第二章 祈りの勧め

A. B. シンプソン

そこで彼は彼らに言われた、「あなたたちのだれかに友人がいて、真夜中にその人の所へ行き、こう言ったとします、『友よ、パンを三つ貸してください。私の友人が旅の途中、私の所に来たのに、彼に出すものがなにもないのです』。するとその人は答えて言うでしょう、『煩わせないでくれ。もう扉は閉まっているし、子供たちは私と一緒に床についている。起きてなにもあげることはできない』。わたしはあなたたちに言います、自分の友人だからということで、起きてなにもくれなくても、そのしつこさのゆえに、起きて、必要なものを与えてくれるでしょう。そこでわたしはあなたたちに言います。求めよ、そうすれば与えられます。捜せ、そうすれば見いだします。叩け、そうすれば開かれます。なぜなら、すべて求める者は受け、捜す者は見いだし、門を叩く者には開かれるからです。あなたたちのうちで、自分の子がパンを求めているのに、石を与える父がいるでしょうか?あるいは、魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるでしょうか?あるいは、卵を求めているのに、さそりを渡すでしょうか?あなたたちは悪い者であっても、自分の子供に良い贈り物を与えることを知っているとするなら、なおさらあなたたちの天の父は、ご自身に求める者たちに、聖霊を与えてくださいます」。(ルカ十一・五~十三)

これが祈りに関する私たちの救い主の二つ目の教えです。彼の一つ目の教えは、祈りの実際の例でした。これは祈りに対する特別な勧めをいくつか示しています。この勧めは私たちの父であり友である神の恵み深い顧みによって与えられたものであり、祈りの性質と精神に関するいっそう深い説明でもあります。

祈りの勧め

神は私たちの父です。これはすでに主の祈りの冒頭の言葉によって示唆されていますが、この節は地上の親と天の親を比較することによってそれを詳述しています。「あなたたちは悪い者であっても、自分の子供に良い贈り物を与えることを知っているとするなら、なおさらあなたたちの天の父は、ご自身に求める者たちに、聖霊を与えてくださいます」。神は父であるだけでなく、地上のどんな父よりも遥かに優っておられます。これは私たちの多くに対してなんと多くの内容を伝えてくれることでしょう!家庭に関する記憶の中に、父親や母親の愛と顧みのありがたさの記憶のない人も少しいます。あるいは、両親のいない人の場合、なおさら、おそらく、その孤独な心はその深い必要を感じて、父親の愛情と手を求めて手を差し伸ばしてきたことでしょう。自分自身を超えた知恵や能力が必要な、なんらかの重大な緊急事態のとき、「ああ、私のお父さんがここにいてくれさえすれば」と感じなかった人が私たちの中に誰かいるでしょうか。あるいは、おそらく、神に向かって、「もし今、あなたが私の地上の父親だったなら、あなたは私の傍に座って、私に自分のとまどいをあなたにすっかり打ち明けさせてくださったでしょう。そして、私にどうすべきかを告げて、それから、私自身にはできないことを私のために行ってくださったでしょう」と言わなかった人が私たちの中に誰かいるでしょうか。しかしそれでも、神の臨在はまるで私たちが神を見ているかのように現実的であり、私たちは自分の心を、そのすべての恐れや悲しみと共に、自由に注ぎ出すことができます。また、いかなる地上の父親の愛や助けもなしえないほどに、神は私たちに耳を傾けて助けてくださることを、私たちは経験することができます。おそらく、私たちの子供時代を思い出すよりも、私たち自身が父親や母親になるときに、これはよりよくわかります。両親の愛を一つでも感じたことのある人で、これを理解できない人が誰かいるでしょうか?それは、その対象が無力・無価値でも、変わらない愛です。それは愛する者のためにすべてを、命そのものさえも喜んで犠牲にする愛です。しかし、その愛はそもそも神のふところからすべて発したものであり、依然としてさらに無限の貯えがそこにあります。この「さらに」の深さ、長さ、高さに匹敵するのは、無限と人との間の距離くらいしかありません。あなたが自分の子供を愛するよりもさらに多く、神はあなたを愛しておられます。あなたが与えたり犠牲にしたりするものよりもさらに多く、神は与えようとしておられますし、すでに犠牲にしておられます。父親に対するあなたの信頼や求めよりもさらに多く、あなたは思い切って神のみもとに持ち出せます。神の知恵は誤ることがさらに少なく、神の力はさらに果てしなく、神の愛はさらに無尽蔵です!ですから、私たちの人間経験というささやかなアルファベットで神の愛をすべて綴って、「天におられる私たちの父よ」という祈りのいっそう深い意味を学ぼうではありませんか。

