第5章 わたしの愛の内に生きなさい

A. B. シンプソン

「わたしの父がわたしを愛されたように、わたしもあなたたちを愛しました。わたしの愛の内にとどまり続けなさい。」(ヨハネ十五・九)

この美しいたとえを貫いている、この「続ける」という言葉は、「生きること」を意味します。この言葉は様々に訳されており、「続ける」「住む」と訳されることもあります。「わたしの父がわたしを愛されたように、わたしもあなたたちを愛しました。わたしの愛の内に生きなさい」。

なんと甘い知らせを聖霊はこの節で私たちに知らせてくれるのでしょう!「私はあなたを愛しています」。人が愛すべき対象に向かってこの言葉を発するとき、これは常に甘い言葉となります。「わたしの父がわたしを愛しておられるように、わたしもあなたたちを愛しています」はさらに大いなる知らせです。しかし、さらに偉大なのは「わたしの愛の内に生きなさい」という御言葉です。この御言葉は、この知らせを受け入れた後に続くべき幸いな特権です。

勇敢なナンセンが故郷を離れて、厳寒の雪が舞う神秘的な北の海に向かった時、彼の愛する妻は彼の船に名前をつけ、見送って言いました、「神があなたを祝福してくださいますように。さあ、行ってください。私はあなたを愛しているからこそ、あなたを送り出すのです」。

数ヶ月たったある日のこと、彼女は窓をつつく小さな音と羽ばたきの音を聞きました。彼女がサッシを開けると、小さな鳩が家に辿り着いたのを喜んで中に飛び込んできて、彼女の手の中で休みました。彼女はその翼の下に手紙を見つけました。その手紙は最近書かれた手紙で、彼女の愛する夫からのものでした。その手紙は北極の雪と北の荒れ地を数千マイルも越えて、夫が心を込めてこの孤独な女性に送ったものだったのです。妻がその手紙を読み、夫の無事を知り、遠く離れていても交わりの慰めを享受できた時、それはなんと甘かったことでしょう。

そのように、天の鳩である聖霊は諸々の空間と時代を貫いて下り、最高の友からの言葉を望む人の心にこのささやかな知らせを送り届けてくださいます。おお、親愛なる友よ、この知らせを鳩の翼から受け取って、あなたの心に結びつけなさい。そして、試練、困難、孤独、暗闇が訪れる時、この知らせにあなたを支えてもらいなさい。彼があなたに言われることを聞きなさい、「わたしはあなたを愛しています――そうです、わたしが父に愛されているのと同じように、わたしはあなたを愛しています」。救い主の愛の内に生きなさい。救い主の愛の内に生きることを、あなたの要素、環境、家としなさい。

御子に対する御父の愛と私たちに対する御子の愛

第一に、私たちはイエスに対する御父の愛を持ちます。この愛はあらゆる愛の偉大な模範であり、源です。「わたしの父がわたしを愛されたように」。これは愛の大いなる永遠の神秘です。人の心が魂を揺り動かす最も甘い情熱で脈打つよりも前に、母親が自分の赤ん坊をうっとりと眺めるよりも前に、あるいは花婿が喜びをもって花嫁を見つめるよりも前に、神は愛でした。そして、彼方の三位一体の家には三つの心があり、それらは不思議なことに三であり、不思議なことに一でした。この三つの心は、最高至聖の愛情のかぎりを尽くした妨げられることのない完全な情熱をもって互いに愛し合っていました。御父は御子を愛されました。私たちはその光景を箴言の中に遡って垣間見ることができます。その光景はイエスが彼の大昔の時代について示されたものです。「山々が据えられるよりも前に、丘々ができるよりも前に(中略)わたしは日々彼の喜びであり、常に彼の御前で喜んだ。わたしの喜びは人々の子らと共にあった」。私たちが御父の微笑みの下で御父の心の内に住むとき、イエスがどのように生きたのかが少しだけわかるようになります。

