「ヒラデルヒヤ」とは、兄弟の愛という意味である。この教会は、人の見るところによれば、きわめて微力な教会であったが、主から非常に信任を受けた教会であった。どこに目をつけられたかと言えば、やはりその愛の点であった。主がこの者こそ信任し得る者だと言われるものは、愛のある者である。この教会には、主は「聖きもの、誠なる者云々」といろいろな方面からご自身をあらわしておられる。その第一は、聖者であるキリストであり、詩篇一六篇(十節)にあるように、まことに聖いお方である。一点の汚れもない潔いお方は、キリストである。人間同志の間における聖人程度の話ではなく、神の聖である。ヒラデルヒヤの教会は、このキリストの聖潔を知っていたのである。汚れが少しでも残っているところには、愛がない。全く聖いお方を自分のうちに受けいれてこそ、完全愛となるのである。またキリストは真なる者、アーメンたる者である。キリストこそは真の神であり、また真理そのものである。他の哲学や、神学には偽りがあるが、キリストご自身こそは、まことなるお方である。
その次に「ダビデの鍵を持つ者、かれ開けば誰も閉じることあたわず、彼閉じれば誰も開くことあたわず」と言っている。すなわちキリストは、王である。鍵をあたえられたとは、すべての信任を受けておられることである。なによりも天を開いて下られたキリストは、また私たちの心を開かれるお方でもある。またこのお方は、恵みの倉庫を開かれるキリストであり、摂理の門を開かれるお方でもある。このところは格別に摂理のことについて言っているところであるが、伝道の門戸を開いて下さるのは、キリストである。私たちの住んでいる日本にしろ、数十年前までは鎖国攘夷で固まっていたものであるが、一朝アメリカのペルリが来て、国が開かれ、従ってキリスト教もさかんに伝えられるようになったのである。そうしたのは誰かといえば、すなわち、このキリストに他ならない。中国にも伝道が出来るようになった。チベットにも教えが入った。これは誰がしたのかと言えば、やはりこれもキリストである。彼は、門を開いて下さるお方であり、このお方が開かれたら誰も閉じることができなかったのである。お互いにこのことを信じたい。
今一つのところで忘れてはならないことは、一章にあるように、このキリストは「陰府と死の鍵」をも持っておられるお方である。これは実に恐ろしいことである。鍵を持っておられるお方を真に知るならば、感謝と信任をもってこれに向うことができると共に、他方には、恐れを抱かなければならない。
「かれ開けば誰も閉じることあたわず。彼閉じれば誰も開くことあたわず」真に独立独歩、このお方のなさることに誰も干渉することができない。こういうお方が、ヒラデルヒヤの味方をしておられるのである。
「いわくわれ汝の行為を知る。見よ、我が門を汝の前に開けり。これを閉じることを得る者なし。そはなんじ少しく力ありて、我言を守り、我が名を棄てざればなり」このところからこの教会の実情がわかる。忠実に愛によってことをしていることが知られている。私たちが愛に満たされるならば、不思議にも、人々が集められる。もちろん反対はあるが、あればある程、門が広く開かれる(コリント前一六8)。ある伝道者は、このところは困難だ。自分の伝道地が全世界中で一番むずかしいという来歴の場所だと、その他いろいろのことを言って伝道の不成功が当然のことのようにいう。私たちはもちろんその困難には同情するが、伝道者は、自ら省みなければならない。もしもヒラデルヒヤ的であれば、神は伝道の門戸を開いて下さるにちがいない。不忠実な者のために開くと困るから、神は開いて下さらないのである。
「汝少しの力ありて……」このところに教訓がある。少しの力しかなかった。学識もない。金銭もない。何がない彼がないといろいろ言うものがいるが、もし少しの力しかなくても、神の言を守ってさえいたら、すなわち、信仰さえあれば、何物がなくてもよいのである。
「その自らユダヤ人と称して実は非ず、ただ偽りを言うサタンの会のある者をして、我これを汝のところに来らしめ、汝の足の前に伏さしめ、我なんじを愛せしことを知らしめん」これは非常な勝利である。見えるところではユダヤ人であっても、実は神の民でなく、偽りをいうサタンの会の者は、スルミナの教会にも出て来たが、その者をあなたがたの足のもとに伏させる。すなわち、彼らは異端を称え、反対をしていたが、その中から悔改めるに至るのである。そのときよい気味だと思うのではなく「我なんじを愛せしことを知らしめん」。いわゆる学者、いわゆる政治家ではなく、福音すなわち神の言を伝える者に、力あることを示して下さるときが来るのである。
「汝わが忍耐の言を守りしにより、我もまた汝を守りて地に住む人を試みんがために、全世界に臨まんとする試練のときに、これを免れしむべし」神の言を信じるとは、砂糖をなめるようなことではない。ここにある全世界とは、ローマ帝国をいう。ローマの大迫害のときにも、格別の神の守護が加わることをいったのである。またかのエルサレムの滅亡のときにも二〇万からの人々が死んだが、キリスト信者はただの一人も死ななかった。これはその城の落ちる前に、神が彼らをペレアの方へ逃げさせられたからである。このように信者は迫害のときに、神に護られることができる。もしまた迫害のために死んだならば、それは神が守りそこなったためではなく、その人に殉教者の冠を与えようとするためなので、これは特別の恵みであるといわなければならない。
「われ速かに来らん。汝が持つところの者を固く保ちて、汝の冠を人に奪わるることなかれ」。主は、しばしばすみやかに至らんと言われている。あなたは、信仰と兄弟を愛することを行為としていたが、それをどこまでも守って行き、人に取られてはならない。神は冠を与えようとなさったが、人はそれを奪いに来る。私たちは神に従うべきか、人に従うべきか、神よりも人に従えば冠を失うのである。また別の意味においていえば、私たちが負うべき十字架を人に負わせたら、私たちはこの冠を失う。オーあなたの冠を人に取られてはならない。
「勝を得る者をば、我神の殿の間の柱となさん。これより再び出ることなし。我また我が神の名と我神の都すなわち、天より我が神のところより降る新しきエルサレムの名および我が新しき名をこれに記さん」柱とするとは、なんと大いなる言であろう。私たちは皆召されて神殿の材料となったのである。隅の首石は、キリスト、基礎は使徒で、私たちは各自その材料である。天井板にされるもの、壁になるもの、床にされるものなどいろいろあるが、ヒラデルヒヤ的信者は、柱にされるのである。ソロモンの宮殿の柱は、ヤキンとボアヅと名づけられ、これは「永続」と「力」という意である。非常に重いものが上に載っているが、力があっていつまでもこれを与えて耐えている。神は、このような柱的人物を要求しておられる。
教会においても大衆伝道といえば、皆やってくるが、日頃は重荷を負って祈る柱的人物が少ない。この地上の教会だけではなく、天にある神の家の柱であるものも少ない。「ここより再び出ることなし」原語では、非常に強い意味で、決して出ないという意である。他の器具ならば出ることもあるが、柱は決して出ないのである。常に神の家の中にあるのである。そして彼らは神の名、新婦にふさわしい名、またキリストの名を与えられる。名は実を表わすものである。このような名を与えられることは、実にその実質を与えられるということなのである。
「耳ある者は、霊の諸教会に言うところを聞くべし」とヒラデルヒヤの教会は、スミルナの教会と等しく、責められるところがない。おお、私たちは、この種の人なるために、霊の声を聞きたいものである。