第十章 信者と口先だけの者

C. I. スコフィールド

神が一つの民を取り分けてご自分のものとされた時からこのかた、この民をひどく悩ませてきた問題がある。その問題とは、口では神の民であると言いながら、実はそうではない者たちが、自分たちの間にいる、ということである。この問題は次の御言葉が成就する時まで続く。「人の子はその御使いたちを遣わし、つまずきとなるものと不法を行う者を、ことごとく王国の中から取り除かせる。(中略)その時、義人たちは彼らの父の王国で太陽のように輝くであろう」(マタ一三・一四~四三)。

聖書は、毒麦と麦の混合をはっきりと述べている――信者たちの間に口先だけの者がいるのである。しかし、誤った指導を受けてきた生徒たちは、自己欺瞞の者や偽善者だけにあてはまる警告や勧めを、しばしば、神の子供たちにあてはめてきた。

このような混合が存在する事実は、聖書を見ればよくわかる。(創四・三~五、出一二・三八、民一一・四~六、ネヘ七・六三~六五、一三・一~三、マタ一三・二四~三〇、三七~四三、二コリ一一・一三~一五、ガラ二・四、二ペテ二・一~二を見よ。)

聖書をざっと読んで、真の信者をたんなる形式主義者、偽善者、欺瞞の律法学者――彼らは、無代価の賜物としてすでに受けている救いを成し遂げるかわりに、救いのために働いているのである――の集団と区別している節を、すべて述べるのは不可能である。(ピリ二・一二~一三とエペ二・八~九を見よ。)以下の御言葉の比較から、その境界線がよくわかるだろう。

信者は救われているが、口先だけの者は失われている

真の信者

「イエスは女に向かって言われた、『あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい』」(ルカ七・五〇)。

「そして彼らは、使徒たちの教えと交わりの中に、パンをさくことの中に、そして祈りの中に、堅くとどまり続けた」(使二・四二)。

「私の羊は私の声を聞く。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びることがなく、また、彼らを私の手から奪い去る者はいない。彼らを私に与えてくださった私の父は、何ものにもまして偉大である。そして、誰も私の父の御手から、彼らを奪い取ることはできない」(ヨハ一〇・二七~二九)。

「父が私に与えてくださる者は皆、私に来るであろう。そして、私に来る者を私は決して拒まない。私を遣わされた父の御旨は、私に与えてくださった者を、私がひとりも失わずに、終わりの日によみがえらせることである」(ヨハ六・三七、三九)。

「そして、彼らが買いに行っている間に、花婿がやって来た。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴の部屋に入り、そして戸が閉められた」(マタ二五・一〇)。

「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるのである。そこには何の差別もない」(ロマ三・二二)。

「私たちは喜び楽しみ、神をあがめよう。小羊の婚姻の時が来て、その妻は用意を整えたからである。彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの義である」(黙一九・七~八)。

「私は良い羊飼いであって、私の羊を知り、私の羊もまた、私を知っている」(ヨハ一〇・一四)。

「しかし、神の土台は堅く据えられていて、『主はご自分の者たちを知っておられる』という句が証印として記されている」(二テモ二・一九)。

「まことに、まことに、私はあなたたちに言う、私を信じる者は永遠の命を持つ」(ヨハ六・四七)。

「父よ、あなたが私に賜った者たちが、私のいる所に一緒にいるようにしてください。この世の基が据えられる前から私を愛してくださって、私に賜った栄光を、彼らに見させてください」(ヨハ一七・二四)。

「あなたたちのうちに良いわざを始められた方が、イエス・キリストの日までにそれを完成してくださると、確信している」(ピリ一・六)。

「しかし私たちは、後退して滅びに至る者ではなく、信じて魂の救いに至る者である」(ヘブ一〇・三九)。

見せかけだけの者

「シモン自身も信じて、バプテスマを受け、それから、引き続きピリポについて行った。しかし、ペテロは彼に言った(中略)『おまえはこれに何の分も分け前も持っていない。おまえの心が神の前に正しくないからだ』」(使八・一三、二一)。

「彼らは私たちから出て行った。しかし、彼らは私たちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、きっと私たちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、彼らがみな私たちに属さない者であることが、明らかにされるためである」(一ヨハ二・一九)。

「『しかし、あなたたちの中には信じない者がいる』。イエスは、初めから、誰が信じないか、誰が彼を裏切るかを知っておられたのである。そしてイエスは言われた、『それだから、私の父からでなければ、誰も私に来ることはできないと、あなたたちに言ったのである』。その時から、多くの弟子たちは去って行って、もはやイエスと共に歩まなかった」(ヨハ六・六四~六六)。

「その後で、他のおとめたちも来て、『ご主人さま、ご主人さま、どうか開けてください』と言った。しかし彼は答えて言った、『はっきり言うが、私はあなたたちを知らない』」(マタ二五・一一~一二)。

「このようにあなたたちも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法でいっぱいである。蛇よ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰を逃れることができよう?」(マタ二三・二八、三三)。

「王は客を迎えようとして入って来たが、そこに礼服をつけていない一人の人を見て、彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここに入って来たのですか?』。しかし、彼は黙っていた。そこで、王は僕たちに言った、『この者の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ』」(マタ二二・一一~一三)。

「その日には、多くの者が、私に向かって『主よ、主よ、私たちはあなたの御名によって預言したではありませんか?また、あなたの御名によって悪霊を追い出し、あなたの御名によって多くの素晴らしいわざを行ったではありませんか?』と言うであろう。そのとき、私は彼らにはっきりとこう言おう、『あなたたちをまったく知らない。不法を働く者よ、私から離れ去れ』」(マタ七・二二~二三)。

「私の兄弟たちよ、ある人が自分には信仰があると言っていても、もし行いがなければ、何の役に立つか?その信仰は彼を救うことができるか?」(ヤコ二・一四)。

「いったん、光を受けて天の賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良き御言葉と、来たるべき世の力を味わった者たちが、そののち堕落した場合には、彼らを悔い改めに立ち返らせることはできない」(ヘブ六・四~六)。

「義人は信仰によって生きる。誰でももし後退するなら、私の魂はこれを喜ばない」(ヘブ一〇・三八)。

信者は報いを受け、見せかけだけのものは罪に定められる

マタイ二五・一九~二三とマタイ二五・二四~三〇、ルカ一二・四二~四四とルカ一二・四五~四七、コロサイ三・二四とマタイ七・二二~二三とを比較せよ。

難しい御言葉もあるが、祈りと注意深い学びにより、次の重要な規則を心に留めておくなら、かならず光が臨むであろう:疑わしい曖昧な節を、明快で積極的な節と決して矛盾させてはならない。「もし(if)」を「まことに(verily)」と矛盾するように用いてはならない。ヘブル六・六をヨハネ五・二四と矛盾するように用いてはならない。

イスカリオテのユダの事例やペテロの事例に、困難な点は何もない。ユダは決して信者ではなかったが(ヨハ六・六八~七一を見よ)、ペテロは決して信者であることをやめなかったのである(ルカ二二・三一~三二)。

次のことを常に覚えておかなければならない。これらの原則は、神の御言葉を正しく切り分けるためだけの指針であり、決して生身の人々に適用してはならない。口先だけの者を裁くことは、われわれには委ねられておらず、人の子に任されているのである(マタ一三・二八~二九、一コリ四・五)。