八.真の聖別

C. I. スコフィールド

御言葉:「そして祭司たちは主の契約の箱をその場所へ、すなわち家の本殿の中へと、至聖所の中へと、ケルビムの翼の下に運び入れた。ケルビムはその二つの羽を箱の所の上に広げていたので、ケルビムは箱とその竿を上から覆った。そして彼らは竿を引き抜いたので、竿の端が本殿の前の聖所から見えていたが、外からは見えなかった。それらは今日に至るまでそこにある。箱の中には、二枚の石の板のほかなにもなかった。これは、イスラエルの子らがエジプトの地から出て来て、主が彼らと契約を結ばれた時に、モーセがそこに納めたものである。そして、祭司たちが聖所から出て来た時、雲が主の家を満たした。」(一列八・六~十一)

聖別に関する主題の学びを始めたいと思う。大抵の信者はこの主題について大いに誤解している、と私は信じている。聖別は神の行為だろうか、それとも人の行為だろうか?それは部分的に人の行為であり、部分的に神の行為なのだろうか?もしそうなら、聖別における人の役割は何か?

疑いなく、この主題は重要であるとぼんやりと感じられる。今日の宗教論文はこの重要性を主張しており、クリスチャンたちが大会や大集会に集まるとき、「聖別集会」のための時を設けないのはごく稀である。そして事実、いわゆる「聖別」が多くなされている。キリスト教共励会は月例聖別集会を定めている。だから、ある意味、果てしない聖別の働きがなされているのである。

果てしない聖別

聖別に関して多くの祈りがなされており、それに関する多くの話がされている。また、それを行う方法にはとても多くの方針があり、結局のところ聖別が果たしてなされたのかどうかに関する疑いも多く存在する、と私は信じている。この疑いは、もちろん、とても多くの人々が絶えず自分自身を「再聖別」している事実によるものである。

さて、聖別は何度も何度もすべきものなのだろうか?もしそうなら、われわれはそれを知らなければならない。「自分は常に聖別され続けている」と堅く確信できるようになるには、どの程度の頻度で聖別の行為を繰り返す必要があるのかを、われわれは知らなければならない。

私はこの混乱に驚いている。なぜなら神は、言わば、われわれの学びのために題材を用意してくださっているからである。神は聖書の中に聖別に関する二つの偉大な予型的絵図を置いてくださったのである。

二つの偉大な予型的絵図

その一つは宮の聖別であり、もう一つは祭司の体系の聖別である。これらの型はどちらも、現経綸の信者であるわれわれに集中することがわかる。なぜなら、われわれは「宮」とも「祭司」とも呼ばれているからである。

――「なぜなら、あなたたちは生ける神の宮だからです。」(二コリ六・十六)

――「それとも、あなたたちの体は聖霊の宮であることを知らないのですか?」(一コリ六・十九)

――「あなたたちは選ばれた種族、王なる祭司の体系です。」(一ペテ二・九)

――「私たちを愛して、ご自身の血により私たちを私たちの罪から洗い、私たちを王とし、神のために祭司としてくださった方に」(黙一・五、六)

宮は所有のためであり、神が住まわれる場所だった。祭司の体系は、神の奉仕のためだった。そしてその各々のために一つの行為――聖別――があった。聖別の行為が完成されるまで、シェキナは宮を所有しなかった。祭司もまた、祭司職に生まれついていたが、しかるべく聖別されないかぎり、奉仕に入れなかった。

私の目的は、次に、聖別に関する宮の予型を学ぶことである。

一.さて、まず第一に、この昔の予型的宮と、これらの生ける宮たち――それはわれわれである――との間に、なんと素晴らしい構造的類似性があるのかを考えよ。

覚えておられるように、宮には三つの部分があった。外庭あるいは外側の囲いは、公開されていて目に見えるものであり、だれでも入ることができた。外庭の次に来る聖所は、外庭がいけにえのための通常の場所だったように、礼拝のための通常の場所だった。次に、聖所を開くと至聖所があり、大祭司――われわれの大祭司であるキリストの型である――だけがそこに入ることができ、神の臨在の栄光で満ちていた。

