四.明け渡された生活

C. I. スコフィールド

御言葉:「ですから子があなたたちを自由にするなら、あなたたちは確かに自由なのです。」ヨハ八・三六

現在人々の間に最も広まっている一般的幻想は、自分たちは自由であるという考えである。隷属や束縛に関する非難ほど、迅速かつ熱烈な憤りを引き起こすものはない。自由な人は一人もいない。神に感謝すべきことに、数百万の人が解放の過程の中にあるが、まだ一人として完全には解放されていない。

パウロはローマの隊長に、自分は自由人に生まれたと告げた。彼がこの言葉を用いた限られた意味では、それは真実だった。パウロはローマ市民だった。しかし、他のあらゆる重要な意味においては、この言葉は真実ではなかった。パウロ自身が真っ先にこれに同意するだろう。

私たち全員と同じように、パウロは諸々の束縛を受け継いだ。何世紀もの間、あの神秘的な力である遺伝が、黙々と人目に触れないように、彼に対する諸々の束縛を備えてきた――霊、魂、体に対する諸々の束縛を備えてきた。この世に生まれるどの魂も、ある見えざる網の中へと生まれ落ちる。その網は、何世紀にもわたって、その魂のために編まれてきたものである。その網の目とは民族的性向、民族的慣習、家族的習慣、罪、公的宗教、そして言い伝えである。

この節の御言葉を語った時、キリストが語りかけておられた人々のことを考えてみよ。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷にもなったことはありません」。われわれがわれわれの自由について誇る時にそうするように、彼らは十分誠実に語った。しかし、その当時、彼らは政治的・知的・宗教的束縛の中にあったのである。

政治的に、彼らはカエサルからヘロデやピラトにまで至る独裁者たちの一団の束縛下にあった。道徳的に、彼らは民族的高ぶり、偏見、無知、罪、自己意志の奴隷だった。宗教的に、彼らは伝統主義、偏見、形式主義の奴隷だった。

われわれは党派の奴隷である

われわれの場合はましなのだろうか?そんなことはほとんどない。理論的には、われわれは政治的に自由である。実際には、われわれは党派、党員集会、実力者の奴隷である。私の政治的信条を形成する権利を党大会の手に渡す瞬間、私はもはや絶対的に自由ではなくなる。道徳や宗教に関する私の意見、私の信念を他の人々から人づてに受け取る時、彼らが今日の人々、宗教改革期の人々、初代教会公会議の人々であろうとなかろうと、私はもはや自由ではなくなる。ある習慣が私の生活を支配するのを許す時、私はもはや自由ではなくなる。高ぶり、虚栄、野心、享楽が私の生活を支配するのを許す時、私は奴隷の中で最も卑しい者になる。私は自分では罪をやめないしやめることもできないが、まさにこの事実が私は奴隷であると宣告する。イエス・キリストは奴隷たちの世に来てくださった。

解放者キリスト

興味深いことに、地上における彼の使命に関する彼の最初の公式宣言は、生活のまさにこの点に触れるものだった。ナザレのシナゴーグの中で、預言者イザヤの書が彼に手渡された。そして、「主の霊がわたしの上におられる。なぜなら、彼はわたしに油を塗って、虜にされている者たちに解放を(中略)告げるようにされたからである」と記されている個所を彼は見つけられた。

彼は罪に対するわれわれの隷属から開始される。そしてここで彼は最初の困難に遭遇される。彼が解放しようとしている人は奴隷であるだけでなく、有罪宣告を受けた奴隷でもあるのである。その人は売り飛ばされる奴隷だが、首には絞首索が巻かれている。誰がこの人を贖うのか?否、むしろ、「誰がこの人を贖えるのか?」と言った方がいいだろう。その人の兄弟ではない。なぜなら、彼もまた首に絞首索が巻かれている奴隷だからである。「この奴隷、この人のための代価は何か?」。どの人に対しても一つの代価しかない。

