「スミルナ」とは没薬という意味の字である。薬とは芳い香であるが、味の苦いもので、死人に塗る香料であり、また香油であり、また香油を作る一つの材料である。すなわち芳香、苦み、死ということを意味している。スミルナの教会はこの没薬的であった。もともと主イエスがこういう没薬的の御方であったのである。東方の博士が没薬を持って来て主を拝んだが、それは主イエスの贖の死を表わしたもので、すなわち彼等は主を贖主、救主として拝んだことを表わすのである。(乳香は主の祭司であることを、また黄金は王であることを表わす為である)主は死によってその芳ばしい香を放たれた。死は苦しいものである。けれどもそれによって芳ばしい尊いものであることが表われた。真の信者もまた没薬的である筈である。幸いスミルナの信者はそれであった。
「いや先、いや後のもの、死にてまた生きたる者かくの如く言うと」スミルナの教会には主はこういう風に御自身を表わしておられる。エペソの教会には厳粛に、光がなければその燭台を取り除く御方として表われなさったが、しかしここはそれとは違う。「いや先、いや後のもの、死にてまた生きたる者」これは非常な慰め、また奨励である。一章において主はアルパなりオメガなりとおっしゃられたがそれと同じである。主イエスがいや先いや後であることを知ったらば幸いである。ロマ書に「万物は彼より出で彼により彼に帰ればなり」とあり、使徒行伝にはまた「我らは彼に頼りて生きまた動きまた在ることを得るなり」と言われている。肉体にしても私たちに息を吹き込んで下さるのも主イエス、また最後に息を引き取って下さるのも主イエスである。私たちの生も死も皆主の手の中にある。これを思うと常に力強く感じられるではないか。私は実に弱い。しかし自分の使命のある間は生かしておいて下さると私は信じている。キチンと御用のすんだ時に召して下さると思っている。オー兄弟姉妹、事情はどうでも神は責任を持って下さる。神が万端の事の始めとなり、また終りとなっていて下さる。その主は死んでまた生きたお方である。詩篇十六篇にあるように主イエスは神より生命の道を示された。その道は死をくぐっている所の道である。この篇を見ると神がキリストの為に肉体を備えたことがわかるが、「神よ我なんじの旨を行わんとて来る」とあるようにキリストがこの世に来られたのは畏れ多くもほふられる為であったのである。しかしそれが生命の道であった。「死にてまた生きたる者」どうぞ私共もこの生命の道を常に見たい。身体が丈夫だの、愉快に暮すだのと言うことは決して生命の道ではない。
第三の点は「いわくわれ汝のわざと患難と貧乏とをしる。貧乏とはいえど汝は富めり、我またかの自らユダヤ人なりといいて実はしからざるサタンの会の者のけがしの言を知れり」、これが主に知られたスミルナの教会の有様であった。この教会は賞められることのみで責められる所がない。没薬的信者すなわち自己が全く聖別されて自分の為ではなく、唯主の為にだけ生活する者はこういう風である。神の御目はいろいろの欠点のある者をおおっておき、容赦するということではない。傷なく汚れなく栄ある教会である為である。すなわちこのスミルナの教会のように欠点の無い者となされようとのことがその御目的である。神は今、この教会を私たちの模範として、あなた方もこのようになれとおっしゃられる。神の恵みによりこの世に在る中にそれが出来る。「我、汝のわざと」彼等は一生懸命働いた。もう一つは「患難」。なお一つは「貧乏」。この三つの点が主イエスの御目に止まって「オ-あなたはなかなか良く働いた」と。私共は自分の上に立っている誰に報告するというよりも、主イエスが見ておられて、こうおっしゃられるのを聞くことが出来れば実に幸いである。働くのにもいろいろあってぼんやり何もしないでいるよりも働く方を好む者もあるが、この教会の信者は患難の中で働いた。働けば働くほど患難や迫害が来るけれども、その中にあってなかなかよくつくした。もう一つは貧乏である。そのおもな原因は、迫害によって財産を奪われたから貧乏になったのである。キリスト信者は抵抗しない故にどんどんその財産を取られてしまう。けれども主はそれをよく知っていて下さる。そして豊かにお報い下さるのである。またもう一つ貧乏の原因は愛により人に与えるために無くなるからである。これは主イエスの足跡である。「汝らわれらの主イエス・キリストの恵みを知る。かれは富める者なりしが汝らのために貧しき者となれり、これ汝らが彼の貧乏によりて富める者とならん為なり」(コリント後書八9)。実にこの貧しさは美わしい。主イエスの聖名のため、また聖徒を愛して施して貧しくなった。主はそれをよく御承知である。そして主がおっしゃられるのは「貧乏とはいってもあなたは富んでいる」オー天晴だ。あなたは豊かなのだ。人よりは貧しく見られても、主イエスからは富んでいると言われる。多くの人はこの反対だ。人は富んでいると羨まれるかも知れないが、主イエスからは貧しい者よと言われる。未信者は勿論のことであるが、信者の中にもそういう者がある。後に出るがラオデキヤの信者はそうである(三17)そこの引照は皆よい。一つはルカ十二章二一節「おおよそ己のために宝をたくわえ神について富まざる者はかくのごときなり」。もう一つは第一テモテ六章一八節「また善を行い、良きわざに富み、おしみなく施しをなして人と共にし」またヤコプ二章五節「我が愛する兄弟よ聞け、神はこの世の貧しき者を選びて信仰に富ませ、己を愛する者に約束し給いし所の国を継ぐべき者とならしめ給うにあらずや」。