第4章 キリストの内に住む

A. B. シンプソン

「わたしの内に住んでいなさい。そうすれば、わたしもあなたたちの内に住みます。枝がぶどうの木に住んでいなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたたちもわたしの内に住んでいなければ、実を結ぶことはできません。」(ヨハネ十五・四)

奇妙なことに、普段の生活で最も価値あるもの、そして霊の世界で神にとって最も重要なものが、悪魔によって最も乱用され、悪用されてきました。サタンは貪欲な洞察力を用いて、この王国の宝を握ってきました。神はこのぶどうの絵図を用いて、それが彼の食卓でキリストの命、キリストの血、キリストの体と血の交わりを象徴するものとされました。しかし、このぶどうの絵図はまた、人の堕落の最もひどい有様を示す象徴ともなり、酒場や広い道の象徴になってしまいました。数百万の人々が最良最善の道を外れて、この広い道の上を滅びに向かって流されています。サタンがぶどうを選んだのは、それがとても尊いからです。ですから、今日、ぶどうは極悪なものを連想させるものになってしまいましたが、ぶどうは神のすべての御言葉の中でも最も力強く最も神聖な象徴であり、他でもない彼の恵みの豊かさを示すものなのです。主の最初の奇跡は水をぶどう酒に変えることと関係していました。また、主が弟子たちと持たれた最後の最も貴重な食卓を囲む集まりでは、ぶどう酒が彼の命そのものの象徴となりました。主は、「わたしの父の王国で新たに飲む日まで」この杯から二度と飲むことはしない、とこの神聖な約束を残されました。

おそらく、このぶどうの木とその枝々という昔から親しまれてきたたとえほど、単純で、完全で、霊的助けになるたとえは、新約聖書のどこにも見あたらないでしょう。このたとえは馴染み深いたとえですが、再びこのたとえから新たな学課を学ぶことにしましょう。

ぶどうの木のたとえが教えること

ぶどうの木に関してまず第一に印象的な点は、実を結ばなければなんの役にも立たないということです。もし実を結びそこなうなら、それは世界で最も価値のないものとなり、束にされて捨てられ、燃やされてしまいます。ぶどうの木はとても弱くて脆いため、たきぎには使えません。また、あまりにもくねっているので、家具用にも使えません。ぶどうの木が実を結ぶという主目的を果たしそこなうなら、それは全くなんの役にも立ちません。ですから、エゼキエル書十五章のぶどうの木に関するたとえで、神はこの事実を用いられました。神はエゼキエルをぶどう園に遣わして言われました、「ぶどうの木は実を結ばなければなんの役に立つだろうか?」。そして、神はこの鮮明な絵図を用いて、イスラエルは失敗したため役に立たず、投げ捨てられ、拒絶され、滅ぼされるしかないことをエゼキエルに語られました。

これはクリスチャンにもあてはまりますし、より霊的な段階やきよめられた生活の経験にもなおいっそうよくあてはまります。神に近づけば近づくほど、ますますあなたはこの世の中で役に立たない者になります。実を結ばないクリスチャンは、この神の宇宙の中で最もあわれな被造物です。クリスチャンはこの世の快楽や野心に戻っても、成功を収めることはできません。もしそうしようと試みるなら、挫折して傷ついてしまいます。特に、クリスチャンが神のあらゆる豊かさを知るようになる時、その人はこの世で生計を立てるための昔の手段を失います。まるで水の上を歩き始めたシモン・ペテロのようです。ペテロは以前は水中の生き物のように泳げたのに、泳ぐことができませんでしたし、そのままなら溺れていたでしょう。しかし、ペテロは一段高い水準に上ったのであり、神は彼を低い水準に降ろそうとはされませんでした。神の子供がもはや自分にふさわしくないものになろうとすることは、なんと愚かしく、なんと残念なことでしょう。神があなたを贖われたのは目的があります。その目的のために自分を神にささげなさい。そうするなら、神はあなたを輝かしい成功者にしてくださいます。もしあなたが神を失望させ、あなたの人生を悪用するなら、神はあなたをそれにふさわしい惨めな者とされるでしょう。もし神のために実を結ばなければ、あなたはなんの役にも立たないのです。

