第三章 二つの降臨

C. I. スコフィールド

キリストの苦難とそれに続く栄光を、あらかじめ証しした時(一ペテ一・十一)

旧約聖書の諸々の預言を注意深く考慮する人ならだれでも、来たるべきメシヤに関する二つの対照的な節や、矛盾とも思われる節に驚くにちがいない。一方の予測はメシヤのことを、弱さと謙卑を帯びて来られる方、悲しみの人で痛みを知る方、乾いた地から出た根のように、慕うべきなんの姿も、容姿の麗しさも、美しさもない方として述べる。その顔は損なわれ、その両手と両足は刺し貫かれ、人と神から捨てられて、その墓は悪者どもと共に設けられる。詩二二・一~十八、イザ七・十四、イザ五三章、ダニ九・二六、ゼカ十三・六~七、マコ十四・二七を見よ。

もう一方の節は、光輝く抵抗不可能な主権者を予告する。この方は、恐ろしい裁きで地を清め、散らされたイスラエルを再び集め、ダビデの王座をソロモンの栄光にもまして回復し、深遠な平和と完全な義の統治を開始される。申三〇・一~七、イザ十一・一~二、十~十二、イザ九・六~七、イザ二四・二一~二三、イザ四〇・九~十一、エレ二三・五~八、ダニ七・十三~十四、ミカ五・二、マタ一・一、マタ二・二、ルカ一・三一~三三を見よ。

しかるべき時に、メシヤの誕生と共にメシヤ預言の成就が始まった。メシヤはイザヤ書にしたがって処女の息子として生まれ、ミカ書にしたがってベツレヘムに生まれた。そして、文字どおり完全に進んで行って、メシヤの謙卑に関するすべての予測が完全に成就されるに至った。なぜなら、王国の樹立の前に、最初に罪が取り除かれなければならないからである。しかし、メシヤが「柔和で、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に持って」来られる方として示された時、ユダヤ人は自分たちの王を受け入れようとせず、十字架につけた。(ゼカ九・九とマタ二一・一~五、ヨハ十九・十五~十六を見よ。)

しかし、「人の邪悪さにより、神の緻密な御旨は頓挫した」と結論してはならない。神の計画は御子の二度目の降臨も含んでいるからである。その時、メシヤの地的栄光に関する諸々の予測は、メシヤの地的苦難に関する予測と同じように、正確に文字どおり成就される。(ホセ三・四~五、マタ二四・二七~三〇、ルカ一・三一~三三、使一・六~七、十五・十四~十七を見よ。)

ユダヤ人たちは心が鈍くて、自分たちのメシヤの苦難について預言者たちが告げたすべてのことを信じるのに遅かった。われわれも心が鈍くて、メシヤの栄光について預言者たちが告げたことを信じるのに遅い。確かに、より大きな非難を受けるべきはわれわれである。なぜなら、神の御子が「天の雲に包まれて、力と大いなる栄光とを帯びて」来られるのを信じることの方が、彼がベツレヘムの赤ん坊やナザレの大工として来られるのを信じることよりも、簡単なはずだからである。確かに、われわれは後者を信じる。預言者たちがそう予告したからではなく、すでに起きた出来事だからである。ユダヤ人を不信仰のゆえに非難するのをやめるべきである。「これほど多くの明確な予測の自明な意味に対して、どうしてユダヤ人たちは盲目でありえたのか?」と問われるなら、その答えは、「多くのクリスチャンと全く同じように、ユダヤ人は盲目にされたのである」というものである。クリスチャンたちもまた、聖書の「霊的解釈」のせいで、メシヤの地的栄光に関する遥かに数が多い予測の自明な意味に対して、盲目にされているのである。言い換えると、現代の学者たちの中には「メシヤの地的栄光の預言を文字どおりに解釈してはならない」と人々に言う者もいるが、それと同じように、昔の学者たちは「メシヤの苦難の預言を文字どおりに解釈してはならない」と人々に言っていたのである。

この二度目の降臨はユダヤ人に対する約束であるだけでなく、教会に対する約束でもある。われらの主が、十字架の犠牲を成し遂げる前に、困惑して悲しんでいる弟子たちに対して語られた慰めと励ましの最後の御言葉の中に、このようなものがある。「あなたたちは心を騒がせてはならない。神を信じ、またわたしを信じよ。わたしの父の家には多くの住まいがある。もしそうでなければ、あなたたちにそう言っておいたであろう。わたしはあなたたちのための場所を備えに行く。そして、行って、あなたたちのための場所が整ったなら、再び来て、あなたたちをわたしのもとに迎える。わたしがいるところに、あなたたちもいるためである」(ヨハ十四・一~三)。

