第一章 祈りの模範

A. B. シンプソン

そこで彼は彼らに言われた、祈る時は、こう言いなさい、「天におられる私たちの父よ、あなたの御名があがめられますように。あなたの王国が来ますように。あなたのみこころが天で行われているように地でも行われますように。私たちの日毎のパンを、日々与えてください。私たちも自分に負い目のある者をみな赦しますから、私たちの罪を赦してください。私たちを誘惑の中に導かないで、悪から救ってください」。(ルカ一一・二~四)

この素晴らしい祈りは、弟子たちの「主よ、私たちに祈ることを教えてください」という求めに応じて、私たちの主が口述されたものです。彼の答えは、彼らに祈ることを命じるものでした。そもそも祈りを学ぶには、この方法しかありません。つまり、ただ祈り始めることによるのです。片言しか話せない子供が話すことによって話術を学ぶように、また、雲雀が小さな翼を空の上で何度も何度も羽ばたかせることによって天空高く舞い上がるように、祈りによって私たちは祈ることを学びます。そして祈れば祈るほど、ますます私たちは祈りの神秘、高さ、深さを学びます。また祈れば祈るほど、ますます私たちはこの比類ない祈りのずば抜けた豊かさと完全さを理解するようになります。この祈りは、キリスト教世界であまねく祈られている祈りであり、神の教会の共通の祈りであり、クリスチャンの子供全員にとって最も古く最も聖なる思い出であり、逝去しようとしている魂がしばしば最後に発するものです。それを大いに用いてきた私たちは、こう感じるようになりました。すなわち、この祈りが表明しない願いはなく、伝えない聖なる願望もない、と。祈りの神聖な哲理を強調する偉大な諸原則をこれ以上に含んでいる箇所は、聖書のどこにもありません。

すべての真の祈りは父を認めることから始まることを、
これは私たちに教える

これは知られざる神への人の叫びではなく、子供とその天の父との知的会話です。それは、嘆願者が子供になったことを前提としており、御子のとりなしが御父の啓示に先立ったことを前提としています。ですから、誰でも真に祈れるようになるには、まず主イエス・キリストを救い主として受け入れ、彼を通して子の心を再生によって受け、次に、神の家族の子たる身分を理解するよう導かれる必要があります。祈りの直接的対象は、御子や聖霊ではなく御父です。キリストのとりなしの偉大な目的は私たちを神にもたらし、和解と交わりにより、御父を私たちの父として啓示することです。私たちの心の中で御子と御霊に話すのは悪いことではありません。この御名は霊的確信を意味しており、それは祈りに不可欠です。

主の祈りが神に関して最初に見せているのは、彼の威光ではなく御父としての愛です。聞いていた弟子たちにとって、これは自分たちの模範である主の口から発せられた奇妙な表現だったにちがいありません。ユダヤ人は、少なくとも個々人との神の関係に関して、神がそのような名で呼ばれるのを一度も耳にしたことがありませんでした。国父と神は時々呼ばれましたが、罪深い人が神を父とあえて呼んだことはありませんでした。彼らは、疑いなく、彼らの主がご自身の父である神のこの喜ばしい名を話されるのを聞きました。しかし、エホバをこのような名で呼ぶべきであるとは、彼らの律法的な暗い心には思いもよりませんでした。それでも、これは次のように私たちは思っても構わないこと、また思うべきことを、確かに意味します。すなわち、神が主の父であるのとまったく同じように、彼は私たちの父なのです。そして、神はその子たる身分とその御名にあずかっている私たちのものなのです。その御名はこの上なく個人的な優しい愛、保護、配慮、親密さを伝えます。そして祈りの冒頭で、祈りに一家団欒の麗しい雰囲気を帯びさせて、友人間の喜ばしい愛情と親密さに満ちた交わりにもたらします。

愛する人よ、あなたはこのように祈ることを学んだでしょうか?御使いたちは毎日あなたの部屋を見下ろして驚いているでしょうか?塵でできた卑しい罪深い被造物が、母親の胸に横たわっている幼子のように、あるいは、母親の膝の上で何の心配もせずにおしゃべりしている幼子のように、天の威光ある主権者に向かって話すのを見ているでしょうか?「私があなたたちに書き送るのは、小さな子供たちよ、あなたたちが御父を知っているからです」とあなたは言えるでしょうか?