ぶどうの木は生きながらえて実を結ぶために、外側の供給源に頼ります。ぶどうの木は遠くまで張り巡らした根を通して大地から養分を得なければなりません。あるいは、葉を通して大気中から養分を得なければなりません。ぶどうの木は上と下の二つの世界から養分を得るための精妙な循環吸収機構を持っています。ぶどうの木を道端に投げると、それは死んでしまいます。ぶどうの木は自給自足の独立した生活を送ることはできません。それと同じように、あなたや私は自分の外側にある供給源に依存しているのです。私たちは毎秒、大気から息を吸わなければなりません。神に拠り頼んで生きなければなりません。外側にある神聖な供給源に拠り頼まなければなりません。さもないと、私たちは完全に失敗してしまいます。ですから、私たちは環境に拠り頼みません。ぶどうの木の根をたどると、その根が数百フィートも伸びているのがわかります。その根はなにか養分を与えてくれる生き物を探し求めます。そして、それを見つけると、根は豊かな命を分配し始めます。神の真の子供を荒野に置くなら、その人はなんとかして神を見いだし、その荒野に対する祝福となるので、そこはもはや荒野ではなくなるでしょう。もしあなたがこのぶどう園に属する者なら、どうか憶えていてください。あなたは天の供給に頼って生きているのであり、神との関係を維持しなければならないのです。

ぶどうの木は自分自身では実を結べないことを私たちは憶えておかなければなりません。実を結ぶのは、その枝々です――小さな枝々、毎年新たに伸びてくる若い枝々です。太い幹は実を結びませんが、実を結ぶ枝々に力と命を供給します。そのようにイエス・キリストは実を結びませんが、私たちに実を結ばせます。彼は私たちを支え、彼の力を私たちに与えてくださいます。そして、私たちはこの祝福をこの世に与えます。彼が私たちを世の中に置かれたのは、私たちを彼と人類とを結ぶ絆とするためです。彼は以前そうされたように、これをご自身で行うこともできたのですが、彼のご計画は私たちが実を結ぶことです。私たちは絶えず新しい枝を伸ばし続けなければなりません。私たちが生きて成長し、常に新鮮であり続ける時だけ、私たちは実を結ぶ枝々となることができます。なんという栄誉を神は私たちに賜ったのでしょう!

ぶどうの木は枝々を含みます。ぶどうの木は幹と多くの枝々ではありません。そうではなく、枝々がぶどうの木そのものを形成し、両方とも一つなのです。イエスが「わたしはぶどうの木であり、あなたたちは枝々です」と言われた時、それは「わたしはあなたたちのようであり、あなたたちはわたしのようです」という意味でした。とても美しい絵図です!これはキリストとその慎ましい子供たちとの間に、驚くほど深い親密さを生み出します。これはパウロが使っている表現とほぼ同じです、「体は一つですが多くの肢体があるように(中略)キリストもそのとおりです」。「キリストのからだもそのとおりです」ではなく、「キリストもそのとおりです」となっていることに注意してください。彼は頭だけでは不完全であり、彼の神聖な性格と神秘的な命を補完して完成させるために私たちを必要とされます。このように、イエスはご自身を私たちと一つにされ、私たちは彼と一つになります。彼はこの合一によって私たちに栄誉を与え、私たちに自分の命を彼から引き出すよう期待しておられます。

枝々は自分の命をぶどうの木から得なければなりません。枝々が実を結んでいる間、彼は命を与えてくださいます。キリストは天におられますが、それは私たちのために神の命を絶えず供給するためにほかなりません(水道システムの巨大な水源が町の隅々にまで水を供給しているのと同じです)。あなたが彼のもとに行ったとしても、彼の時間を邪魔することにはなりません。彼はすべてあなたのものです。あなたは自分が必要とするものをなんでも、彼の奉仕と栄光のために彼から得ることができます。

ぶどうの木は刈り込みを必要とします。さもないと、その命の大部分は無駄になってしまいます。ぶどうの木には立派な葉が茂り、それらはおそらく美しいものかもしれませんが、その真の目的を妨げます。ですから、農夫はぶどうの木を刈り込み、それをむき出しの粗い外見のまま残します。一時の間、これは冷酷な破壊の過程のように思われますが、ぶどうの木はついにはさらに豊かな実を結びます。実際、刈り込みがなければ実はならなかったでしょう。ですから、「わたしは実を結ぶ枝々を刈り込んで、その枝々により豊かな実を結ばせます」と神は私たちに仰せられます。

訓練する恵みの良い点は、それが天然的な衝動を抑えるだけでなく、霊的な衝動さえも抑えることです。それは懲らしめのためというよりも、むしろ制止のためです。霊的な衝動でさえ、神の指導と聖別する裁きの下で抑制されなければなりません。クリスチャン生活の営みは、良い考えが浮かぶたびにその考えを抱えて好き勝手することではありません。そうではなく、私たちの天の教師と神聖な導き手の御心の下で自制することであり、彼に私たちを形造り形成してもらうことです。彼はおそらく私たちをしばしば失望させ、私たちを切り落として無に帰されるかもしれません。しかしそれは、私たちがより深く根を下ろし、私たちの実が豊かで永続するものとなるためなのです。

