「サルデス」とは「遺残者」という意味である。この教会の中には数人の衣を汚さない者、すなわち遺残者があった。大部分のものは駄目であったが、その中でも少数の人が、聖潔を保っていた。このサルデスの教会は、霊的活力のゆえに有名であったということである。鯛の釣りたてのように、中に生命が満ちていたのを誰もが認めることができたという。すなわち、外部からいえば、活動において有名であったが、しかし、「神の七つの霊を持ち、また七つの星を持つもの」すなわち、生命の光の源泉である主が、この教会のことを何といわれるか、それを知りたい。
七とは、完全数である。キリストは、七つの霊すなわち、完全に霊をもって満たされておられたお方である。私たちも、聖霊を受けるが、キリストとはその受け方がちがう。「神の残しし者(すなわちキリスト)は、神の言を語る。けだし神はこれに霊を賜いて限りなければなり」(ヨハネ三34)。「なんじ義を愛し、悪を憎む。それゆえに神すなわち、汝の神は喜びの油をもて汝の友よりもまさりて、汝にそそげり」(へブル一9)の彼こそは真に七の霊をもつもの、すなわち完全に聖霊に満されたお方である。七つの霊とは、またイザヤ一一2にある主の霊、知恵、聡明の霊、謀略、才能の霊、知識の霊、主を恐れる霊の七つにあたる。キリストはこの七つの霊に満されたお方で、これはまた生命に満ちておられる様子をいったものである。
このキリストは、そのみ手に七つの星を持っておられる。星とは、前に言ったように教会の使者である伝道者である。伝道者はキリストの御手の中にある。これは実に幸福なことである。キリストのみ手の中にある間は伝道者は星として光る。しかし、キリストを離れたら光らなくなってしまうのである。
そのキリストのいわれるには「いわくわれ汝の行為を知る」その行為たるやとても、他の教会と比べものにならないほどよくやっている。自分も人々も第一級だと思っている。しかし「なんじに生ける名ありて、その実は死ぬることを知る」とこのように記されている。名は実に立派である。このサルデスの教会こそ生命が満ちていると人々はいっている。しかし、キリストはこれを見て死んでいるといわれるのである。人の鑑定は、あてにならない。しばしば、死んでいる者を生きているように見誤ることがある。また生きている者を死んでいるように間違えることもある。神の目をもって見なければならない。活動、熱心に働くことは、この前エペソの教会の時に言ったように、生命がなくてもできる。汽車が動いているのは、決して生命があるからではない。人は活動と生命とを間違えている。上部でドシドシやってさえいれば、生きているように思うが、必ずしもそうとはいえない。教会に行って見れば、聴衆は堂に満ちている。祈祷会も先ずは盛んである。路傍説教もやっている。しかし、そうはいっても生命があるとはいえない。人を引き付けることなら芝居でもやっている。キリスト教会は、あの仏教徒たちの集会とは違って、何といっても生ける名がある。しかし、その実多くの教会は死んでいる。これは実に悲しいことであるが、事実である。一つの宗派、一つの団体、一つの教会、また一人の人間であっても、これに当てはまるものが沢山ある。ただ教理が正しいと呼ばれている者(いわゆる死せる正統派)の中にのみならず、実際活動している者の中にも、その実死んでいる者がいる。要は、神との接触があるかどうかである。神と接触していなければ、電車が停電したのと同様、またポールが外れたのと同様に、サッパリ動かないのである。乗客がいくら多くいてもだめである。
「なんじ目を醒し、ほとんど死なんとする残りのものを堅くせよ」このところにおいて主は警戒しておられる。目を醒せとは、眠っている者が、一寸目を明けるということではない。断えず目を醒していることである。ある人は、自分の一つの経験に満足し、たびたび恵まれたあとに眠る人がある。恵まれるまでは、一生懸命にやるが、恵まれるとヤレヤレという風で、腰をおろして眠ってしまう。それではいけないのである。「ほとんど死なんとする」キリストは、サルデスの教会をこのように診断されたのである。今や死に頻している大病人のようである。
「我なんじの行為の我神の前に全きを見ざるなり」これはいま一つの実情である。人は感心しているかも知れないが、神の前には完全でない。主に全きものと見られていない。オーあなたの行為も、私の行為も人と共にいるときも、一人でいるときも、友人と遊んでいるときも、教会で働いているときも、訪問するときも、すべてが主に見られていることを覚えていなければならない。お互いに私たちの行為は、全きものと見られているであろうか。「このゆえに汝が受けたるところ、聞きたるところを思い起し、これを守りて、悔改めよ」新しきことではない。汝がすでに受けたところを思い起してである。キリスト教会の一つの弊は、新物喰いである。何でも新しいものを聞こうとする。アテネ人のように斬新を追求して、新思想にかぶれる。聖書の講義にしても、新しい奇抜な説明を喜ぶ、しかし、神の真理は、古い古いものである。あなたが始めから与えられているものを思い起して、悔改めればそれでよい。新しく受けなければならない恵みも、かつてあなたが聞いたところのものに外ならない。そこでせっかく神が与えようとされたものには、もはや飽きがきて、何でも新しいもの新しいものと追い求める。これは悔改めなければならないことである。
