第九章 救いと報い

C. I. スコフィールド

新約聖書の中には、失われた罪人たちのための救いの教理と、救われた者たちの忠実な奉仕に対する報いの教理とがある。生徒がこの二つを明確に区別することが、御言葉を正しく理解するのに大いに重要である。この区別がいかなるものかは、以下の対比によく注意すればわかる。

救いは無代価の賜物である

「イエスは答えて彼女に言われた、『もしあなたが神の賜物を知り、「飲ませてくれ」と言った者が誰なのかを知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったであろう』」(ヨハ四・一〇)。

「さあ、渇いている者はみな水に来たれ、金のない者も来たれ。来て、買い求めて、食べよ。来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳を買い求めよ」(イザ五五・一)。

「御霊と花嫁は言う、『来たりませ』。また、聞く者も『来たりませ』と言いなさい。渇いている者はここに来るがよい。命の水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」(黙二二・一七)。

「罪の報酬は死であるが、神の賜物は、私たちの主イエス・キリストによる永遠の命である」(ロマ六・二三)。

「あなたたちは恵みにより、信仰を通して救われたからである。それは、あなたたち自身から出たものではなく、神の賜物である。働きによるのではない。誰も誇ることがないためである」(エペ二・八~九)。

しかし、救いが無代価であるのとは対照的に、神が喜ばれる働きには報いがあることに注意せよ。

神が喜ばれる働きには報いがある

「私の弟子であるという名のゆえに、この小さい者の一人に冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いを失うことはない」(マタ一〇・四二)。

「私は良い戦いを戦い、自分の行程を終え、信仰を守った。今から後は、義の冠が私を待っているのである」(二テモ四・七~八)。

「見よ、私はすぐに来る。私の報いは私と共にあり、その働きに応じてそれぞれに与える」(黙二二・一二)。

「あなたたちは知らないのか?レースで走る者は、みな走りはするが、賞を得る者は一人だけである。だから、あなたたちも、賞を得るように走りなさい。しかし、彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、私たちは朽ちない冠を得るためにそうするのである」(一コリ九・二四~二五)。

「そこで主人は僕に言った、『良い僕よ、よくやった。あなたは小さい事に忠実だったから、十の町を支配させる』」(ルカ一九・一七)。

「なぜなら、すでに据えられている土台以外のものを据えることは、誰にもできないからである。その土台とはイエス・キリストである。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、刈り株を用いて建てるならば、それぞれの仕事は、明らかにされる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、試すであろう。もし誰かが建てた仕事が残れば、その人は報いを受けるが、その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう」(一コリ三・一一~一五)。

「あなたの受けようとしている苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたたちのうちのある者を試すために、獄に入れようとしている。あなたたちは十日の間、苦難を受ける。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、命の冠を与えよう」(黙二・一〇)。命を受けるのではない――スミルナの聖徒たちは命、永遠の命を持っており、義のために苦難を受けていた――彼らが受けるべきは命の冠だったのである。

冠は報いの象徴であり、獲得した栄誉の象徴である。四つの冠が述べられていることがわかる:務めの報いである喜びの冠もしくは喜ばしい冠(ピリ四・一、一テサ二・一九)、忠実な証しの報いである義の冠(二テモ四・八)、試みにおける忠実さの報いである命の冠(ヤコ一・一二、黙二・一〇)、苦難における忠実さの報いである栄光の冠(一ペテ五・四、ヘブ二・九)である。

救いは現在所有しているものである

「御子を信じる者は永遠の命を持つ」(ヨハ三・三六)。

「まことに、まことに、私はあなたたちに言う。私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信じる者は、永遠の命を受け、罪に定められることがなく、死から命に移っているのである」(ヨハ五・二四)。

「まことに、まことに、私はあなたたちに言う。私を信じる者は永遠の命を持つ」(ヨハ六・四七)。

「神は私たちを救い、聖なる召しをもって召してくださったが、それは、私たちの働きによるのではなく、神ご自身の目的と恵みによるのである」(二テモ一・九)。

「そしてイエスは女に言われた、『あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい』」(ルカ七・五〇)。

「私たちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いと聖霊の更新とにより、私たちを救ってくださったのである」(テト三・五)。

「その証しとは、神が永遠の命を私たちに与えてくださったこと、かつ、その命が御子の内にあることである」(一ヨハ五・一一)。

しかし、以下の諸々の報いは、将来のある時に与えられる。

報いは将来受けるものである

「人の子は、その御使いたちと共に、父の栄光のうちに来る。その時、各自の働きにしたがって、それぞれに報いるであろう」(マタ一六・二七)。

「あなたは義人の復活の時に報いを受けるであろう」(ルカ一四・一四)。

「見よ、私はすぐに来る。私の報いは私と共にあり、各自の働きにしたがって、それぞれに与える」(黙二二・一二)。

「羊飼いの長が現れる時、あなたたちはしぼむことのない栄光の冠を受ける」(一ペテ五・四)。

「今からは、義の冠が私のために用意されている。かの日には、義なる審判者である主が、それを授けてくださるであろう」(二テモ四・八)。

「だいぶ時がたってから、この僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算した」(マタ二五・一九)。

神は、ご自分の聖徒たちの忠実な奉仕に、天的な永遠の栄誉をもって報いることを約束された。その目的は、聖徒たちを勝ち取って地上の富や楽しみを追い求めることから引き離すこと、迫害の火の中にある聖徒たちを支えること、そして、クリスチャンの諸々の美徳を行使するよう聖徒たちを励ますことである。「最後に、この警告に注意しようではないか」(黙示三・一一)。(ダニ一二・三、マタ五・一一~一二、一〇・四一~四二、ルカ一二・三五~三七、一四・一二、一四、ヨハ四・三五~三六、コロ三・二二~二四、二テモ四・八、ヘブ六・一〇、一一・八~一〇、二四~二七、一二・二~三を見よ。)