ぶどうの木の実は常に房の形でなることを、私たちは教わっています。そのように、私たちの霊の命は交わりの中で成長します。私たちは神から独立していないように、お互いに独立していません。ですから、神の恵みは私たちを組み合わせて、相互的な協力関係、社会関係、家族の絆、友情、共同作業の中にもたらします。私たちは異なる場所にいますが、それらの場所はまさに神の鋳型・経路であり、神の機会です。それらを通して、神は私たちを神の恵みの受け手とされるだけでなく、私たちが接触する人々に対する祝福ともされるのです。

ぶどうの木はまた、クリスチャン生活の喜ばしさを暗示します。ぶどう酒は喜びの象徴であり、これまで常に実を結ぶ喜ばしさを象徴してきました。この思想は次のことを意味します。すなわち、神に対して実を結ぶクリスチャン生活は、神に対して、人々に対して、私たち自身に対して、喜びをもたらすのです。

1.合一

このぶどうの木のたとえには、三つの重要な霊的学課があります。第一の学課は合一です。「わたしの内に住んでいなさい。そうすれば、わたしもあなたたちの内に住みます。(中略)人がわたしの内に住み、わたしがその人の内に住んでいるなら、その人は多くの実を結びます」。

ですから、第一の点はキリストに結合されることです。これは一つのささやかな前置詞、わたしの「内に(in)」、あなたたちの「内に(in)」によって描写されています。「わたしの内に」はあなたを救います。「あなたたちの内に」はあなたを聖化します。キリストに結合されるとき、あなたの罪はあなたから取り去られ、彼の義があなたのものになります。あなたは義とされます。イエスが御父の愛を受ける権利を持っておられるように、あなたもその権利を持っています。祈りをかなえてもらう権利をイエスが持っておられるように、あなたもその権利を持っています。あなたが彼の御名の中でみもとに来るとき、彼が受け入れられるようにあなたも受け入れてもらえます。あなたは彼と同じように、過失や咎のない者として御座の前に立つことができます。ヨハネが言うように、「私たちは裁きの日に大胆さを持つことができます。なぜなら、私たちはこの世にあって彼のようであるからです」。これがキリストとの合一の第一の面です。あなたがキリストの中に入る瞬間、あなたは古い罪の命から出ます。あなたは自分の間違いや咎に対する負債や責任を免れます。それらは彼の御手に渡ります。まるで自分の古い生活をやめて夫の一部になった妻のようです。夫が妻の責任を負います。そのように、あなたもキリストとの協力関係の中に入りました。キリストがあなたの責任、咎、恥を引き受けて、彼の義、功績、御父の御前における彼の地位と交換してくださいます。ですから、私たちはキリストの内にいるのであり、義とされています。「ですから、今や、キリスト・イエスの内にいる者は罪に定められることがありません」。

「わたしがあなたたちの内におり」。これは第一の点と同じように必要なことであり、それに続かなければなりません。さもないと、第一の点は死んだ文字、空しい告白になってしまいます。あなたが彼に結合されて彼の権利を得ただけでなく、彼もあなたに結合されてあなたの個人生活の中に入って来られました。これを説明してありありと描写することは、人の言葉だけでは不可能です。あなたがそれを十分理解するには、神がそれを事実としてくださらなければなりません。しかし、「あなたたちの内におられるキリスト、栄光の望み」というこの福音の奥義を明らかにするために、絵図が少しは役に立つでしょう。