祈るとき神の威光と全能を認識すべきことを、
これは私たちに教える

「天におられる」いやむしろ「天上におられる」という言葉の狙いは、神という概念に極めて限定的・局所的性格を与えることです。彼は漠然とした影響力や汎神論的存在ではなく、確かな御方であり、物質や自然よりも高く、特定の住まいを持っておられます。そこに心は向かいます。そこで神は御座に着いて、全宇宙を実際に支配しておられます。神はまた、私たちの立場や水準よりも高い方、天におられる方と見なされています。神は私たちのちっぽけな世界よりも高く、支配する御力を必要とする他のすべての要素や勢力よりも高いのです。それは最高の力・権威・栄光の座に神を着かせます。

ですから、真の祈りでは常に神の近しさと偉大さを認識しなければなりません。旧約聖書は、ですから、神の威光に関する極めて荘厳な表現に満ちています。神の偉大さを理解すればするほど、私たちの試みや緊急事態のとき、ますます大胆に私たちは祈りの中で神の介入を勇敢に要求するようになります。

愛する人よ、祈りの中でひざまずくとき、私たちは理解しているでしょうか?私たちが話している御方は、アブラハムに語られたように私たちにも「私はエル・シャッダイ、全能の神である」と依然として語ってくださる方であることを。この御方はエレミヤに向かって、「私は主であり、あらゆる肉なる者の神である。私に難しすぎることがあろうか?」と語り、イザヤに向かって、「あなたは知らないのか?聞いたことがないのか?永遠の神、主、地の果ての創造者は、弱ることなく、また疲れることもない。その知恵ははかりがたい」と語られました。

祈りは神との交わりであるだけでなく、
人同士の心の交流でもあることを、
これは私たちに教える

「私たちの父よ」という祈りは私たち一人一人を直ちに自分自身から引き上げます。地上のどこか他の場所にではなく、少なくとも恵みの御座に引き上げます。そして、私たちを肢体仲間とします。もちろん、その交わりの第一の絆は私たちの長兄であるキリストであることを、これは前提としています。ですから、どれほど孤立していても、一人ぼっちではなく、全き信実さでこの祈りによって進み出て、キリストと手を取り合って、「キリストは私のものです」と言うことができます。しかし、疑いなく、それがもっぱら述べているのは、人同士の心の交流です。祈りに関する最高の約束は、地上で心を合わせて祈る人々に対してなされました。あるいは、ギリシャ語がさらに麗しく表現しているように、地上で「調和して」祈る人々に対してなされました。恵みの御座ほど、私たちが自分の友人たちを大いに麗しく、大いに純粋に愛せるところはありません。心を合わせて単一の祈りを祈ることほど、クリスチャンたちの間の相違を溶かし去る実行はありません。御父のそばに近づいて、次に、必然的に接触しあうようになること以外に、キリスト教の諸々の分裂に対する解決策はありません。

礼拝が祈りの最高の要素であることを、
これは私たちに教える

「あなたの御名があがめられますように」という祈りは主の祈りのどの願い求めよりも優っています。この祈りによって私たちは神ご自身に直接もたらされます。また、この祈りは、私たちのあらゆる思いや私たちのあらゆる願い以上に、神の栄光を第一とします。私たちの祈りの第一の目的は、私たちの個人的必要を満たしてもらうことではなく、私たちの神を礼拝・崇拝することであることを、これは私たちに思い起こさせます。古代の祭りでは、すべてがまず神にもたらされ、次に礼拝者たちに与えられ、礼拝者の種々の用に供されました。「それはすでにエホバの足下に置かれたものである」という事実のゆえに、それを使用するのは神聖なことでした。ですから、真にこの祈りを祈ってその意義の中に十分に入り込める人は、この祈りの他のすべての願い求めに関して二倍の祝福を受けることができます。私たちがまず神ご自身に満足して、神の栄光は私たちのあらゆる願いや関心事よりも大事であることを理解しない限り、最も高度な祝福を受ける用意は決して整いません。「私に何が起きようと、あなたの御名があがめられますように」と真に言えるようになる時、私たちはあらゆる祝福の実際を自分の心の中に得ます。