全く同じように、生ける宮にも三つの部分がある――体は外側の目に見えるものであり、いけにえがささげられた外庭に対応している(キリストは「私たちの罪をご自身の身に負われた」ことを思い出せ)。魂または「心」は、愛情、願望、意志の座である(そして、それゆえ、礼拝の領域である。なぜなら、礼拝は愛して崇敬・賛美することだからである)。そして最後に、われわれにははっきりとはわからないが、なんらかの形で魂ときわめて密接につながっているものの、それでもそれとは異なる霊がある。霊は人の最も高度な部分であり、理性、悟性、想像力の座である―― 一言で言うと精神である。そして、体が宮の外庭に、魂が聖所に対応しているように、これらの生ける宮たちの霊は至聖所に対応している。

二.さて、引用聖句の節を思い出してほしい。この節は、それによって宮が聖別される行為について描写している。われわれの聖別が真の意味を持つには、それはいかにあるべきかを理解する助けを、この予型がどのようにしてくれるのかを見ることにしよう。

思うに、私はなによりも、この行為の並々ならぬ単純さに感動する。

祭司たちは契約の箱をただ至聖所に運び入れただけであり、その後しりぞいた。神があとのことを行われた。

そして、この行為の意義はこの行為自体と同じように単純である。この箱は、おそらく、最も重要なものであり、キリストに関するすべての予型を最も内包するものだった。神がモーセに山上で諸々の模型を示された時、その第一のものは箱だった。とても現実的な意味で、幕屋はこの箱の周囲に建てられた。覆うケルビムと輝くシェキナの栄光とを伴うこの箱は、イスラエルの礼拝と奉仕の中心だった。

シェキナの栄光

イスラエルの恵みの座には、贖いの血が振り注がれた。そして宮が、人の面に関して、聖別されたのは、箱がその最も内側の部屋に設置された時だった。それと同じように、われわれが、一つの熟考された明確な行いにより、神だけの住まい・所有となるために、神に明け渡した時、われわれの全存在すなわち体・魂・霊は聖別されたのである。

型である宮の幾つかの部分について考える時、進み出る方法だけでなく、その行為は確実に完了していることを、われわれは確かに知ることができる。聖別における神の役割について、われわれにはなんの懸念もない。神はご自身の役割を果たしてくださる、と安心して信頼できる。

第一に、祭司たちが箱を運び入れた。神は御使いたちを遣わしてそうさせようとはされなかったし、超自然的手段によってそれを助けようとも決してされなかった。それは人の側に全くかかっている行為だった。それは、祭司たちの自発的な熟考された行いだった。

第二。彼らは至聖所の中にそれを運び入れた。彼らは前庭で止まらなかったし、聖所でも止まらなかった。彼らは宮のどの部分も自分のものにしようとはしなかった。彼らは箱をその最も奥まった場所に、あの最も神秘的な部屋に運び入れた。その部屋は、金や高価な大理石、そして彫刻家の見事な作品により、美しい高級なものに造られていた――そこは高ぶりがきわめて容易に侵入しかねないところである――そこに彼らは箱を運び入れたのである。

第三。彼らは竿を引き抜いた。これはとても素晴らしい象徴的行為だった。竿が何だったのかはご存じだろう。竿は木の棒であり、それによって箱をあちこちに運んだのである。そして、荒野を放浪している間、竿を抜いてはならないという特別な命令が与えられていた。この行為の意義がわかるだろうか?それは決定的行為だったのである!彼らにはそれを繰り返すつもりはなかった。彼らは至聖所を主に永遠に所有していただくために、それを主に明け渡したのである。イスラエルには繰り返すべき儀式がたくさんあったが、「再聖別」はその一つではなかった。彼らは聖別に関して本気だったのである。それは一度きりのものだったのである。

第四。彼らは出て行った。彼らはそこに残って至聖所を主と共有しようとはしなかった。そして、「祭司たちが聖所から出て来た時、雲が主の家を満たした」ことがわかる。

祭司たちが中にとどまっていたなら、雲は決して家を満たさなかっただろうと、私は確信している。

見よ、至聖所を明け渡すこと自体が、宮を明け渡すことだったのである。至聖所に到達するために、箱は外庭を通り過ぎ、聖所を通り過ぎたのである。止まることはなかったのである。

それは段階的明け渡しではなかった

この建造物の外側の諸部分のための別々の儀式はなかった。至聖所を明け渡すことは、外庭と聖所を明け渡すことだった。それはまるで降伏した要塞を占領する征服者が、外側の防御壁を通り抜け、内側の防御壁を通り抜けて、それから内側の城内に入り、全体をまぎれもなく占領した印としてそこに帝国の国旗を立てるかのようである。