ここで主は、別れについて述べるのと全く同じ言葉で、ご自分の再来について述べておられる。別れは個人的な肉体を伴うものであったことを、われわれは知っている。もし「再来は非個人的な『霊的』なものである」と言うなら、単純な御言葉をそのように解釈することを強いる、きわめて強い無制限な命令が聖書のどこかになければならない。しかし、そのような節は存在しない。しかし、この決定的点を疑ったり、理屈――どれほど強力な理屈だったとしても――で結論を引き出すよう、われわれは放っておかれてはいないのである。

主が弟子たちの視界から消え去ったまさにその瞬間、「白い衣を着た二人の人が彼らのそばに立って言った、『あなたたち、ガリラヤの人たちよ、なぜ天を見上げて立っているのか?あなたたちを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたたちが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう』」(使一・十~十一)。

同じことが一テサロニケ四・十六~十七にも述べられている。「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、叫びと共に、天から下って来られる。その時、キリストにある死者がまず最初によみがえり、それから生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会い、こうして、いつまでも主と共にいるであろう」。「この祝福に満ちた望み、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の出現を待ち望んでいる」(テト二・十三)。

「なぜなら、私たちの国籍は天にあるからである。そこから、救い主、主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体のかたちに変えてくださる」(ピリ三・二〇~二一)。

「愛する者たちよ、私たちは今や神の子である。しかし、私たちがどうなるのか、まだ明らかではない。しかし、彼が現れる時、自分たちが彼に似た者となることを、私たちは知っている。ありのままの彼を見るからである」(一ヨハ三・二)。「見よ、わたしはすぐに来る。わたしの報いはわたしと共にあり、各々にその働きに応じて与える」(黙二二・十二)。

この「祝福に満ちた望み」のゆえに、われわれは「目をさまして」(マコ十三・三三、三五、三七、マタ二四・四二、二五・十三)、「待ち望み」(一テサ一・十)、「用意する」(マタ二四・四四)よう、教わっている。聖書における最後の祈りは、キリストの速やかな帰還を求める祈りである(黙二二・二〇)。

これらの御言葉により、二度目の降臨は個人的な肉体を伴うものであることがよくわかる。それゆえ、これは信者の死、エルサレムの破壊、ペンテコステにおける聖霊の降臨、キリスト教の漸進的な流布を意味するものではない。むしろ、それは教会の「祝福に満ちた望み」なのである。その時、眠っている聖徒たちはよみがえらされ、そのとき生きている聖徒たちと共に「変えられ」(一コリ十五・五一~五二)、引き上げられて主と会う。その時、今や神の子であるわれわれは彼のようになる。その時、忠実な聖徒たちは、救われた後に御名のために行った信仰の働きに対する報いを受ける。

以下の聖書の御言葉は、われわれの主の二つの降臨の間の違いを、さらに示すものである。第一の降臨を第二の降臨と比較せよ。

第一の降臨

「彼女は初子を産み、布にくるんで、飼い葉桶の中に寝かせた。宿屋には彼らのいる余地がなかったからである」(ルカ二・七)。

「しかし今、世の終わりに、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、一度だけ現れたのである」(ヘブ九・二六)。

「人の子が来たのは、失われたものを探して救うためである」(ルカ十九・十)。

「神が御子を世に遣わされたのは、世を罪に定めるためではなく、世が御子によって救われるためである」(ヨハ三・十七)。

「わたしの言葉を聞いても信じない人を、わたしは裁かない。なぜなら、わたしが来たのは世を裁くためではなく、世を救うためだからである」(ヨハ十二・四七)。

第二の降臨

「その時、人の子のしるしが天に現れるであろう。またその時、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを見るであろう」(マタ二四・三〇)。

「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた。そして、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救いを与えられるのである」(ヘブ九・二八)。

「そして、悩まされているあなたたちには、私たちと共に安息をもって報いてくださる。その時、主イエスが力ある天使たちと共に天から現され、燃える炎の中で、神を知らない者たちや、私たちの主イエス・キリストの福音に従わない者たちに報復される」(二テサ一・七~八)。

「神は、お選びになったこの人により、義をもってこの世界を裁くために、日を定められたからである。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人に示されたのである」(使十七・三一)。

