第2章 キリストの復活の力

A. B. シンプソン

「もしあなたたちがキリストと共によみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでキリストは神の右手に座しておられます。」(コロサイ三・一)

「それは私がキリストと、その復活の力と、その苦難の交わりとを知り、その死に同形化されるためです。」(ピリピ三・十)

「しかし、主を待ち望む者は新たな力を得、鷲のように翼をはってのぼることができます。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはありません。」(イザヤ四〇・三一)

私たちの主イエス・キリストの復活はキリスト教の真の出発点です。復活節は自然と恵みの両方で真の新年です。この三つの節は、復活に対する私たちの姿勢、キリストと共によみがえらされた者である私たちの目的、キリストの復活が私たちの生活や働きに及ぼす力について描写しています。

復活に対する私たちの姿勢

「もしあなたたちがキリストと共によみがえらされたのなら」。文字どおり正確に言葉を訳すと、「もしあなたたちがキリストと共に復活させられたのなら」となります。人が復活させられる時、その人は無から有へ、死から命へもたらされます。この移行は無限です。真のクリスチャンは復活させられた人です。自然宗教や人の道徳にすぎないものから出たあらゆる教えに対する重大な異議は、「私たちはより高い水準によみがえる」ということです。福音の素晴らしい点は、私たちのよみがえりを教えていることではありません。そうではなく、私たちは自分ではなにも良いことを行えないことを示して、私たちを直ちに墓の中に、完全な無力さと無の中に葬ることです。次に、福音は私たちを新しい命によみがえらせます。この新しい命は全く上から生まれたものであり、天の力のみによって支えられます。

クリスチャン生活は自己改善の生活ではなく、全く超自然的で神聖な生活です。さて、復活は死の前にはありえません。これが前提であり、現実です。死が復活の命と力を得る手段でしたし、これからもそうでしょう。ですから、あらゆるものに対して死んで私たちの後ろに捨て去ること、いいえ、自分自身に対して死んで本当に存在しなくなることを、恐れないようにしようではありませんか。手放して失うものはなにもありません。私たちは出てこないかぎり入れません。もし私たちが彼と共に死ぬなら、彼と共に生きるようになります。

しかし、コロサイ人への手紙のこの節は、私たちはすでに死んでよみがえったという事実を述べており、そして、私たちは今や「これは自分にとって成就された事実である」という姿勢を取るべきことを述べています。パウロはここで、キリストと共に再び死んで彼と共に新たによみがえるよう、コロサイ人に求めているのではありません。そうではなく、すでに死んでよみがえった事実を認識するよう求めているのであり、そして、死んでよみがえった者としてそれにふさわしい水準に基づいて生きてほしいと求めているのです。パウロはこの節の後半でコロサイ人に告げます、「なぜなら、あなたたちはすでに死んでおり、あなたたちの命はキリストと共に神の内に隠されているからです」。

ローマ人への手紙六章で、この思想がさらによく展開されています。使徒は言います、「イエス・キリストの中へとバプテスマされた私たちは、彼の死の中へとバプテスマされました。ですから、私たちはバプテスマにより彼と共に死の中へと葬られています。それはキリストが御父の栄光によって死からよみがえられたように、私たちも命の新しさの中を歩むためです」。次に、この事実の確かさをさらに強調するために彼は言います、「死からよみがえられたキリストはもはや死ぬことはなく、死はもはや彼を支配することはありません。なぜなら、彼が死なれたのは、一度だけ罪に対して死なれたからです。しかし、彼が生きておられるのは、神に対して生きておられるのです」。ですから同じように、使徒は私たちに命じます、「自分は罪に対して死んだ者であり、私たちの主イエス・キリストを通して神に対して生きている者であると見なしなさい(中略)死からよみがえって生きている者として自分自身を神にささげ、あなたたちの肢体を義の道具として神にささげなさい」。

さて、今日の教えの多くは、「あなたたち自身を神にささげて、絶えず死に続ける過程を通して十字架につけられなさい」と私たちに命じます。しかし、使徒はそのようなことを全くここで述べていません。それどころか、私たちは十字架は自分の背後にあることを悟って、すでに死んで生き返った者として自分自身を神にささげるべきです。また、この理由により、私たちは自分自身を神にささげて、神の奉仕と栄光のために用いていただくべきです。

見事な鳥が力強い翼を広げて中空を滑空するのをご覧になったことはあるでしょうか?鳥は羽ばたくことなく、また見たところ筋肉を動かすこともなく、晴れ渡った空に浮かんでいます。中空を舞い、彼方に浮かび、地の遙か上にあります。鳥は上る必要はありません。すでに上っており、その高い燦然たる高度で安息しています。小さなひばりの動きとは大違いです。ひばりは地面から飛び上がり、羽ばたく努力を続け、同じ高度に上って朝の歌を歌います。そして、再び地上に戻ってきます。一方の姿勢は上ろうとする姿勢であり、他方の姿勢は「すでに上っている」という姿勢です。

