第1章 キリストと共に十字架につけられた

A. B. シンプソン

「私たちも行って、彼と共に死のうではありませんか。」(ヨハネ十一・十六)

この言葉はトマスの心から溢れ出た激しい愛のほとばしりでした。弟子たちは主がユダヤに戻らないよう空しい説得を続けていました。なぜなら、ラザロのよみがえりによって悪意ある憎しみが引き起こされ、主がユダヤに戻るなら危険な目に遭うのは確実だったからです。弟子たちは言いました、「主よ、ユダヤ人があなたを石打ちにしようとしたばかりなのに、またそこに戻られるのですか?」。しかし、説得が功を奏さず、戻って敵と対峙しようとする主の決意の堅さを見て、トマスは自暴自棄と情熱の衝動に駆られて叫びました、「私たちも行って、彼と共に死のうではありませんか」。この言葉はラザロの死について述べているのではなく、イエスがユダヤに戻るなら確実に被ることになるであろう死について述べています。トマスの叫びは、「望みが薄い」にもかかわらず自分の指揮官に従って危険と死の中に飛び込もうとしている献身的な兵士の叫びでした。

トマスの言葉は彼が思っていた以上に賢明な言葉でした。トマスとその仲間の弟子たちは彼らの主の運命に直ちにあずかったわけではないのは事実です。なぜなら、キリストは後にペテロに言われたからです、「わたしが行くところに、あなたたちは今はついて来ることができませんが、後でついて来るようになるでしょう」。彼らは彼と共に死ぬことになるのですが、これには文字どおり迫害されて殉教する前でも、深遠で神聖な意味がありました。この御言葉はイエス・キリストのすべての弟子にも言えますが、これはとても現実的で厳粛なことです。なぜなら、私たちのほむべき主の死は私たちの救いの源であるだけでなく、私たちの生活の模範でもあるからです。理にかなった信仰と活気づけられた霊の共鳴とをもって、私たちもトマスと一緒に「行って、彼と共に死のうではありませんか」。

過去の罪の生活に対してキリストと共に十字架につけられた

私たちは自分の過去の罪の生活に対してキリストと共に死ぬことができます。これには重大な意義があります。信者の生活の第一段階は義認です。義認は主イエス・キリストの死に基づいており、彼の死を私たちの死と見なす信仰を通して私たちに与えられます。「彼が死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのです。(中略)同じようにあなたたちも、自分は罪に対して死んだ者であり、私たちの主イエス・キリストを通して神に生きる者であると見なしなさい」。なぜなら、死んだ者は「罪から解放された」からです。あるいは、文字どおりの意味によると、「罪から義とされた」からです。

神が人を救われる時、神は優しい恵み深い寛大さでその人の罪を見過ごされるだけでなく、一度かぎり完全に罪を解決してくださいます。神が罪人を義とされる時、神はその罪人の過ちを見過ごされるだけでなく、その人を義と宣言し、まるで一度も罪を犯したことがないかのような立場に置いてくださいます。あるいはむしろ、自分の罪のために罰せられ、罪人として処刑された者、そうして正義と律法の要求をすべて満たした者であるかのような立場に置いてくださいます。

イエス・キリストがカルバリの十字架にかかられた時、彼は後に自分を信じることになるすべての罪人の身代わりとして苦しまれました。私たちは彼の傷ついた脇に隠されて、そこにいました。そして、神はそれをまるで私たちの死、私たちの処刑であるかのように見なされます。その日は、キリストとその信者に対する裁きの日でした。すなわち、義の要求はすべて満たされ、刑罰はすべて執行され、負債はすべて支払われたのです。彼と共に私たちは罪に対して死にました。そして、神は私たちのことを実際に死んだ者のように見なしてくださいます。犯罪人は処刑されて埋葬されました。死人であるその人に、律法は二度と触れることができません。