これは至聖所の最も奥まった部屋であり、そこに唯一入れるのは、神聖な祝福――これが私たちの上に下って、私たちが彼に帰した栄光で私たちを満たします――を意識するようになった人だけです。彼の臨在の聖なる感覚、深遠な透徹した荘厳さ、天の静けさが、これらの聖なる言葉を真に祈れる心を満たし、この祈りが求める他のあらゆる祝福よりも優った祝福となります。

愛する人よ、私たちは自分の祈りをこの聖所で、この天的水準に基づいて始めることを学んだでしょうか?そうなら、確かに、私たちは祈ることを学んでいます。

真の祈りでは、次のことを認識すべきことを、
これは私たちに教える。
すなわち、神の王国の確立こそ神のみこころの主目的であり、
すべての真のクリスチャンの最高の願いなのである。

私たち自身の現世的・霊的必要よりも、この王国の確立のために私たちは祈らなければなりません。これは、祈りを要するあらゆる問題の真の解決法は神の王国の回復であることを意味します。人のあらゆる問題の真の原因は、人々が神の秩序から外れて、世界がその正当な主権者に反逆していることです。すべての人の心の中に、そして全世界に、この王国が再確立されない限り、祈り求められている祝福は実現されません。もちろん、個々人の心の中に神の王国が確立されることを、これは第一に意味します。しかし、それ以上に世界全体に確立されて、神の贖いの偉大な御旨が成就されなければなりません。これは要するに、私たちの主の来臨とその千年王国設立による、贖いの完成とその輝かしい達成を求める祈りです。これは何と高遠な展望を祈りに与えることでしょう!これは何と私たちのつまらない利己的心配や叫びから私たちを引き上げてくれることでしょう!献身的な牧者だったボルチモアのバッカス博士についての話です。「あなたは瀕死の状態であと三十分しか生きられません」と告げられた時、博士は人々に自分をベッドから起こしてひざまずかせてくれるよう頼みました。そして、博士は自分の人生の最後の三十分を費やして、世界の福音化のために一つの絶え間ない祈りをしたのです。確かに、それは祈りの生涯を終える素晴らしい場でした!しかし、主の祈りはこの高遠な主題をもって始まり、私たちに次のことを教えます。すなわち、これが常に、贖い主の王国のすべての臣民の第一の関心事・願いでなければならないのです。

愛する人よ、私たちの祈りの多くがかなえられないのは、祈りの身勝手さのせいではないでしょうか?また、私たちは自分自身の益のために多くの努力を注いでいて、私たちの主の王国を少しも求めてこなかったのではないでしょうか?私たちの心が自己から引き上げられて、キリストと一つになって他の人々と御旨のためにとりなす時に臨む祝福ほど、大きな祝福はありません。私たちの主の御旨という重荷を心に担うこと、そして――まるで、私たちが手を挙げて祈ることと信仰を活用することに、その権益がまったくかかっているかのように――日々それを絶えざる祈りによって彼と共に担うことほど、純粋な喜びはありません。「祈りが彼のために常になされるでしょう」が私たちの祝された主に関する約束の一つです。

愛する人よ、私たちは自分たちのために祈ってきたのと同じくらいイエスのために祈ってきたでしょうか?世界に力と祝福を最も多くもたらす務め、私たちがそれから永遠の実という最大の収穫を刈り取ることになる奉仕は、習慣的に信仰を活用して、しっかりと粘り強く祈ることです。キリストの王国の発展のために、彼の教会とその働きのために、彼の奉仕者たちと僕たちのために、特に世界と自分自身のために祈るすべを知らないなおざりにされている膨大な人々のために祈るのです。ああ、霊的身勝手さから目覚めて、「あなたの王国が来ますように!」という願い求めの意義を学ぼうではありませんか。

