五.より広大なクリスチャン生活

C. I. スコフィールド

御言葉:「主はまた私を広い場所に連れ出された。」(詩十八・十九)

この御言葉が示しているのは約束ではなく証しであることに注意せよ。

神は実際にはこれをダビデのために行われた。彼は牧童だった。目立たぬ者であり、彼自身の能力を総動員しても鈍感でしかなかった。若い田舎者のちっぽけな事柄やちっぽけな考えに閉じ込められていた。その後、神が彼の人生の中に働き始められた。神は偉大な数々の約束で彼を刺激し、彼を大冒険に導き、逆境というハンマーで彼を打ち叩かれた。そしてついに彼という粗い鉱石は鍛え上げられた鋼へと変えられた。しかしその間ずっと、神は枷を打ち砕き、捕獲網を引き裂き、彼の魂の翼を高く上げ、神の息吹で彼を満たし、彼を拡張・拡大・解放しておられた。そしてついに、自分は自由人であって広い場所にいることを、ダビデは自覚するようになったのである。

彼は頭を上げ、強靭な若々しい腕を広げ、自由で広大な空気を深呼吸してその胸を膨らませつつ立つことができた。彼はこの宇宙の中でくつろいでいた。繰り返すが、ダビデはここで証ししているのであって、理論を立てているのではない。彼はこれがそうであることを見いだしたのである。これについて私は「真のクリスチャン生活は広大な生活である」と述べよう。

真のクリスチャン生活は広大な生活である

神抜きで生きている人々は、小さな狭い場所で生きている人々である。人々の間に流布している嘘の中で、「クリスチャン生活は偏狭な生活であり、神の御旨に従わない生活は高尚で自由な生活である」という嘘ほど不謹慎なものはない。

私は信じているが、われわれはみな自由を熱烈に愛している。可能性を求めている。拡大・拡張できる場所を欲している。今日のとても多くの若者は、神の御旨の中に入ることは窮屈さの中に入ることであるという幻想を抱いている。それはサタンの嘘である。しかし、悪魔を責めすぎないようにしようではないか。これほど多くの神の民が「宗教」を貧弱な消極的代物、すなわち、禁令と外面的遵守の体系にしていなければ、悪魔は決して自分の嘘を信じ込ませることはできなかっただろう。

猛烈に――この意味で――「宗教的」な人々に向かって、キリストは「ですから、子があなたたちを自由にするなら、あなたたちは確かに自由なのです」という偉大な御言葉を語られた。彼が来たのは、罪の虜だけでなく形式主義の虜にも解放を宣べ伝えるためだった。この福音は一つの召しであり、狭量さ、偏狭さ、無意味な事柄から連れ出して、広大かつ壮大な大思想や力、無限の可能性という広大な地平線へともたらす。

今、神のすべての子供についてこう言える。すなわち、神の子供はみな広い場所に連れ出されたのである。不幸なことに、多くの人がこの広い場所で窮屈な生活を送り続けている。自由なのにそれを知らないのは、言語を絶する悲劇・惨状であるように私には思われる。年老いた囚人が解放されて、それなのに再び昔の牢獄に戻ることを求めて泣いているのを、連想してしまうのである。

環境はこれを狭められない

ここで、至極もっともな反論の機先を制することを許してもらいたい。あなたたちはこう言うだろう、「私は無名の者です。神は私を窮屈な環境の中に、所定のささやかな義務の中に置かれました。私は農場で暮らしています。私は村で暮らしています。私は工場で労苦しています。私は革や木を機械に送り込む単調な仕事をしており、それらを二度と目にすることはありません。私は耕作をしています、私は鋤で掘っています、私はヤード単位で布を売っています、私は鍋や皿を売っています。鍋を洗う大々的で見事な方法を私はなにも知りません。私は小さな地区の学校を預かっています。私は自分の仕事に専念しなければなりません。私の背は曲がり、私の筋肉は硬くて痛んでいます。私は喜びに満ちた若いダビデではありません。ダビデは主から油塗られ、自由に行き来し、不滅の歌を歌い、人々を治めることができました」。

忍耐深い、親愛なる心よ、これを聞け

イエス・キリストはナザレで三十年生活されたが、ナザレがご自分の人生の大きさを決めるのを決して許されなかった。あなたは少年の彼が母親を助け、赤ん坊を抱き、泉から水を、店から麦わらを取って来るのを思い浮かべるかもしれない。彼はくびきを造られた。私が思うに、彼は大きな鉄の機械で大量生産したのではなく、一つ一つ、農夫の肩――広い肩や狭い肩、猫背の肩や真っすぐな肩――に合うように、忍耐強く造られたことだろう。三十年、彼はそこで生活された。そしてそこで、この世界がかつて目にしたことのない最高に素晴らしい人格が成熟に達したのである。