今やキリストの復活を通して私たちは新しい生活に入りました――昔の罪深い生活から完全に分離された生活です。神は私たちを罪を犯した者ではなく、天から生まれた新しい被造物、神の御前でイエス・キリストと全く同じ立場に立つ者のように見なしてくださいます。このようにキリストの死は、私たちがそれを自分のものと見なす時、義とされて「愛する者にあって受け入れられる」立場に私たちを置きます。

確かに、これは罪を犯して地獄に値する人間のために備えられている輝かしい立場です。おお、罪人よ、急いでこのさいわいな特権、自分はキリストを通して罪に対して死んだと見なす特権を求めなさい。「私たちも行って、彼と共に死のうではありませんか」。そして私たちは復活して、死んでくださった方のために生きようではありませんか。

罪の力に対してキリストと共に十字架につけられた

私たちは自分の心と生活の中にある罪の力に対してキリストと共に死ぬことができます。これには意義があります。なぜなら、キリストがカルバリで死なれた時、彼は私たちの罪深い性質のために死なれたからです。「神は御子を罪深い肉の様で罪のために遣わして、肉において罪を処罰されました。それは肉にしたがってではなく御霊にしたがって歩む私たちにおいて律法の義の要求が満たされるためです」。「神は罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは私たちが彼にあって神の義となることができるためです」。これらの節は疑いもなく、イエス・キリストの死は私たちの義認のためだけでなく私たちの聖化のための神の備えでもあったこと、そしてキリストはカルバリの十字架上で私たちの罪過や刑罰の負債を負われただけでなく、堕落した種族から私たちが受け継いだあらゆる腐敗の根と源を伴う私たちの罪深い性質をも負われたことを教えています。ですから、「イエスが死なれた時、自分の過去の罪の生活が十字架上で償われただけでなく、この罪の原理とこの罪深い人の全存在が十字架につけられた」と私たちは見なすことができます。これを彼に負っていただくこと、これは彼と共に十字架につけられたと見なすこと、それが自分を操る権利をもはや認めないこと、それを拒絶すること、彼の復活から自分の新しい命を得て、自分はイエス・キリストを通して神に生きる者であると見なすこと。これらは私たちの特権なのです。

さて、この秘訣は信仰によって見なすことです。そして、この生活で私たちが遭遇する最も深い落とし穴は、私たちの感情に訴えて私たちの信仰を攻撃するサタンの攻撃です。サタンは、あなたが自分を神に完全に明け渡して自分自身を否んだ後も、「実はなにも変わっていません。自分の昔の罪深い自己が依然として力を保っています。このように見なすことは虚構の偽りです」とあなたに思わせようとします。もしあなたが一度でもサタンの言うことに耳を傾けて自分自身の心に問うなら、あなたは確実に倒れるでしょう。しかし、もしあなたがサタンを信じることを拒絶して断固として見なし続けるなら、神がそれを現実のものにしてくださるでしょう。「自分は卑しい者だ」と信じるなら、その人は大抵卑しくなります。奇妙なことですが、これが人間の性質の一つの原理です。しかし、人がより高い原理や動機を認識するなら、その人はそれをそこに見いだしやすくなります。この世の人々の間でさえ二つの傾向があります。優れた意欲は高い理想と高貴な大志によって呼び起こされますが、他方、低級な意気阻喪させる思想は確実に意欲をそぎます。霊的生活でも、まさにこの勝利の原則は信仰です。あなたが堅く要求して保持するものを、神は実際のものとしてあなたに経験させてくださいます。もしあなたがひるむなら、あなたは絶えず倒れるでしょう。

