第6章 新創造の型としての旧創造

A. B. シンプソン

「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く者に種を与え、食べる者にパンを与える。このように、わたしの口から出る言葉も、むなしくわたしに帰ることはない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果たす。」(イザヤ五五・十、十一)

この節の基調をなす思想は八節と九節に見つかります。「なぜなら、わたしの思いはあなたたちの思いとは異なり、わたしの道はあなたたちの道とは異なるからであると主は言われる。天が地よりも高いように、わたしの道はあなたたちの道よりも高く、わたしの思いはあなたたちの思いよりも高い」。神の思いと道は、性質においても恵みにおいても、人の思いや道よりも圧倒的に高いため、神の統治上の数々の原則は、私たちの近視眼的な感覚や理性にとって、しばしば逆説や矛盾のように思われます。こうした神の統治上の原則のいくつかが、自然界の力や働きから取られたこの美しい絵図の中に描写されています。

消極面と積極面の二面性

第一に、自然の諸力がもたらす恩恵があります。これらの恩恵は、一見、有害で警戒すべきもののように見えます。雪や雨は破壊的な力のように見えます。陸上や海上をなぎ払うサイクロンほど恐ろしいものはありません。それは船をバラバラにして難破させ、川を増水させて溢れさせ、森や町をなぎ倒し、それが通った後には荒れ果てた家々や人々の死骸が残ります。また、激しいブリザードほど恐ろしいものはありません。それは羊飼いとその群れ、山の岩肌にいる寄る辺なき旅人を積雪の下に葬り去ります。また、巨大な雪崩となって、山里やあわてふためく旅行者を瓦礫の中に埋めてしまいます。しかし、これらのエネルギーや力は、自然の配剤の中でも最も有用で役に立つものなのです。インド平原から雨を取り去るなら、飢饉の恐怖がそれに続きます。アリゾナ、ユタ、コロラドの広大な荒野に雨を送るなら、見よ、荒野と寂れた場所は喜び、砂漠はバラのように花咲きます。どうして今日パレスチナは荒廃しているのでしょう?雨が降らないからです。また、昔は緑地だったこれらの荒地は、どうしてユダの丘々へと回復されだしているのでしょう?前の雨と後の雨が徐々に戻って来ているからです。雪は恐ろしい雪崩や視界を遮るブリザードをしばしば引き起こしますが、それでも川や泉の倉庫です。ドナウ川や美しいライン川とローヌ川は、スイスの冠雪した山々から発します。インドの川々は時々洪水を起こして土地を肥沃にしますが、冠雪したヒマラヤの山々から流れて来ます。このように雪や雨は自然が遣わす最も慈悲深い使者であり、時々恐ろしい様相で訪れますが、それは仮の姿で実は祝福を送っているのです。

恵みの配剤においても、これは同じように真実です。到底ありえないひどい事のように見えるものの中に、神の最も豊かな祝福が隠されていることがしばしばあります。罪と悲しみ、病と死でさえも、恵みの錬金術により、人にとって最善な、神に最高の栄光を帰す機会に変えられるのです。アダムの堕落からキリストの贖いが生じ、人と神との合一が生じます。恥と恐怖を伴う死から、さらに優った復活が生じます。ペテロの堕落は回復をもたらしただけでなく、さらに高度な務めとさらに安定した力をもたらしました。人の悲しみは訓練の機会となり、この訓練は人を聖化して、聖なる性格と天的な恵みという貴重な黄金をもたらします。病でさえも、主が癒しの御手を伸べて生かす力を与える機会となるのです。

「かくして、どんな姿や名前の病気も
姿を変えて祝福となり、その冷酷な目的を果たすことなし。」

雨雲の上に虹を描くこと、雪で覆われた山の高みに泉を見いだすことを学んだ人々は幸いです。

無駄なものや無意味なものはなにもない

第二に、自然の諸々の力は一見無駄なものに見えます。しかし、それらは他の形に姿を変え、有用で幸いな力に転じます。

自然界の浪費ほどひどい無駄はないように思われます。雨が降るとそれは地面に吸い込まれ、失われたかのように見えます。雨は天から降り、そこに戻ることはありません。川々は海に流れ込み、海水に吸収されます。これはみな貴重な資源の浪費のように思われます。しかし、どの力も決して無駄になったわけではないことを科学は私たちに教えます。それはただ別の形になっただけなのです。その役割は変わりましたが、自分の進むべき道を進んでいるのであり、その力は衰えてはいません。力が一つの状態から別の状態に変化することは、現代科学の最大の発見です。こうして、動きは熱を生み、熱は光を生み、光は音になり……と続いていきます。物質には様々な状態があり、その状態は永遠に変化していきます。しかし、物質は元の力を効率的に利用還元しているのです。