彼は地上の務めで私たちに御父の愛について告げておられます。「父は子を愛して、万物を子の手に渡されました」。また、「父はわたしをひとりにはされません。なぜなら、わたしは父に喜ばれることを常に行っているからです」。御父ご自身仰せられます、「これはわたしの愛する子です。彼に聞きなさい」。この愛はたびたび現されたので、いかにイエスが愛されている方か、世は幾らか理解しました。

そして、私たちは「愛する方にあって受け入れられ」ます。文字どおりには、「愛する御子の中で」です。私たちはイエス・キリストに対する御父の愛はあまり知りませんが、私たちに対するキリストの愛についてはある程度知っています、

イエスに対する御父の愛は親族の愛です。これは私たちが親族に対して持っている愛であり、私たちの性質の一部です。御父はこのようにイエスを愛しておられ、イエスもまた同じように私たちを愛しておられます。彼は私たちを兄弟と呼ぶことを恥とされません。彼は私たちを愛して花嫁と呼ばれます。

イエス・キリストに対する御父の愛は、その背後に罪や咎の影がなにもない愛です。彼には謝らなければならないことはなにもなく、大目に見なければならないこと、目をつぶらなければならないことはなにもありません。この愛は全く喜ばしい愛です。このように御父はイエスを愛しておられ、イエスはあなたや私を愛しておられます。「愛する者よ、あなたは全くうるわしく、あなたには傷がない」。この世には、誤解や傷の記憶を伴わない友情はほとんどありません。しかし、御父と御子との友情、イエスとその弟子たちとの愛には、誤解や傷はありません。ああ、彼はあなたの中に美しい完全なものしかご覧にならないと信じなさい。あなたには理解できないかもしれませんが、彼は然りと仰せられます。

御子に対する御父の愛は、交わりを望んでその中にとどまり、愛の言葉を交わして心を通わせる愛です。そのように、あなたに対するイエスの愛は交流する愛です。また、この愛はあなたに会うことを求める愛であり、あなたを導いて彼と面会させ、彼の臨在を求めさせ、交わりの中にとどまらせ、交わりと祈りの生活を送らせる愛です。

次に、イエスに対する御父の愛は、イエスに聞いてイエスを助ける愛です。イエスは、「あなたはわたしの言うことを常に聞きいれてくださいます」と言うことができました。彼には確信がありました。「彼が叫ばれると、神はその叫びを聞かれた」となんとたくさん詩篇に書かれていることでしょう。ヘブル人への手紙の著者は私たちに告げます、「彼は激しい叫びと涙をもって、ご自分を死から救い出せる方に祈りをささげられました。(中略)そして、その深い信仰によって聞きいれられたのです」。弟子たちが湖で嵐に遭った時、イエスは荒れ狂う嵐では目を覚ましませんでしたが、弟子たちの恐怖の叫びを聞いた時、弟子たちを愛するがゆえに目を覚まされました。この愛でイエスはあなたを愛しておられます。彼は常にあなたの言うことに耳を傾けておられ、あなたの祈りの一息一息を聞き取ってくださいます。そして、祈りは確かに聞き入れられたと、あなたにささやいてくださいます。

また、御父の愛は彼を試す愛でもありました。ああ、恐ろしい罪の呪いが彼の上に置かれた時、それはなんと御父と御子の心を試すものだったことでしょう。御父が彼の上に私たちが受けるべき裁きを下された時、イエスは死の神秘の中へと下って行き、しばしの間、呪いの下にとどまらなければなりませんでした。これはなんと奇妙なことだったことでしょう!「わが神、わが神、どうしてわたしを見棄てられたのですか?」。なんと恐ろしい試みでしょう――御父は御子を罪人同然に試みて、御子を生き地獄さながらの状況の中に置かれたのです。しかし、聞いてください。御子は依然として御父に信頼しておられます。依然として「わが神」なのです。「父よ、わたしの霊をあなたの御手に委ねます」。

