第7章 すべてが新しくなった

A. B. シンプソン

「御座に座す方が言われた、『見よ、わたしはすべてを新しくする』。(中略)そして彼は私に言われた、『事は成った。わたしはアルファでありオメガである。初めであり終わりである。渇いている者には命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は万物を受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」(黙示録二一・五~七)

「旧創造の自然はキリストが再創造(Palingenesis)と称されたものを常に待ち望んでいる」とはけだし名言です。「再創造(欽定訳では「再生」)のとき、人の子は栄光の御座につき、あなたたちもまた王座につきます」。型や預言によると、自然界の全行程は再創造、新創造に向かって前進しつつあります。そのとき、万物は新しくされます。

地質学や歴史の記録、また天空の星々が記す光の文字を見ると、いかに宇宙万物がより高次の存在を目指して進んできたかがわかります。荒廃の波が私たちの地球上を何度も一掃してきましたし、地層は一層ずつ積み重なって地表を覆い、前の世代の存在を葬ってきました。万物は常に前進し続け、より高次の存在を目指して向上し続けてきました。過去の物語はすべて、ある一つの偉大な目的の予型であり、すべてが新しくされる時を目指して前進していたのです。荒廃と滅びは高次の命に場所を譲ります。昆虫はみな、まず棺に入れられて葬られ、次に存在の連続的階層の中である種の復活の命の中に入る経験をしてきました。この過程を経ずに生まれてきた昆虫は一匹もいません。輝かしい朝も必ず沈みますが、決して沈むことのないいっそう明るい朝の到来を約束してきました。甘い平穏が嵐や暴風雨の後に続いたためしはありませんが、もはや海も、嵐も、不調和も、自然の猛威もない時の到来を約束してきたのです。

聖書を見ると、これに関連する神聖な啓示の流れが見つかります。この啓示の流れは、明るく輝く永遠の時代を仰ぎ見るものです。聖書の中に出てくる数字はこれを意味します。七という数字は完了した創造の働きを意味します。七は万物の始まりとその現状を示す神の象徴です。これがユダヤ人の安息日が週の七日目だった理由です。それは完了した働きでした。しかし、八日目がすぐに導入されて二週目の始まりの日とされたことがわかります。ヘブル人の子供は八日目に割礼を受けました。割礼は古い命に置き代わる新しい命の型でした。新しい時代の誓約と約束を受けるために、八人の人が箱船の中に入る必要がありました。虹の弧の下で新しい時代の幕が上がり、ノアと七人の人々が箱船から出てきて新しい世界を開始しました。祭りはみな八日目に最高潮に達します。それゆえ、祭りの八日目は「最も大いなる日」と呼ばれています。八日目は創造の新しい体系を指し示すものであり、主イエス・キリストの来臨によって到来します。

また、数字の十一と十三にも同じ意味があることがわかります。十二は七と同じように旧創造を示す完全数ですが、十三は新創造の初めです。パウロは十三番目の使徒でした。なぜなら、彼は異邦人伝道と世界の福音化という新しい時代を開始したからです。このように神は常に御手を伸ばしておられ、新時代、第二の時代、再創造、万物の回復を願っておられます。

同じようにヨベルの大いなる年は四十九年目ではなく、七年を七倍した年の翌年、すなわち五十年目でした。それは主に受け入れられる年であり、その時すべては回復されました。ヨベルでは銀の鐘を打ち鳴らして、束縛、悲しみ、罪は過ぎ去って、新創造の到来が宣言されました。

このように神は来たるべき時を指し示してこられました。その時については新約聖書やその最後の書である預言書の中に何度も述べられています。冒頭に挙げた御言葉はその時に関する壮大な霊感を与えます。その時、神はすべてを新しくされるのです。

贖いは自然を改善することでも、現存する間違いを修正することでもありません。贖いは古い水準にしたがって物事を正すことではなく、徹底的な死と復活であり、古いものは過ぎ去って新しいものが直接神から到来します。「だれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。神は私たちにこの新しい命を与え、これを私たちにとって新しい時代の始まりとされます。そして、神は私たちを引き上げて彼の御思いを理解できるようにさせ、次に、彼の御計画を成就するために私たちを用いてくださいます。かつてなかったほど私たちを用いてくださるのです。