この戦いで多くの人を助けてきた奇妙な例証があります。この例証は心霊主義の独特な現象から取られたものです。この驚くべき悪の顕現の多くはたんなる偽りにすぎませんが、それでもまぎれもなく、その多くは超自然の現実の出来事です。サタンは空中から私たちの五感に働きかけることができ、私たちの知人や愛していた人の姿形を真似して描き出し、まるでその人が本当に生きていてその場にいるかのように見せかけることができます。声を真似することもできるので、その霊媒に引っかかった人は「これは本当に自分の死んだ親友だ」と信じてしまいます。しかし、実際はそうではありません。それはサタンが自分の器用な能力を使ってでっちあげた像にすぎません。科学もこれを模倣しており、いつの日か、私たちの感覚の前に仮想的な物の像を描き出すようになるでしょう。この巧妙な誘惑に打ち勝つ唯一の道は、「この像は現実ではありません。友人は死んでいます。これはたんにサタンの誘惑にすぎません」と悪魔に告げることです。危機に瀕していた多くの魂はこうして救われました。そして、彼らがこの超自然的な訪れに立ち向かってそれを否定した時、突然、穏やかな優しい光景から憎しみと冒涜の光景に一変し、呪いと中傷を吐きながら消えていくのを彼らは経験したのです。

同じように、サタンは私たちの古い自己の命の亡霊をでっちあげて、「それはまだ生きている」と私たちに思わせることができます。勝利の秘訣はこの嘘を信じることを拒絶して、「私たちは自分自身をキリストに委ねました。彼は私たちを受け入れてくださいました」と信じ、宣言し、この立場を維持して、堅く私たちの信仰の上に立つことです。私たちの古い自己と罪の命は彼に明け渡されました。私たちはそれを恐れることも、それに従うこともしません。私たちは「私は自分自身に対して死んだ」と見なします。そして今から後、毎瞬毎瞬、私たちの新しい生活のために主に拠り頼みつつ生き、私たちの力、聖潔、幸福を一呼吸ごとに主から引き出して生きます。

実際生活の中でキリストと共に十字架につけられること

私たちは実際生活の中で毎瞬毎瞬、信仰の取り引きによってキリストと共に死ななければなりません。これには意義があります。ある時点で私たちは明確に自分を明け渡して、主を受け入れなければなりません。しかし、その後、これは私たちの実際生活の隅々にまで適用される必要があります。なぜなら、主は摂理の中で私たちと会われ、私たちが実際の経験に直面するようにされるからです。これにより私たちは主の地上生活にあずかる実際的交わりの中にもたらされ、その生活を再び主と共に生きることができるようにされます。その時、私たちは十字架につけられた方とのこのさいわいな合一の意義や助けを経験します。そして、自分自身でそれを行う必要はなく、主と共にそれを行えばよいこと、また主に私たちの内でそれを行ってもらえばよいことを、毎日主に感謝するようになります。自分の力や善良さは私たちの期待に全く反するものであることを経験しないかぎり、私たちはあまり遠くには進めないでしょう。主は私たちから力も善良さも期待しておられません。主が私たちに期待しておられるのは、私たちが自分の力や善良さを無視して、その代わりに主を十全な方として受け入れることだけです。これを悟るならなんと慰められることか。私たちのなすべき事は、自分自身のすべての力に対して彼と共に死ぬことであり、次に主の豊かさ、「恵みに次ぐ恵み」を受け取ることです。自分自身は決して善なる者ではないことを、私たちは少しずつ学びます。落胆することなく、これを知ることを学びます。主はそれを最初から知っておられたのですが、私たちがそれを完全に理解するようにされただけなのです。最後に私たちは主に服従して一つ一つの戦いを始め、「神に感謝します。神は常にキリスト・イエスを通して私たちに勝利を与えてくださいます」という歌をもってその戦いを終えます。

私たちはしばしば、自分の古い積極的な性質や自己主張が表に飛び出して、その根強い力で私たちをおびえさせる場面に出くわすでしょう。どんなに努力してもそれを抑えられないことがわかります。この時、私たちは無限の安息と喜びをもって、次のことを学びます。すなわち、それを抑えるのは主の仕事であって、私たちはそれを主に渡しさえすればよいのです。そうするなら、主の愛はそれを眠らせて死に至らせ、私たちの内に働いて、「御旨のままに願わせ、働かせてくださる」のです。