神は私たちの友です。「あなたたちのだれかに友人がいて」。これもまた、私たち一人一人の実際の経験からその意味がすべてわかります。一人も友のいない人、ある意味で父にも優る友のいない人がいるでしょうか?最も強い永続的な地上の絆である血縁から生じたものではない親密さがそこにあります。ヨナタンはダビデにとってエッサイ以上の存在であり、テモテはパウロにとって実の息子以上の存在でした。自分の友は私たちにとってどれほど大事なことか!一人一人友を数え上げて、一つ一つ愛の行いと絆を思い出し、彼らを信頼できる理由と彼らが私たちを助けてくれた事をすべて思い出しましょう。それから、思い出と愛情の重さに専念しつつ、神にこのような信頼を寄せて、神はこれとは比較にならない方であると考えましょう。私たちの友!個人的に私たちに関心を寄せてくださる御方、私たちを心に留めてくださる御方、私たちと懇意にしてくださる御方、言い尽くせない交わりの優しい繊細な親密さの中で私たちに近づいてくださる御方、このような恵み深い言葉を私たちに語りかけてくださる御方、このようにかけがえのない数々の誓約と約束を私たちに与えてくださる御方、私たちのためにこれほどのことをしてくださる御方、このような尊い犠牲を払ってくださった御方、どんな問題も引き受ける覚悟あるいはどんな代価を払っても私たちを助ける覚悟があると思える御方――この御方に私たちは祈りの中で近づきます、この御方は私たちの天の友です。

彼は逆境の時の友です。この箇所に示されている事例は困難なものです。嘆願者は大きな必要を抱えています。両手に悩みの種を抱えて、それに対処する手段が全くありません。それは私たちの生活の何らかの非常事態を意味するのかもしれません。快晴の時しか友人でない人々とはちがい、神は常に友でいてくださいます。

私たちの陽光を浴びて暮らしていた友人たちは
冬がやって来ると、逃げてしまった。
そして、涙しか与えるものがない者は、
一人でその涙を流す羽目になる。

しかしこの友なる御方は、特に欠乏している時に助けを乞う権限を私たちに与えてくださいました。「わたしを呼び求めよ」と彼は述べておられます。「悩みの時に。わたしはあなたを救い、あなたはわたしをあがめよう」。「神はわれらの避け所また力、悩みの時のいと近き助け」。「あなたは私の魂の悩みを知っておられます」と、きわめて厳しい圧迫下で神の信実な友情を実証した人は証ししています。「落胆している者を慰めてくださる神」「あわれみの父、あらゆる慰めに満ちた神」が彼の選り抜きの御名であり称号です。ですから、自分の悲しみや恐れを御前に持ち出すしかない時でも、彼のみもとに行くことを恐れないようにしましょう。私たちは歓迎してもらえます。彼はきわめて困難な問題でも解決できます。彼が御座についておられるのはまさに、必要な時に助けを与えるためです。たとえ状況が全く絶望的で、このたとえ話の暗い真夜中のように暗い時だったとしても、あなたの重荷を主に委ねなさい。そうです、あなたの心配を主に委ねなさい。なぜなら「彼はあなたを顧みて」くださるからです。また、「主は心の砕けた者の近くにおられ、悔いた霊の者を救われる」からです。

彼は順境の時だけでなくきわめて不遇な時でも、常に友でいてくださいます。このたとえ話は一人の人の物語です。彼は、歓迎される合理的理由が皆無の時に友人のもとに行きました。時は真夜中でした。扉は閉まっており、文字どおりかんぬきがされていました。家は夜のあいだ閉ざされていました。呼び出しの時はとっくに過ぎていました。それにもかかわらず、その門は開かれ、この嘆願は聞き届けられ、便宜が与えられました。この気乗りしない地上の友人の意味がなんであれ、確かに次のことがわかります。すなわち、絶望的な極度の困難や状況のときでも、これらの理由によって彼が耳を傾けて助けてくださらないことは決してないのです。神の恵みの特異な点は、人なら助けを拒もうとする時でも神は助けてくださることです。その最高の戦勝記念碑は、あわれみはとうの昔に過ぎ去って希望が永遠に死に絶えたかのように思われた時と関係しています。