まさにこのような形で聖別は新約聖書の中に示されている。

――「あなたたちの体を生きたいけにえとして捧げなさい」――外庭。

――「神の平安にあなたたちの心を治めてもらいなさい」――聖所。

――「神を知る知識に逆らって自らを高く上げる空想や、すべての高ぶった思いを投げ倒し、あらゆる思いを虜としてキリストの従順へと至らせます」――思い、至聖所。

三.さて、これをすべて個人に適用しようではないか。おそらく、まずわれわれは、聖別に関するわれわれの観念は貧弱で不適切だったことを、認めるのを厭わないだろう。

聖別に関するわれわれの観念

これまでわれわれは奉仕のことだけを考えてきたし、しかも体との関連で考えてきた。「私の手、私の口、私の足を用いてください」云々と、ある種の感情的・身体的形で考えてきた。予型であるこの宮とその意義について考えていなかったのである。奉仕に関する考慮とは別に、神に満たされること、神に所有されることについて考えてこなかったのである。神の親愛なる人々が「奉仕、奉仕」と急き立ててばかりなのには、ほとほとうんざりである。まるで、神の子らが神を愛して神に信頼することはどうでもよくて、神のために労苦することしか考えていないかのようである。神のものであるクリスチャンが奉仕すればするほど、ますますそうなっていく。否。より高度な思想がある。イエスに万物の主として王座についていただくことである。

愛する人よ、われわれについてはどうだろうか?われわれは、外庭を通過する時、「おお、主よ、この体はあなたのものです。それを御旨のままに支配してください。それをどのように用いるのか選んでください」と言って、断固たる意志の行為により、心から、喜んで、イエスにしかるべき地位に就いてもらっただろうか?聖所を通過する時に、「神の平安よ、私の心を治めてください」と言い、霊の中に入る時、「誉むべきイエスよ、ここに住んでください。私の理性をあなたの御言葉の権威に服させてください。私の想像力を聖なる働きにつかせてください」と言っただろうか?

私の霊を照らしてください

また、「あなたご自身の輝かしい栄光で私の霊を照らしてください。そして、この最も内なる所から、この宮全体を支配してください」とあなたは言っただろうか?

それから、われわれは竿を引き抜いただろうか?これが意味するところはご存じだろう――それは繰り返されるべきことではないのである。あなたが何を考えているのか、私にはわかっている。

あなたは「おそらく、私はそれをうまくやらなかったのです」と考えているだろう。言わせてもらうが、そうではない。祭司たちはとてもぎこちなく進んだかもしれない。彼らの感情は、そうあるべきものではなかったかもしれない。自分たちがしていることの意義に関する彼らの観念は不完全だったかもしれない。しかし彼らは行ったのである――箱を運び入れて、その竿を引き抜いたのである。

さらに言う。あなたがキリストを中に招き入れた時、あなたは退去しただろうか?それとも、あなたは彼と共にとどまったのだろうか?それは問題だったのではないだろうか?

あるとても興奮した若い女性がニュー・イングランドの集会で「イエスと私なのです」と証しするのを、かつて耳にしたことを思い出す。私と共に演壇の上に座っていた一人の親愛なる兄弟が囁いた、「私はあの少女を八、九年知っています。実は、私は彼女の牧者です。そして、これこそまさに彼女の問題なのです。イエスとこの少女なのです。彼女がもし『ただイエスだけなのです』と言える境地に達することができれば、彼女はもっと穏やかな経験をすることができるでしょう」。

四.最後に、聖別に関する神の面について一言。祭司たちは外に出て、神の所有に委ねた。その時、聖別に関する神の役割がなされたのであり、その時まではなされなかった。神のシェキナが栄光の雲と共にその家を満たした。この栄光の雲は恵みの座を覆うケルビムの翼の間に常にとどまっていたものであり、それが拡大・増加して、ついには聖所と外庭までもがその輝きで満たされたのである。これは神の行為だった。

神はこの聖別を受け入れられた

祭司たちが神をしかるべき所に置いた時、そして、神に対して閉ざされている扉がどこにもなくなった時、神はこの聖別を受け入れられた。神が外庭におられた時にはなんの輝きもなかった。彼が聖所におられた時、また至聖所におられた時でさえ、なんの輝きもなかった。竿が引き抜かれた時でさえ、なんの輝きもなかった。祭司たちが外に出て、身を引き、その場所に関する所有権をすべて放棄し、その建物を神に委ねた時はじめて、その場所は栄光で満たされたのである。そしてこれがなされるまで、なにもなされなかったのである。

