表われている。このように事細かに私たちの前に表わされているから、私たちはこの主を十分に知りたい。ヨハネは主の在世中主の懐にもたれることが出来たが、この書の一章を見ると、この主を見て倒れて死人のようになった。私の願いは、十字架にかかられた主はよく知ることが出来たが、――勿論もっともっと深く知らなければならないけれども現在私たちの前に立って、また歩まれる主を知ることに浅いから、この主を深く知りたいことである。それにはすでに黙示録が与えられているから、それを信ずればそれでよいのである。幻を見る者もあろうがそれは一時ですぐ消える。それよりも、聖霊によって与えられたこの黙示を霊によって知らなければならない。

第一に「右の手に七の星を執り、また七の金の燈台の間を歩む者」と御自身はおっしゃられる。全世界の全ての使者を右の手に持ち、そしてその中を歩まれる主である。これらの教会は実際腐敗を極めた教会で、これでも教会かと思われる教会であったが、その中にも主は歩んでおられるのである。今もこのような教会がある。けれども主はこのような教会の中にもおられる。昨日も今日も永遠までも変り給わぬ主イエス、かのガリラヤの湖辺を歩まれた主が私たちの真中を歩んでおられることを記憶したい。かの有名なバプテストのイー・ジー・ゴルドンが夢の中で主イエスが自分の教会の前の席に座しておられるのを見て、一方では非常な警戒であったが、また一方では非常な奨励を受けたということである。この主が特別に伝道者を右の手に握りしめておられる。足は一方では非常に幸なことを意味するが、一方では非常に恐ろしいことを意味している。

「恐るる勿れ、我なんじとともにあり、驚く勿れ、我なんじの神なり。我なんじを強くせん、誠になんじを助けん、誠にわがただしき右の手汝を支えん」(イザヤ四十一10)。

兄弟姉妹よ、あなたの価値如何ではない。この主の右の手の中におるか否かである。この手の外に出れば駄目である。しかしまたこの右の手は恐るべき力ある手である。その中にある使者、すなわち教会の為に責任のある者が、もし罪を犯したならばどうであろう。あなたは蚤があなたの手の中にあればどうされるであろう。ちょうどその通りになる。であるから主イエスの右の手の中に在る者は目を醒してその心に適う者とならなければならない。

次に主に知られている教会の真相である。「いわくわれ汝の行為と労苦と忍耐と汝が悪人を容る能ざると汝がさきにかの自ら使徒なりと称て実は使徒に非ざる者を試みて其妄言を見あらわしし事と汝が忍耐する事と我名のために患難を忍びて倦ざりし事とを知る」―これは賞められる点である。エペソの教会は実に立派なものであった。なにしろヨハネが監督であったことがあり、またテモテもそこで監督をしていたことがあったところで、立派な教会である。行為とは働きのことで、活動している。また実際労苦している。この原語の意味は、疲れてクタクタになるまで働くということである。また、いろいろの困難の中で忍耐している。また当時、教会の中に偽物があり、特別にユダヤ人を用いて来たが、それを見抜いた。ヨハネ第一、四1に「凡ての霊を信ずる勿れ、その霊神より出るや否やを試むべし」とあるが、この教会にはこの能力がある。眼光を鋭くして化の皮をはがした。またいろいろの迫害のある中をよく忍んで、忍び通した。主イエスの名を思って永く続いて忍んだ。実に立派なものである。兄弟姉妹、あなたは人知れず忍耐しておられるか、疲れる所まで骨を折っておられるか、それを主はよく御存知である。これは慰籍ではないか。