あの邪悪な王のマナセを見てください。彼は半世紀のあいだ神の預言者や聖徒を残忍に殺戮しました。聖なる神聖なあらゆるものの残骸で、彼は文字どおり自分の残忍さを涵養しました。その後、天罰の御手が彼を打ち、彼を異国の牢獄の捕囚にし、惨めな老年を過ごさせました。このような人の祈りは不敬だと人なら思ったでしょう。当然受けるべき無慈悲な刑罰を逃れようなどという彼の考えに天は耳をふさぐだろうと思ったでしょう。しかし、この晩年にマナセが苦しみの中から主に向かって叫んだところ、主は彼に耳を傾け、彼をあわれみ、彼のすべての罪を赦し、彼を再び彼の王国に戻されたのです。その時、主が神であることをマナセは知りました。「時すでに遅し」「あわれみの扉は堅く閉ざされている」とだれも二度と言えないことは確かです。

あのニネベの都を見てください。ニネベは諸国民の迫害者であり、アッシリヤの高慢な女王であり、イスラエルとユダに対する鞭であり、あらゆる忌むべき偶像崇拝を誇る社でした!とうとうその不法は天に達し、預言者ヨナが遣わされて、その速やかな避けられない破滅を宣言しました。「四十日後に、ニネベは滅ぼされる」。その都の王たち、僧侶たち、皇子たち、農民たちはひざまずき、ひれふして悔い改めの祈りをしました。すると閉ざされていた門が開かれ、あわれみの扉が開錠され、この恐るべき布告は撤回され、ニネベは神のあわれみの記念碑となりました。通りの子供たちや牛舎の牛たちが、神の優しい同情心の対象として明確に述べられているのです。

ヘゼキヤ王を見てください。栄華の盛りに、「あなたの家を整理しなさい。あなたは死にます。生きながらえることはできません」という使信が臨みました。確かにそれは墓の門を閉ざして塞ぐもののように見えました。その宣告は破滅の声のように彼の耳に響きました。しかし、その時ヘゼキヤは祈りました。それは哀れな、おののきながらの祈りでした。「私は朝まで考えていました。獅子のように、彼は私のすべての骨を砕かれます。日夜、あなたは私を終わらされます。鶴やつばめのように、私は鳴き騒ぎ、はとのように、私は呻きます。私の目は上を仰ぎ見て衰えていきます」。この打ちひしがれた祈りの喘ぎには信仰が僅かしかありませんでしたが、神の御心に届きました。そして、不可避で情け容赦ないように思われたその宣告は変更されました。その厳しい言葉――それは堅い石のように命への道を塞ぎ、そして、避けられない墓のように思われる冷たい石の門を開きました――は、変更されました。そして、その使者は「わたしはあなたの寿命に十五年加えましょう」という恵み深い執行猶予を携えて送り返されました。

このような友に私たちは祈るのです。この御方は私たちとあらゆる強力な障害との間に立ってくださいます。物質的力、自然法則、人間的もくろみ、神の裁きの扉と私たちとの間に立ってくださいます。そして、愛の御手をもって、最高に豊かな祝福――それを彼は信頼に満ちた従順な心に賜ることができます――と私たちとの間に立ちはだかるすべての障害物を取り除いてくださいます。「あまりにも難しすぎる」「時すでに遅し」などともはや思えないのではないでしょうか?彼は窮地の時を必要としておられます。それは全能の力をもって介入するために彼が選ばれた時です。「神は夜明け前に、これを助けられる」がシオンに対する彼の御声です。

力ある主は瀕死の少女の床に呼ばれましたが、その道すがら、ある貧しい無力な女性のために時間を割かれました。その女性は、彼の衣に触れて癒されました。しかしその間に、少女の命は消えてしまいました。そして、人は不信仰なことに、「もはや手遅れ」ということで主の訪問をさっさと取り下げてしまいました。「あなたの娘は亡くなりました。先生を煩わすには及びません」。その時、主の力強い強力な愛が湧き起こって、力と勝利の輝かしい高嶺に至りました。「恐れてはいけません」と主は穏やかに返答されました。「ただ信じなさい。そうすれば娘はよくなります」。