どうすれば人は別の人の中に入れるのでしょう?食物がどのようにあなたの中に入って繊維組織の一部になるのかはご存じでしょう。しかし、これはひどく不十分な絵図にすぎません。あなたがなにか僅かな薬物を自分の体内組織に受け入れるとき、あなたはそれを溶かして飲むかもしれません。すると、その薬物は刺激剤となり、あなたの中になんらかの変化を生じさせます。それはあなたの体調を変え、向上させ、刺激し、興奮させます。そして最後は、アルコールと同じようにその反応は弱まっていきます。その薬物はあなたの中で、多かれ少なかれ、あなたを天然のあなた以上の者にします。あなたは酸素を吸い込むことがどういうことかご存じでしょう。酸素を吸い込むとき、あなたは生き生きとし、養いを受けます。私たちの生命は自然の物から刺激、興奮、高揚感を受けることができますが、これらの絵図はこの事実を示す絵図にほかなりません。あなたは虚無主義や社会主義の過激な教えを吸収することがどういうことかご存じでしょう。今も従者のうちに生きているモハメッドや孔子のようなものです。私たちは催眠術の力について幾らか知っています。ある思いが他の人の中に入ると、その人は選択することも行動することもできなくなってしまいます。優しい聖なる友情の影響について、私たちはさらによく知っています。人が他人を愛して、その他人の心象や思いを吸収してしまうのです。このように、私たちはみななにかを取り込んでいます。私たちは食物を取り込んで体を養っているだけでなく、思いの中に情報を取り込み、判断の中に判断材料を取り込んでいます。また、霊の中に人生の目的や目標を支配するものを取り込み、心の中に私たち多くの者にとって人生の指針となるものを取り込んでいます。

さて、これらの絵図はみな、神の御言葉が示すこの至高の事実に近づく道にほかなりません。神は彼の民に一つの命、一つの思い、一つの心、一つの存在を与えてくださいました。それには特定の目的がありました。その目的とは、神が彼らの中に入って、すべての人を所有し、支配し、鼓舞し、力づけることです。それにより、だれでも神と完全に一つとなることができ、神の命そのものの中に入って、神ご自身の神聖な理想によみがえることができます。しかし、それでも依然として、私たちの個性、責任、自由はそのままです。私たちは神が愛されるものを愛し、神が選ばれるものを選び、神が行われることを行います。これは畑の中に隠されている宝と高価な真珠という双子のたとえです。両方とも神の教会を示しています。畑の中に宝を見つけ、その宝に心を定め、その畑を買った人はイエス・キリストでした。畑は世界であり、宝は彼の民でした。彼がこの宝を見いだされた時、彼はそれを愛してそれを買い、畑とその中にある宝のためにご自分の命をお与えになりました。しかし、その宝はすべて散らされて無数の粒子になっていました。これは一人一人の個人であり、各々の人を彼は買われました。これは個々のクリスチャンとしての私たちを表しています。第二のたとえでは、一つの輝かしい高価な真珠が出てきます。宝の小さな粒が集まって一つの塊になりました。今やそれは一つのきらめく真珠であり、新エルサレムでは彼の冠の中で輝くでしょう。ですから、彼は私たちを一人一人取り込んでおられ、私たちは少しずつ集められて一つの実体になりつつあります。いつの日か私たちは高価な真珠、神の宇宙の中で最も輝かしいものになるでしょう。

私たちの内におられるキリストは福音の奥義です。キリストは私たちを満たしておられるので、私たちは彼のようになります。彼は私たちの内に働いて、「彼の御旨を願わせ、行わせます」。親愛なる友よ、私たちはこの奥義の二番目の部分「わたしがあなたたちの内におり」を手に入れたでしょうか?これが聖化し、これが栄化します。これが私たちを彼のように強くし、キリスト・イエスの中で私たちに勝利を与えます。

2.交わり

このぶどうの木のたとえから学ぶべき二番目の霊的学課は交わりです。私たちはキリストに結合されなければなりません。結婚の取り引きをしなければなりません。二つの生活が一緒になって一つになります。次に、ふたりはそれに従って生活しなければなりません。ですから、この生活は「わたしの内に住んでいなさい。そうすればわたしもあなたたちの内に住みます」に続きます。キリストに結合されるだけでは十分ではありません。あなたはこの新しい生活の責任を理解し、その行いを習慣化しなければなりません。行いと習慣は別です。行いは一時的であり、習慣は永遠に続きます。枝はぶどうの木に接ぎ木することができますし、農夫がよしとするなら、包んでしっかりと固定することもできます。こうして接合されます。しかし、この結合が完全なものになるには数日必要です。ゆっくりと小さな繊維が共に成長し、ゆっくりと樹液が流れます。しばらくすると、この結合が自然の木よりも強くなっていること、その枝がぶどうの木の一部となってその命をぶどうの木からすべて得ていることを、あなたは見いだします。キリストの内に住むこともそうです。ある聖なる時、私たちは自分自身を彼に委ね、彼を受け入れ、この世にそのことを告げます。次に、私たちは出て行ってこの生活を送ります。愛する人よ、このように神の臨在をゆっくりと忍耐強く実行することによって、拠り頼む習慣が培われるのです。私たちの勝敗はこれにかかっています。常に拠り頼む習慣を培いなさい。あらゆることにおいて「もはや私ではなくキリスト」とならせなさい。これがごく自然なことになって、なにも考えなくても実行できるようになるまで、「これはイエスが行ってくださいます」「主よ、私はどうすればよいのでしょう」とほぼ機械的に言うようになるまで、これを続けなさい。こうして、私たちはどんなささいなことでも彼に拠り頼む習慣を確立します。