真の祈りは神のみこころに基づくものであり、
それによって制限・奨励されるものであることを
これは私たちに教える

これは自分が欲するから求めることではありません。なぜなら、すべての真の祈りの第一の条件は、自分自身の願望を否むことだからです。それは、代わりに神のみこころを願い、受け入れるためです。しかし、これを実行して、私たちの御父のみこころを私たちの願いと求めの基準として認めた後、私たちはさらに次のことを行わなければなりません。すなわち、私たち自身の願い求めを――それが彼のみこころと一致しているなら――神のみこころと同じくらいの力と粘り強さをもってしなければならないのです。ですから、この願い求めは祈りを制限するものではなく、むしろ、実際には私たちの信仰を確証するものであり、「このように彼のみこころと一致している願い求めは必ず成就されなければなりません」と要求する権利を私たちに与えます。ですから、「あなたのみこころがなされますように」というこの短い文章に私たちの多くはおののいてきましたが、この祈りほど強力で、確実で、祝福に満ちた祈りはありません。これは私たちの幸福をことごとく葬り去る死の弔鐘ではなく、実現しうるあらゆる祝福を保証するものです。なぜなら、私たちを祝福することが神のみこころのとき、私たちは祝福されるからです。御父のみこころを知るまで自分たちの願いを保留して、その後、彼のみこころにしたがって求める人々は幸いです。彼らは彼ご自身の力強い約束の高みに至ることができます。「あなたたちが私の中にとどまり、私の言葉があなたたちの中にとどまっているなら、何でも望むものを求めなさい。そうすれば、それはあなたたちにかなえられます」「主はこう仰せられる(中略)私の子たちに起こることについて、私に求めよ。私の手のわざについて私に命じよ」。私たちに対する神の最高のみこころが成就されること以外の何を、私たちは自分たちや他の人々に関して求められるでしょう?

このみこころを知るにはどうすればいいのでしょう?少なくとも、御言葉と御約束からいつでもそれを知ることができます。聖なる御言葉が約束しているものを求めるとき、私たちは神のみこころの無限の境界線を踏み越えていないことを大いに確信することができます。私たちは直ちに、まさしく天の銀行で、この約束を直ちに処理してもらえます。そして、全能の御力と信実な勅命の限りを尽くしてそれを果たすよう、要求することができます。「天で行われているように」というこの追加の句はまさに、次のことを意味します。すなわち、この願い求めが成就されるとき、地は天に変わり、天が私たち一人一人の生活の中にもたらされるのです。ただしそれは、私たちがこの高遠な祈りをどの程度するのかに応じてです!この願い求めは、ですから、絶対服従の精神を意味する一方で、無限の信仰の高みに至ります。

愛する人よ、私たちはこれを理解して、「あなたのみこころが天で行われているように地でも行われますように」とこのように祈ることを学んだでしょうか?

あらゆる天然的・現世的願望について祈るのは構わないが、
地的必要をすべて顧みてくださる私たちの父に対する
信頼に満ちた依存の精神を伴うべきことを
これは私たちに教える

「今日、日毎のパンを私たちに与えてください」という句は、神のすべての子供に、御父の支援・供給する愛を要求する権利を与えます。素晴らしいことに、現世の必要に対する祈りと信頼によって、私たちはどれほど多く霊的祝福を受けることでしょう。造物主以外のものにより、あるいは、人による十二分な備えにより、神の直接的干渉や顧みから自立しようと努める人々は、霊の命の豊かさを大いに失いますし、神の個人的摂理をごく単純で些細な日常生活の関心事から切り離してしまいます。支援のための手段や祝福をもたらす現世的絆はみな、御手に直接由来するものと私たちは理解すべきです。そして、仕事や生活上の関心事をすべて神の指示と祝福に委ねるべきです。

同時に、単純さと日毎の信頼の精神を持つべきことをこれは意味します。私たちが求めるのは将来のパンではなく今日のパンです。豪華なパン、贅沢なパン、ごちそう、饗宴ではなく、日毎のパンです。いや、むしろ、最高の権威を持つ人々の訳によると、「十分なパン」です。私たちのために真に最善であると神が見なしておられるパンです。それは常にパンとバターとはかぎりません。質素なパンかもしれませんし、時にはぎりぎりのパンかもしれません。しかし、神はそのようなパンでも足りるようにしてくださいますし、それに祝福を加えてご自身の命と力を分け与えてくださいます。それで、私たちは荒野における私たちの主のように、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ことを知るようになります。これが意味するのは、要するに、自分の日毎の分け前で満ち足りて満足する精神、毎日新しい明日が来るたびに私たちを顧みてくれる神の知恵ある信実な御手に信頼する精神です。

愛する人よ、あなたはこのように自分の生活全体を神に委ねて現世の事柄のために祈ることを学んだでしょうか?日毎に信頼する精神、あなたの質素な分け前とあなたの御父の知恵と信実さに感謝しつつ満足する精神で、それを神に委ねているでしょうか?