そうです、真夜中でも御許に行こうではありませんか。なぜなら、イスラエルを守る方はまどろむことも眠ることもないからです。他の扉はすべて閉ざされ、天さえも青銅のように思われたとしても、御許に行こうではありませんか。なぜなら、祈りの門は常に開かれているからです。太陽が沈んで、枕に荒野の石しかない時はじめて、私たちは天に届く梯子を目にします。その梯子の上には私たちの無限の神がおられ、神の摂理の御使いたちが私たちを助けて解放するためにその梯子を上り下りしています。「常に祈るべきであって、失望してはなりません」。

彼は私たちを欺かない友です。彼は私たちにパンの代わりに石を与えたりはされません。つまり、不毛で無価値な空しい答えではなく、実際的な満足できる祝福を与えてくださるのです。私たちが来て魚を求める時、彼は私たちに蛇を与えたりはされません。つまり、有害な贈物、あるいは、誘惑や霊的悪といった隠れた罠を含むようなものを与えたりはされません。私たちが盲目な状態で求めるものの多くには、とぐろを巻いた蛇が含まれています。しかし、神は私たちを大いに愛しておられるので、そのような祈りをかなえるわけにはいきません。それゆえ、時として、私たちの願い求めを修正・拒否せざるをえません。それは彼が天におられる私たちの真の父だからです。これを彼に任せることを恐れてはなりません。また、「それらが私たちを害することがありませんように」というきわめて大胆な要求をすることを恐れてはなりません。なぜなら、最大の祝福を与えてくださる方は、それが利己的な偶像や霊的呪いにならないようにする恵みを与えることができるからです。人々は時々言います、「神が私を癒してくださるとき、あるいは、私が祈り求めているなんらかの現世の祝福を私に与えてくださるとき、それは私にとって最善ではないのではないかと私は恐れます」。私たちは賜物だけでなく恵みについても彼に信頼できるのではないでしょうか?

また、私たちの父は私たちが卵を求めているのにさそりを与えたりはされません。つまり、後に苦さや痛みを残すようなものを与えたりはされません。「主の祝福が人を富ませ、彼はそれになんの悲しみも加えない」。なんとたくさんの地上のバラが枯れて、永続する棘を残すことか。地上の杯からのなんと多くの滴の中に、喜びの滴よりも多くの毒くずが含まれていることか!なんと多くの愛や友情が、別れの悲しみや苦い記憶しかもたらさないことか。しかし、天が私たちに与えるものはみな、永続する喜びです。私たちが求める一切のものについて彼に信頼しましょう。そうすれば、彼の愛と信実さを歌うべき永遠の動機を私たちは得るでしょう。

この友は豊かに与えてくださいます。「起きて、必要なものを与えてくれるでしょう」。私たちの父の家には十分なあり余るパンがあります。彼はさらに豊かです。三つのパンを彼は飢えた旅行者にお与えになりました。いいえ、三つというのは求められた数であって、彼はもっとたくさんお与えになったように思われます。必要なだけ喜んでお与えになったように思われます。この三つのパンは私たちの三重の命とその各部――霊・魂・体――に対する神の完全な備えを示唆しているのかもしれません。私たちは十二分な量を求めてきたでしょうか?私たちは今日満足していて、私たちのもとにやって来る飢えた旅行者たちのためにありあまるほどの命と愛で満ち溢れているでしょうか?彼はそれを貸してくれるよう求めただけでしたが、それを贈物として受け取りました。求められたお返しは感謝と愛でした。ですから、私たちの父と私たちの友は、「彼の栄光の富にしたがって、キリスト・イエスにより」私たちのすべての必要をいつでも供給してくださいます。

私の魂よ、自分の望むものを求めなさい、
大胆すぎることなどありえません、
ご自身の血をあなたのために彼は流されたからです、
他の何を彼は差し控えられるでしょう?