御霊によるバプテスマによって力が加えられ、苦難によって同情心が完成された。しかし、かつて生きた人の中で最も偉大で自由なこの人は、ある日、自分の大工道具を捨て、ヨハネのバプテスマを受けるためにヨルダンに歩いて下って行かれた。

その秘訣があなたにはわからないだろうか?ナザレがその小ささを自分に課すのを、彼は決して許されなかったのである。いかなる人種的制約、環境的制約、性格的制約も受けないこの人は、パンのために労する一村民だったのである。

私たちの多くは、素晴らしい世界に生きて、素晴らしい取引の一翼を担う役割を与えられていない。われわれの生活はささやかな配慮や義務の繰り返しである。しかし、イエス・キリストはわれわれの環境よりもさらに狭い環境の中で生活された。新聞、電信、鉄道、蒸気船は、私たちの中の最も遠くの者にも、贈物を届けてくれる。

――ホメロスは一切れのパンの耳のために、貧困の中、感謝されることなく、戸口から戸口へと、その不滅の歌を唱えて回った。

――ミルトンは肉体的には盲目だったが、霊の中では過去のパラダイスから将来のパラダイスにまで及んだ。

――ダンテは流浪の身で、ある小さな中世の町にいたとき、「他人の階段の険しさと他人のパンのしょっぱさ」を学んだが、天と地獄の深淵を理解していた。

「しかし、私たちはホメロスや、ミルトンや、ダンテではありません」とあなたは言うのか?

神に感謝せよ!私はミルトンの名声よりも私の二つの目を、ダンテの流浪よりも私自身の素晴らしい故郷を、ホメロスの放浪よりも私の慎ましい家を選ぶ。しかし確かに、われわれの魂には飛翔する力がある。その翼は、ダンテの途方もない螺旋は描けなくても、どこかの上空をある程度の距離羽ばたくことはできるのである。

われわれが何をなすかではなく、われわれが何者であるのかが
人生の大きさを決める

ラコルデールは言う、「王が紫色の細い亜麻布の衣を着てわれわれの通りを通るかもしれないが、その思いが卑しくて低劣なため、彼は卑しい低劣な人かもしれない。また、汚い衣服を着た貧者がそこを通るかもしれないが、その思惟が高尚で偉大なため、彼は偉大な人かもしれない」と。

これはそのとおりである。状況が人生を壮大にするのではない。人々は時として小さな場所で大事をなす。また、他の人々は大きな場所で小事をなす。もしわれわれが偉人たちと同類の者なら、われわれはいつの日かその種族の者として知られるようになるだろう。

ある素朴なアメリカ人の詩人がこれを「無言」という詩にした。三人の人――作家、音楽家、建築家――が、日毎のパンを求めて日々労しつつ、重い足取りで人生を歩んでいた。作家は無言のうちに感じる叙事詩を決して記さなかった。音楽家は自分の魂の中に鳴り響くオラトリオを決して作曲しなかった。建築家は建築可能だと感じる大聖堂の代わりに木の家々を建てた。その後、彼らは死んだ。そして、三人の人が彼らに挨拶した。その三人とはホメロス、モーツァルト、ミケランジェロである!

この死せる音楽家の魂は進んで行った
陰鬱な暗闇の中へと――
喜びの声が遠くの雲に響いた――
モーツァルトの仲間への挨拶である
彼はこの音楽家を自分と同等の者と讃えた。
「人々は知っている」と彼は言った。「あの最高の音楽を。
この沈黙している人に取り憑いているあの無言の音楽を」。

そうである。無名で、貧しく、無視された、自己否定と痛みの生活の多くは、本質的に偉大なのである。それは、偉大な事柄――神に属する事柄――との交わりのうちに営まれているからである。そのような人は待つことができる。