そして、御父が御子を愛しておられるように、イエスはあなたを愛しておられます。そして、彼はしばしばあなたを試されるかもしれません。御父は彼を大いに愛しておられたからこそ、十字架の勝利を惜しみなく彼に賜りました。それにはしばしの間、大きな代価が必要でしたが、ああ、その見返りのなんたることか!そのように彼はあなたを試されます。この奥義があなたに降りかかり、その杯は去らず、あなたの罪の日食が全天を暗くします。あなたの心はしばしばこの同じ苦いうめき声をあげますが、愛は全く同じであり、常に同じままです。

御父は御子を愛して、御子に偉大な計画、信任、事業をお与えになりました。この愛により、御子は歴史上最大の戦いを戦う機会を得、史上最大の勝利を獲得されました。御子に何がなしえるのか、御父は誇って全宇宙に示されました。そして、御父は御子の御手に御使いではなしえない使命、人類を贖って世界を回復する使命を委ねられました。もしイエスがあなたを愛しておられるなら、彼はあなたに輝かしい使命と大きな信任を与え、重大な計画、困難ではあるけれども神に栄光を帰して永遠の報いをあなたにもたらす事柄をお委ねになるでしょう。私たちが彼の代表となって、この世に対する祝福となること――これが彼が私たちに賜った働きであり、私たちに対する信任です。これによりイエスの愛が立証されるのです。

以上が、ささやかではありますが、御父が御子を愛しておられるようにイエスがあなたを愛しておられることの意味です。

イエスが私たちを愛される理由

イエスはどうしてこのように私たちを愛することができるのでしょう?これは理解できないことのように思われますが、事実です。

イエスが私たちを愛することができるのは、この愛を妨げる罪がすべて取り除かれて彼ご自身の上に置かれたからです。罪はもはやあなたの上にはなく、彼の愛やあなたの確信を曇らせることはありません。彼はあなたの咎、あなたの無価値さ、あなたの違反、あなたの罪深い心――この愛の経路に立ちはだかっていたすべてのもの――を処理してくださいました。彼はもはやそれらを覚えておられません。彼があなたをご覧になるとき、罪の雲は一つもありません。それと同じように、あなたは罪の雲の彼方を仰ぎ見て、彼の御顔を見なければなりません。

もう一つの理由は、イエスは私たちの内にあるご自身とその御姿を愛しておられることです。彼は私たちの自分自身をご覧になっているのでは全然なく、彼の御姿と御性質を受けた者としての私たちをご覧になっているのです。私たちはついには彼ご自身の美しさの反映となります。あなたが神のみもとに来る時、御顔を見つめて「私は価値のない者です」と言わないでください。それは彼を侮辱することです。彼はあなたの自己と罪を葬られたのですから、それらを掘り返さないでください。むしろ、「ああ、ほむべきキリストよ、私が今あるのはあなたの恵みのおかげです。私はあなたが与えてくださった信仰、聖潔、愛をあなたのみもとに持って参ります!」と言いなさい。レベカはイサクが彼女に送った衣を着て彼に会ったので、イサクは自分の衣を認めることができました。ですから、イエスの美の衣をまとって神の御前に行きなさい。自分が着ている神聖な義に信頼しなさい。

また、イエスがこのように私たちを愛することができるのは、この愛は彼のためであって私たちのためではないからです。それはあなたがこの愛に値するからでも、あなたが彼の愛情を勝ち取ったからでもありません。また、私たちの粘り強い親切さ、善良さ、愛情によって、イエスを納得させて引き寄せたからでもありません。全く違います。この愛は第一に全く彼から発し、自発的なものであって、彼の御心に基づいているのです。この愛は子供に対する母親の愛のようです。子供が可愛らしくなる前から、母親の愛はほとばしり出ます。この愛は神ご自身に由来する永遠の愛であり、たとえあなたがそれにふさわしくなかったとしても、全く問題ではないのです。