あなたのありったけの願いを超えて、
彼の力と愛は祝福できます。
信頼する人々に対して彼は
彼らが言い表せる以上に与えることを喜ばれます。

祈りに関する手引き

祈りの最も単純な形は求めることです。「求めよ、そうすれば与えられます」。これは祈りのごく初歩的な形です――ごく単純な言葉や方法で自分の嘆願を神に伝えます。私たちはまぎれもなく次のように教わっています。きわめて平凡で不完全な要望でも、恵みの御座で真摯に述べられるなら、私たちの天の父はそれに注意を払って応答してくださるのです。ひょっとしたら、誠実な心で求めた結果が空しく終わることは決してないのかもしれません。たとえ、無知や経験不足のせいで、効果的な祈りの原則や条件を部分的にしか理解していなかったとしてもです。幼児の無力な叫びが母親の心に届くのに優って、神の子供たちの口から発せられた欠乏と嘆願の喘ぎはごくかすかなものでも神の心に届くのです。

より高度な祈りの形があります。「捜せ、そうすれば見いだします」。これが意味しているのは答えを受けるまで神を待ち望む祈りです。神の指示に従順に従って、その答えを追い求めて、ついには求めるものを、光であれ、健康であれ、高き所からの力であれ、すべて見いだす祈りです。

これは主に聞き、主の答えを聞くために耳を澄まし、それにすぐ従う祈りです――「日々彼の門の傍らでうかがい、彼の戸口の柱のわきで待つ」。「主を知ることを求め続け」るなら、それに続いて、全き光、助け、祝福を見いだします。なぜなら、祈りは求める以上のことだからです。祈りは受けること、待つこと、主を学ぶことであり、会話、交わりです。その中で主は多くのことを語られますし、私たちも多くのことを学びます。この祈りにより私たちは頻繁に主の平安、主の天的な愛と力のバプテスマ、生活上の問題の主による解決を受けてきました。これについて主は次のような約束をたびたび繰り返して述べておられます、「あなたを待ち望む者がはずかしめを受けませんように」「わたしはヤコブの子孫に『わたしを尋ねるのは無駄だ』とは言いませんでした」「主を求める者たちはどんな良いものにも欠けることはない」。なぜなら、祈りは物を求めることである以上に、主ご自身を求めて、あの交わりの中に押し入ることだからです。この交わりは他のあらゆる賜物よりも優っており、それと共に必要な祝福をすべてもたらします。

叩く祈りがあります。この祈りに対して「叩け、そうすれば開かれます」という約束が与えられています。これは求める以上のことです。これは人生の大きな障害、閉ざされた扉のような状況、青銅の門、堅固な山々のような妨げを乗り越える祈りです。この祈りは、昇天された主の御名の中で、また、調停者としての主の権利と力との交わりの中で、すべての障害物をくぐり抜け、すべての敵を踏みにじります。これは天の門を叩いて、気乗りしない神から答えを強要する祈りというよりは、答えと約束を受け取って、それを敵の門にぶつけて――信じるイスラエルの軍勢の歩行と叫びの前にエリコの壁が崩れたように――打ち倒す祈りです。これは私たちの昇天された主の傍らでなされて、主が与えると約束されたものを要求し、その力ある御名の中で、主がすでにご自身の王的祭司職とすべてに打ち勝つとりなしによって命じておられることを命じさえする祈りです。これは神の全能の力を握って、それを私たちの全能なるかしらとの交わりの中で用いる信仰です。そしてついには、御名がみこころに逆らうすべてのものに打ち勝ち、曲がったものは正され、青銅の門は開かれ、鉄の枷は粉々になるのを目にすることになるのです。

それは神と共に山の上に立ったモーセのようです。ヨシュアが眼下の平野で戦っている間、モーセが勝利の信仰を意味する両手を上げると、ヨシュアの軍勢はその上げられた両手と歩調を合わせました。その両手が上がると戦線を進め、下がると引きました。最終的に、高き所で振られた両手によって戦場で勝利が得られ、「エホバ・ニシ、主はわが旗」という記念すべき御名が宣言されました。この御名は代々にわたって私たちの標語となりました。こう記されています、「主は誓われたからである。主は代々にわたってアマレクと戦われる」。私たちの手が主の御座を握る時、主は私たちのすべての敵と戦われます。そして、敵は主の勝利のみこころの前に倒れます。