ある人は短い詩的なたとえ話の中で、空中で震えている小さな雨粒について描写しました。その雨粒は空のゲニウスに、地上に行くべきか美しい雲の中にとどまるべきか尋ねました。「どうして僕は汚らしい土の中に消え失せて葬られなければならないの?僕は虹の弧の下でダイヤモンドのように輝くことだってできるし、エメラルドやルビーのようにきらめくことだってできるんだよ。それなのにどうして暗い泥の中に消え失せなければならないの?」。ゲニウスは答えました、「それはそうだが、お前が地に下るとき、お前はまさった復活の中で現れ出ることになる。お前は花の花びら、バラの香り、ぶどうの木のたわわに実った房となって復活するのだ」。それでとうとう、この臆病な雨粒は後悔の涙を一粒流しつつ地に落ち、土の下に姿を消して、干上がった地面にたちまち飲み込まれました。その雨粒は見えなくなりました――消え失せたように見えます。しかし、見よ、向こうの百合の根がその水分を飲み、ダマスクバラの吸収器官がその新鮮な湿気を吸収し、遠くのぶどうの木から伸びた根がこの命の泉を発見します。やがて、この雨粒は雪のような百合の花、バラの芳醇な香り、ぶどうの木の紫色の房となって現れ出ます。そして再び空のゲニウスに出会う時、それは喜びつつ感謝して言います、「確かに私は死にましたが、よみがえりました。今、私はいっそう高い務め、いっそう広々とした生活、さらにまさった復活の領域の中に生きているのです」。

神の御言葉と信仰生活も同じです。それはしばしば無駄になったように見えます。メッセージは地に落ち、その反響はやみ、幕は下り、なにも見えません。おそらく、「私は無駄に労苦して、空しく力を費やした」と叫ぶ説教者もいるでしょう。しかし、神の御言葉は静かにその働きを進めつつあり、魂は命に芽生えつつあり、意図は行動に転じようとしつつあり、約束は信仰の実を結びつつあります。そしてついには、神の喜ばれることを成就します。その説教者は視界から去るかもしれませんが、その代わりに一群れの人々が立ち上がってその働きを遂行するようになります。御言葉や説教は忘れ去られるかもしれませんが、変容した性格が現れ出ます。謙遜な牧者の妻が言いました、「どの説教が私を回心に導いたのか、私にはわかりません。私は教義や教理を説明することすらできません。しかし、なにかが私を変えたことは知っています。昨年の夏、ジョンと私は向こうの小川で羊を洗っていました。その水がどこに行ったのか私はあなたに告げることはできませんが、羊のきれいな白い毛をあなたにお見せすることはできます。そのように、私は教理を忘れるかもしれませんが、その幸いな実は私の心や生活の中に残っているのです」。

神の大農園には多くの霊的な力があり、人はそれらを追跡して記録することは決してできません。しかし、それらの力も同じように自分の働きを進めているのであり、収穫のとき膨大な量となって混ざり合います。ゴルドン博士はある貧しい黒人女性について述べています。彼女は手足が不自由で、キャベツ通りと呼ばれるみすぼらしい郊外の住宅地に住んでいました。彼女はめったに集会に行きませんでしたが、祈る方法を知っていました。リバイバルが訪れつつあった時、助祭はその黒人女性ディナの世話をしてリバイバルについて告げ、「人々のために祈ってください」と求めました。すると、その黒人女性は毎日自分の小屋の近くを通り過ぎる大勢の人々について尋ねました。「あの人たちはクリスチャンなのかしら?」。「いいえ」と助祭は答えました。そして、彼女はその人々を一人一人数え上げて主に告げたのです。その人々の名を彼女はほとんど知りませんでしたし、その人々も彼女のことを聞いたことがありませんでした。しかし、喜ばしい収穫の時が来て、四十名の人が教会に集まりました。年老いたこの黒人女性も足を引きずりながら教会に入ってきて、その人々が主を告白するのを見ました。彼女は言い尽くせない喜びの涙を流しました。なぜなら、その四十名のうち十二名はキャベツ通りから来た人たちで、彼女は毎日その人たちのことを主に持ち出していたからです。ついに高き所からの力が彼らの上に下り、彼らを十字架に導きました。これらの祈りは雨粒であり、人はそれを知りませんでしたが、神がその後に続かれたのです。これは一つ一つの沈黙の祈り、流れ落ちた涙、人の知らない理由のおかげであることを、天の記録は示すでしょう。その時、蒔く者と刈り取る者は共に喜びます。