この奴隷たちを贖おうとする者はだれでも、彼らの代わりに死ななければならない。明らかに、一度も罪を犯したことのない者、完全に自由な者だけが、身代わりとして受け入れてもらえる。これらの必要条件を満たした存在は、これまで一人しか現れなかった――すなわち、イエス・キリストである。そして、まさにこの代価を支払うために、イエス・キリストはこの地上にやって来られたのである。彼自身の命、想像を絶する彼自身の苦難という犠牲を払って、彼は聖なる律法の要求を最後まで満たし、罪の奴隷たちを死から贖われる。

彼らは律法の呪いから自由になったのか?然り。罪の習慣からはどうか?否である。

次に、この偉大な贖いの諸々の過程が始まる。これらの過程は内なる生活の領域の中で進行する。その目的は性格を変容させ、罪の支配から完全に解放することである。

解放の過程

それは恐れを完全に取り除くことから始まる。信者は「あなたは律法、すなわち、あなたが自分で義なる行いができるかどうかを見るための審査体系の下にあるのではなく、恵み、すなわち、神の内なる働きの体系の下にあります。恵みは、律法が要求したけれども人には決して到達できなかった義を生み出します」と告げられる。

信者は確信する。キリストが自分に永遠の命を与えてくださったこと、自分は決して滅びることはないことを。なにものも自分を握っている全能の御手の中から自分を奪えないことを。自分の内に善い業を始めてくださった方は、キリストの日までにそれを完成させてくださることを。自分の諸々の罪に関しては、それらは拭い去られ、神の後ろに投げ捨てられ、海の深みの中に埋められ、赦され、忘れ去られたことを。これは必要な最初の御業である。なぜなら、恐れの束縛の下にある者は、実際には自由ではないからである。

次に、恵みは信者に内住の聖霊を分与する。

外からのあらゆる攻撃にさらされ、そして、内からのあらゆる卑しい衝動の奴隷だったその性質の中に、今や全能者が宿るようになる。この内住する御方の力により、信者は罪を犯さざるをえない恐るべき必然性――その下で贖われていない命はみなうめいているのである――から自由にされる。どんなクリスチャンも罪を犯す必要はない。もし彼が外からの教唆や、内からのいっそう巧妙な提案に屈するなら、それは彼が意図的に、あるいは不用意に、そうすることを選択したせいである。御霊は罪の力を打ち破るために臨在しておられるのである。

恵みと新たな関係についての霊感

次に、恵みは新しくされた生活を偉大な関係の刺激と霊感の下に置く。信者は赦された罪人であるだけでなく、神の子供である。これは新生による。天然的誕生が肉体の領域で実際のものであるのと同じように、新生は霊の領域で実際のものである。信者は神の子である。それは遥か昔の創造という事実によるのではなく、神聖な誕生という直接的・個人的事実による。信者はもはや自分の祖先を神からアダムを経由して辿らない。むしろ、アダムがそうだったように、介在する祖先のない神の子なのである。

これは信者を数々の素晴らしい特権へと導く、と信者は教わる。その特権とは御父に近づく権利、御父と交わる権利である。キリストは彼を「兄弟」と呼ぶことを恥とされない。彼は万事においてキリストと共同の相続人とされており、来るべき王国でキリストの力と栄光にあずかる運命にある。

恵みは信者に祭司と王という偉大な職務を与える。

祭司として信者は神礼拝の古い形式主義から解放されて、「イエスの血により至聖所の中に入り」、時や場所を顧慮することなく、「イエス・キリストを通して神に受け入れられる霊のいけにえ」をささげる。

儀式尊重主義から解放された信者の礼拝は、子が御父を崇める行為である。御父の聖さ、慈愛、力は無限だが、それにもかかわらず、彼は神であるがゆえに父である。そして、この祭司職は必然的にとりなしの特権を担うことになる。この信者・祭司は、自分たちのために祈らない神の家族の外の者たちのために祈る。彼はキリストのように、御父の御前で、不信の世の仲裁者であり想起者である。

恵みは信者に告げる。自分自身の体の肢体が自分と結合されているのと同じように、信者はキリストとしっかりと結合されているのである。「一つ御霊により、私たちはみな一つからだの中へとバプテスマされました」。「主に結合される者は一つ霊です」。