キリストの輝かしい来臨によって完結する神の新創造を見ることにしましょう。

新しい人

新創造は新しい人と共に始まります。新しい人は神の型であり、新しい時代、新しい宇宙、新しい働き、新しい天の出発点です。神は古い人類にかなりの機会をお与えになりました。神の許可のもと人類はエデンの園という絶好の条件で始めたのですが、失敗してしまいました。次に神は、やり直すために四千年を人類に許されました。しかし、人類は行き詰まって、さらに深く失敗の中に落ち込んでしまいました。そしてついに神は叫んで言われました、「わたしは、石垣を築き、破れ口に立つ者を、彼らのうちに尋ねたが見つからなかった」。そこで神は一人の新しい人を遣わして新しい時代を開始させ、その周りに新しい命がすべて結晶化する中心とされたのです。

こうしてイエス・キリストが到来されました。彼は新しい人類の代表者、第二のアダム、贖われた種族の新しいかしらです。贖いの奥義は古い種族を改善することではありません。古い種族を拒絶して、別のかしら、別の中心の回りに、別の種族を結晶化することです。来たるべき代々の時代、イエス・キリストは人類のかしらとなり、宇宙のかしらとなられます。ですから、キリストは神の新しい人であると考えようではありませんか。第一の人は地から出て地に属しますが、第二の人は天からの主です。

キリストの人性は唯一無二であり、他のいかなる人性とも異なっていました。彼はたんなる一人の人(a man)ではなく、彼こそが人(the Man)です。彼はたんなる男性ではありません。彼は男性であるだけでなく、女性でもあります。キリストの中には、男性にふさわしいきわめて勇猛果敢で大胆な力強い性格があるだけでなく、人の娘たちのきわめて繊細な心もあります。キリストは単純かつ自然で、物事に動じることがありません。それゆえ、彼は人類の長兄としてふさわしい方です。次に、キリストには威厳があり、ご自分の無謬性に関する落ち着いた自覚があり、生来の気高さがあります。これは彼を見るすべての人に十分な説得力をもって訴えかけ、「彼の性格は全くこの印象どおりだった」と私たちに感じさせます。かつてルソーはこれを見事に表現しました、「このような性格の持ち主が実在したと信じることより、このような性格を考え出すことの方がよほど大きな奇跡を必要とするであろう」。

イエス・キリストは神の人として私たちの間に立たれました。彼の生涯の長さは人の平均寿命にしたがって定められました――ちょうど三十三年半でした――きっかりこの長さでした。イエスは三十三年生活されました。それは彼が平均的な人となって、人類のその世代を代表するためでした。こうして彼は典型的な人、新しい人として世の前に立っておられます。この方から他の人々は霊の再生により生まれて永存します。そして、彼の存在の一部、彼の肉の肉、彼の骨の骨となり、彼に結合されて彼の永遠の運命にあずかります。

次に、キリストは新しい人であるだけでなく、神でもありました。彼は計り知れない深淵を踏み越えた人でした。彼は自然の領域から超自然の領域に、有限の領域から無限の領域に至りました。彼の懐には神性がありましたが、その神性の完全性と栄光は覆い隠されていました。彼は神の人であり、かつて現れたものの中で最も奇妙な存在でした。この新しい人が到来され、それ以降、他のどの人も顧慮されなくなりました。あなたがこの新しい人類に属するようになる時だけ、あなたは神の御旨にあずかることができ、また神が啓示しておられるこの新時代の祝福にあずかることができます。あなたはこの新しい人を見たことがあるでしょうか?あなたは彼に会ったでしょうか?彼はあなたのかしらとなられたでしょうか?

新しい種族

地上には二つの人の種族があります。カインとセツの種族はこの予表です。カインの種族は地的でした。彼らは美しく文明的でした。彼らは贅沢品に囲まれていましたが、これは今の時代、今の世界、古い人類の予型となりました。しかし、セツの種族については当初から「彼らは主の御名を名乗り始めた」と言われています。これが文字どおりの訳です。彼らは主の民であり、神は彼らとカインの種族との間に障壁を設けられました。神は、「わたしは恨みを置く、女の子孫と蛇の子孫との間に」と言われました。この二つの種族は混じり合うべきではありません。しかし、神の子らは人の娘らを娶り、その結果、巨人の末裔が生まれ、そのような悪を神は洪水によって一掃しなければなりませんでした。洪水はカインの種族とセツの種族との間の妥協の結果にほかなりませんでした。