真の祈りには、神のあわれみの必要性に対する
自覚が常に伴うべきことを
これは私たちに教える

この願い求めには二つの翻訳があります。「私たちの違反を赦してください」と「私たちの負い目を赦してください」です。これは意外なことではありません。嘆願者は次のように心底感じているかもしれません。「意識的にわざと不従順だったり罪を犯したりした覚えはありませんが、神の聖が要求する高い標準と比べたら、また自分自身の理想と比べても、無限の負い目、怠慢、欠点があるかもしれません」。鋭敏で極めて活発な霊の持ち主なら、さらなる目標――自分が目指すだけでなく、神も目指しておられる目標――を感じなくなる地点に達することは決してありません。おそらく「私たちの咎を赦してください」とは良心的に言えない場合でも、「私たちの負い目を赦してください」と言う必要がなくなることはないのです。

自分自身の欠点を覚えるとき、私たちは絶えず私たちの大祭司の功績と義に身を委ねずにはいられませんし、彼のとりなしに永遠に拠り頼みつつ、その御名の中で祈らずにはいられません。これにより極めて無価値な者でも「大胆に恵みの御座に進み出て」「あわれみを受け、時機を得た助けとなる恵みを見いだす」ことができます。罪を犯しては悔い改めることを絶えず繰り返すよう、私たちの主は私たちに要求しておられる、という意味ではありません。なぜなら、この祈りの最後の願い求めは、あらゆる悪からの解放を求めるものだからです。主は恵み深く最低の水準まで降りてきてくださいますが、この祈りを様々な水準で祈れるようにしてくださいます。それは最高の聖徒の経験も網羅するためです。また、極めて卑しい悔悛者が実際の罪に対して感じるがさつな感覚だけでなく、極めて聖なる霊の持ち主が感じる繊細な感覚にも応じるためです。

この願い求めをするにはまず、嘆願者は真摯な赦しの精神を持つ必要があります。赦しを求める祈りをかなえてもらうには、これが不可欠です。このギリシャ語構文とアオリスト時制から、それが意味するとても実際的なニュアンスがわかります。つまり、自分たちに対してなされた損害を赦すときはじめて、私たちは神の許しを求めて祈ることができるのです。意訳するとこう訳せるでしょう、「私たちに対して咎を犯した人たちを私たちはすでに赦していますが、そのように私たちの咎もお赦しください」。

ですから、たとえごく控え目なあわれみを求める場合でも、祈りをかなえてもらうには、ある霊的状態が不可欠です。それ抜きで祈ることはできません。苦々しさで満ちている魂は、神に近づいて交わることができません。ですから、次のことの正しさが推察されます。すなわち、何らかの他の罪や罪深い状態を抱いている魂は、そのせいで、恵みの御座に近づけないのです。これは旧約聖書が示す真理であり、新約聖書の豊かな恵みの限りをもってしても揺らいだり弱まったりしません。「もし私が心の中で罪科を思っているなら、主は聞いてくださいません」が、ダビデですら彼の悲しい厳粛な経験の中で学んだ教訓でした。「私は両手を洗って罪のないことを示し、あなたの祭壇の周りを巡ります」が、聖なる方との交わりを許される永遠の条件です。最も罪深い人々でもあわれみを求めて御許に行けますが、自分たちの罪を捨て去って、他の人々の罪を無代価で赦さなければなりません。とりわけ、赦されない罪が二つあるように思われます。一つは、聖霊と聖霊によって示される救い主を意図的に拒否する罪、つまり、意図的不信仰の罪です。もう一つは、赦さない罪です。