私たちが自分自身のことを喜ばしく思っていない時でも、イエスは私たちを愛することができます。なぜなら、彼は私たちが少しずつ成長しているのをご覧になっているからです。これはキリストの愛の栄光の冠たるものです。彼は今の欠点や問題を気になさいません。なぜなら、彼の前には目標があり、その目標に向かって働いておられるからです。彼があなたをご覧になるときは常に、あなたの将来の姿をご覧になっているのです。彼は少しの遅れくらいで落胆されません。あなたは今は欠点だらけかもしれませんが、彼の偉大な信念は永遠の栄光をもたらします。彼があなたのことを思う時はいつでも、天における百万年後のあなたのことを思っておられるのです。ああ、この愛を受け入れようではありませんか。そして、この愛に私たちを愛の生活の中へと引き上げてもらい、ただ彼の愛の内に生きるよう私たちを導いてもらおうではありませんか。

私たちは何によって生きているのか

「わたしの愛の内にとどまりなさい」。わたしの愛の影響の下で生活しなさい。私たちがそれによって生きている愛ではないものを見るなら、これはいっそう容易になるかもしれません。

ある人々は頭脳によって生きています。つまり、思想、意見、教理によって生きています。中にはいっそう深い教えに進む人もおり、自分の聖書によって、聖書の朗読や学びによって生きています。ある日、ある人がベーコンスフィールド卿に彼の立場は何かと尋ねました。すると彼は「私の頭脳です」と答えました。つまり、彼は自分の脳、自分の輝かしい知性、自分の並外れた才能によって生きていたのです。今日、自分の頭脳に基づいて生きている多くの神学者がいます。彼らの後を追いかけている人々、新しい思想、理論、流行に飛びつこうと常に身構えている人々がなんと多いことか。私たちの宗教的な特別集会や霊的な集まりで、聖書の学びをしすぎる傾向がしばしばあります。聖書の学びは重要ですが、必要以上の真理を学んでも仕方ありません。あなたの魂の中におさまって、生活の中で経験できる、聖霊によって燃え立たせられた真理。これ以上の真理を学んでも仕方ないのです。

ある人々は自分の良心や道徳的性質によって生きています。彼らにとってキリスト教とは、できるだけ守るべき規則集です。これはとても辛い戦いですが、彼らはこれにしがみつき、にこやかに耐え忍びます。これは困難な修養の類のものです。

ある人々はキリスト教の暗黒面に生きて、常に罪定めの下で生活しています。「神は自分を撃とうとしておられます。自分はそれに値します」と彼らは常に思っているようです。彼らは半分目を逸らしつつ御顔を仰ぎ見ます。まるで、神は自分たちに語りかけてほしくないのではないか、と恐れているかのようです。彼らは常に自分自身の過ちを見つめ、座して自分たちの自己を裁きます。これは恵みの子供が生きる場所ではありません。それであなたはよりよい人になることはありません。「わたしの愛の内に生きなさい」。罪定めではなく永続する愛の内に生きなさい。神が望んでおられるのは愛であって、処罰ではありません。

ある人々は仕事によって、多忙なあわただしいクリスチャン活動によって生きており、いつも働きすぎなのですが、その中にはなんの甘さも享受もありません。主はこれにうんざりして多くの人に言われます、「マルタよ。あなたは多くのことに気をつかって思い煩っています」。そして、主はマルタを愛する一方で、ご自分の足下に座って彼の愛の内に生きる人を称賛されました。私たちのクリスチャンの働きは生きる場所ではありません。働きはあなたの愛の結果、聖霊の実でなければなりません。働きの背後には、彼を喜ばせることを願う愛の生活がなければなりません。ユダは慈善協会の議長でした。しかし、自分の香油を持って来てそれを主の頭に注いだマリヤは、奉仕を主にとって無上の価値を持つものとしたのです。