神のために行う私たちの働きの多くも、このように不明確な性格を帯びています。私たちは自分たちの労苦の成果を、統計や教会の会員名簿の形で明確にすることはできません。働きの大部分は地面にこぼした水のようです。これは特に福音伝道の大部分について言えます。私たちが百名の人に祝福をもって手を差し伸べても、だれ一人私たちの群れに加わることがなく、私たちの会員になることもないのです。彼らは霊的なメッセージを受けても通り過ぎてしまいます。私たちの証し、教え、例証を通してなんらかの霊感がもたらされます。私たちは主の植物に水を注いできました。主があがめられ、主は喜ばれます。また、荒れ果てていた主の遺産は新たにされます。これで十分ではありませんか。

このような愛を書き記して記録する必要はなく、
名前や碑文を石に刻む必要もありません。
私たちが生きてきた目的、これこそ私たちの栄光です。
私たちのなした事が私たちの記念となるのです。

忍耐の必要性

第三に、自然においても恵みにおいても、物事は少しずつ進みます。

雨が実りをもたらすには時間が必要です。第一に雨は地を潤さなければならず、次に大地から芽が出なければなりません。次に葉や蕾が生じなければならず、さらに蒔く者のために種、食べる者のために食物が生じなければなりません。すべて正常でも、待つ忍耐が必要であり、かなり遅れるかもしれません。クリスチャンの働きには二種類あります。たちまち刈り取る働きがあります。神はしばしばこのような刈り取りを与えてくださいます――たわわに実った束を集める喜びを与えてくださいます。しかし、神を信じる信仰を要する種類の働きはゆっくりしているのです。忍耐強く種を蒔き、長い時間待たなければなりません。そして、自分が蒔いたものを他の人が刈り取ってくれること、また、自分の遺骨の上に花が咲いた後に収穫の時が訪れることを、私たちは確信しなければなりません。これは母親の働きであり、母親は神のためにゆっくりと命を訓練します。そして、母親が亡くなる時、その命が母親の務めを成就します。これは乳母の働きであり、彼女は高尚な目的という種を他のだれかの子供の胸の中に蒔きます。これは静かなとりなし手の働きであり、他の人々が戦いの前線にいる間、とりなし手は聖い手をもって祈りの座で待ち続けます。祈りの座は気前よく与える者の座です。その座につく人は毎日毎年、無私の労苦を通して供給を与えます。他方、外国の地にいる他の人は、その人の施し物によって支えられ、収穫を刈り取ります。しかし清算する日が来る時、二人とも同じような報いと収穫の喜びにあずかることがわかるでしょう。

ここに暗示されている蒔くことと養うこととの間の緊密な関係を忘れないようにしましょう。種を蒔く者のための種は、働き人が寄せる信頼を彷彿とさせます。食べる者のためのパンは、人が必要とする分を彷彿とさせます。私たちは蒔くだけでなく、養わなければなりません。私たちはパンを人々に与える前に、まずその尊いパンを試さなければなりません。また、そのパンは委ねられた物であって、贅沢のためではないことを忘れてはなりません。そのパンは私たちがそれで養われるために、次にそれを飢えている世界に渡すために、私たちに与えられているのです。

私たちの働きは必ず実を結び、効果を現す

四番目に、成果は確実であって効果があることがわかります。

「わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果たす」。自然界においてさえ、どんな力も決して失われることはない、という事実についてはすでに述べました。あなたがなんらかの形で空中に息吹いた囁きは永遠に進み続けます。私たちは広大なエーテルの海の中を航海していますが、そのエーテルの海に浮かぶ原子に与えた衝撃は、たとえそれが極微弱なものだったとしても、永遠にわたって他の原子に影響を及ぼし続けます。あなたはその結果を見れないかもしれませんが、その影響は常に変わることなく進み続けます。一ダースのボールを一直線に並べて置いてみなさい。そして先頭のボールを叩くと、先頭のボールは動かないままです。二番目、三番目、四番目、直線に並んだどのボールも同じであり、ついに最後のボールに達します。しかし、この最後のボールが動き出します。他のボールを通過した力は効果が無いように見えましたが、最後の瞬間、先頭のボールに加えられたのと全く同じ力が最後尾のボールに現れたのです。