神が富とおっしゃられるのはこういうことである。つまり神をもっておる者が富んでいる者である。ある讃美歌に私は裸であって財産も何もない。けれど神と天国を私はもっているということばがあるが、実に愉快な歌ではないか。また信仰、純金的の信仰をもっている者も、富んでいる者である。また愛をもっている者も富んでいる者である。「我またかの自らユダヤ人なりと言いて、実はしからざるサタンの会の者の汚しのことばを知れり」当時ユダヤ人はスミルナにいたがイエスを罵るのにハング、ワンすなわち掛けられた者と嘲ったという。汚しの言葉というのはこれである。彼らは始終こういう言葉を用いていたが、全ての言葉がイエスの耳に聞こえている。これは実に厳かなことである。ユダヤ人は迫害に加勢して信者を殺した。ある時は迫害の時、監督を殺すための薪を運んだことなどある。
「汝まさに受けんとする苦をおそるるなかれ、悪魔まさに汝らのうちの或る者を獄に入れて汝らを試みんとす。汝ら十日のあいだ患難を受くべし、汝死に至るまで忠信なれ、さらば我生命の冠を汝に与えん」これは主イエスのお勧めとまた勝利者に対する約束との二つが一つになっている。主イエスはこの教会の前途に横たわっている迫害を知っておられる。今までも迫害はなかったが、まだまだ大なるものが来る。英訳を見ればこれは一つではない。また来る来る、いろいろの苦しみが大波や小波のようになって襲って来る。しかし、一つも恐れるな。悪魔は十日間試みる。暫時の間の大患難が来る。主イエスと共に歩んでる者に、主はこのことを知らせて下さる。日本にもいろいろの苦しみが来て、また大迫害が起こるかも知れない。私たちが真剣にやれば必ず国家主義、または神道と衝突するのは当然である。ダニエルのような迫害が起こって来るに相違ない。キリスト信者の中からも迫害が起こるであろう。私たちは爆裂弾を投げ込めば必ず大騒ぎが起こるに相違ない。勿論昔風の、斬るの殺すのということはあるいは法律上出来ないかも知れないが、それよりも苦しい社交上における迫害その他さまざまの方法によって苦しめられることがあるであろう。だが「汝死に至るまで忠信なれ」私はかつてある地を去る前に、その送別会の時に平常は少々ボンヤリしている娘であるが、この句を私に送ってくれたが、私はいまだにそれを忘れることが出来ない。この十日間とは歴史的に言えばネロ帝の迫害当時で、ダイオクレシャン帝の時よりコンスタンティヌス帝が改宗して迫害のやむまでの十日間にあてはまる。この十年間は非常なものであったが、主はそれを先見してあらかじめ警戒されるのである。スミルナの教会の人々はこのことばをスッカリ受け入れてそして実を結んだ。このスミルナの監督であったポリカープは迫害の為にたき殺された人であるが、その火中に投ぜられる前に今一度裁判官は、この白髪の老人を前に立たせて、あなたは死をまぬがれたくないのか、あなたがただ一言主イエスをけがしたらまぬがれることが出来るのだが、と、どうかして赦してやりたいと思って親切に勧めた。けれども彼は泰然自若として答えた。「私は今日まで八十六年来主イエスに仕えておるが、ただの一度も主は私に不義をなさらなかった。それなのにどうして私がこの主をただの一度だけであってもけがすというようなことが出来ようか」と。彼はすぐさまこの答によって火の中に投げ入れられた。主イエスの御声は、今日私たちに聞こえている。また私達の先に行った聖徒達は、これが道だ、生命の道だ、と示している。耳には主の懇なる御声が聞こえて目には聖徒の模範が見えて私達をも立たせる勇気を与えるではないか。
「さらば我生命の冠を汝に与えん」前には生命の木があったが、ここでは生命の冠である。すなわちだんだん進んでいる。前のは生命の味、甘さがあったが、これは生命のグローリー(栄光)である。これを得る人は真に死ぬ人スミルナ的信者、没薬的信者――のみである。「我らもし彼と共に死なば、彼と共に生くべし、我らもし忍ばば彼と共に王となるべし(第二テモテ二11、12)とある。主イエスの死んでまた生きる者との意味はここに至ってよく分かってくるではないか。「生命を全うせんとする者はこれを失い、我がためその生命を失う者はこれを得べければなり」という句が福音書に度々出て来るが、肉体の生命を惜しんで後ずさりする者はこの貴い生命を失う。道理としてはお互いによく知っていることであるが、その光に歩みなさいと主は今、おっしゃられるのである。
「耳ある者は、御霊の諸教会に言うところを聞くべし。勝を得る者は第二の死のわざわいを受けず」。すなわちこれは私たちにおっしゃられることである。おおどうぞこの声を聞き入れて下さい。そして従って下さい。勝利を得る者は第二の死を受けない。第一の死は受ける。主イエスと共に受ける。ハレルヤ、私たちは犬死するのではない。主イエスが第一の死を受けられた時には、私たちの罪のために苦しくあられた。そのために私たちは死の苦しみを受けないですむようになった。私たち聖徒の死はみ前に美わしいもので刺のない者、栄光の変形した者である。
中に栄光が包んである。粗末な風呂敷で玉を包んであるのと一緒である。その人は第二の死のわざわいを受けない。第二の死とは黙示録二十章にあるように永遠の滅亡である。火の池に投げ込まれることである。神と永遠に離れて間断なく苦るしみ悶える滅亡である。その死を受けない。ハレルヤ。しかしもし私たちが第一の死を恐れて、これをまぬがれようとするならばこの第二の死のわざわいを受けなければならない。