最後に出て来るのは、ラオデキヤの教会である。「ラオデキヤ」とは、「民を悦ばす」との意味の言である。言いかえれば、人のご機嫌を取ることである。ラオデキヤの教会は、時代的にいえば、現今の教会であるが、現今の教会は堕落して、昔のニコライ宗とは、全く反対で、民主的となり、人のご機嫌を取るようになった。教会の主は神、キリスト、聖霊であるべきはずであるのに、ニコライ宗のように伝道者が主になって教権をほしいままにし、またこのラオデキヤのように、信者が主になって伝道者を支配するようになったりするのは、どちらも間違っている。組織はどう変わっても、主権は常に神になければならない。ラオデキヤは当時なかなか盛大な都でことに羊の毛の多くでるところで、そのために金廻りがよい都市であった。金は多くあり、従って銀行が多くあって丁度今日のロンドン、ニューヨークのようで当時の世界の金融の中心として、また銀行の所在地として有名であった。今一つは、よい香油の出るので有名であったといわれる。それはコルビャンという油で、目薬にもなったとの事である。その地方には気候の関係から目の悪いものが多くあったため、その香油は非常に重宝がられた。もう一つのことは、そのところに二つの泉があって有名であった。その泉というのは、冷泉と温泉であったといわれる。かかる有名な都市にあるラオデキヤの教会に、主は何と言われたか。先ず第一に、ご自身をあらわして「アーメンたるもの、忠信なる真実の証者、神の造化の始めなる者、かくの如く言う」と言われる。アァメンたるものとは、イザヤ六五16に「真実の神」と訳されているのと同義である。主イエスは、実に真実の神であった。そして彼はまた忠信なる真実の証者であった。一5にもこの言が出ているが、キリストこそは、そのお方であり、ポンテオ・ピラトの前にあって、生命を賭けてあかしされ、そのためについに殺されなさったのである(テモテ前六13)。彼は、実に死に至るまで忠信な証人であった。次に「神の造化の始めなる者」といえば、被造物のはじめの者という意味に聞こえるが、そうではない。万有の創造者という意味である。すなわち、主は創造の源、創造者である。主はここでご自身を真の神としてあらわしておられる。その神がご覧になってこの教会の真相を言われたのである。その見破られている点には、間違いのない、真実なことである。
「いわく。われ汝が冷かにも熱くもあらざることを、汝の行為によりて知れり。我汝が冷かなるか、あるいは熱からんことを願う。汝すでにぬるくして、冷かにもあらず、熱くもあらず、このゆえに我なんじを我が口より吐き出さんとす」これはお互いにしばしば味わうところである。兄弟姉妹たちも味わってみよ。また説教で聞いたこともあろう。しかし、今一度このみ言を深く心にとめなさい。前にも言ったように熱い泉と冷たい泉とあったが、主はそれを引用してこのようにいわれる。お前は何者か。熱くも冷たくもないではないか。教会の機関設備は、万般備わっているが、お前の精神は何だ。なまぬるいありさまではないかと。私たちお互いは、はたしてどうか。熱いなら熱いもの、冷たいなら冷たいものが気色がよいが、どっちつかずのものは厭なものである。医者が胃の腑を掃除するためには、吐かせようとして生ぬるい水を飲ませるが、そうするとすぐに吐きだしてしまう。熱とは、かのヒラデルヒヤの教会のように、また冷たいとは、かのタルソのサウロのように、片端から殺さなければやめないと言うような冷淡な精神である。それならかえって望みがある。しかし、その間の中途半端の生ぬるい人は困ったものである。今の世のいわゆる教会、いわゆる伝道者は実になまぬるいではないか。熱心にやるのでもなければ、といって全然やらないでもない。私は決して人を審くのではないが、お互い自らを反省してみなければならない。この熱いという字の直訳は、沸騰していることである。オー自ら省みたい。何か私どもを生温くしているのか。キリストの熱い愛ではなく、自分の熱心からやっているなら、とても長続きはしない。早晩なまぬるくなってしまうに決まっているが、キリストの熱い愛を受けたにしろ、もしも腹の中に冷たい石のようなものがあっては、折角受けた愛も一時的なもので、消え去ってしまい、いぜんとして生ぬるいものとなるであろう。先ず、心の中から冷たい石の心を取り除かれ、潔められなければならない。かくしてキリストの熱愛を受け、始めて常に熱い者となることができるのである。