生徒はこの対比をいくらでも増やせるだろう。しかし、イスラエルと教会に対する約束はどちらも、われらの主の地上への帰還をどうしても必要とすることを示すには、もう十分である。

キリストの個人的な肉体を伴う帰還、キリストの第二の降臨に関する聖書の教理に反する諸々の理論について考察することは、聖書の初学者の助けになるだろう。

もちろん、次のことは明確に理解しなければならない。この経綸が終わるときの、キリストの目に見える肉体を伴った出現について述べている聖書の御言葉は、キリストの全知や偏在といった神聖な特質について言及している御言葉と区別しなければならない。これらの特質により、キリストはすべてを知っておられ、常に至る所に存在することができる。そのような節の例としては、マタイ十八・二〇や二八・二〇がある。幸いなことに、この意味において、彼はこの時代の終わりまで常にわれわれと共におられるのである。

しかし、人なるキリスト・イエスは今や、個人的に肉体をもって神の右におられる。使徒一・九~十一が明確に述べているとおりである。「こう言い終えると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていて言った、『あなたたち、ガリラヤの人々よ、なぜ天を仰いで立っているのか?あなたたちを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたたちが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう』」。

ステパノはキリストを神の右に見た。「しかし、彼は聖霊に満たされて、一心に天を見つめていると、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとが見えた。そこで、彼は『見よ、天が開けて、神の右に立っておられる人の子が見える』と言った」(使七・五五~五六)。「彼は私たちの罪の清めをなし終えてから、いと高きところにおられる大能者の右に着座されたのである」(ヘブ一・三)。「もしあなたたちがキリストと共によみがえらされたなら、上にあるものを求めよ。そこでキリストは神の右に座しておられるのである」(コロ三・一)。

普仏戦争の間、フォン・モルケは、その才能と才覚を用いて、また電線網を用いて、目に見える肉体の形ではベルリンの自分の事務室にいたのだが、すべての戦場に実際に臨んでいたのであった。後に、戦争中、彼はパリの前で軍隊に加わった。その後、彼の目に見える実際の姿はそこにあるようになった。同じようにわれわれの主は、その神聖な諸々の特質により、今、実際にご自分の教会と共におられるのだが、二度目の降臨の時に、目に消える個人的な姿で地上におられるようになるのである。

1.主の再臨に関する諸々の預言は、ペンテコステにおける聖霊の降臨や、強力なリバイバルや幸いな祈りの集会における顕現によって成就されたわけではない。

a.この解釈は実際上、三位一体の教理を無に帰して、聖霊をたんなるキリストの顕現とすることである。
b.御霊の降臨に関するキリストの約束の中で、キリストは御霊のことを「別の慰め主」としてはっきりと述べておられる(ヨハ十四・十六)。また、ヨハネ十六・七でキリストは「もしわたしが去って行かなければ、慰め主はあなたたちに来ない。しかし、わたしが去って行くなら、わたしは慰め主をあなたたちに遣わす」と述べておられる。
c.霊感を受けて使徒行伝、手紙、黙示録を記した著者たちは、ペンテコステの後に、百五十回以上、主の再来について述べている。そのどれも将来のこととしてである。
d.キリストの二度目の降臨に伴うと予期される出来事は、ペンテコステの時になに一つ起きなかった。それらの出来事とは:眠っている聖徒の復活(一コリ十五・二二~二三、一テサ四・十三~十六)、生きている信者の「変化」である。この変化により、生きている信者は「朽ちないものを着」、その卑しい体は「彼の栄光の体の様に変えられ」、携え上げられて空中で主と会う(一コリ十五・五一~五三、一テサ四・十七、ピリ三・二〇~二一)。また、力と大いなる栄光の中で御子が目に見える形で来臨されるため、地上のすべての民族が嘆く(マタ二四・二九~三〇、黙一・七)。
これらが、われわれの主の再来の出来事に伴う諸々の現象である。彼が来臨される時、これらの現象が生じるであろう。これらの現象の一つたりとも、ペンテコステでは生じなかったし、聖霊の他の顕現でも生じなかったのである。

2.罪人の回心は主の来臨ではない。

「これほど多くの詳細な預言を十分に解き明かす理論として真剣に示すには、この理論はあまりにも幼稚すぎる」と人は思うだろう。
a.聖書によると、これは全く逆である。回心は罪人がキリストのもとに来ることであり、キリストが罪人のもとに来られることではない(マタ十一・二八、ヨハ五・四〇、七・三七、ヨハ六・三七)。
b.主の再来の時に起きると予期される、前述した出来事のどれも、罪人の回心に伴わない。