あなたの衣をみごとに仕上げるのは、ささやかな一針一針です。「彼女は裁縫された衣を着て王のところに導かれます」。これは細糸と締め具を暗示します。それらが聖潔という衣を支えます。それらは刺繍の構成要素である小さな輪です。

偉大で善良なスポルジョンはこの拠り頼む単純な生活を送った人です。ある日、彼は声を出しながら建物を調べていました。「私は何を話そう?」。彼はシェークスピアの一節を引用する代わりにヨハネ三章十六節を繰り返しました。彼の声は建物中に鳴り響き、近くの工場の一つに届きました。その工場には絶望の中にある一人の哀れな人がいて、救いの望みを全く失いかけていました。すると突然遠くから、「神はそのひとり子を賜ったほど、この世を愛されました。それは御子を信じる人が一人も滅びることなく、永遠の命を持つためです」という声が聞こえてきました。彼はわっと泣き出し、作業台の切りくずの間に倒れ込んで、自分を神にささげました。二十五年後、彼は死の床でこの偉大な牧者を呼び寄せました。そのとき初めて、スポルジョンは路傍伝道でその人が救われたことを知ったのです。どうしてこのような事が起きたのでしょう?スポルジョンはあらゆることをキリストと共に行う習慣を身につけていたからです。そのおかげで、彼はあまり考えなくてもそうすることができたのです。私たちは「すべては聖く神聖である」と見なそうではありませんか。そして、キリストが私たちの内でご自分の生活を営んでおられることを自覚しようではありませんか。

3.実を結ぶこと

このぶどうの木のたとえから得られる三番目の学課は実を結ぶことです。実を結ぶとはどういうことでしょう?聖なる者になろうとして辛い時間を過ごすことでしょうか?なにかを成し遂げようとして、知らず知らずのうちに戦うことでしょうか?いいえ、実を結ぶことはうるわしく、簡単で、自然なことです。ぶどうの木にとって、ぶどうの房をならせることはそうしないことよりも容易であり、花を咲かせることは実を実らせないことよりも容易です。実を結ぶことは溢れ流れる命です。命で満ちているからです。実を結ぶことは大いに努力することではなく、彼の偉大な命を受けることです。実を結ぶことは昔ながらの学課ですが、この新しい生活で学ぶべき一つの学課でもあり、彼に専有されることです。年老いた農夫が田舎者らしい素朴さで懐疑論者に言いました、「わしのガチョウは草を食べて羽を生み出す。わしの羊は草を食べて羊毛を生み出す。わしの牛は草を食べて肉を生み出す。わしの馬は草を食べて走る。どれも同じ草じゃが、それを食べる者の性質によって違ったものになる」。さて、親愛なる友よ、この同じ命があらゆる経路を通って流れ、子供をいっそう良い子にし、母親をいっそう優しい母親にし、妻をいっそう穏やかにし、社会人を神にいっそう拠り頼む者にします。これはまさに、あなたの性質や必要に応じて流れるイエスの命です。

この命はあなたを清めます。「あなたたちはわたしが語った言葉によってすでに清いのです」。この命は祈りに答えをもたらします。「あなたたちがわたしの内に住んでおり、わたしの言葉があなたたちの内に住んでいるなら、なんでも望むものを求めなさい。そうすれば、それはあなたたちに与えられます」。この命は喜びをもたらします。「それはわたしの喜びがあなたたちの内にとどまるためであり、あなたたちの喜びが満ち満ちるためです」。

さらに彼は言われます、「人がわたしの内に住んでおり、わたしがその人の内に住んでいるなら、その人は多くの実を結びます」。親愛なる友よ、苦闘して落胆している人の中に、この知らせを必要としている人がいるかもしれません。最善を尽くすために誠実に努力しているのですが、間違った方法で努力しているのです。彼のところに行き、「私は善なる者ではありません。あなたはそれをご存じです」と告げなさい。「私はなにもできません。もう失敗しても落胆しません。あなたが責任者であり、私を切り抜けさせてくださらなければなりません。あなたにそうしていただきたいのです」と告げなさい。彼に触れなさい。そして、彼を見いだすまで去ってはなりません。そうするなら、彼が来てくださって、「すべてを新しくされる」のをあなたは見るでしょう。