祈りは、人生で出会う誘惑に対する真の武器・安全策であること、
また、私たちは霊の敵どもからの神の保護を
要求する権利を持っていることを
これは私たちに教える

「私たちを誘惑の中に導かないで」というこの願い求めは、疑いなく、私たちの霊的戦いの戦場全体を網羅しています。また、その最大の意味は、私たちの霊の敵どもに対して身に着ける必要があるすべての武具についてである、と解釈できます。その厳密な意味は、どんな誘惑にも遭わないよう祈ることではありません。なぜなら神ご自身がこう仰せられたからです、「誘惑を耐える人は幸いです」「さまざまな誘惑に遭う時は、それをすべて喜ばしいことと見なしなさい」「忍耐を完全に働かせなさい」。これがむしろ意味するのは、「私たちを誘惑の危機の中に導かないでください」「私たちが誘惑に支配されたり、耐えられない試みを受けたりしないよう、私たちを導いてください」ということです。人々に臨む数々の霊的な試練や危機――それらはあまりにも大変で彼らには耐えられません――がありますし、大勢の人が陥る数々の罠があります。神ご自身が特別に約束しておられること、そして、この祈りが実現を求めている約束は、彼らがそのような危機に一切陥らないことであり、むしろ、あまりにも過酷な試みの状況に陥らないよう守られ、隘路を切り抜けさせてもらい、危険から安全に守られることです。

これが「主は敬虔な人を誘惑から救うすべをご存じです」という御言葉の意味であり、また、さらに恵み深い一コリント一〇・一三の約束「あなたたちが遭った誘惑で、人の常でないものはありません。神は信実であって、あなたたちが耐えられないような誘惑に遭うことを許されません。むしろ、あなたたちがそれに耐えられるよう、その誘惑と共に逃れる道をも設けてくださいます」の意味です。罠によって滅びる人の多さや、道が往々にして狭くなることを思う時、次のことを知るのは何という慰めでしょう。すなわち、私たちの技能ではまったく太刀打ちできない悪魔の策略や狡猾な敵どもに遭遇する恐ろしい危機の時、神の神聖な守りを要求することを主は私たちに許してくださっているのです!

主はゲッセマネの園で、暗闇の力と権威の時、弟子たちに厳粛な警告をお与えになりました、「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈っていなさい」。そしてこれがその時、主ご自身が取った安全策でした。使徒はこれを、私たちの霊的戦いに関する、知恵ある安全な常備薬として私たちに与えています。「祈りと願い求めの限りを尽くして御霊の中で絶えず祈り、そのために目を覚ましていて、根気と願い求めの限りを尽くしてすべての聖徒のために祈りなさい」「祈りの中に居続けて、感謝しつつ祈りの中で目を覚ましていなさい」。

主の祈りにおける最高の願い求めは、
完全な聖別を求める願い求めであり、それは
悪のあらゆる他の形からの解放を含む

「私たちを悪から救ってください」。これはしばしば「悪しき者から」と訳されてきましたが、中性形と矛盾していますし、昔の版の訳のように、「悪の創始者」よりは「あらゆる形の悪」と訳す方がいたって自然です。この訳の方がクリスチャンには得心が行きます。悪しき者に由来しない悪の形がたくさんあります。悪魔に対抗して祈るのと同じくらい、自分たちのために祈る理由があります。また、この願い求めは特別な誘惑だけでなく、物質的な悪も網羅します。これは、ですから、悪たりうるあらゆる形の罪、病気、悲しみに対抗する願い求めです。それは、堕落が私たちの霊・魂・体に及ぼしたすべての影響からの完全な解放を求める祈りです。それは四重の福音とイエスの豊かさを最高・最大に反響させる祈りです。それは、次のものを私たちは期待できることを、私たちに教えます。すなわち、罪の力に対する勝利、病気の襲来に対する助け、あらゆる悲しみに対する勝利、あらゆることが神の最高の御旨にしたがって共に働いて益となる生活です。確かにこのような祝福を求める聖霊の祈りは、それがかなえられる最高の保証です!それがすべて豊かにかなえられるよう求めることを恐れないようにしましょう。

祈りはすべて、賛美と信仰の確信をもって
終わらなければならない

主の祈りは、最も正確な写本によると、実際には「私たちを悪から救ってください」で終わっていますが、後の写本には「なぜなら、王国と力と栄光は永遠にあなたのものだからです。アーメン」という結語が含まれています。この言葉を私たちの主が述べられたかどうかは極めて疑わしいですが、この言葉はキリスト教圏では常套句になっているため、これから最後の教訓を引き出しても構わないでしょう。