真の自由とは何か

しかし、キリスト者の自由は無政府状態――それは自己意志の反乱にほかならない――ではない。むしろ、父なる神と堅く結ばれて、御子なるキリストとしっかりと一つになるべきである。聖霊の優しい支配に全く明け渡して、人の意志が神の意志に融合されるほどでなければならない。そして、神ご自身の絶対的に自由な主権的御旨と一つにされなければならない。神は御旨のままになさるが、神の御旨は常に絶対的に正しくて絶対的に慈悲深いことをなすことである。

しかし、こうした一切のことにおいて、信者の個性が損なわれることはない。むしろ、この個性は高められて、愛らしいものをすべて愛する熱烈な愛という神聖な水準に達するのである。

それは従順であるが、新契約の下での従順である。新契約では、母親の愛のように、律法は心の中に記される。母親は、自分の子供の誕生によって自分の最も深い部分に生じたあの責務に従うことに、最高の喜びを見いだす。

真に正直な人で、盗みに対する法律に束縛を感じる人はいない。その人が正直なのは、法令集に印刷されている文章のためではなく、自分の心に記されていることのためである。その法令が撤廃されても、彼は依然として正直なままだろう。そしてそれゆえ、彼は完全に自由なのである。この内面的働きがなければ、人に対していかなる外面的働きをしたとしても、その人は自由にならないし、自由になれない。有罪判決を受けた犯罪者に恩赦を施しても、その人は自由人にならない。彼は依然として自分の犯罪的願望の奴隷である。しかし、彼が誠実さ、実直さ、高潔さと恋に落ちるとき、彼は自由になる。こうした変容をすべて、恵みは贖われた心の内になすのである。

人生の新しい理想

次に恵みは、新しい高く上げられた諸々の理想の力により、変容的働きをする。人生に関する観念がすっかり変わってしまう。昔の束縛の下では、人生は人が自分のために適切に使える所有物と思われていた。新しい理想の下では、人生は尊いものである。なぜなら、人生を他の人々の幸いのために用いることができるからである。

キリストにある新しい人は、自分の人生の新しい理想として、キリストの犠牲の法則を受け入れた。彼は心からキリストの公式を採用する。

――「人の子が来たのは仕えられるためではなく仕えるためであり、自分の命を多くの者のための贖いとして与えるためです。
――「自分の命を救う者はそれを失い、自分の命をわたしのために失う者はそれを見いだします。
――「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、死ねば多くの実を結びます。

「これにより初めて高貴な人生を送ることができる」という確信の下で、心から受け入れられたこのような理想は、自己に対する以前の隷属からの解放に向けて働く。多くの失敗があったとしても、また、時として歩みが停滞したとしても、このような理想を追い求めるなら、それは変容をもたらす。

それを受け入れる人は、宇宙に向かって独立宣言を発したのである。彼は以前の懇願や懇請から自由である。それらの懇願や懇請が彼に対して力を持っていたのは、自己という神への以前の恐ろしい奉仕に対してなにかを約束してくれるように思われたからである。花嫁は自己を高めることや自己を喜ばせることをもはやせず、嘆願するのをやめてしまった。嘆願することは、謙遜と恋に落ちたその心をただ痛めるだけである。

永遠に関するビジョン

次に、恵みは永遠の事柄に関するビジョンで魅了・魅惑する。パウロは万物を二つの部類に分けている。見えるものと見えないものである。そして彼は「見えるものには一時的であるという致命的欠点があるが、見えないものには永遠に続くという無限の価値がある」と告げる。これを信じているので、キリストにある新しい人は見えるものを軽んじる。

見えるものは人生の本質ではなく、人生のたんなる出来事になる。

この世のものを彼はたくさん持っているかもしれないが、彼が喜ぶのはそれらを他の人々の生活を豊かにするために用いることができるからである。あるいは、彼は少なく集めるかもしれないが、それでも彼が喜ぶのは、莫大な持ち物を正しく用いる責任が自分にはないからである。彼の真の嗣業は天にある。そしてこのようなあらゆる境遇の中で、またそれを通して、御子は彼を自由にされるのである。

御霊の中を歩む主の自由人は、次の勧めに気をつけさえすればいい。「ですから、キリストがあなたたちを解放してくださったその自由の中に堅く立ちなさい。二度と束縛のくびきに巻き込まれてはなりません」。