ペルガモの教会(二章十二~十七節)

笹尾鉄三郎

「ペルガモ」とは一つは塔という意味があり、もう一つは結婚という意味もある。この二つの意味のある字が出たのは面白い。ここに二つの意味に関することが出て来る。ペルガモは当時なかなか盛んな町であって、一人の王の宮殿があり、また図書館があって二十万巻の書を蔵していた。もう一つそこにエスカラマスととなえられていた有名な大いなる偶像があった。それは蛇の形をしていたものであったそうだが、その偶像のためにその町が有名にもなり、また繁盛もしていたということである。王、偶像、図書館、この三つで人を引き付けた。すなわち政権と宗教と知識とである。この三つとも皆この世につけるもので、この世の政権、この世の宗教、この世の知識、この三つ合ったところはペルガモであった。

その教会には主は「もろ刃の利き剣をもつ者」として御自身を表わされた。もろ刃の剣についてはいろいろの意味があると思う。ある人はキリストの口から出る恵みの言葉であるという。一方の刃では私たちの罪を隠しおおうところの幕を破り、また一方の刃では私たちの目をおおってキリストを見させないようにしている幕を破ってしまう、というように説く者もあるが、ここではキリストは審判主として表われておられるのである。すなわちこのもろ刃の剣をもって逆らう者を刺す御方としてである。主はこのような御方である。黙示録十九1415また21をごらんなさい。主の地上再臨の時には「神のことば」である主は白馬に乗って、その口から出る利き剣をもって列国の民をうつ御方として先に福音を出したその御口より今度はもろ刃の剣が出る。しかしこのキリストは今もなおもろ刃の剣を持っておられるのである。その御方の言われるのには「いわくわれ知る、汝が住む所は、すなわちサタンのくらいのある所なり、汝は固く我が名を保つ、かつて我が忠信の証し人アンテパス汝らの中サタンの住むところにて殺されし時にも汝わが道を捨てざりき」すなわちこれはこの教会の有様の中、良い方面である。このペルガモはサタンが中央政府としている所であるが、そこにキリスト信者がいる所である。実際、敵の真中にいるのである。ちょうど雅歌二章二節のようである。「女子等の中に我が友のあるは、いばらの中に百合の花のあるが如し」。四方はいばらである。サタンの臣下だけで、どちらを見ても敵ばかりであるその中へ置かれたのである。実に困難であるが、その中にありながら固くキリストの名を保っていた。実に立派ではないか。そして「我が忠信の証し人アンテパス……」この人は非常に熱心な信者で、どのように人に迫害されても、どしどし偶像を攻撃し、ついに偶像の宮の前で迫害のため殉教した人である。主はこのような者に向かって「我が忠信の証し人」と言われる。彼の名は他所にはどこにも知られなかったかも知れないが、主には知られていた。肩書をもらうなら、私たちはこういう肩書をもらいたい。「忠信の証し人アンテパス」おお主に私たちの名を覚えられることはどんなにか幸福ではないか。しかも証し人、これは殉教者という字と同じ字だということである。主イエスがポンテオピラトの前で証しせられたのは生命がけであられた。しかし主が生命をかけてまで証しなされたからこそ、私たちは救われることが出来たのである。世に真に生命を与える者は証し人である。その大きな迫害によってアンテパスは殺されたが、その時にも「汝わが道を捨てざりき」実に大胆にやった。この点は賞められている。しかし、