ある人々は経験によって生きています。彼らはさらなる刺激、興奮、霊的経験を求めます。それで満足している間は幸せなのですが、それで満足できなくなり、その経験が無くなると絶望します。あなたの経験によって生きないでください。見つめずに経験を受け入れ、その後を追って叫ばずに経験を去らせようではありませんか。そして、彼を見つめ続けようではありませんか。そうするなら、経験はその後におのずと続きます。

冷たい十一月の強風にさらされている小さな花を思い浮かべてください。その花はそこでは生きることができません。その花を太陽の光の差し込まない暗い地下室に置くなら、そこでも生きることはできません。しかし、その花を日の光の中に持って行って水をやり、春と夏の暖かい大気の中で太陽の微笑みを浴びさせるなら、花を咲かせるようになります。その花は自分に適した環境の中にあります。その花は暖かい大気、光、元気づけてくれる水を欲します。恐れという冷たく凍りついた環境の中にあるクリスチャン生活もこれと同じです。イエスの愛という夏の土地では、クリスチャン生活は花のように開花して、ぶどうの木のように実を結ぶのです。

しばしの間、十二インチ四方の小さな針金でできた巣の中にいる鳥のことを思い浮かべてください。その鳥は小さな止まり木の上に止まり、小さな器から飲んで、小さなオウムの歌を歌います。この巣はその鳥の故郷ではありません。この巣はその鳥にとって心地よくありません。その鳥を空に解き放って天空の太陽光を浴びさせ、美しい森々の枝々にとまらせるとき、鳥は心地よい環境の中でなんと優雅にくつろぐことか。神は鳥のために天空、大気、自然界の心地よい自由な環境を備えてくださったのです。

しかし、私たちが話しているのは、束縛され、閉じ込められ、自由を失った神の子供たちについてです。彼らがそうなってしまったのは、誤った確信と、性格や生活に関する誤った目的のためです。彼らは広大な土地――キリストの愛と、その喜びと愛から発する自由――に達していません。キリストが解放された人々に、聖霊はこの喜びと愛を与えてくださるのです。

キリストの愛の内に生きる方法

私たちはキリストの愛の内に生きる方法を知る必要があります。

第一に、いかなる状況下でも、彼はあなたを愛しておられると常に信じなさい。あなたが生まれる前から、彼はあなたを愛して救ってくださいました。あなたのなすべきことは、あなたがキリストの愛を見いだす時、それを受け取ることだけです。彼はあなたの想像を遙かに超えてあなたを愛し続けてくださり、慈愛に満ちた優しさで強くあなたを愛しておられます。その愛の強さは、悪魔やあなたの自己にもかかわらず、あなたを救ったほどだったのです。

あなたは彼の臨在を認識しなければなりません。「私は絶えず主を私の前に置きました」。彼はいつもあなたと共におられることを信じなさい。一人の小さな子供が立ち上がって、あるとても有名な句を暗唱し始めました、その句は彼女がよく勉強した句で、たびたび語っていた句でした。少しすると彼女はすすり泣きを始め、泣き崩れて、暗唱を終えることができませんでした。彼女の父親は群衆の中から進み出て彼女に言いました、「どうしたんだい。この句はよく知っていると思っていたのに」。彼女は答えました、「知っているわ。でもお父さんの姿が見えなかったの。お父さんが見える所に立っていてくれるなら、上手に暗唱できるのよ」。そこで父親がそこに微笑みながら立つことにしたところ、少女は高らかにささやかな演説をこなしたのです。彼女は父親の顔と愛情をたたえたほほえみを見つめました。そのように私たちも常に彼を見たいと願います。そうするなら、私たちは決して気落ちすることはないでしょう。