この栄唱は賛美と献身の精神を表明します。私たちが求めたことに対する権威と力を私たちは神に帰します。そして、その栄光を御名に帰します。その後、神がそうしてくださることへの私たちの確信のしるしとして、私たちはアーメンを付け加えます。それはたんに「そうなりますように」を意味します。事実、それは信仰です。この信仰は御座に昇って、謙遜に願い求めたことをイエスの御名の中で謙遜に要求・命令します。私たちの主は、祈りをかなえる条件として、この信仰の要素と、ご自身の信実さに対するこの感謝と承認とを要求されます。ですから、信仰によって「アーメン」と付け加えない限り、いかなる祈りも完全ではありません。

以上がこの普遍的祈りの基本的教えです。何度私たちはこの祈りを口にしてきたことでしょう!愛する人よ、これは今日私たちの心を探って、私たちが祈りと称しているものの不完全さ、身勝手さ、偏狭さ、不信心さを私たちに示したでしょうか?今後はこの含蓄ある言葉を、もっと深い思慮をもって繰り返そうではありませんか。また、これらの言葉を今まで以上に厳粛な理解をもって熟考しようではありませんか。これらの言葉の真意が私たちに伝わるまでそうしようではありませんか。これはあらゆる祈りの要点であり、考えうるあらゆる必要と祝福の表明であり、天上の御座を絶えず取り巻いている軍勢の言葉のような言葉です。そうするなら確かに、御国が到来して、御旨が天で行われているように地でも行われるでしょう。

麗しい祝された祈りです!これは最も聖なる命のつながりを何と思い起こさせることでしょう!これは堕落のどん底にある放蕩者を最後まで何と追いかけていくことでしょう!これは聖徒の霊の命の深化と共に何と広がっていくことでしょう!これは世を去って御座に行こうとしているクリスチャン――今や御座に向かって羽ばたく準備が整っています――の最後の願望と愛慕を何と軽やかに運んでくれることでしょう!今から後、これを私たちにとってさらに親密で、さらに現実的で、さらに身近で、さらに広範で高遠なものにしようではありませんか。なぜならこの祈りは、恵みの御座に向かって祈り、はばたくことを私たちに教えてくれるからです。そして、ああ、これを読んでいる人の中に、この祈りをしばしば唱えてきたものの、「私たちの父よ」と言う権利を持たずにそうしてきた人、あるいは、心を探るその意味を理解する能力に欠けたままそうしてきた人はいるでしょうか?もしいるなら今この時、愛する読者よ、立ち止まってください。そして、何年も前にその優しい言葉づかいをあなたに教えてくれた人、しかし今は苔むした墓の中で静かに眠っている人の唇を、涙と共に思い出しつつ、この母親の神、この父親の神、この姉妹の神の足下にひざまずいてください。そして、もしあなたに「私たちも自分に負い目のある者をみな赦しますから、私たちの罪を赦してください」と進んで言う気があるなら、あなたは永遠の希望と交わりの中で、これらの言葉を最初にあなたに聞かせてくれた人々と一緒に、「天におられる私たちの父よ」と大胆に付け加えることができます。

南部の病院の寂しいベッドの上で、瀕死の兵士が横になっていました。あるクリスチャンの友人が彼に会ってキリストについて話そうとしましたが、不敬虔な嘲笑と共に追い返されてしまいました。一、二度、その友人は彼の心に手を差し伸べようとしましたが無駄でした。しかし遂に、ただベッドの横にひざまずいて、優しく主の祈りを、ゆっくりと厳かに繰り返しました。立ち去るために彼が立ち上がった時、この不敬虔な人の目は涙で濡れていました。彼は涙を拭い去って自分の感情を隠そうとしましたが、とうとう根負けして言いました、「私の母がそれを五十年以上前に教えてくれたのですが、それをまた聞いて私はすっかり打ちのめされてしまいました」。その伝道者は、神の御声を邪魔したくなかったので、立ち去りました。次に彼が訪問した時、その患者はいなくなっていました。看護婦を呼んで患者について尋ねたところ、こう告げられました。「あの兵士が亡くなる一日か二日前の晩、亡くなる直前に、あの方が『天におられる私たちの父よ』という言葉を繰り返すのを聞きました。その後、しゃがれ声で、『お母さん、今から行くよ!神は僕にとってもお父さんだから』と付け加えたようでした」。

親愛なる友よ、この古い祈りを、地上で最も愛する人々との聖なる絆、天の門への足掛かりとしなさい!