七.喜ばしい生活

C. I. スコフィールド

御言葉:「それはわたしの喜びが彼らの内に満ち溢れるためです。」(ヨハ十七・十三)

ここに二つの単純な考えが示されている――イエス・キリストは喜びに満ちておられることと、われわれはこの喜びにあずかる特権を与えられており、ついにはわれわれも満たされることである。

享楽、幸福、喜ばしさ

「この世の多くの人々は、陽気でいられれば満足なのであり、享楽に優るものを人生に何も求めていない」と言っても酷ではない。彼らはこの世の重荷、悲しみ、心配から遠ざかって、束の間の冗談でその苦悩を忘れられれば、満足なのである。人生に享楽はつきものだが、享楽は決して高貴な人生の目的ではない。

私は信じているが、遥かに多くの人はこれよりも良いものを求めている。それは幸福である。

幸福は享楽よりも無限に高度なものであり、ご自分の子らが幸福であることを願う神の願いが聖書の中に豊かに啓示されている。八福の教えは幸福になるための教えである。

しかしこの御言葉は、幸福に優るものについて述べている。それは喜ばしさである。

喜ばしさは、この言葉の聖書的意味によると、溢れ流れる幸福として定義される。個人的満足のためだけでは使い切れない満ち満ちた幸福、全く生き生きとしている輝かしい幸福である。周囲を山々で守られている静かな湖畔に幸福をなぞらえるなら、喜ばしさは溢れ流れる川の奔流のようなものである。

それゆえ最初に、悲しみや苦痛を克服するこの三つのものに心を留めると助けになるかもしれない。享楽は自己のためであり、自己に尽きる。幸福はさらに深遠で高貴なものであり、喜ばしさは溢れ流れる幸福である。

イエス・キリストの喜び

まず第一に、イエスはご自身の喜びについて述べておられる。

さて、われわれは常々、イエス・キリストのことを喜びに満ちた御方として考えない。彼の顕現の遥か昔に、預言者イザヤは彼について、彼は「悲しみの人で痛みを知っていた」と述べた。そして、そのとおりだった。しかし、見よ。悲しみの人であって、憂鬱な人ではなかったのである。イエス・キリストのことを一生塞ぎ込んでいる方と考えることはできない。彼は苦悩しつつご自分の重荷に向かったのであり、ご自分の過ち――彼の王座は彼を否定し、彼の民は彼を拒絶し、彼が造った世界の中で貧しく卑しい者となったこと――で頭がいっぱいだった、と考えることはできない。

一度だけ、ゲッセマネで、彼はご自身の悲しみについて述べられた。「わたしの魂はひどく悲しく、死ぬばかりです」。しかし常々、彼はご自身の喜びについて話された。それゆえ、これは彼の生涯の逆説である。「悲しみの人で痛みを知っていた」。しかし、彼はこれらの悲しみを、言わば力強い喜びという深い満ち溢れる潮流の上で担われたのである。この喜びは悲しみに優るものだったのである。

この逆説――歓喜する喜びに満ちた悲しみの人――について理解するよう努めようではないか。

十字架に近づけば近づくほど、イエスはますますご自身の喜びについて語られたことに、これまであなたは注意したことがあるだろうか?

彼の務めの初期の頃、彼はご自身の喜びについてあまり証しされなかったことに気づく。私は信じているが、いわゆる「世間から好評を博した時期」は、一度もそうしておられない。その後、群衆が彼に群がり、まるで国をあげて彼を長く待ち望んだメシアとして実際に受け入れたかに思われた。しかし、彼が前進し続けて、カルバリに近づくにつれて、そして、この世の恥辱と悲しみと罪という重荷が恐るべき暗闇の中で彼の上に集結してのしかかり始めるにつれて、彼はますますご自身の喜びについて話されるようになった。そして、彼の締めくくりの勧告・教えでは、彼はご自身の存在を満たしている深い喜びについて絶えず言及しておられる。悲しみの潮流がまさに絶頂に達した時、喜びがそれを超えてせり上がり、それに勝利したように思われる。

解決された逆説

これについて熟考して、それを「確かに彼は私たちの痛みを負われたのであり、私たちの悲しみを担われたのだ」というイエス・キリストの悲しみに関する預言者の説明と結び付けるなら、われわれはこの逆説を解く寸前のところにあると思う。

言い換えると(それはとても単純ではないだろうか?)、イエスは他者の悲しみを担うことを無上の喜びとされたのである。彼はこの世の悲しみや重荷を負わなければならなかったにもかかわらず喜びに満ちておられた、ということではない。彼はそれを担えたからこそ喜びに満ちておられたのである。それが彼の喜びの噴出口であり、まさに源だったのである。

少しの間、痛みや悲しみについて考える時にわれわれ全員が感じる恐れから離れて、われわれ自身の魂の高貴な面に立つことにするなら、われわれはこれを想像できると思う。

――イエスのような存在は、そうできることを、言い尽くせない喜びをもって喜ばれるであろうことを、われわれは理解できる。

――罪と窮乏と欠乏と禍いを抱えたこの世と、山のような不法とを見下ろされた時、彼の心には次のことを知ってかぎりない喜びがあったであろうことを、われわれは理解できる。すなわち、しかるべき時に、彼は地上に下って、この言語を絶する咎を負い、十字架を通してそれを人から運び去るということである。