おそらく、あなたは言うでしょう、「自分が依然として生きている証拠がこんなにたくさん見つかるのに、どうして『自分は死んだ』と見なせるのでしょう?それに、私を再び低い水準に連れ戻すものがこんなにたくさん見つかるのに、どうして『自分はよみがえらされた』と見なせるのでしょう」。あなたが後退してしまうのは、あなたが見なすことにもとどまることにも失敗しているからです。「依然として古い命が生きている」と認めるなら、それは現実のものとなり、あなたはそれに打ち勝てないままです。福音の体系全体の下に横たわっている原理は、私たちは信仰を活用して見なすことに応じて受けるということです。この信仰の魔法の杖は、あなたの魂の墓場からよみがえって来るすべての亡霊を葬るでしょう。疑いの精神はそれらの亡霊を墓場から連れ出してきて、あなたが疑いを持ち続けるかぎり、あなたにつきまとうでしょう。絶えず死に続けることができる唯一の道は、あなたが自分自身をキリストに明け渡して、次に、「自分は彼と共に死んだ」と見なすことです。

驚異的なことに、前の章で見たように、心霊主義は死者の霊を生き返らせて肉や血の形で呼び戻す力を持っているように見えます。亡くなった父親が自分の子供に現れて、彼女に昔の懐かしい口調で話しかけ、彼女自身しか知りえないことを告げる、ということも珍しくありません。この時、騙されやすい心の持ち主は、「これは生前の同じ人であって、埋葬された父親は本当に生きている」と信じるよう駆り立てられそうになります。しかし、これは真実ではありません。これは嘘です。父親はあなたが墓に埋めた時と同じように死んだままです。父親の体は依然としてそこにあり、土の中で朽ちています。また、たとえ父親が生きているように思えても、彼の霊は永遠の世界にあります。

さて、ここに福音の原則の良い例証があります。あなたは自分自身をキリストに明け渡して彼と共に十字架につけられ、自分の古い命をすべて過ぎ去らせます。そしてそれ以降、天から生まれて、ただ彼と共に活動する者として生きます。しかし突然、あなたの昔の悪い性質が現れ、昔の考えや悪い傾向が自己を主張して、大声でやかましく「自分たちはまだ死んでいない」と言います。さて、あなたがこれらのことを認め、それを恐れ、それに従うなら、あなたは確実にそれに命を与えてしまいます。そして、それがあなたを支配して、あなたを昔の状態に引きずり戻してしまうでしょう。しかし、もしあなたがそれを認めることを拒み、「これはサタンの嘘です。私は本当に罪に対して死んでいるのです。それは私に属するものではなく、悪魔の子供たちです。ですから、私は断固としてそれを拒絶し、その上に立ちます」と言うなら――神があなたをそれから引き離し、それを完全に死なせてくださるでしょう。それはあなたの一部ではなく、サタンがあなたの上に投じようとした誘惑にすぎないことがわかるでしょう。サタンはそれをあなたの周囲に張り巡らして、それがあたかもあなたの一部であるかのように見せかけようとしたのです。

これが誘惑と罪のあらゆる働きに対する真の治療薬です。恐ろしいことに、人が自分を邪悪な者と見なす時、その人は邪悪になってしまいます。

才能豊かな人が二重人格について書いた奇妙な物語があります。その二重人格者は「自分は高貴な性格の持ち主である」と信じた時は、高貴で真実な者となり、そのような者として生活します。しかし、その反対の考えに取り憑かれて「自分は劣った人間だ」と感じだすと、そのとおりに堕落してしまいます。「人は自分の心の中で思うとおりの人になります」。私たちが自分をどう見なすかが、現実となって私たちに跳ね返ってきます。それゆえ、神はこの信仰の原則を個人的な義と聖の源とされましたし、また、人々を自分自身から神の命そのものの中へと導く、繊細ではあるけれども崇高な力とされたのです。

キリストと共によみがえらされた私たちの目的

私たちの姿勢が私たちの目的に影響を及ぼします。人々は自分の立場にしたがって生活します。高貴な家に生まれた身分の高い子供の場合、「自分は高貴な家の出である」という自覚がその立ち居振る舞いに影響を及ぼします。それと同じように、天の王国の市民権を持つ、自分の高い天的地位を自覚している人々は、この王国の子供たちとして歩みます。パウロの手紙のこの残りの部分は、このきわめて実際的な考えを実行に移すことにあてられています。私たちはキリストと共によみがえったのですから、そのように生きようではありませんか。