この二つの種族の分離はイサクとイシマエルにも見ることができます。奴隷の女とその息子は追い出されなければなりません。なぜなら、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」からです。これはヤコブとエサウにも見られます。さらに、エジプトから脱出した種族にも見ることができます。その最初の世代はカナンに入れませんでした。神は彼らにチャンスをお与えになりました。神は彼らにシナイでご自分の素晴らしさを示し、彼らと契約を結ばれました。彼らは、「私たちは神が仰せられることを何でも守り行います」と言いました。しかし一か月もたたないうちに彼らは金の子牛の周りで踊りを踊り、一年もたたないうちに拒絶されて荒野に送り返され、そこで死んだのです。第二世代、新しい種族が現れなければなりませんでした。それはこの新しい世代の予型であり、この新しい世代を通して私たちは神の王国に入らなければなりません。文明、美徳、生来の愛らしさは天に入れません。それらのものは死んで、キリストの復活の命の中で戻されなければなりません。「人は上から生まれなければ、神の王国を見ることはできません」。

愛する人よ、あなたはこの新しい種族の一員になったでしょうか?あなたは生来の長所や自己改善に頼っているのでしょうか?すべての肉は草のようであり、善良さは野の花のようです。その美しさは死ななければなりません。新しい命が天から生まれなければならず、イエスが持っておられるのと全く同じ命の一部とならなければなりません。イエスが持っておられる命はどのような命でしょう。神聖な人性です。あなたが持つべき命とはどのような命でしょう。この神聖な新しい人性です。

あなたは生まれて人になるだけでなく、神の息子や娘、天空の家族、天の貴族、王家の者になるのです。これが新生の意味です。今晩、もし彼方の宣教地でだれかが主を見いだすなら、きわめて重大で何物にもまして輝かしい事が起きます。これはあなたの子供が王家の血を引く王子と結婚することや、地上の王座の相続人になることよりも素晴らしいことです。この新しい種族は神聖な性質にあずかる者であり、子たる霊の中で「アバ、父よ」と言うことができます。そして、母親の腕の中にいる赤ん坊のように、恐るべき威厳に満ちたエホバの御前でも安らかでいることができます。愛する人よ、あなたは神の長子たちの一員でしょうか?ああ、あなたの召しの素晴らしさを悟って、あなたの選びを確かなものにしなさい。

この命は神から生まれます。ですから、それは神のようにならなければなりません。この天の種族は明確な特徴と性質を帯びています。地質学の石のページをめくって地球の歴史をさかのぼる時、爬虫類時代の巨獣たちに関するなんと恐ろしい記録があることか――巨大な形の大トカゲが原始時代の間ずっと食い荒らしていたのです!その地層の上には野の獣や肉食獣の地層があります。肉食獣たちは互いに食い合い、弱い無力な生き物を自分たちの餌食や道具としていました。たった一度の戦争で亡くなった数十万、時には数百万という人々の数を数える時、また、この地球がいかに血で覆われ、欲望や暴力で荒廃してきたのかを描写する時、ダニエルが見た野獣の幻は決して大げさではないことが確かにわかります。しかし、ああ、神が御父の相続人とするために生み出しておられるこの新しい種族はなんと異なっていることか!「御霊の実は愛、喜び、平和、忍耐、親切、善意、信仰、柔和、自制です」。「霊の中で貧しい人は幸いです。天の王国は彼らのものだからです」。「平和をつくる者は幸いです。彼らは神の子供と呼ばれるからです」。この新しい種族の特徴は純粋さ、自己否定、聖さ、犠牲、優しさ、謙遜、イエス・キリストに似ていることです。彼らは自制によって勝利を得、上るために沈み、万物復興の時に冠を受けるためにすべてを放棄します。

新しい種族は霊の中に新しい命を持っているだけでなく、経験においても新しくなります。私たちの努力や奮闘によって新しい命が造られるわけではありません。新しい命は全く天から生まれ、天から養われなければなりません。新しい命は私たちの内におられる主の命の中にあり、主との交わりによって得なければなりません。「わたしの内に住んでいなさい。そうすればわたしもあなたたちの内に住みます。(中略)わたしなしでは、あなたたちは何もすることができないからです」。律法はその信奉者たちに、一つの流儀にしたがって道徳、義、善について教えます。ユダヤ教には十戒があります。しかし、それらは人を生かすものではありません。かつて生きていた最悪な人々は、最高の訓練を受け、最高の模範を持ち、最も厳しい刑罰を定めていました。この新しい命は成長します。なぜなら、それが自然なことだからです。この新しい命は聖霊によって養われる命です。それは自発的であり、自然であって、おおらかで、喜びに満ちています。愛する人よ、あなたはこの新しい神聖な命を持っているでしょうか?もし持っていないなら、主と共に御座に座すことがどういうことか、あなたには決してわからないでしょう。