「なんじら自ら我は富み、かつ豊かになり、乏しき所なしと称えて、実は悩めるもの、憐むべき者、また貧しく、盲、はだかなるを知らざれば」自ら欺かれていることを知らないのである。自分は大変に恵まれていると思っているが、その実自分ほどあわれなものはないのである。貧しく、信仰が欠乏しているのである。愛なく、知恵すなわち霊魂をとらえる知恵に欠乏しているのである。また、盲人であり、盲人とは愛がないからである。信者の目は、未信者の見ていないところまで見ているはずである。相手の霊魂が見えれば、どんなに悪い人でも可愛ゆくなるはずである。それなのに相手の霊魂が見えずに、上部の欠点や罪が見えているからいけないのである。今一つの盲人は、キリストの再臨の希望をもたない人のことで、永遠についてのことを知らない人は盲人あるいは近眼である。また裸である。生ぬるい人には、罪の自覚がない。祈ってもつかみどころがない。祈っても「もし」をつけ「もし私が悪ければ」などと言う。だから駄目なのである。私はここが悪い、これこれの罪がある。この罪をゆるして下さい。ここを潔めて下さいと、ハッキリ祈らなければならない。ラオデキヤの人は、自分のことがわからなかったのである。
「われ汝に勧む。なんじ富をなさんために我より火に焼きたる金を買え。またおのが裸の恥のあらわれざらんために、白衣を買ってまとえ。また見ることを得んために目薬を買って目にぬれ」どうかこの勧めを受け入れなさい。第一は、火に焼いた金、第二は白衣、第三は目薬。この三つを今日受けなさい。火に焼いた金とは、ペテロ書にあるように、火によって試みられた純金の信仰である。見えるところによって歩まずに、また境遇によって変わらない信仰のことである。これは、神の前に貴いものである。丁度この世において黄金が貴いもののように、神の前においては、信仰が貴いものである。今一つは、白衣、これは聖潔すなわち完全な愛である。これが真の礼服で、この礼服を着ていない者は、キリストのみ前に立つことができない。オー裸である人は、早くこの礼服を着るべきである。夜暗い中ならば、裸でも恥ずかしくはないが夜が明けて人が多ぜい来るときに、裸でいたらいったいどうであろう。いま一つは、目薬である。これは知恵と黙示の聖霊である(エペソ一17)。これを受ければ聖書が開けてくる。キリストが見えて来る。あなたの心の目にはたしてキリストが見えるであろうか。頭で聖書の解釈をしているのではいけない。心の目でキリストが見えたであろうか。聖霊によって、キリストが啓示されたであろうか。そのキリストが見えたら、もはや安心である。先年新神学が日本に始めて入って来たとき、金森通倫氏の信仰が公に発表され、大問題となった。当時私は、米国サンフランシスコの日本人福音会の幹事をしていたが、この会内にも信仰上の大動揺を生じ、一方ならない騒ぎがあった。しかし、幸いなことには、その以前に私の心にキリストが啓示されていたので、私の信仰は、少しも動揺しなかった。また目が開かれれば、滅びる霊魂が見えてくる。パウロのように、私は福音を伝えなければ、わざわいであると叫んで、魂を導くようになるのである。更にいま一つ目が開かれれば、再臨の希望が、明瞭となってくる。以上が、火に焼いた金、白衣および目薬を買えと勧められている。買うには、その代価を払わなければならない。その代価とは、その身を神のみこころにかなう生きた供物として神に献げることである。この献身が出来ないのなら、買うことは出来ない。献身とは伝道者になることではない。また金を出すことでもない。神の手に自分を真に渡しきって、絶対に服従することである。もちろん私たちの献身や服従そのものが価値があって、聖霊を買い得るという意味ではない。聖霊を受けるための条件であることを示したのである。
