第八章 信者の立場と状態

C. I. スコフィールド

聖書を、特に諸々の手紙を正しく理解するのにとても重要な区別は、信者の立場・地位と信者の状態・歩みとに関する区別である。前者はキリストの御業の結果であり、信仰によってキリストを受け入れた瞬間から完全かつ十全である。信者のその後の人生でなにがあっても、神の恵みにあずかる身分や完全な安全に、なにかが付け加えられることは少しもない。ただ信仰のみにより、神の御前におけるこの立場が与えられる。そして、たとえ最も弱い人でも、主イエス・キリストの真の信者であるかぎり、最も傑出した聖徒とまさに同じ身分を持つのである。

この身分や立場がいかなるものかは、以下の聖書の御言葉からすぐにわかる:「しかし、彼を受け入れた者、すなわち、彼の御名を信じる者たちに、神の子となる力を与えられた」(ヨハ一・十二)。

「イエスがキリストであることを信じる者はみな、神から生まれたのである」(一ヨハ五・一)。

「もし子であるなら、相続人でもある。神の相続人、キリストと共同の相続人である」(ロマ八・十七)。

「朽ちることも、汚れることも、しぼむこともない嗣業が、あなたたちのために天に蓄えられている。あなたたちは神の力により、信仰を通して守られており、終わりの時に啓示されるべき救いに至るのである」(一ペテ一・四~五)。

「またこの方にあって、私たちは嗣業を受けた」(エペ一・十一)。

「愛する者たちよ、今や私たちは神の子である。しかし、私たちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、私たちは彼に似た者となる」(一ヨハ三・二)。

「しかし、あなたたちは選ばれた種族、王なる祭司の体系、聖なる国民である」(一ペテ二・九)。

「私たちを愛して、ご自身の血で私たちを諸々の罪から洗い、私たちをその父なる神のために王とし、祭司としてくださった」(黙一・五~六)。

「そして、あなたたちはキリストにあって完全である。彼はすべての支配と権威のかしらである」(コロ二・十)。

「それゆえ私たちは、信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストを通して神に対して平和を得ている。私たちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みの中に信仰により入り、そして、神の栄光にあずかる望みをもって喜んでいる」(ロマ五・一~二)。

「神はそのひとり子を賜るほどに世を愛された。それは彼を信じる人が一人も滅びることがなく、永遠の命を持つためである」(ヨハ三・十六)。

「神の御子の御名を信じるあなたたちに、私がこれらのことを書き記したのは、永遠の命を持っていることをあなたたちに悟らせるためである」(一ヨハ五・十三)。

「兄弟たちよ、こういうわけで、私たちはイエスの血によって、大胆に至聖所に入ることができ」(ヘブ十・十九)。

「ほむべきかな、私たちの主イエス・キリストの父なる神。神は、あらゆる霊の祝福をもって、私たちを祝福してくださった」(エペ一・三)。

「その愛する御子にあって私たちを受け入れてくださった恵みの栄光を賛美するためである」(エペ一・六)。

「しかし、あわれみに富む神は、私たちを愛してくださったその大いなる愛のゆえに、私たちが罪の中で死んでいた時に、私たちをキリストと共に生かし(恵みによって、あなたたちは救われたのである)、キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせてくださったのである」(エペ二・四~六)。

「しかし今や、キリスト・イエスにあって、遠く離れていたあなたたちは、キリストの血によって近い者とされたのである」(エペ二・十三)。

「またキリストにあって、あなたたちは信じた後、約束された聖霊の証印を受けたのである」(エペ一・十三)。

「なぜなら、一つ御霊によって、私たちはみな一つからだの中にバプテスマされたからである」(一コリ十二・十三)。

「なぜなら、私たちはキリストのからだの肢体であり、その肉と骨の肢体だからである」(エペ五・三〇)。

「あなたたちの体は聖霊の宮であることを知らないのか?」(一コリント六・十九)。

これらの素晴らしい点がみな、主イエス・キリストのすべての信者にあてはまる。祈り、勤勉な奉仕、教会通い、施し、自己否定、聖い生活、その他の善行によって獲得するべきである、と述べられているものは、この輝かしい一覧表の中には一つもない。すべてはキリストによる神の賜物であり、それゆえ、等しくすべての信者のものである。ピリピの看守人が主イエス・キリストを信じた時、彼は直ちに神の子供、キリストと共同の相続人、王なる祭司となり、朽ちることも、汚れることも、しぼむこともない嗣業を得る身分を得た。その心で信じて、その口で「イエスは主である」と告白した瞬間、彼はあらゆる点で義とされ、神に対する平和と、恵みによる立場と、確かな栄光の望みを得た。彼は永遠の命の賜物を受け、キリストご自身が受け入れられているのと同じように完全に受け入れられ、聖霊の内住と証印を受けた。また、聖霊によって、キリストの奥義的からだ――神の教会――の中にバプテスマされた。直ちに彼は神の義を着せられ(ロマ三・二二)、キリストと共に生かされ、共によみがえらされ、キリストにあって天上で座についたのである。