ビクトル・ユゴーの偉大な物語の中のジャン・バルジャンが荷馬車の下で幸福だったのと同じである。それは彼をひどく傷つけたが、彼はそれを持ち上げて、下敷きになっていた老人からどかしたのである。それと同じように、そうするための代価だった痛みの中にも喜びがあったのである――それは身代わりの苦難の喜びである。人類の心を圧迫していたものをすべて担って、それを永遠に取り除く喜びである――これが主の喜びだったのである。

結局のところ、哀れなこの世ですら、この真理の絵図となる高貴な事例をその中に見いだすのは容易であることがわかる。

確かに、敵の槍の集中砲火を自分自身の胸に集めた時、ビンケルリートはこの喜びを感じたにちがいない。彼がそうしたのは彼の仲間が戦線を突破して、自由への道を拓くためだった。それらの槍が自分の心臓に殺到して自分の命が消え去るのを感じた時、彼の中には言いようのない喜びがあったにちがいない。それは苦難だったが、そのように死ぬのは喜ばしいことだったのである。

すべての乗客の身が安全になるまで、たとえ自分自身の両手が焼け焦げても操舵輪を握りしめて、燃える船を岸辺に保った操舵手には、痛みよりも大きな喜びがあったにちがいないと思う。これはとても高度な類の喜びである。しかし、結局のところ、われわれはこれを理解できるのではないだろうか?

沈み行く船の甲板に立って、最後のボートの自分の席を何の請求権もない貧しい密航者に譲り、自分が船と共に沈んで行くあいだ、彼が安全な所に移るのを見送った船長は、身代わりの苦難のこの喜びという水を大いに飲んだにちがいないと思う。

救い主の喜びの源

次に、主の喜びの別の源があった。彼は神の御旨の中で喜ばれた。少しの間、これについて考えてもらえないだろうか。われわれはこの世界にひとりぼっちで放置されているわけではない、ということはなんと喜ばしいことだろう!

人は環境や偶然のなぐさみものではないこと、この世界にいる神の子供として、われわれの上を行き交うこれらすべての破壊的な力のただ中でも、われわれは孤児ではないことを知るのは、なんと喜ばしいことだろう。要するに、それらすべての上に、不可抗力な神の御旨があることを知るのは、なんと素晴らしいことだろう。諸々の事柄が神の子供たちに起きるのは「偶然」ではない。われわれは定められた道の上を進んでいるのである。そして、われわれの生活の諸々の喜びや悲しみは、すべて定められており、割り当てられているのであり、さらに優ったもののためにわれわれを成形・形成しているのである。神の御旨を忍耐して行う喜びと、他の人々が遭わない苦難に遭う喜び――ここにわれわれの主の喜びの永続的源がある。

へブル書は喜びの別の源について告げる。それが十字架という究極的苦しみの中でわれわれの主を支えたのである――それは「ご自身の前に置かれた喜び」である。それは最終的完成の喜びである。ご自身の苦難の永遠の結果を見ることを期待する喜びである。苦しみの時、これがすべて彼と共にあって、彼を助けたのである。これをわれわれは見る必要がある。疑いなく、われわれはこの報償と天の収支勘定による励ましによって十分に生きていない。

主の喜びが、われわれの喜びである

少しの間、別の思想に向かうことにしよう――その人間的な面である。

それはわたしの喜びが彼らの内に満ち溢れるためです」。

しかし、われわれはどのように主の喜びを得るのか?明らかに、非利己的な高みへの招きをこれは示しているのではないだろうか?主の喜びにあずかろうとするなら、われわれは主の喜びの源からそれにあずからなければならない。たとえそれが自分に対する悲しみと重荷を意味したとしても、他人の心から悲しみを、他人の生活から重荷を取り除くには、われわれは喜んでいなければならない。

われわれは、失われている人が救われるのを、かつて学んだことがなかったほど喜ぶことを学ばなければならない。御言葉は、「一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちのあいだに喜び」があると述べている。

われわれは「十人しか回心しなかった」と残念がるのをやめなければならない。そして、御使いたちのように、悔い改める一人の罪人のために喜ばなければならない。

次にわれわれは自分の思いを将来に、天の安息に、天の活動と彼処での永遠の喜びに、もっと向けなければならない。繰り返すが、これは警鐘である。主の喜びを得るには何らかの代価が必要なのである。

救いとその喜びは無代価の賜物である。しかし、主の喜びを得る唯一の方法は、主との交わりの中に入って人生に対する主の計画の中に入ることである。自分の容量内で、この世にあって主のものとなることである。主と共に苦難の喜びの中に、神の偉大で甘美な喜びの中に、来るべきものに対する待望の中に入ることである。

隠者ピエールが十字軍を説きつつヨーロッパ中を巡ったのは、人類にとって大いなることだった。それは封建領主や騎士たちに「つまらない地域戦争をやめよ」と告げる呼びかけだった。「横柄な空しい生き方から、城の庭での論争や城の広間での宴会から離れ、出て行って非利己的なことをなせ」と告げる呼びかけだった。

人間生活の悲しみや痛みは、恒久的十字軍への召しではないだろうか?人生を浪費するものから離れ、思いやりを持ち、有益な者になれ、と奮い立たせる呼びかけではないだろうか?また、この世の罪は、キリストご自身の偉大な救いの計画に基づいて地の果てまで出て行け、と告げる召しではないだろうか?これには何か大切な要素があるように私には思われる――われわれの高貴な面をとらえる要素、利己的享楽の卑しさからわれわれを解放し、引き上げて、われわれの主の苦難と又その言い尽くせない喜びに喜んであずかる者とする要素があるように思われるのである。