しかし今一つ「然れど我なんじに責むべき事あり、汝初めの愛を離れたり」。これは悪い方である。何と厳かなことではないか。良いことばかりなら良いが、悪いことも主の前に表われている。「また物として神の神に顕れざるはなし、我らが係れる者の眼の前に全てのもの裸にて露わる」(へブル四13)兄弟姉妹よ、この主が今、私共を懇に慰めて下さったが、また急所を衝いて「汝初めの愛を離れたり」と仰せられる。この初めの愛とは、第一の愛とする方が良い。エペソの教会がどんなに立派な教会であったかはエペソ書を見れば良く解る。今、くわしく述べるわけにはいかぬが、(エペソ一1314)すなわち福音を聞いて救われ、その後、第二の恵として聖霊を受けた。なおその(1516)を見れば、パウロは彼らの信仰と愛とを聞いて「汝らの為に感謝して止まず」と言っている。彼らは主イエスを信じ、また多くの聖徒を愛していた。この教会には神がパウロを通して驚ろくべき奥義を示された。三章にはキリストの愛の広さ、深さ、長さ、高さを理解することが出来云々とあって、五章に「聖霊に満たさるべし」と説いてあり、それよりキリストと教会とを新郎新婦の関係に説いてある。このように、驚ろくべき深い真理を示された教会であるがこの時に至って第一の愛を離れた。エペソの教会は教理においては真に正しかった。それこそ正統派であった。そして中々熱心に働いた。困難の中にもよく忍んだけれども、その中に愛がなかった。そんなことがあり得るのかと思われる位だが事実であった。キリストはありのまま良い所は良い、悪い所は悪いとおっしゃられる。実際、愛でなくて他の動機でも熱心に動くことが出来る。愛が無くても正しい教理を持つことが出来る。また愛が無くても忍ぶことも出来る。日露戦争に出た軍人等を御覧なさい、名誉の為には生命を賭して働いた。神の愛、聖書で言うところの愛が無くてもいくらでも働くことが出来る。ある人は自分の教会を盛んにしようという動機から働く。世の中の人は金の為には寝ないでも働く。ある人は主義の為に働く。これは野心よりも大部上等である。主義の為に倒れるという事は未信者から見ても信者から見てもなかなか立派なものである。しかし神の前には駄目である。エペソの教会はそれであった。彼らはキリスト教主義を持っていた。人の目には上乗の者であった。けれども神は駄目だとおっしゃられる。私たちを動かす者は野心や主義であってはならない。愛でなければならない。コリント前書十三章の愛でなければならない。この愛はまた一部の愛ではなくて、心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして愛するその愛でなければならない。兄弟姉妹よ、神の前に真に自分の真相を知りたい。私は誰にあてつけて言っているというのではない。ただ、ありのままを説いているのである。私たちを動かしているものは何であるか、私たちは何の為に勉強しているのか、何のために計画しているのか、何のために祈っているのか。勿論主義は必要である。これは言ってみれば骨でなければならないものである。働きもいる。祈祷もしなければならない。けれどもこれらは第二第三第四である。その第一は愛である。この愛がなければコリント前書のはじめにあるように、何かあっても駄目である。兄弟姉妹よ、神はここだぞと懇に仰せられる。この教会の信者は他の物を取ったが、この一番肝腎な第一の愛を捨てた。

「なんじいずこより堕しかを憶い悔い改めて初めのわざを行え」これが主の愛より出たところのお勧めである。何処から落ちたか、胸に手を置き、目をふさいで考えてみなさい。只事ではない、理由もなくブラブラ落ちるものではない。何か訳がある。何処からか考えてみなさい。私は恥ずかしいことであるが、落ちた経験がある。潔められない前は、落ちる所まで上っておらず、純粋の、心一筋に主に向かう愛がなかったが、憐みによって、アメリカの野で、長く祈った後、ある夜十字架の愛を示され、私の心は溶かされた。その時以来、小さい心ながら実際一筋になった。品性や行為に欠点があっても腹の中は透明で、寝ているうちに腹を断ち割られてもよくなった。が申し訳ないことには、その後落ちた。霊的傲慢によって落ちた。

かつて、サンフランシスコにおいて祈っている時に、霊的傲慢は危ないぞという声を聞いたが、それは落ちかかっていた時であったのであろうが、その声に従わなかったので、ついに落ちてしまった。またもう一つは伝道事業のために落ちた。私はそこから落ちた。それを認めて祈った。その時主の憐憫によって回復させられた。私共はその時、そのことから落ちたということを言い表わして祈らなければならない。これは人によって違う。ある人は知恵から落ちる。アダム、エバはこれから落ちたのである。恵みよりも、生活よりも、知恵の実が美しく思われた。ある人は、人から賞められて落ちる。また賞められなくても成功の後に落ちる。あるいは金銭その他品物の使い方において落ちることもある。いずれでもよい。どこから落ちたかと考え、悔い改めよ、これは未信者に向ってのことではない。伝道者に向ってのことである。