しかし、彼の実際の状態は、全く別問題であった。きっと、彼の実際の状態は、神の目から見て、その高く上げられた立場に遠く及ばないものだったにちがいない。彼は王や祭司としての天的な立場を直ちに得たが、それに相応しい者に直ちになったわけではない。聖書は人の立場と状態を常に区別しているが、以下の節はこれを示してくれるであろう。

立場

「コリントにある神の教会、すなわち、キリスト・イエスにあってきよめられた者たちへ。(中略)私は、あなたたちのために、イエス・キリストによってあなたたちに与えられた神の恵みのゆえに、いつも神に感謝している。あなたたちはキリストによって、すべてのこと、すなわち、すべての言葉にもすべての知識にも恵まれ、キリストの証しがあなたたちのうちに確かなものとされ、こうして、あなたたちは賜物にいささかも欠けることがなく、私たちの主イエス・キリストの来臨を待ち望んでいる。主もまた、あなたたちを最後まで堅く支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にしてくださるであろう。神は真実な方である。あなたたちは神によって御子イエス・キリストとの交わりに召されたのである」(一コリ一・二~九)。

「しかし、あなたたちは、主イエスの御名によって、わたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである」(一コリ六・十一)。

「あなたたちの体はキリストの肢体であることを知らないのか?」(一コリ六・十五)。

「イエスは答えて彼に言われた、『バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。肉や血ではなく、天におられるわたしの父が、これをあなたに啓示してくださったからである』」(マタ十六・十七)。

「御父に感謝するように。御父は、私たちを光の中にある聖徒たちの嗣業にあずかるに足る者としてくださり、暗闇の力から救い出して、愛する御子の王国の中に移してくださったのである」(コロ一・十二~十三)。

状態

「なぜなら、私の兄弟たちよ、私はクロエの家の者たちから、あなたたちの間に争いがあることを聞いているからである」(一コリ一・十一)。

「兄弟たちよ、私はあなたたちには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉の人に話すように話した。(中略)あなたたちはまだ肉の人だからである。あなたたちの間に妬み、争い、分裂があるのは、あなたたちが肉の人であって、ただの人のように歩いているためではないか?」(一コリ三・一~三)。

「しかし今、ある者たちは高ぶっている」(一コリ四・十八)。

「それなのに、なお、あなたたちは高ぶっている。むしろ、そんな行いをしている者が、あなたたちの中から除かれねばならないことを思って、悲しむべきではないか」(一コリ五・二)。

「そもそも、互いに訴え合うこと自体が、すでに大間違いなのである」(一コリ六・七)。

「それなのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか?」(一コリ六・十五)。

「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた、『サタンよ、退け。あなたはわたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』」(マタ十六・二三)。

「しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、冒涜、口からでる汚れた言葉を、捨ててしまいなさい。互いに嘘を言ってはならない。あなたたちは、古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨ててしまいなさい」(コロ三・八~九)。

生徒が次の点を見落とすことはないであろう。すなわち、恵みの下における神の順序は、第一に、可能なかぎり高い立場を与え、次に、それにふさわしい状態を維持するよう信者に勧めることなのである。乞食は屑の山から引き上げられて、皇子たちの間に置かれ(一サム二・八)、次に、皇子らしくあるよう勧めを受けた。例として、以下の節を見よ。

立場

「私たちはこのことを知っている。私たちの古い人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪の体が滅びるためである」(ロマ六・六)。

「あなたたちは世の光である」(マタ五・十四)。

「神は私たちを救い、聖なる召しをもって私たちを召してくださったのである。それは、私たちの働きによるのではなく、神ご自身の御旨と、世が始まる前にキリスト・イエスにあって私たちに賜った恵みとによるのである」(二テモ一・九)。

「キリスト・イエスにあって、私たちを共によみがえらせ、共に天上で座につかせてくださったのである」(エペ二・六)。

「私たちの命であるキリストが現れる時、あなたたちもまた彼と共に栄光のうちに現れるのである」(コロ三・四)。

「あなたたちはかつては暗闇だったが、今は主にあって光である」(エペ五・八)。

「あなたたちはみな、光の子、昼の子である。私たちは夜の者や、暗闇の子ではない」(一テサ五・五)。

「神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたのである。キリストが私たちのために死なれたのは、起きていても眠っていても、私たちが彼と共に生きるためである」(一テサ五・九~十)。

