テアテラ教会(二章十八~二十九節)

笹尾鉄三郎

「テアテラ」という名は女の圧制という意味である。すなわち婦人が威張って男子を圧倒するというのである。テアテラはあのパウロがピリピの河岸において伝道したとき始めて救われた、紫布を商うルデヤという婦人の故郷で(使徒十六14)神の摂理によってこの婦人が最初に救われ、それが原因でその故郷にも教会が出来るようになったが、婦人が最初の土台であったためであろうか。とに角この教会では婦人が権利を張っていたようである。婦人はなかなか油断のならない者で、よく行けば大いに神に用いられるが、悪く行けばとんでもないことになる。日本でもあの天理教は婦人が始めたものである。何も肉欲云々という問題でなく、霊界においても婦人の中になかなか偉い者も出る。悪く行ったらそれこそ聖書にあるイゼベルのような者も出るけれども、また聖書中に偉い婦人も多く出ている。婦人は神に用いられる可能性をもっている者である。

「神の子その目は炎の如く、その足はしんちゅうの如くなる者かくの如く言うと」人の子というのと反対に上より来られた。すべての権利を持ち給う御方、神の子として御自身を表わしておられる。

「その目は炎」私たちはこれを覚えていたい。たびたび私たちはキリストの御目は鳩のようだという方面のみを見る。勿論それに違いはないので、どのような罪人であっても近づくことの出来る優しい御方であり、その御目は同情に満ち、ラザロの死の時に涙を流された御目である。しかしこれは一面で、イゼベル的の者、罪を持てる者には炎のような目をもって臨まれるのである。猫の目や虎の目が光るかも知れないが、キリストの目はそれどころではない。このキリストの目を知らないから多くの人がとかく不真面目になるのである。今一つは足である。

「しんちゅうの如く」一章十五節にも「足は炉に焼くるしんちゅうの如く」とあるが、これは非常なものであるそうである。かつて私が北海道のある集会でここを話していると、一人の信者がハハアなるほど聖書はエライものですねー」と言う。何故なのかと、その人のいう所を聞いてみると、その人は金属についてくわしい人で、こういうことを知らせてくれた。しんちゅうを炉つぼに入れてある程度まで焼くと、それをサエルというそうだが、そのサエル程度まで焼くと、その時にはそれこそ電気よりもはなはだしく、何に例えようもないすさまじい光輝を発して、とても目を開けておられぬようになるということである。私はこの話を聞いて大いに教えられた。キリストの御顔は輝いているが、ここは御顔でなく、その御足である。これは目と関係があって、目で見貫き、そしてその足でもって罪ある者を蹂躙されるのである。

「いわく、われ汝のわざと愛と信仰とつとめと忍耐とを知り、また汝が後になししわざは始めのわざよりも多きことを知る」始めより後が盛んである。決して竜頭蛇尾ではない。「しかれども我なんじに責むべきことあり、汝はかの自ら預言者なりと言いて我が僕を教えこれを惑わし姦淫を行わせ偶像にささげし物を食らわしむる女イゼベルをいれおけり。」イゼベルとはかのイスラエルの王アハブの后で、バアルを拝した悪い女イゼベルのことである。この姦婦の精神がこの教会内に入り来り、女たちが人々を惑わし、その結果偶像にささげた物を食べさせ、また姦淫を行わせていた。主イエスだけを我が夫として、この主にのみつかえるのでなければ霊的姦淫である。世の物のために心を奪われ、地上の物を慕って主に対する愛を失うのは、大いなる姦淫罪である。歴史的に言えば、これは天主教をいったので、上部は非常な努力をもって進んだのであるが、主イエスだけでなく、マリヤをも礼拝し、人々を間違った道に行かせた。

「われかつてこの女に悔い改むべき折を与えたれど、その姦淫を悔い改むることをせざりき。我かれを床に投げ入れん。また彼と淫する者も、もしその行いを悔い改めずば、我これを大いなるなやみの中に投げ入れん」、床とは患難とあるのと同じである。悔い改めるべきおりを恵みによって与えられながら、なお悔い改めることをしないで罪をそのままにしている者は、恐ろしい審判に会う。

「また死をもてかの女の子供を殺さん。これによりて諸教会は我が人の心腸を探り汝らおのおのの行いに従いて報をなすことを知らん」実際をごらんなさい。今キリスト信者の中にまた伝道者の中に不幸がある。これは神の一種の審判である。ある人が私の所に来て「何故某信者の末路があんなに悲惨でしょう」と言ったがそれは当然のことである。その信者というのはどういう人かと言えば堕落した人である。これは神の審判である。「これによりて……」この「探る」とは原語では非常に力の強い言葉で、極めて精密に、真直な道も曲道もきわめて行くという風の意味のある字で、ちょうど探偵がどこどこまでも探り探って、その犯人をつきとめると言ったような具合である。複雑な事情の中を、ずっとさかのぼってここだ。これが原因だ、これが罪だと見表わされるのである。

「我このほかのテアテラの人いまだこの教えを受けず、いわゆるサタンの奥義をいまだ知らざる汝らに言う。われ他の任を汝らに負わせじ、ただなんじら持つところの者を、我がいたる時まで固く保つべし」これは良い方の人に言われた言葉である。神は義も不義も一緒にはなさらない。「他の任」とは重荷のことである。ほかの人と一緒にさばきたまわない。

「勝を得て終りに至るまで我が命ぜしことを守る者には我諸邦の民を治むる権威を与えん。彼は鉄のつえをもて諸邦の民をつかさどり、彼らをやきものの器の如く砕かん。我わが父より受けたる権威の如し」この勝利者に与えられるものは、第一は万国民を治める権威である。この世においてはあのローマ法皇が威張り散らしているようには決して威張らないが、かえってあのパウロの言ったように、この世の塵垢のように思われているが、やがてキリストの再臨の時にはキリストと共に王となって、千年間地上を治めるのである。そしてもう一つのことは「我また彼に曙の明星を与えん」すなわちキリストの空中再臨の時携挙される特典を与えられるのである。曙の明星とは主イエスのことである。主イエスは暗黒の世に表われ給う曙の明星である。義の太陽として、この世に君臨なされる前に、まず少数の聖徒に曙の明星として表われて、彼らを空中に携えあげられるのである。もし私たちが真に潔められて準備が出来ておれば、その時、聖徒の群に入って携え挙げられ、空中において、楽しき主との婚姻となり、こうして限りなく主と共にいるのである。今の時代は暗黒の夜である。夜はすでにふけた。夜を守る者には曙の明星はまことに嬉しいものである。私たちが目をさまして主を待っていれば、空中再臨の主が曙の明星として、私たちに与えられるのである。今私たちはお互い主を心の中にもっているが、その時には曙の明星として与えられるので、この時が実に楽しい時である。