そのように、私たちが神のために語る言葉、私たちが発する祈り、愛の手の接触、同情心、聖なる意図はみな、神と人類の福祉のためになんらかの形で永遠にわたって語り続けます。私たちの労苦は無駄になることはありません。私たちが失敗することはありえません。一杯の冷たい水が、それを受ける値打ちのない人に与えられるかもしれません。私たちの直接の目的は達せられなかったように見えるかもしれませんが、神はその行いを神聖な御手の中に保っておられ、いつの日か私たちは再び出会って、神のために投じた投資の実を複利の利子付きで受け取ることになります。地のために建てられたものはすべて倒壊して塵に帰します。しかし、金、銀、宝石でこの一つの土台の上に建てる人は、自分の働きが天の宮殿にふさわしいものであることを見いだすでしょう。

昔、北シリヤにあったクリスチャンの宮には聖なる碑文が刻まれていましたが、あるイスラム教徒の建築家がそれをしっくいと石こうで覆い、建物の正面をイスラム教の碑文で飾りました。クリスチャンの宮が偽預言者のためのモスクに改築されてしまったのです。しかし、時がたつにつれて石こうが剥がれていきました。そして見よ、それからしばらくして火事があり、そのダマスコのモスクは焼け落ちてしまったのです。しかし、神の御言葉から取られた昔の節が火の中から現れました。その焼け落ちる塔が残した最後のメッセージは、神の御言葉のメッセージだったのです。このように他のものはみな滅びるかもしれませんが、神の御言葉は永遠に残ります。私たちの生活、私たちの性格、私たちの一切の希望を、神の御言葉の上に堅く据えようではありませんか。神の御言葉を私たちの働きの道具としようではありませんか。神の御言葉とその権威を信じようではありませんか。確信を持って御言葉を同胞たちに与えようではありませんか。御言葉は神聖であり、人を救い、聖化する力があります。私たちは神の守りの御手に委ねて満足しようではありませんか。そして、神が暗闇の中にある隠れた事柄を明るみに出して、火をもってすべての人の働きを試される時が来るまで、待とうではありませんか。

恵みは様々な形を取って訪れる

五番目に、恵みには様々な形があることに注意しましょう。

「山々と丘々はあなたの前で歌いだす。(中略)トゲのある植物の代わりにモミの木が生え、いばらの代わりにミルトスが生える」。山々は私たちが働く時に遭遇する困難、妨げ、障壁を表しています。しかし、神はこれらのものを転じて賛美の機会、勝利の記念碑とされます。そして、私たちの道を阻んでいた山々は私たちの前で歌いだします。トゲのある植物やイバラは、私たちの人生や働きを傷つけ、へこませ、挫折させるものを表しています。そのトゲを感じたことのない生涯があるでしょうか?しかし、これらのものですら恵みの過程によって姿を変え、私たちに対する最も豊かな祝福、私たちの冠の宝石となるのです。これは真珠が生み出される過程に似ています。とがったトゲが小さな軟体動物を傷つけます。すると、その軟体動物はトゲの周りに柔らかい体液を放出せざるをえなくなります。このように、最も輝かしい私たちの性格は、私たちを突き刺すトゲや私たちを砕く試みから、しばしば私たちに生じるのです。

カナン人の砦だったエブスは、ダビデの勇者たちがこれを勝ち取った時、ダビデの王国の首都であるエルサレムになりました。それと同じように、あなたの人生や私の人生で最も困難な事柄、私たちの困難や落胆の中で最も手強いものは、もし私たちが彼の恵みの中で彼の御名を通して征服するなら、私たちが将来受ける報いの栄光となり、地上においてすら私たちの力と幸福の砦となります。神の思いは私たちの思いとは異なり、神の道は私たちの道とは異なります。正反対のものにより、またいかなる見通しにもかかわらず、神はご自分の道を力強く進んでおられます。ですから、私たちが最も困難な状況に遭遇するときでも、神を受け入れようではありませんか。そうするなら、人生の難所を歩む私たちの血まみれの足を傷つけるゴツゴツした岩々から、いつの日か私たちの冠の宝石が造られるでしょう。あるいは別の絵図を用いると、私たちの故郷の宮殿に並ぶ大通りには、私たちの地上の分であるトゲのある植物やイバラから形造られたミルトスやヤシの木が植わっているでしょう。