「すべて我が愛する者は、我これを責め、これをこらす。このゆえに汝励みて悔改めよ」兄弟姉妹よ、これまで神がなぜあなたをこらしめられるかを、よく考えて見よ。どうにかして、あなたにほんものを握らせたいばかりに、神はあなたをこらしめられるのである。そこで悔改めるためには、励むことが必要である。この神の愛のご配慮を思って、励んで悔改めなければならない。
「見よ、我戸の外に立ってたたく。もし我が声を聞きて戸を開く者あらば、我その人のところに至らん。しかして我は、その人と共に、その人は我と共に食せん」これは悲しむべき状態ではないか。教会にこのようなことがないか。これでも教会といえるであろうか。教会の中にはキリストはおられず、教会の外にいて、戸をたたいておられるのである。中には、人がいる。人がはばをきかせて、崇められている。それでもキリストは、この教会をのろわれない。なおも忍んで戸をたたいておられるのである。このみ声を聞いて戸を開くことは、人のなすべきことである。キリストは戸を打ちこわして入られない、人の自由意志を無視されない。心の戸は内側から開かなければならない、開けばどうなるのか、キリストが入って下さるのである。そして、キリストと共に食することができる。この「我はその人と共に」が第一で、「その人は我と共に」が第二で、すなわち二段の祝福である。第一は、このまずい家に、キリストが入って下さり、粗末なものでも私と共に食べて下さるのである。次に主は、私たちにたいして「先ほどは、お前がごちそうをしてくれたが、今度は私がごちそうをしてやる」と言われて、キリストの食事に私たちをもあずからせて下さるのである。このキリストのごちそうは、私たちの手料理とは大違いである。主イエスの中に満ちているものをもって満されるとは、実に大きな恩寵である。
「勝ちをうる者には、我さきに勝ちを得て我が父と共に、その位に座するが如く、我と共に我が位に座することを許さん」これは驚くべきことである。キリストは、すでに勝ちを得て、大権の右に挙げられ、父なる神と共にみ座に坐しておられるが、やがて再臨の時には、この世に主として臨まれる。そのキリストと共にみ座に坐し、私たちもまた王として世を治めることができるのである。今まで七つの褒賞が各教会にそれぞれ約束されていて、皆それぞれ異なるが、これが一番高い褒賞である。キリストは一番高い褒美を携えて、今戸の外から、さながら頼むようにして入ってこられようとしているのである。おお兄弟姉妹、キリストのみ声が聞えるであろうか。聞えたならばあなたの心の戸を開いて、このキリストを受け入れ、あなたの心の王座をゆずらなければならない。「耳ある者は、霊の諸教会に言うところを聞くべし」見よ、以上のように責められている教会は、五つあるが、その五つの教会の欠乏している点は何か。
エペソの教会は、愛に欠乏し、 ペルガモの教会は、真理に欠乏し、 テアテラの教会は、純潔に欠乏し、 サルデスの教会は、生命に欠乏し、 ラオデキヤの教会は、火に欠乏していた。
これが今日の教会の状態である。兄弟姉妹、今まで七つの教会の研究によって自分の真相または自分の属している教会の真相が解ったならば、主の前に謙り下り、欠乏を告白して祈るべきである。もし自分のためには必要のないものは教会のために、自分の属している一教会のために、また大きくは教会全体のためにへりくだって祈ろうではないか。
実に、教会は、私たちと一体であり、その欠点は、私たちの責任だからである。
どうかダニエルのように、人のためにもへりくだって悔改めの祈祷をささげようではないか。