新しい社会

この新しい社会は贖いの驚異の一つです。地は様々な絆で諸々の社会を形成します。人々は自然に集まって群れを成します。その群れの中心は、例えばある名前、家族、民族の絆、政治的、国家的、愛国的つながりかもしれません。しかし、神はこうしたつながりを過ぎ越して、新しい社会を建造しておられます。この新しい社会はアメリカ、フランス、ドイツの社会ではなく、専制国家や共和国家でもなく、神聖な社会です。それはイエスの家族、小羊の花嫁、イエス・キリストのからだです。一人一人神は彼らを時の瓦礫の中から取り出して、この大いなる家族の集結に向けて彼らを教育し準備しておられます。いつの日か、彼らはみな空中で会うでしょう。いつの日か、彼らは神の王国の中で手を握りあい、互いの顔を見つめ合い、族長たち、使徒たち、愛する者たちと共に座につくでしょう。これはなんと麗しい社会でしょう!この地上にイエス以外に尊いものがあるでしょうか?あるとしたら、それは私たちにとって高価で尊いものとなった人々の心ではないでしょうか?私たちが彼らと共に会う時、それはなんと壮大な社会でしょう。それは私たちをして地のあらゆる党派心を超越させ、私たちの家族や民族さえも超越させます。しかし、私たちの国籍は天にあります。私たちの故郷はそこにあり、私たちの友人たちはみなそこにいます。神がすべてを新しくしてくださるとは、なんと幸いな展望でしょう!この幸いな社会には、不法占有、粗野なもの、無礼、不潔なものは何もなく、それを汚すものが入り込むことはありません。私たちは礼儀正しさ、上品さ、教養、愛、栄光のただ中にあって、贖われた者たちとの交わりの中で、イエス・キリストの社会の中で永遠の時を過ごすのです。愛する者よ、あなたはこの社会に導かれたでしょうか?いつの日か、あなたはイエスに対する親密さの度合いにしたがって、この社会の中に自分の場所を得るでしょう。なぜなら、そこではだれもがこの中心なる方から自分の場所を得るからです。

新しい王国

神は新しい社会だけでなく、新しい王国を建造しておられます。神がダニエル書の中で私たちに告げておられるように、天の下の王国と主権はいと高き神の子らに与えられます。それは永遠の王国であって他の人々の手に渡ることがなく、またその主権は過ぎ去ることがありません。この地球は悪虐な政府の腐敗や犯罪をいつまでも忍ばなければならないわけではありません。いつの日か、リビングストン博士は贖われたアフリカを仰ぎ見るでしょう。フランシス・ウィラードはアメリカ中を歩き回り、私たちの町々の中にラム酒の店を探すでしょうが見つからないでしょう。ジョン・ハワードは一世紀費やしても牢屋を見つけられないでしょう。それは新しい王国、霊の王国です。それはこの世には属しませんが、それと同じくらい現実的です。私たちはこの王国の開始を待ち望んでおり、まもなくこの王国が野獣のような国々に取って代わるでしょう。この野獣どもは人の統治によるものであり、腐敗と犯罪の饗宴です。この野獣どものせいで、地は長きにわたって嘆き悲しみ、血を流してきたのです。「見よ、わたしはすべてを新しくします」。私たちはこれを成就させるために祈り、働こうではありませんか。

新しい体

神はこの新しい命のために一つの宮を造っておられます。この宮は彼ご自身の復活の命と同じように栄光に満ちています。私たちは自然の中に体の復活の預言を見ます。私たちの地球の下の地層を通して過去を遡ると、そこに復活の絵図が見つかります。最初に、命のない体が見つかります。次に、植物が見つかります。この植物は太陽光に向かって葉と巻きひげを伸ばす力を持っています。次に、初期の動物たちに来ます。彼らは自分の成長を知覚できますが、自分で動くことはできません。彼らは岩の上のフジツボのように力がなく動くこともできませんが、命を持っています。次に少し上の地層を見ると、動けるようになった動物たちが見つかります。しかし、それらは自分の殻を越えて動くことができません。さらに上の地層を見ていくと、ついに動き回ることのできる四肢動物、舞い上がる羽を持つ鳥、理想的な姿と丈夫で美しいがっしりした体格を持つ人が見つかります。このように、物質的命から人に至るまでの連続的発展の様子を私たちは目にします。また、私たちは動物の世界の中に復活の型を見ます。例えば、毛虫は成長して蝶になります。化学過程により物質を分解して再構成することができます。ですから、一つの宝石を分解して化学物質に還元し、別の化学反応でそれを元の宝石に復元することができます。これは復活の型です。