「この御旨に基づき、ただ一度イエス・キリストの体がささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである」(ヘブ十・十)。

「あなたたちがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、私たちの(中略)聖となられたのである」(一コリ一・三〇)。

「彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠にまっとうされたのである」(ヘブ十・十四)。

「だから、私たちの中の全き人たちは、そのように考えるべきである」(ピリ三・十五)。

「そのことによって、私たちの愛はまっとうされるのである。それは、裁きの日に私たちが大胆さを持つためである。私たちはこの世にあって彼のような者だからである」(一ヨハ四・十七)。

状態

「もしあなたたちが、キリストと共に死んで世の諸々の要素から離れたのなら、なぜ、なおもこの世に生きている者のように、諸々の規定に縛られているのか?」(コロ二・二〇)。

「あなたたちの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたたちの良い行いを見て、天におられるあなたたちの父をあがめるようにしなさい」(マタ五・十六)。

「私の愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたたちがいつも従順であったように、私が一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れとおののきとをもって自分の救いを成し遂げなさい」(ピリ二・十二)。(この大いに誤用されているテキストを読むとき、次のことによく注意せよ。ここで述べられている救いとは、魂の救いのことではなく、クリスチャンが神の御旨を行うのを邪魔する諸々の罠からの救いのことなのである。)

「このように、あなたたちはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこでキリストは神の右に座しておられるのである」(コロ三・一)。

「だから、あなたたちの地上の肢体を殺してしまいなさい」(コロ三・五)。

「光の子として歩きなさい」(エペ五・八)。

「だから、他の人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう」(一テサ五・六)。

「だから、あなたたちは、今しているように、互いに慰め合い、相互の徳を高めなさい」(一テサ五・十一)。

「あなたの真理によって彼らを聖別してください。あなたの御言葉は真理です」(ヨハ十七・十七)。

「平和の神ご自身があなたたちを全くきよめてくださいますように」(一テサ五・二三)。

「私はすでに到達したわけでも、完全な者になったわけでもない」(ピリ三・十二)。

「そういうわけだから、キリストについての教義の諸々の原理を後にして、完成に向かって進もうではないか」(ヘブ六・一)。

「彼の内に住んでいると言う者は、彼が歩まれたように、自分も歩むべきである」(一ヨハ二・六)。

信者の立場と状態を聖書は明確に区別していることを示す対比的な節のこの一覧に、生徒はもっとたくさん付け加えることができるだろう。これからわかるように、信者は想像を超えた高い地位にふさわしいかどうかを見るための審査を受けているのではなく、自分の全くの無価値さを告白したときから、キリストの御業の結果として、この地位を受けるのである。地位的には信者は「永遠に完全な者とされている」(ヘブル十・十四)が、内側の状態を見るとき、「私はすでに到達したわけでも、完全な者になったわけでもない」(ピリ三・十二)と言わざるをえない。

こう言ってもかまわないだろう。信者のための神のその後のすべての働き、信者の歩みと良心に対する御言葉の適用(ヨハ十七・十七、エペ五・二六)、御父の御手による懲らしめ(ヘブ十二・十、一コリ十一・三二)、御霊の務め(エペ四・十一~十二)、荒野の道のすべての困難や試練(一ペテ四・十二~十四)、キリストが現れる時の最終的変容(一ヨハ三・二)、これはみな、信者の性格を回心の瞬間に受けた地位に全く相応しいものとすることにほかならないのである。信者は確かに恵みの内に成長するのであって、成長して恵みに至るのではない。

皇子は、幼子の間は、おそらく他の幼子たちと同じように、強情で無知かもしれない。とても従順で、教えやすく、優しいので、幸いなことに良しと認められることもあるかもしれない。しかし、そうでない時は、乱暴で、わがままで、不従順なので、気の毒なことにおそらく懲らしめを受けるかもしれない。しかし、一方の日も他方の日と全く同じように、彼は皇子なのである。望ましいのは、時間がたつにつれて、彼がすべての正しい道を志してそれを愛するのを学ぶようになることである。そうするなら、彼はますます皇子らしくなるだろう。しかし、ますます実際の皇子になるわけではない。彼は皇子に生まれたのである。

王の王、主の主の真の子供ならだれでも、このように王らしく成長するのは確かである。ついには、立場と状態、性格と地位は等しくなるであろう。しかし、この地位は完成された性格の報いではない――この性格がこの地位から発達するのである。