嘘をついてはいけない理由は、私たちは古い人を脱いで新しい人を着たからです。私たちは貧乏人ではなくなって、王子になりました。ですから、私たちは乞食のボロ着を脱いで王子の肩章を身につけるべきです。私たちは新しい人を着ました。ですから、私たちは優しさ、謙遜な思い、柔和、忍耐、そして、それらすべての上に愛を着ようではありませんか。愛はすべての衣を結び合わせる完全な帯です。私たちの衣の中で最上の衣はキリストご自身です。この復活の命はきわめて実際的です。使徒は人生で最も身近な関係――家族関係、主人と僕の関係、生活上のあらゆる現世的義務――に対してこの復活の命を適用します。この復活の命は私たちの振る舞いや目的全体に影響を及ぼし、どこであろうと召された所を歩むよう私たちを導きます。

キリストの復活が私たちの生活や働きに及ぼす力

これは私たちを導いて、「私たちはキリストと共によみがえらされた」というこの輝かしい事実には実際的力があることを気づかせてくれます。この輝かしい事実には、第一に、私たちの希望と救いの保証を確かなものにする力があります。なぜなら、イエスの復活は最後の仕上げの働きであり、贖いの代価が支払われて贖いの働きが成就したことを人々や御使いたちに対して保証するものだからです。イエスが墓から凱旋して出て来られた時、そこに行った彼の目的は成就されたこと、彼が企てた働きは成功を収めたこと、そして御父は彼が成就した贖いに満足されたことが、宇宙に対して明らかにされました。ですから、私たちは永遠の礎である彼の復活の上に信仰により安息することができますし、「罪に定めるのは誰ですか?キリストは死んで、再びよみがえられたのです」と言うことができます。

また、キリストの復活は私たちを聖別する力です。この力により私たちは、「私たちの古い命、私たちの以前の自己はなくなりました。私たちはもはや神の目から見て以前と同じ人ではありませんし、自分自身のものでもありません」と見なすことができます。私たちは確信をもって自分自身を拒絶することができますし、自分の以前の悪い性質に従ったり、それを恐れたりすることを拒否することができます。実に、復活したキリストご自身が私たちの所に来て、私たちの内に住み、私たちの内でこの新しい生活と勝利の従順の力になってくださるのです。復活の事実だけでなく、復活した方との交わりが、私たちに勝利と力を与えます。私たちは、「私はキリストと共に十字架につけられました。それにもかかわらず私が生きているのは、もはや私ではなく、キリストが私の内に生きておられるのです」という崇高な矛盾の意味を学びました。信じて従う人の内におられるキリスト、復活した方の内住の命。これだけが真の永続する聖別なのです。

また、復活には私たちを癒す力があります。あの復活節の朝、墓から出て来た方は体を持つキリストでした。そして、彼のあの体は私たちの体の中に隠されており、私たちの霊の命の礎であるだけでなく、私たちの体の力の礎でもあります。もし私たちが彼を受け入れ、彼に信頼するなら、彼は私たちの霊に行ってくださることを私たちの体にも行ってくださいます。そして、私たちの死ぬべき体の中に新しい超自然的な力があること、また、私たちの肉体の中に将来の復活の活力があることがわかるでしょう。

キリストの復活には強力な力があって、私たちの信仰を強めます。また、私たちの祈りに対する答えを神に要求するように、そして難しいことを神に求めるように、私たちを励まします。墓が開かれ、石が転がり去ったのですから、困難なことや不可能なことはなにもないのではないでしょうか?「彼の大能の力にしたがって信じる私たちに対して働く、彼の力の卓越した偉大さ」を神は私たちに教えようとしておられます。「神はその力をキリストの内に働かせて彼を死からよみがえらせ、ご自分の右手に置かれました」。この御言葉は、クリスチャンの時代、神はイエスの御名により何を喜んで行えるのかを示しています。キリストの復活は、私たちが求めうるあらゆるものに対する保証です。そして、私たちが「キリストの復活の力」の中で祈るとき、私たちは自分が行った以上のものを受けます。

主イエス・キリストの復活は真の奉仕のための力です。キリストの復活の証しを、聖霊は人々を救う神の力として常に格別に用いられます。キリストの復活は初期の使徒たちの務めの主な題目でした。使徒たちは常にイエスと復活を宣べ伝えました。キリストの復活はクリスチャンの生活や働きに独特な明るさと魅力を賦与します。多くのクリスチャンは、まるで自分の葬式に向かうところであるかのように、陰気な顔つきをしています。最近、私たちは一人の少女の話を聞きました。その少女はとても悲しそうな人たちと道で出会い、「お母さん、あの人たちはクリスチャンじゃないかしら」と尋ねました。母親が「どうしてそう思うの?」と聞くと、少女は「だってとても不幸そうなんだもん」と答えたのです。