「されども、我汝に数件の責むべきことあり、汝らのうちバラムの教えを保つ者あり、先にバラム、バラクに教えてつまずく物をイスラエルの民の前に置かしむ、すなわちバラクをして彼らに偶像に献げし物を食らわせ姦淫を行わしめたり」。バラムとは「民を滅ぼす者」という意味である。御承知の通りこれは民数記二二章にある人の名であるが、彼の行いによって多くの民が滅んだ。あの精神が幾千年も働いている。今もなお働いている。彼は預言者であって、敵の王バラクに招かれたが、神の民を損うのはいけないことであると、これは分かったことであるから断然断わった。それなのにまた使者が呼びに来たので神に伺った。分かりきっていることをまた伺い出したのである。彼の心中を叩けば行きたくはあるが、許可がなければ行かれないし、そこでまた伺ったのだ。神は駄目だと見て、それでは行けといわれた。これは鼻をあかせるためであった。途中でろばが口を開いて彼をいましめた。彼はろばを殺そうとしたが天使に制せられた。その時はさすがの彼も目が醒めて、行くには行ったが、バラクの注文に反してイスラエルを祝して帰って来た。これまではよかったが、後に矢張り敵に加勢して知恵を授け、イスラエルの上にのろいが加わるようにするには、偶像を拝し、また姦淫を行わせさえすればよいと教えた。バラムの教えはそこだ。上部では祝しているが、実は神の民を滅ぼしている。主イエス以外に拝するものは偶像である。例えば、俗な小説を見ることでも、または名誉または知識でも主イエス以外に心を傾けるのは偶像を作ることであるが、このようなことを許しては事実において民を滅ぼしているのである。理屈はどうでも、事実において世と姦淫を行わせて民を滅ぼしている。

もう一つはニコライ宗である。「また汝らのうちにニコライ宗の教えを保つ者あり。この教えは我が憎む所なり」。これはエペソの教会の時に言ったように、教職が上になり、専断的になって、自己の考えをもって信者を圧制することである。信者の中にも神の霊は在して導かれる。それなのにそれを押し付ける。先にペルガモという言葉の意味の時に言った塔とはこの意味で、教権が高くそびえているからで、また結婚とはバラムの教えによって姦淫するようになったことを表わした訳である。エペソの教会は教理は極めて健全であったが、ペルガモの教会はそこから腐敗した。

「汝悔い改めよ、しからざれば我すみやかに汝に至り、我が口の剣をもて彼らと戦わん」今は教会の悔い改めを述べるべき時代である。エペソの教会にもこの勧告があった。勿論私たち自身に悔い改めなければならないものがあるならば、まず自ら悔い改めなければならないが、その後には教会を警戒しなければならない。キリストの口から出るもろ刃の剣は、この世のいかなる剣よりも鋭い。これにかかったら、一たまりもない。「耳ある者は御霊の諸教会に言う所を聞くべし」この御霊の声が聞こえたか、自分のためには聞いて平和と喜楽があるであろうが、我が家族のため、また我が国家のため、我が教会のためにこの声を聞かなければならない。

「勝を得る者には、我かくしあるマナを与えん。また白き石の上に新らしき名を記してこれに与えん。これを受くる者のほかにこの名を知るものなし」全く悔い改めて、バラムの分子も、ニコライの分子も全く捨て、全く主イエスに従い、忠信の証し人として終りまで行ったその人には隠されているマナが与えられる。マナはイスラエルの民が曠野を通った時に天から降ってきたもので、そのマナを記念のためにつぼに入れて契約の箱の中に入れておいた。至聖所にある、契約の箱の中にある、金のつぼに入っているそのマナが与えられる。これは主イエスの型である。主は私は天から下ってきたパンであると言われた。しかし、それは天より下られた主イエスの御肉体について言われたことであるが、その主が今は天に昇ってかしこに隠れておられる。すなわち今主は隠されたマナである。忠信の証し人にはこれが与えられるのである。またもう一つ与えられるものは、白石の上に新しい名を記したものを与えられる。当時ギリシャでよく競争があったが、その競争に勝った者は白石に、その人でなければ分からない名を書いて与えられたことがあったが、それを持って来て、このように言われる。おお走れ走れ。新しい名を与えられる。主イエスはこれまでシモンにはペテロという名を下さり、神は昔アブラムにアブラハムという名を与えられた。そのように忠信の証し人には名を与えられる。何という名かそれは解らぬが、ある人は鳩、ある人は鷲、ある人はまた獅子というふうな名であるかも知れないが、いずれにせよ良い名が与えられるのだ。主イエスがどれほど私たちを励まして下さるかは、勝利を得る者には与えん与えん、与えんと宣べていることによっても知られる。

世に勝ちにしいくさびとに授くるはこれと
玉の冠かかげもちて
エス君は待ち給う
エス君は待ち給う
玉の冠かかげもちて
エス君は待ち給う

これは私の愛する歌である。おお私たちの眼前に輝ける褒美を覚えて戦いたい。