二.分与された命

C. I. スコフィールド

御言葉:「わたしが来たのは彼らが命を持つためであり、また、彼らがそれをいっそう豊かに持つためです。」ヨハ十・十

これがイエス・キリストのメッセージの新たな調べだった。そのほとんどは、無理解な耳の上に落ちた。いわゆる福音伝道が十九世紀の間なされてきたが、その大部分は依然として理解されないままである。

――キリストは山上の垂訓のような道徳の教師であることは理解されている。
――彼がわれわれの諸々の罪のために死なれたことは、事実として、理解されている。
――彼が問題を行いによる義から信仰による義へと変えて、中心をアラビアのシナイ山からユダヤのカルバリ山に移されたことは、不完全ながら理解されている。

しかし彼が来られたのは、信じる人に新たな性質の命、昔も今も彼ご自身の内にあるまさにその命を与えるためであること――これは理解されていない。

永遠の命については、確かに多くのことが述べられている。しかし、それは存在の存続――肉体の死という事実にもかかわらず命が存続し続けること――を意味するものとしてしか理解されていない。

イエス・キリストの教えでは、使徒たちの書き物と同じように、キリストによって彼を信じるすべての人に分与されるこの命は、確かに無限の命を意味する言葉である。しかし、無限性はたんなる人の命の特質でもあるので、永遠の命は、質に関して、種類に関して、遥かに強調している言葉である。

バプテスマのヨハネの務めにも、「今や斧が木の根元に置かれている」という驚くべきメッセージが含まれていた。

古いアダム族の木についてこれ以上実験を重ねるべきではなかったし、何世紀にもわたる検査を経ても野生の実しか結べなかった株から実を得ようとするべきでもなかった。「その木を良くせよ」が新しい合言葉であり、それを可能にする唯一の方法は、その木に新しい命と性質を与えることだった。「肉から生まれるものは肉」であり、決して他のものにはなしえない。古い人は、新しい福音の下で、キリストと共に十字架につけられるべきであり、高次の理想によって改善されるべきではない。「肉の中にある者たちは神を喜ばせることができません」。アダムの病毒がそれを妨げる。それを取り除くことはできない。

ヨハネによる福音書のこの十章で、キリストは二つのことを述べておられる。

――キリストはその命を羊のためにお与えになる(十一、十五、十七節)。これは贖いである。
――キリストはその命を羊お与えになる(二八節)。これは再生である。

これとまさに同じ二重性が三章に見いだされる。羊は二重の無力さの下にある。彼らは律法の呪いと判決の下で「滅びつつ」あり、彼らの代わりに喜んで「呪いとされる」ことのできる方によって贖われなければならない。彼らはまた肉から生まれており、それゆえ肉の人にすぎず、神の王国を「見る」こともそれに「入る」こともできない。これについては再生以外に救済策はない。

しかし、この二つの必要はまさに、神の愛の福音によって満たされる。人の子は滅びつつある者を贖うために十字架に上げられなければならない。そして聖霊は、自分たちの罪のために十字架につけられた人の子を信じるすべての人に、神聖な性質と新しい命を分与される。

この新しい命はキリストの命である

たんなる存在の無限性は「永遠の」命ではない。永遠は「永遠から永遠まで」である。「初めに神と共におられ(中略)神であった」方だけが、永遠の御霊を通して、永遠の命を授けることができる。

そして、この分与された命は彼ご自身の命である。「わたしはぶどうの木であり、あなたたちはその枝々です」。

枝々を伴うこのぶどうの木は、命の一体性のなんという象徴であることか。枝には独立した命の源はない。ぶどうの木の命と枝の命は一つである。刷新、成長、実り豊かさの可能性は、ぶどうの木の生命力に全くかかっている。ぶどうの木が枝に向かって、「わたしが生きるので、あなたたちも生きます」と仰せられるのももっともである。

主ご自身と、十字架につけられた方を信じる信仰を通して再生された人たちとの、この命における一体性を、われわれの主以上に強調することは不可能だろう。

――「わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きます。
――「父よ、あなたがわたしの中におられ、わたしがあなたの中にいるように、彼らもまたわたしたちの中で一つとなるためです。
――「わたしは彼らの中におり、あなたはわたしの中におられます。

この生き生きとした諸々の暗示は、われわれの主の「一粒の麦」の直喩ではいっそう強烈である。蒔かれた一粒の麦が、死に絶えて、自分自身の命を与えることにより、死んで無数の麦粒を生み出すように、キリストはご自分の死もそうであると述べておられる。