3.クリスチャンの死は主の来臨ではない。

a.弟子たちが主の御言葉を「主が来るまで、自分たちの中の一人は生き残っている」と受け取った時、「その弟子は死なない」という噂が彼らの間に広まった(ヨハ二一・二二~二四)。
b.霊感を受けた著者たちは、信者の死を去ることとして常に述べている。主の来臨がクリスチャンの死と関連づけられている例は一つもない。(ピリ一・二三、二テモ四・六、二コリ五・八を見よ。)瀕死のステパノは天が開かれるのを見、人の子が来臨されるのではなく、「神の右に立っておられる」(使七・五五~五六)のを見た。
c.主の再来の時に起きると予期される出来事のどれも、クリスチャンの死に伴わない。

4.ローマによるエルサレムの破壊は主の二度目の来臨ではなかった。

a.マタイ二四章とルカ二一章で、三つの出来事が予告されている:宮の破壊、主の来臨、この世(時代)の終わりである。(マタ二四・三を見よ。)このような解釈は、この全く異なる出来事の間に無用の混乱をきたすものである。この出来事の中の一つが成就されるとき、すべてが成就されることがわかる。
b.使徒ヨハネは、エルサレムの破壊の後に黙示録を書いたが、主の来臨を依然として将来のこととして述べている(黙一・四、七、二・二五、三・十一、二二・七、十二、二〇)。聖書の最後の約束は、「確かに、わたしは速やかに来る」であり、最後の祈りは、「しかり、主イエスよ、来てください」である。
c.主の再来の時に起きると予期される出来事のどれも、エルサレムが破壊された時に起きなかった。(一テサ四・十四~十七、マタ二四・二九~三一、マタ二五・三一~三二を見よ。)

5.キリスト教の流布はキリストの二度目の来臨ではない。

a.キリスト教の流布は漸進的だが、聖書は主の再来を突然の予想外のこととして述べている(マタ二四・二七、三六~四二、五〇、二ペテ三・十、黙三・三)。
b.キリスト教の流布は一つの過程である。聖書は常に、主の再来を一つの出来事として述べている。
c.キリスト教の流布は悪人に救いをもたらすが、キリストの再来は悪人に救いではなく「突然の滅び」をもたらすと述べられている(一テサ五・二、三、二テサ一・七~十、マタ二五・三一~四六)。

6.主張されているこれらの説明や理論は、広まってはいるものの、どの学派や宗派でも高名な神学者たちの本の中には現れない。また、あまねく認知されている一流の解釈学者たちの中に、これらを支持する者は一人もいない。これらの人々はみな、肉体を伴う目に見えるキリストの二度目の来臨を支持している。

しかしながら、「この世が福音の宣べ伝えによって回心して、千年間キリストの霊的統治に服した後でないかぎり、この来臨は起こりえない」と述べられることもある。以下の理由により、この見解は全くの誤りであると考えられる。
a.聖書が明確に述べているように、キリストの二度目の来臨の時の地上の状態は、恐ろしい邪悪な状態であって、千年期の祝福の状態ではない(ルカ十七・二六~三二、創六・五~七、十三・十三、ルカ十八・八、ルカ二一・二五~二七)。
b.聖書はこの経綸の全行程を最初から最後まで、この世がその一部分だけでも回心する可能性を全く排除するような言葉で描写している(マタ十三・三六~四三、四七~五〇、マタ二五・一~十、一テモ四・一、二テモ三・一~九、四・三~四、二ペテ三・三~四、ユダ十七~十九)。
c.この経綸における神の目的は、「御名のために異邦人の中から一つの民を集める」ことであって、この世の回心ではない、と告げられている。その後、彼は「戻って来られ」、その前ではなくその次に、この世が回心する。(使十五・十四~十七、マタ二四・十四[『証しのために』]、ロマ一・五[すべての国民『を』ではなく、すべての国民の『間から』]、ロマ十一・十四[『すべて』ではなく、『幾人かを』]、一コリ九・二二、黙五・九[『すべてを』ではなく、『中から』]を見よ。)
d.一千年以上起きないことがわかっている出来事のために、「目を覚まし」て「待っている」ことは不可能である。