それは自分の天幕でひざまずいたデボラのようです。その日、バラクがイスラエルの軍勢を率いてシセラの軍団を攻撃しました。デボラはこの輝かしい戦争の怒涛の趨勢を自分の卓越した心に感じ、自分の信仰と祈りの鼓動によって戦いの優劣を知りました。そしてついには、幻の平野でその戦いを戦い抜きました。そして彼女が最後の輝かしい攻撃を要求して、最後の敵に逃げるようエホバの御名の中で命じた時、おそらく彼女の目には戦場が全く見えていませんでしたが、彼女の勝ち誇る霊は信仰の勝利の中で叫びました。「ああ、私の魂よ、力強く踏みにじれ」。彼女の魂は敵を踏みにじりました。彼女の霊はエホバの力を意識して勝利しました。彼女の信仰は敵の門を叩いて、ついに堅固な壁は塵の中に崩れ落ち、青銅の門は粉々に粉砕され、空の旋風のように散らされました。これが「大いに力がある」「効果的な祈り」です。

私たちはまた、大胆さとしつこさの精神で御許に進み出るよう教わります。「そのしつこさのゆえに、起きて、必要なものを与えてくれるでしょう」。これはとても難しい節であり、様々な解釈がされてきた節です。「救いの計画の哲理」の思慮に富んだ著者であるウォーカー博士は、聖霊についての彼の著書の中で、次のことを示そうとしています。すなわち、ここのこの言葉は「極度」を意味すること、そして、その言葉が伝える思想は、この人の願いがかなえられたのは、彼の絶え間ない祈りのためではなく、彼が直面していた極度の苦悩と困難な緊急事態のためだったということです。しかし、この見解に対する十分な根拠は見いだせません。ギリシャ語は文字どおりには「あつかましい(without shamefacedness)」を意味します。これは一テモテ二・九の「慎み深さ(shamefacedness)」という言葉の否定形であり、その正確な意味は大胆さと豪胆さです。次の真理に非聖書的な点はなにもありません。この真理は、確かに、新約聖書の中で絶えず繰り返されています。すなわち、私たちは臆することなく、恵みの御座に大胆に進み出て、イエスのために、贖いによる自分の権利を完全に要求するべきなのです。「私たちは大胆に入ります」と御言葉は私たちに告げます。「それは彼の信仰によってです」「ですから(中略)イエスの血により大胆に至聖所に入り(中略)信仰の全き確信に満ちた信実な心で近づこうではありませんか」「ですから恵みの御座に大胆に進み出ようではありませんか」。

祖国の運命がかかった危機の時、もしエステルが王の前に進み出るのをためらっていたなら、間違いなく、自分の祝福を失っただけでなく、祖国の命運を危険にさらしていたでしょう。もし慎み深いルツが自分の合法的な権利をボアズの足下で、近親者に関する律法にしたがって要求することを恐れていたなら、まちがいなく、彼の花嫁には決してならなかったでしょう。また、ダビデから始まって人の子で終わる、王たちの長い誉れある系図の源になることもなかったでしょう。疑いなく、私たちの不信仰な恐れや弱気な臆病さのせいで私たちは贖いによる多くの権利を失ってきましたし、私たちの復活・昇天した主の御名の中で嗣業を要求する大胆な輝かしい確信は神に喜ばれます。この美しいたとえ話の意味・教訓は次のことであると私たちは信じます――すなわち、私たちは大胆に私たちの父であり私たちの友である方に進み出るべきなのです。たとえ扉が閉ざされているように思われても、あるいは、いかなる落胆が私たちの道を横切ろうともです。ある人は「人が抱える問題で成功を収める秘訣は、多くの場合、豪胆さである」と言いました。少なくとも、クリスチャン生活と信仰には、聖なる大胆さなるものが存在します。それはきわめて深い謙遜さと矛盾するものではありません。また、そのおかげで、旧約聖書のモーセ、ヨシュア、エリヤ、ダニエル、そして、新約聖書のツロ・フェニキヤの女や栄えある信仰の使徒は勝利を得たのです。キリスト教時代における福音の真理と宣教の勝利の先駆者だったルターたちやカーレーたちについても同じです。

おそらく、最も高度な祈りの務めは他の人々のための祈りです。この願い求めは嘆願者自身のためではなく、彼の友人のためでした。その友人は、旅の途中、彼の所にやって来て、食料貯蔵庫が空っぽで出すものがなにもないことを見いだしました。文字どおりには、これは「途方にくれた」友人を意味します。