昔の宮に対するシェキナの関係は、これらの宮――それはわれわれである――に対する聖霊の関係と同じであることはご存じだろう。

――「この方にあって、あなたたちもまた、御霊を通して、神の住まいのために共に建造されます。」(エペ二・二二)

――「それとも、あなたたちの体はあなたたちの内におられる聖霊の宮であることを知らないのですか?」(一コリ六・十九)

それゆえこれが、聖別に関する神の面についてのこの型の途方もない予型的意義である――つまり、それは聖霊の満たしなのである。これについて考えてみよ!全存在を心から、誠実に明け渡して、イエス・キリストに所有してもらうことに対する神の応答は、その人全体――霊・魂・体――を満たすことなのである。聖霊で満たすことなのである。これと比べると、人の側はなんと取るに足りないことか。しかしそれでも、それはなんと筆舌に尽くしがたいほど重要であることか。なぜなら、御霊の豊かな臨在はそれにかかっているからである。

友よ、われわれは見えるところによってではなく、信仰によって歩んでいる。いにしえの祭司たちはこの栄光――それで神はこの家を満たされた――を見ることができた。

神はこの家を満たされた

神がそこにおられることを、われわれは信じなければならない。ああ!まさにここに、多くの人は致命的ギャップを抱えているのである。多くの人は全く誠実に自分の三部分をイエスに明け渡している。しかし、御霊のいっそう豊かな現れを感じないので、疑うのである――そして、この過程を何度も何度も繰り返すのである。

これは「奉仕のための聖別」ではないことを覚えよ。また、宮の型がわれわれに示しているのは、奉仕のための力ではないことを覚えよ。それについては、祭司の型がわれわれに示される時、考慮されることになる。それは所有のための聖別である。

結局のところ、実際の聖書的聖別ほど単純なものがあるだろうか?それは神をしかるべき所に置き、あらゆる場所への通行権を神に与え、それから出て行って、神に与えたものを神に支配していただくことにほかならない。その時、神はご自分の役割を果たしてくださる。神が所有してくださるのである。

さて、いくつか質問をしよう。

われわれは、信者として、イエスをこの宮の中に招き入れたことがそもそもあるだろうか?われわれは彼を外側の主人と見なしてきたのではないだろうか?私がこの鉛筆を取って、それで書き記すのと同じように、われわれは彼の用に供するためになにかを与えることしかしていなかったのではないだろうか?

われわれは彼を内側に招き入れただろうか?これがわれわれの聖別に関する観念だっただろうか?われわれは彼に、一つの明確な行為によって、外庭――われわれの体――を与えただろうか?もしそうしているなら、われわれは各々、彼を聖所――われわれの心――の中に招き入れて、「今ここを治めてください、私を、私の願望を、私の愛情を治めてください」と言っただろうか?もしそうしているなら、われわれは各々、一つの明確な行為によって、一度かぎり永遠に、彼をわれわれの霊の中に招き入れて、「私の理性を治めてください」と言っただろうか?

私の想像力をとらえてください

「私の想像力をとらえて、それに天の栄光と神の美点を描かせてください。そして、それがあまりにもかかりっきりになっているものから、それを解放してください」と言っただろうか?

またわれわれは、「主イエスよ、私のこの知的高ぶりをとらえてください。私はあわれな愚か者です。どうか中に入って来て、私のために私の代わりに考えてください」と言っただろうか?

それから、われわれは竿を引き抜いただろうか?われわれは、「主よ、今、あなたを一度かぎり永遠に中に招き入れて、竿を引き抜きます。これを来月も繰り返すつもりはありません。私は今これを行います」と言っただろうか?そして次に、こう述べてから、われわれは自ら外に出て行っただろうか?

われわれについてはどうだろうか?この素晴らしい宮全体――体・魂・霊――はもはや自分のものではないかのごとく、われわれは生きているだろうか?それはわれわれのものだったが、われわれは外に出て、神が中に入って来られた。今や、それは神のものである。そうである時まさに、私は大いに確信しているが、神の栄光はその家を満たすのである。