「もし目を醒しおらずば、我盗賊の如く汝に至らん。汝わが何の時なんじに至るかを知らざるなり」これは実に厳かなことである。この警戒に目を醒さずに、ウッカリしていると、思いもよらない時にキリストがこられるのである。そして世が審かれる前に、まず教会がさばかれるのである。このサルデスの教会は、悲しむべきことには、この警戒を受け入れなかったため、今はあと方もないありさまとなっていて、この教会の建っていたところだと思われるところには、ただわずかばかりの野蛮人が、羊小屋のようなものを建てて、住んでいるということである。ある宣教師がそのところに行って、この様子を見て、慨嘆にたえず、この章を開いて話して聞かせたが、彼らは未信者であるから、すこしも理解できなかった。詩篇の七七篇を歌って涙にむせんだということである。おお兄弟姉妹よ、キリストは、再びおいでになる。神はあなどりみるべきおかたではない。
「されどもサルデスになお数人、いまだその衣を汚さざる者あり。彼らは白衣をきて、我と共に歩まん。彼らは然するに足るものなり」大多数は、もはや駄目であるが、さいわいなことには少数の者が、いまだ真面目であった。キリストは、善人も悪人も一把一束に、一緒にあつかわれない。どんなに腐敗した教会の中にも、一人でも聖い人がいればその人を祝福される。「白衣」とは、小羊の血によって洗った白い衣のことである。その衣を汚さないで、聖く保っている者である。聖別会のときに潔くされて、後になってそれを汚す者がたくさんある。それでは駄目である。キリストの血は汚れないように守る力があるので、私たちは断えずキリストの血の中にいなければならない。この節の「白衣」は現世における白衣であり、五節の白衣は未来において着るべき白衣である。現在聖潔の白衣を着てエノクのように、キリストと共に歩む者が、未来においても栄光の白衣を着せられる者である。「彼らは、然するに足るものなり」さいわいなことである。私たちは天皇陛下と共に歩むことなどとても出来ない話である。しかし、王の王であるキリストと共に歩むことのできるとは、なんというさいわいなことであろう。西洋人の夫婦が、手に手を取って共に歩むように、キリストと共に歩むことが出来るとは、おそれ多いかたじけないことである。あなたは、はたしてどうか。
「勝を得るものは、白衣を着られん」今白衣を着て、全き聖潔を受けて愛に歩む者がやがてこの白衣を着せられるのである。この白とは、非常に強い意味の原語で「輝ける目を射る白さ」すなわち変貌山上の主の衣のような白さである。やがて私たちはこのような輝いた衣を着ることができる。しかし、それは現在の衣と大いに関係がある。この世にいる間に白衣を着て神と歩んだ人に限るのである。
「我その名を生命の書より消し落さず」こんなことは書かなくてもよいように思われるが、生命の書に一旦その名を書かれても、消し去られる恐れがあればこそ、このように主が言われる必要があるのである。サルデスの教会の大多数は、消し去られた連中であった。この世にあって霊的生命を失えば、来世に行っても駄目である。これは予定説から言えば、ずいぶん議論の起るところであるが、私たちは議論するよりも、神の言をそのまま受けて、自らを警戒したい。イスカリオテのユダは、未信者であったか、決してそうではない。彼は確かに救われていたのである。「汝らの名の天に記されしを喜びとすべし」と主が言われたとき、彼もその中に入っていた。しかし、彼は堕落したのである。今は生命の書に彼の名はない。
「またわが父とその使いらの前に、彼が名を言い述べん」これは非常な光である。お互いに記憶があるが、小学校の卒業免状をもらうとき、あるいは賞をもらうとき、どのようであったか。賞といっても鉛筆十本だの、半紙五帖とか、書物二冊位のものであるか。郡長や、村長を始め、歴々の面々がズラリと列んでいる前で、自分の名を呼び出されるそのときの嬉しさは、忘れないではないか。しかし、彼のとき報賞は、鉛筆十本位のことではない。父なる神と主イエスと無数の聖徒と天使との前に出て、大いなる報奨を受けるのである。そのときに生命の書から名を読み上げられる。そのときお互いに自分の名が呼ばれれば、私たちはどんなに嬉しいことであろうか。オー、ハレルヤ。そのときキリストは、父上に私たちを紹介して下さる。父は両手を広げて私たちを抱き上げ、天使は私たちのために讃美するのである。オー、更に益々天の栄光、再臨の時の報酬を望んで進みたいものである。
「耳ある者は、霊の諸教会に言うところを聴くべし」今主があなたや私や全教会に語っておられるみ声を聞きたいものある。