これが選民である。しかし、その運命に達するのはまだ先である。

静かに、私は腕を組んで待つ、
風や、潮流や、波を気にしたりしない。
私はもはや時や定めに向かってわめきたてない、
なぜなら、見よ、私の運命は私に必ず臨むから。

私は自分のせっかちさを抑えて、ゆっくりと進む。
なぜなら、こんなに急いで何の益があるのか?
私は永遠の道のただ中に立つ、
私の運命は私の顔を必ず見分けるだろう。

昼夜、寝起きするあいだ、
私が求める友人たちは私を探している。
風が私の帆船をさ迷わせることは決してなく、
潮流が運命を変えることも決してない。

私が孤立しているから何だというのか?
私は来るべき歳月を喜びつつ待つ。
私の心は蒔いた所で刈り取る、
そしてその涙の成果を蓄える。

雨水は自分の目的地を知っており、
向こうの高所に湧き出る小川を生じさせる。
それと同じように善もまた、
純粋に喜んでいるこの魂の中に流れ込む。

星々は夜毎に空に現れ、
高波は海に現れる。
時も、波も、深いものも、高いものも、
私の運命を私から遠ざけることはできない。

より広大な生活の秘訣

さて、「一体、このより広大なクリスチャン生活をどのように送ればいいのでしょう?」とあなたが私に尋ねるなら、私は大胆に三つの提案をしよう。

1.先取りによる放棄というこの偉大な法則の下にあなたの生活を置け。偉大なものと共にあることにより、卑小なものを放棄せよ。キリストの中に卑しいもののための余地はない。ささやかな配慮、苦役、義務をキリストは拒絶された、ということではない。彼はそれらを受け入れて、それらを行う喜びに満たされていたのである。

2.偉大な真理を自覚しつつ、クリスチャン生活を送れ。イエス・キリストを信じる信仰により、あなたは神の子供であり相続人である。日毎に、「私は神の子供です」と言え。神聖な子たる身分と神聖な交わりとを自覚することによって高められたこの生活が、環境によって狭められて矮小化されるのを、私は拒否する。

「このより広大なクリスチャン生活は環境とは無関係である」。

かつて、一人の落ちぶれた人が私の家にぶらりとやって来た。彼はある主要な日刊紙の編集者であり、素晴らしい才能を持つ人だった。それは過去の話であり、少しづつ、彼は飲酒の習慣に陥っていき、それによって生き地獄の中に引きずり込まれていった。「男らしくせよ」と私は彼に言えなかった。彼には男らしさが全くなかったのである。

それに優る福音を私は持っていた。私は彼に言った、「あなたは再生してもらえます。神聖な性質にあずかる者、神の子・相続者になることができます」。彼はひざまずいて、「私の神よ」と叫んだ。「私のような犬ころでも神の子になれるのでしょうか?」。そして彼は自分の心を注ぎ出して、自分自身をキリストにささげた。彼の一変した顔を私は決して忘れないだろう。また、彼が私の手を取って「私は神の子です」と言った時の、ただならぬ威厳と高貴さを私は決して忘れないだろう。

晴れた夜空の星々の下に出て、あなたの地位を見よ。この星々はあなたのものであり、キリストのものである。知れ、あなたは神の子供として、考えうるいかなる地位よりも高いのである。鍋洗いや、耕作や、刈り取りを入念にしなくなるのではなく、王や王女のように、それらを堂々と行うようになるのである。あなたは神の家族に属していることを覚えよ。

ある貧しい聖徒が、見知らぬ土地の非常に貴族的な教会に行った。「私が思うに」と案内人は疑わしそうに言った。「あなたのことは存じておりません」。貧しい聖徒は「あなたは主イエス・キリストをご存じですか?」と尋ねた。「ああ、存じております」。「それなら」とこの貧しい人は言った。「私は彼の貧しい兄弟です」。

3.キリストの働きに不可欠な者となれ

畑は世界です」。あなたの畑は世界である。あなたの思いを世界大に保て。あなたの心が中国、アフリカ、中央アメリカにあり、またそこでの働きと共にあるなら、たまたまあなたの体がどこにあったとしても、それはまさにあなたがそこにいるのと同じである。

クリーブランドの学生ボランティア大会で、学生たちはカーレーの靴修理用の金槌を展示した。それはタワーにある王冠の宝石よりも見ものだった。キリスト教国のいかなる王杖も、この金槌ほど尊くはない。それはまるでナザレの店から来たかのようだった。カーレーはその金槌で農民の靴に鋲くぎを打ったのである。しっかりと上手に打ったのである。しかし、人が彼について思う時、彼の靴屋の窮屈な壁は消え、その慎ましい長椅子は王座の様相に変わる。そして、刺し通された御手が彼の頭に義の冠をかぶせるのが見えるのである。

なぜなら、自分の日々の仕事に取り組むこの靴屋は、諸々の暗黒大陸を慕い、祈りの中で世界を神のもとに高く上げたからである。