このように神は人々に、この再生された命の復活と変容の絵図を与えてくださいました。神は私たちをキリストの復活にもたらしてくださいました。キリストは眠った者たちの初穂です。また神が私たちに告げてくださったように、私たちの卑しい体はキリストの栄光の体にしたがって少しずつ造り変えられていきます。そして、来たるべき新時代の輝きと不滅の命の中、私たちはキリストに似た者とさえなるのです。これが私たちの幸いな望みです。いつの日か、肉体的困難に束縛されることはもはやなくなるでしょう。いつの日か、私たちは自分の行きたい場所に望みの速さで行けるようになるでしょう。そして、この肉体の命は私たちの最も高尚な思想や最も気高い目的に応じられる道具となるでしょう。いつの日か、私たちはこの全物質的宇宙の相続人となり、世界間を行き来することを許されるでしょう。そして来たるべき諸々の時代、贖いの物語を知らない生命体にキリストの恵みの驚異を知らせるでしょう。

あなたをしばしば圧迫する疼きや痛みで落胆してはなりません。あなたには神の建物、手で造られたのではない家、天にある永遠の家があるのです。今ですら、あなたはイエスの復活の力を期待することができます。キリストが御手を伸ばして肉体に触れてくださることがしばしばあり、私たちはそれにあずかることができます。神はその保証を与えてくださっています。まもなく私たちの体は完全に贖われるでしょう。「見よ、わたしはすべてを新しくします」。

千年王国

こうした輝かしい御計画がすべて頂点に達するのは千年期においてです。今世界の中に働いている諸々の勢力が少しずつ発展して千年期になるのではありません。千年期は新しい時代です――「新しいエルサレムが天から出て神から下って来た」。千年期は天空からの新創造です。ダニエル書の像を打った石は、人手によらず山から切り出され、全地に満ちました。主の来臨は歴史的転換点になるでしょう。その時は明確に印づけられ、それ以前の全人類史とは完全に区別されるでしょう。この新しい時代を教会は待ち望んでおり、主は用意しておられます。この新しい時代の夜明けが特に意義深いのは、それが鼓舞する希望のためです。それは新しい世紀であるだけでなく新しい時代でもあり、世界の希望は成就され、教会は故郷に帰ります。

新しい天と新しい地

しかし、この千年期は始まりにすぎません。それに続いて、さらに輝かしい完全な出来事が次々に起こり、長久の永遠に至ります。やがて新しい天と新しい地が到来するでしょう。贖いの崇高な目的は今の地球だけに限定されません。イエス・キリストの十字架は地上のものだけでなく天にあるものもすべて和解させました。この新創造は、その無限で永遠の広がりをもって、神の全宇宙を一掃して獲得するでしょう。

いつの日か、小羊の花嫁はその栄光の主と共に、天の新婚旅行で世界から世界へと行き巡ることを許されるでしょう。そして、訪れた世界で贖いの愛の物語を宣言するだけでなく、自分の体と栄光でそれを示すでしょう。「そんな考えは粗野な虚しい想像にすぎない」とどうして性急に考えるのでしょう?使徒が見事に述べているように、「それは天上にいる支配者たちや権威者たちに対して、教会により、神の多様な知恵を知らせるためです」。これが新創造の輝かしい展望です。このような希望があるのですから、「(私たちは)どのような人となって聖なる会話と敬虔さを持ち、神の日の到来を待ち望み、また早めればよいのでしょう?」。この観念をますますよく把握し、理解しようではありませんか。かつてないほど主の来臨の思想に浸り込もうではありませんか。そして「主の来臨に向けて」という言葉を、私たちの全生涯の標語、啓示としようではありませんか。苦難に遭うときや奉仕するとき、私たちの計画と働きの上に、私たちの希望と大志の上に、私たちの愛情、私たちの喜び、私たちの悲しみの上に、この言葉を書き記そうではありませんか。