黙示録二、三両章に、七つの教会について記されている。当時、北アジアにこれらの七つの教会があったのであるが、これらの教会は、また全世界の型である。またある人は、これは教会歴史の各時代に相当するといっている。すなわち、
エペソの教会=準使徒時代の教会。 スミルナの教会=それに次ぐ迫害時代の教会。 ペルガモの教会=コンスタンティヌス帝以来キリスト教会は世と接吻した時代の教会。 テアテラの教会=ローマカトリック教会の腐敗の頃の教会。 サルデスの教会=宗教改革時代の教会。しかしこれは竜頭蛇尾に終わった。 ヒラデルヒヤの教会=十六、七世紀の頃ウエスレー、ホィットフィルド等の出た時代の教会。 ラオデキヤの教会=現今の時代の教会。
右のようになる。しかし、ここよりこの章を研究する時に、お互いが実際的に各自の魂の状態にあてはめて考え、また進んで各自の属する教会にあてはめて考えたい。私の近頃感じる事は、教会の我家であるということである。私達の団体に属さなくとも、全教会の枝、一人一人は我が家族である。異端俗化が教会に入ってきたとするならば、これは自分の家のことである。子の病は親の憂である。であるから、教会の憂を我が憂としなければならないということを、つくづく感じている。どうか、教会を我がこととして、考えたい。さて、ここに七つの教会があるが、それについて書いてあることが、一つ一つ規則正しく出来ている。
一、宛先。 二、主イエスがその教会に適するように御自身を表わされる。すなわちキリストの御姿、あるいはその属性。 三、おもに知られているその教会の実状、すなわち真相。その教会自身はそれをよく知っていないかもしれないが、主はそれをよく知っておられる。そしてその中にはほめられる点と、責められる点と両方ある。ある教会は、その両方ともある。ある教会は責められる一方、またある教会はこれに反して、ほめられる一方である。 四、主の勧告。これは愛の勧告である。 五、警戒。悔い改めなければ云々という警戒である。 六、全世界の教会に対する命令。 七、勝を得る者に対する約束。
以上のうち、あてはまらないのもある。たとえばほめられるだけの教会には警戒はない。また以上の順序の異なっているのもある。