こうして私たちが巧妙な誘惑や激しい誘惑に遭う時、私たちが背後に控えているかぎり、主が前面に立ってくださるのを私たちは見ます。主の御声は私たちに再び保証を与えて言われます、「静まって神の救いを見なさい。戦いはあなたのものではなく神のものです」。私たちが不義、誤解、偽りによって虐待される時、虐待されているのは主であって私たちではないことを私たちは見ます。そして、私たちは主が迫害者や敵に向かって「なぜわたしを迫害するのか?」と言われるのを聞きます。「(私たちの)魂を忠信な造物主の守りに委ねる」こと、そして彼が苦しんで死なれたように彼と共に死ぬことは、こんなにも安息に満ちています。彼は「ほふる者の所に引いて来られた小羊、毛を刈る者の前で黙している羊」のようでした。

また、困難や災いに遭う時、私たちはあせって人の助けを求めようとしたり、なんらかの急場しのぎの自己努力をしようとはしません。その代わりに、私たちは自分が神の御手に中にあるのを見ます。そして、私たちの試みは第一に主のものであって、私たちは主との交わりの中でそれにあずかるだけであることを悟ります。

カペナウムの出来事はなんと素晴らしいのでしょう。そこで貧しいペテロは突然、税金を求めるローマの役人たちに要求を突きつけられ、その税金を払えなくて途方にくれました。主は「ペテロをさえぎられた」となんと優しく記されていることか。主は彼が困難に遭うことを予期し、ペテロがそれについて一言も話さぬうちに助けを備えてくださったのです。主が彼を海に遣わして魚をとらせたところ、その口に金の硬貨がありました。しかし、主は絶妙の気転をきかせて、さらに言われました、「それを取ってわたしとあなたのために支払いなさい。それはあなたの税金ではありません、ペテロよ、第一にわたしの税金なのです。わたしがこの重荷を負います。あなたは私と共に苦しんでいるのです」。

愛する人よ、もし私たちが「人生の試練は主の苦難に共にあずかることである」と悟り、常に主を第一にするなら、彼と共に死ぬことはとても甘いものになるでしょう。そして、私たちを辱め、悩ませ、しばしば私たちに対する不信仰と罪の誘惑の機会となったものは、重荷から翼に変わり、私たちの主とさらに親密になる機会、主の御名によってさらに尊い勝利を得る機会となるでしょう。

私たちはこのように行って彼と共に死ぬ覚悟があるでしょうか?孤独、恥、悲しみという道で主に従い続け、一歩ごとに主とのさらに親密な交わりを経験する覚悟があるでしょうか?今後、主の生活と悲しみの物語全体が完全に私たちの生活の中で上演されることになったとしても、決して一瞬たりとも自分だけでそれに対応せず、常に主と共に対応しようではありませんか。私たちの道がオリーブ山の斜面を下っていき、たとえ暗闇のゲッセマネの薄暗がりの中に私たちを導いたとしても、主は私たちにこう告げておられることを思い出そうではありませんか。「あなたたちはわたしと共に一時間起きていることもできなかったのですか」。「あなたたちはわたしの試みの間、わたしと共にいてくれた人たちです。ですから、わたしの父がわたしに王国を与えてくださったように、わたしもあなたたちに王国を与えます」。主は裁きの間で非難と恥を受け、ユダに裏切られ、さらにひどいことにお気に入りの愛するペテロにまで否認されました。今後、私たちが進んで行ってこのような主に出会ったとしても、そのような境遇を主と共にくぐり抜け、主の御霊の中で対応し、「私たちは彼と共に死に遭っている」という甘い認識を持とうではありませんか。闇が深まってあの十字架の暗闇になる時――その時、彼のために地の太陽は輝くのをやめ、地の友人たちは彼を見捨てて逃げ、御父ですらしばし顔を曇らせて彼から顔をそむけました――おお、私たちは「自分の前に置かれた喜びのゆえに、恥をものともせず十字架を耐え忍ばれた」方を思い出そうではありませんか。私たちはまず「キリストの復活の力」を学ぼうではありませんか。そうするなら、私たちは「キリストの苦難の交わり」を恐れることはありませんし、「キリストの死に同形化されること」から退くこともありません。「私たちも行って、彼と共に死のうではありませんか」。