おお、伝道者よ、悔い改めよ、これは実に厳粛なことである。兄弟姉妹よ、愛以前の異分子を混ぜて混合分子でやってはおらぬか。反省してみたい。

その次は警戒である。「然ずして汝もし悔い改めずば、我なんじに到り汝の燈台をそのところより取り除かん」。もし、悔い改めよとの御声を聞きながら、なお悔い改めないなら、主イエスは速かにおいでになる。教会の審判主としてお出になる。これは、世の審判とは違う。世の審判ならば、罪人の魂を滅亡に投げ込まれるけれども、これは教会に対する審判である。神は光である、また神は愛である、それであるから光は愛であると言うことが出来る。それ故、愛がなければ光がない。すなわち、愛なき教会は燭台となることが出来ないのである。ランプに光がともっていなければランプがあって、かえって邪魔になり躓きになる。無い方が大いに良いが教会もその通りである。これは実に厳かなことである。教理がいかに正しくても駄目である。私共の中に異論を説く者は無い。おおかた聖潔を信じ、またそれを説いておる者ばかりである。しかし全き愛が無ければ駄目である。教理を振り回しても駄目である。日本にも西洋にもそれが多くあって困る。教理を棍棒のように用いてむやみに人を倒し、害する。教理の用いられるのは、それを説く人のもっておる愛の程度だけ用いられるものである。聖潔とは全き愛にほかならない。伝説によるとエペソの教会は、この警戒の御声をも受けず、悔い改めの勧告をしりぞけて、遂にそこは荒れ果てて、その教会のあった所は荒廃し、通行する人をして、ただ今昔の感にたえないようにさせるとの事である。(スミルナの教会は今もなお存在しているとのことであるが)。おお兄弟姉妹、教会としても、個人としても愛に歩まなければ捨てられる。光として用いられない。愛がなくても口先きが立派で、利巧な人は、一時光として用いられることがあるかも知れないが、それは何でもないことですぐさま消えてしまうのである。

それより六節「然れども汝に一の取るべき事あり、ニコライ宗の人の行為を憎むことなり。我もこれを憎めり」これは賞められるべき者の中に入るべきものである。主は良いところは良いとして賞められる。ニコライ宗についてはいろいろ説があるが、これは教権の専断で、その意味は伝道者が上に立って、信者を蹂躙することである。それが発達して天主教となったが、その分子がその時からあったのである。勿論ある点は教会政治は上より来るものであるが、専断的ではいけない。幸いにエペソの教会はこれを退けた。元来教会政治は上から来るものと、下から来るものとある。すなわち監督政治と組合政治である。いずれも注意を要する。要は聖霊が政治を支配するものとしてその教会におられるならばそれでよい。

次に「耳ある者は御霊の諸教会にいう所を聞くべし」何だか意地の悪いことをおっしゃられる。耳があるか、あれば聞け、福音書にもこれに似たこと言っておるが、耳があってきこえるなら御霊が諸教会、すなわちお互いに対して告げておられる声を聞け、これは主の命令である。

「勝を得る者には我神の楽園にある生命の木の実を食らうことを許さん」おお勝を得る者を主は待っておられる。この世の生涯において、敗軍の将でなくて勝利者として主の前に立つ者を求めておられるのである。今までは悪くても今悔い改めて、初めのわざを行う者、すなわち純粋の愛に満たされて患難にも忍んで働き、一生涯それで通して忠実に終る者。このような者は神の楽園にある生命の木の実を食べることを許される。エデンの園にも生命の木の実があったが、アダム、エバが知恵の木の実を食べて堕落して以来その実を食べることを禁じられて、自ら廻る焔の剣とケルビムとが番をするようになった。しかし今度は神の国にある。生命の木の実を食べることが出来るのである。これは勝利者の特権である。これを普通の永生と混合してはならない。信者は皆永生をもっている。(一テモテ六1219)私達は既に生命を受けている。しかしまだまだ生命を受けなければならない。既に生命はもっているが、より深い生命、より豊かな生命を得なければならない。勝利を得る者は、ユフラテの河岸にあったエデンの園のそれではなく、神の国にある生命の木の実を食べることを許される。勿論この生命の木の実とは、主イエスのことである。