あなたは明るい面を見なければなりません。不可解な事柄や難問や影を見るのではなく、明るい事柄を取り上げてその記憶を大切にしなさい。楽観主義者になって、悲観主義者になってはなりません。南部の著名な医者の話ですが、彼は子供の頃、小さな丸太小屋で育ちました。その丸太小屋の表玄関を開けるとそこは不潔な汚れた地面で、その横の窓を開けるとそこは豚小屋でした。しかし、裏にはとても高いところに窓があって、美しい山々を一望できたのです。学びのためにその家を離れようとしていた時、彼は母親に言いました、「お母さん、この裏窓を一緒に持って行きたかったな」。母親は答えました、「この窓は一緒に持っていけないけれど、明るい面を見る習慣は持っていけるのよ。あなたの魂の中に明るい小窓を持ち続けなさい。そうすればどこにいても、楽しくて美しいものをいつでも得られるのよ」。これが彼の人生を修復する要因となったのです。医者になった後、彼は言いました、「気がついたら、私自身患者たちに向かって、『希望を持ちなさい。ほがらかでありなさい』と教えるようになっていたのです。明るい面を見ること、愛の面を見続けること、疑いや恐れの面を見ないことが、人としてまた医者としての私のすべてだったのです」。

ビリー・ブレイは悪魔との短い会見について私たちに告げます。「ある日、庭の手入れを済ませようとしていたら、サタンがやって来てこう言ったのさ。『ビリー、お前は四年間も神のために辛い働きをしてきたのに、報酬がこれだけとは。このちっぽけなジャガイモを見たかい?神はなんとお前を粗末に扱っていることか!』。そこで振り向いて言ってやったのさ、『なんだ、お前か。そりゃ、お前に仕えていた頃はジャガイモすら貰えなかったもんな。退いて、ちっぽけなジャガイモのことは言うな』」。これがキリストの愛の内に生きる方法です。四角い小窓から外を覗いて、山々の頂と太陽に照らされた空を見なさい。そして、イエスの愛の内に生きなさい。

次に、祈りの生活はこの愛の生活を保ちます。常に彼との交わりを保ちなさい。

しかし最後に、もし彼の愛の内に生きることを望むなら、彼の愛を反復することを学びなさい。彼の愛を人々に流しなさい。もしそうしないなら、あなたは利己的になって、愛の何たるかがわからないでしょう。愛を理解するのは愛する心です。神の祝福を取り入れることができるのは、絶えず祝福を人々に注ぎ出す人なのです。

一人の農夫がジョン・ウェスレーの説教を聞きに来ました。彼は説教の最初の要点を聞いて喜びました。その要点とは、「できるだけなんでも手に入れなさい」でした。「全くそのとおり」と農夫は隣人に言いました。ウェスレーは彼らに、「熱心によく働いて勤勉でありなさい。神のために機会を最大限有効に活用しなさい」と語りました。この二番目の点も農夫を喜ばせました。「できるだけなんでも保持しなさい」。「これはすごい。こんなふうに話す人は聞いた事がない」と農夫は思いました。ウェスレーは彼らに、「節約して浪費してはいけません。自分に与えられた神の賜物を節約して用いなさい」と教えていました。農夫は夢心地でした。「最後に」とウェスレーは付け加えました。「できるだけなんでも与えなさい」。農夫の顔色は曇り、こう言うのが聞こえました、「なにもかも台無しだ」と。

しかし、これが神が私たちを祝福して、私たちを富ませる目的なのです。海の津波は浜辺に押し寄せて、次のさらなる大波のための場所を用意します。それと同じように、あなたの愛と奉仕は神が天の窓を開いて祝福を注ぐための場所を用意します。これは祝福を受ける余地がなくなるまで続きます。愛する人よ、このささやかな御言葉「わたしの愛の内に生きなさい」を時機にかなった言葉として受け取りましょう。そして、あえてこの御言葉を別の読み方で読むとしたら、「わたしの愛を生かし出しなさい」という読み方も加えられるのではないでしょうか?