これは修道院や十字架から来る類のキリスト教です。これは復活節の類ではありませんし、まさった類のものでもありません。イエスの宗教は春の花、さえずる鳥の歌、よみがえりつつある自然の芽生えの鼓動のように明るいものでなければなりません。私たちの主は、あの輝かしい朝、「平安あれ」という喜ばしい知らせを携えて女と会われました。彼はまた、私たちのクリスチャン生活の始まりの年、始まりの朝に、私たち一人一人と会ってくださり、私たちの力である私たちの主の喜びと共に前進しなさいと私たちにお命じになります。

この喜びは復活から生じなければなりませんし、墓の彼方の天上にある、昇天した主と共にある命によって維持されなければなりません。これが悲しく罪深い世界が今日必要としている知らせです。この知らせの標語は裁きの間の「エッケ・ホモ(見よ、この人を)」ではなく、復活節の夜明けの喜ばしい「平安あれ!」でなければなりません。内住のキリストと、クリスチャンの内にある復活の命が働けば働くほど、ますますその生ける力はこの世を引きつけ、聖別し、救います。

キリストの復活の力は、私たちが人生の最も困難な難所に直面して、その厳しい試みに耐えられるようにします。ピリピ人への手紙に、キリストの復活の力はキリストの苦難の交わりを私たちに教え、私たちを彼の死に同形化する、と書いてあります。私たちが復活の命の中に入るのは、私たちが彼と共に、彼のために、苦しむことができるよう強められるためなのです。

さて、ここで誤解があってはなりません。これは、「私たちは病や霊的生活における苦闘を通して、自分のために苦しむべきである」ということを意味するのではありません。こうした苦しみは私たちの経験の初期の段階に属すべきものです。私たちの主には、生涯の間、ご自分の聖別に関する戦いは全くありませんでしたし、戦うべき肉体上の病はなにもありませんでした。ですから、こうした苦しみを負う時、私たちはキリストの苦しみを負っているわけではありません。そうです、彼の苦しみは他の人々のためのものであり、また、彼の復活の力は、私たちを導いて苦難の中にある彼の教会と死にかけているこの世のために、彼の気高い聖なる悲しみにあずからせるものなのです。私たちの立場が困難になればなるほど、そして、私たちの労苦と苦難の領域が低くなればなるほど、ますます私たちはその困難に立ち向かうために、彼の恵みと栄光によって引き上げてもらわなければなりません。高みから私たちは深みに達しなければなりません。ですから、私たちを天上に引き上げるこれらの手紙は、私たちを毎瞬毎瞬ごく普通の義務に、ごく普通の人間関係に、そしてきわめて厳しい試みに連れ戻すのです。最も高い信仰や力について述べているエペソ人やコロサイ人へのこれらの手紙は、万人に共通する誘惑、夫や妻の義務、忠実さの必要性、禁酒、誠実さや正しさ、人間生活にまつわるあまりロマンチックではない実際の経験全般についても述べています。

冒頭に引用したイザヤ書の御言葉はとても素晴らしい御言葉であり、ピリピ人への手紙の思想と平行しているように思われます。この御言葉は「鷲のように翼をはってのぼる」人々について私たちに告げますが、その直後、この同じ人たちが人生の日常の歩みに降りて来て、「走っても疲れることなく」、「歩いても弱ることはない」のを私たちは見ます。まるで、のぼるのは走ったり歩いたりするよう整えられるためであるかのようです。恵みと栄光の高度な経験は、まさに彼らが労苦と試みの低い水準を歩めるようになるためなのです。これは、使徒が艱難を誇ることについて述べているのと一致します。「誇る」ことは魂の最も気高い姿勢であり、「艱難」はどん底の苦難です。ですから、これが私たちに教えているのは、私たちがどん底の低地に来る時、私たちは最も高度で天的な霊の中でそれに直面しなければならない、ということです。これは変貌の山を降りて、下界の平地にいる悪鬼どもに直面し、苦しむ世からサタンの力を追い出すことです。そうです、これこそキリストの苦難です。キリストの復活の力は、彼の輝かしい生活の高みにのぼるよう私たちを整え、これを可能ならしめ、私たちを助けるためのものです。それはキリストのように私たちが前進して、その復活の力を他の人々の生活の上に祝福のうちに反射するためであり、そして、神との夢のような交わりによって得られる喜びよりもなお甘い喜びを、聖なる愛を分け与えることによって見いだすためなのです。