それはなんと優しく人々――その人々のために私たちは絶えず私たちの天の友に進み出ます――の必要を示すことでしょう。このことを使徒ヤコブは祈りに言及して述べています、「互いに罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。それはあなたたちが癒されるためです。義人の効果的で熱心な祈りは大いに効力があります」。次に、まさにこのことに特に言及して彼はこう付け加えます、「兄弟たちよ、もしあなたたちのうち、真理から迷い出た者がいて、だれかが彼を立ち返らせるなら、その人は知るべきです。罪人を誤った道から立ち返らせる人は(中略)おびただしい罪を覆うのです」。神に感謝します。私たちは道に迷ったこの人々――私たちの救われていない友人たち、私たちのさまよっている息子たちや娘たち、初めて主を見た時に経験した最初の愛と祝福から後退した私たちの兄弟たち――の問題を御前に持ち出すことができます。主は彼らの叫びを拒まれませんし、彼らに生けるパンを与えそこなったりもされません。

多くの場合、私たちの最も大胆な祈りは他人のための祈りです。自分のための場合、おそらく動機が利己的であるおそれがありますが、他人のための場合は愛の祈りであることがわかります。それが彼の栄光を求める祈りの場合、私たちはそのために彼の力強い勝利のみこころととりなしを要求することができます。ああ、奉仕の道は閉ざされたとたびたび感じてきた人々よ、これはだれでも実行できる務めであり、最も強力な命の務めです!今から後、彼との交わりの中でそれを用いることに励もうではありませんか。彼は昇天以降の諸世紀を、他人のための祈りと、私たちの大祭司として御座の前で私たちの代弁者を務めることに、費やしてこられたのです。

この節が祈りに関して私たちに教える最後の教訓は、聖霊があらゆる祈り求めの源であり本質である、ということです。また、それは賜物であって、それと共に他のあらゆる賜物と祝福の保証を伝えます。

「なおさらあなたたちの天の父は、ご自身に求める者たちに、聖霊を与えてくださいます。」

これは、他に求めるべきものは全くないかのように述べられています。さらに注目すべきことに、マタイによる福音書のこのたとえ話の節では、「なおさらあなたたちの天の父は、ご自身に求める者たちに、聖霊を与えてくださいます」という言葉が使われています。ですから、「聖霊」と「良いもの」は同義語です。聖霊を持つ者は、すべての良いものを持ちます。これが、古代の奇跡であるやもめの油の象徴的意味だったのではないでしょうか?彼女の油の壺から、すべての空の器に注いだところ、彼女の負債をすべて返済して、彼女の将来の生活のための収入を与えるのに十分な量になりました。彼女に必要なのは油の壺だけでした。それはあらゆる祝福のための通貨だったのです。

聖霊も同じです。この天の賜物を持っている人は、無限の恵みの御座と無限に豊かな神と通じているのです。要求できないものはなにもありません。ああ、いつになったら私たちは、神の王国と神の義をまず第一に求めることを学び、これらのものは加えて与えられることを理解するのでしょう!

ディーン・アルフォードは、私たちの天の父について述べているこの結語の句の美しいギリシャ語構文に注意を促しています。「あなたたちの天の父」という節は、原文では、文字どおりには、「天からの(out of heaven)あなたたちの父」となっています。この数節前の主の祈りでは「天におられる(in heaven)私たちの父」となっていますが、ここでは前置詞が変わっており、「天からの(out of heaven)あなたたちの父」となっています。この幸いな驚くべき変化はどうしてでしょう?私たちの父はすでに私たちに向かって進み始めておられ、聖霊によって私たちの心の中に入りつつあるのです。私たちの父は、心の中で祈っているすべての人のために、下界を天とするために聖霊を遣わされました。ですから、私たちは目を上に向けて私たちの祈りを開始する一方で、祈りを終えるとき、私たちの最も内側深くの存在は神の臨在と豊かさ、そして、神の永遠の恵みと力の御座で満たされるのです。

幸いな天の香檀よ、裂かれた幕の傍らにあって、その香を外なる部屋と内なる部屋に息吹き込むとは!ああ、永遠にそこにとどまろうではありませんか!

天が下るところで私たちの魂は会する。
そして栄光があわれみの座の冠となる。