キリストとの命の一体性に対するこの証しは、福音に関する使徒の説明にも充満している。教会はキリストのからだであると宣言されている。多くの肢体からなる人の体が、「多くの肢体たち」の彼との一体性を表現するために用いられている絵図である。この多くの肢体たちは、天然の体の肢体のように、一つの有機体を構成しており、この有機体は「キリスト」と称されている(一コリ十二・十二)。それがキリストと宣言されているのは、キリストは信者に命をお与えになったからだけでなく、キリストは「私たちの命」だからでもある。ヨハネはその福音書の記録の目的は「神は私たちに永遠の命を与えてくださったこと、そしてこの命は御子の中にあること」を示すためであると宣言している。

内側に生きておられるキリストを外側に生かし出すべきこと

神は肉――利己的な人――になにも期待しておられない。神の勘定では、われわれの古い人はキリストと共に十字架につけられた。この古い人は一文字から成る一つの恐ろしい言葉――罪――によって要約される。罪の諸々の行いは、罪であるところの或る性質から発する。

一つの偉大な輝かしい節により、聖霊は使徒パウロを通して、使徒の実際の経験の観点から、この新しい命の事実及び方法について述べておられる。それは「私はキリストと共に十字架につけられています」という節である。

これは意識上の事実ではなく啓示上の事実である。パウロは十字架につけられたと「感じて」いるのではなく、神の勘定ではそうであると勘定されており、これを使徒もまた真実であると勘定しているのである。神は古いタルソのサウロにはなにも期待しておられず、ローマ書七章の経験により使徒はサウロに関する決定的真理を学んだのである。

私の中には、すなわち私の肉の中には、なんの善も宿っていません。

次に、意識上の事実が生じる。「それにもかかわらず私は生きています」。これに「キリストが私の中に生きておられます」という別の事実が続く。

サウロはなおも生きているが、死またはキリストの再来がサウロの命の終わりとなるだろうし、キリストもパウロの内に生きておられるのである。

次に、その実際的・現実的結果が生じる。「私がいま肉(体)にあって生きているその命」。

この命をいかに生きるべきか?聖霊は、一般的に言って教会が一度も達したことのない一つの答えを与えておられる。

クリスチャン生活の方法

この地上におけるクリスチャン生活に関する二つの理論が、今も昔も、平均的信仰を規定している。

第一に、教えや規則による生活

ここに大きな真理がある。聖書は義に関する偉大な指導書であり、人間生活に関する神の御心の偉大な啓示である。いかなる内なる光も、この神の啓示に取って代わることはできない。それは道徳的に完全であり、完成している。しかしそれには、なんの力も与えないという致命的欠点がある。「律法はなにも完成しませんでした」。

教えは生活に関する完全な規則を与える。そしてそれによって生活は常に検査されなければならない。しかし、教えにはそれを実現する力はない。「律法は(中略)肉によって弱かった」。海図はわれわれを運んで海を渡らせてはくれないが、われわれが深海のどこにいるのか、どこに行くべきかを示してくれる。教えによる生活が律法の下で試みられたが、それにより人類の全世界は神の御前で言語を絶する咎の中に取り残された。

さらに絶望的なのがキリストの模範による生活観である

「キリストならどうされるだろうか?」がその公式である。不道徳、自己中心性、俗っぽさについては、答えるのは簡単である。生活の現実的危機のどれにおいても、この公式は完全に破綻する。

「キリストならどうされるだろうか」に関するわれわれの結論は、思考習慣上の限界、霊的でないことによる限界、キリストに関する無知という限界によって、損なわれる。その地上生涯で、キリストはパレスチナのすべての宗教人――パリサイ人、サドカイ人、ヘロデ党――を驚愕させることを常に行われた。「彼はそうするべきである」と彼らが考えていることを彼は行わず、むしろ毎日、「メシヤ職と矛盾する」と彼らが考えていることを彼は行われた。

それでは、クリスチャン生活とは何か?

それは、われわれの人格に関して、またわれわれを取り囲む諸々の条件の下で、キリストがご自身の生活を生かし出されることである。われわれは「キリストならどうされるだろうか?」とは問わず、「もはや私ではありません」と自分に向かって言う。そして、自分の力を内住のキリストの支配に委ねる。

常にこの身に主イエスの死を帯びています」(これは、われわれがキリストと共に十字架につけられたことは「肉になんの信頼も置かないこと」であることを、実際的に表現したものである)「それはイエスの命もまた私たちの身において現わされるためです」。

諸々の失敗によって落胆してはならない。キリストは、自己の支配に慣れた諸々の力や能力を、一度に完全に支配されるわけではない。むしろ、「御霊にあって歩むこと」により、平安・安息・喜びの感覚が確実に増し加わっていくのである。