第三章 御名の中で

A. B. シンプソン

その日には、あなたたちは私に何も尋ねないでしょう。まことに、まことに、私はあなたたちに言います。あなたたちが私の名の中で父に求めるものは何でも、彼はあなたたちに与えてくださいます。今までは、あなたたちは私の名の中で何も求めませんでした。求めなさい、そうすれば、あなたたちは受けます。それは、あなたたちの喜びが満ちるためです。これらのことを、私はあなたたちに、たとえで語ってきました。しかし、もはやたとえで語るのではなく、はっきりと父について示す時が来ます。その日には、あなたたちは私の名の中で求めるでしょう。それで、私はあなたたちのために父に祈ろうとは、あなたたちに言いません。なぜなら、父ご自身があなたたちを愛しておられるからです。なぜなら、あなたたちは私を愛し、私が神から出て来たことを信じたからです。(ヨハネ一六・二三~二七)

「イエスのために」「イエスの御名の中で」はキリスト教圏のすべての人にとって聞き慣れた句であり、言い慣れた句です。しかし、これらの句のいっそう深い意味を見るとき、これらの句が少しも徹底的には理解されていないことに私たちは気づきます。これは祈りに関する深遠な教えであり、これを主は弟子たちへの話の締めくくりで特に強調しておられます。

疑いなく、これは少なくとも次のことを意味します。すなわち、私たちはイエス・キリストによって啓示されたように御父に祈るべきなのです。

「あなたたちが私の名の中で父に求めるものは何でも」は「あなたたちが私によって代表されている父に求めるものは何でも」と訳せるかもしれません。これはキリストが御父と一つであることを表します。御父は彼らに対して多くの異なる名で知られていました。「エロヒム」は造物主なる神、「エルシャダイ」は力ある神、「アドナイ」は摂理の神、「エホバ」は契約による恵みの神を意味します。しかし今後は、「エホバ―イエス」、キリストにある神として知られることになります。疑いなく、これをこの節の言葉は意味していますし、救い主が述べておられる思想はこれを含んでいます。これは彼が並行する節「あなたたちが私の名の中で求めるものは何でも、私はそれを行います。それは子の中で父が栄光をお受けになるためです」で繰り返しておられる思想と同じものです。これは次のことを明らかに示しています。すなわち、御父と御子は完全に調和して働いておられるのです。また、ただ御子を通してのみ御父は栄光をお受けになるのであり、人に対して啓示される、もしくは、人によって理解されるのです。

この思想を発展させすぎると、御父と御子のパースンの区別をなくしてしまうおそれがありますが、もちろん、これは極端であり誤りです。しかし、これを心に留めて、この二つのパースンを十分に認識するとき、確かに、次のことがわかります。すなわち、御父ご自身が私たちに啓示されるのは御子のパースンにおいてなのです。また、私たちは御父に願い求めるべきであり、御父の恵み深い応答に期待するよう、イエスを知る知識のゆえに、励まされるべきなのです。イエスの臨在と教えを通して、彼ご自身が私たちに啓示されているのです。私たちは確信をもって私たちの救い主のもとに進み出るでしょうか?同じ確信をもって彼の御父のもとに進み出ようではありませんか。なぜなら、「私を見た者は父を見た」からです。彼が語られた御言葉は、彼の中に住んでおられる御父が語られたのです。彼が現わされた愛は御父の愛であり、御父を啓示するために彼は来られたのです。彼は御父の栄光の輝き、御父のパースンの明確なかたち、御父のみこころと御性格の反映です。ですから、私たちが祈るべきは、キリストにある神に向かってです。私たちの主イエス・キリストの神また父に向かってです。御子を通してでなければ私たちが何も知ることのできない御方、私たちがイエスご自身と同じくらい信頼している御方に向かってです。

この表現は、しかし、御父と御子の一体性を遥かに超えるものを意味します。それは、仲介ととりなしという偉大な真理を表しています。

私たちはイエスにあって知っている方である御父に進み出るだけでなく、仲介者なる方を通して御父に進み出ます。これには、神の性質という点で、また、罪深い人々の神に対する関係という点で、数々の深い必要があります。これをとても深くヨブは理解したので、「私たち両者の上に手を置」けるひとりの仲介者、直ちに天と地の両方に触れて両者を調和と交わりの中にもたらせる何者かを求めて叫びました。これをまさにキリストは行われたのです。彼の受肉は永遠にして霊なる神と有限な人との間の無限の隔たりを橋渡ししました。そして、彼の贖いは、罪人を聖なる神から道徳的に厳然と分離した恐ろしい裂け目を癒しました。死にかけている母親が、最後の息で、一方の手を夫に、他方の手を息子に差し伸べて、両方の手を一緒に引き寄せ、死にゆく自分の胸の上で結び合わせて自分の涙と祝祷で覆うように、イエスは「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちが何をしているのか知らないからです」と祈って、ご自身の死により罪人を彼が怒らせた神と結び合わせ、罪深い人々に向かって「神と和解してください」と懇願されたのです。

しかし、彼は神と人々を和解と交わりにもたらしただけでなく、絶え間ないとりなしによって、この交わりが損なわれないように保ってくださいます。「彼はいつも生きていて(わたしたち)のためにとりなしておられ」、それゆえ、「彼によって神に進み出る者たちを、極みまで救うことができるのです」。

この仲介の思想は聖書の中に大いに描写されています。私たちはそれをヨセフと彼のパロやエジプト人との関係の物語の中に見ます。「ヨセフの所に行きなさい」が、助けや裁きを求めて自分のもとに来たすべての人々に対する王の応答でした。その王国のすべての問題が彼の管理に委ねられました。彼が仲介人、あらゆるやりとりの経路となりました。私たちはそれをエステルの美しい物語の中に見ます。彼女は勇気を奮って黄金の杖に触れ、自分の民と抑圧者・危機の間に立ち、その勇気と愛国心によって、自分の国を滅亡から救いました。さらに素晴らしくそれはモーセの務めの中に予表されていました。彼はシナイで、神とおびえた民との間の伝達路となりました。「あなたが私たちに語ってください」が彼らの叫びでした。「しかし、神が私たちに語られないようにしてください。私たちが死なないために」。そして神は、イスラエルに対する啓示の経路としてモーセを用いること、そして、私たちの偉大な仲介者についての学課を私たちに教えることに同意されました。

しかし、私たちの仲介者であるキリストのあらゆる昔の型の中で最も印象的なのは、ヘブル人の大祭司であるアロンでした。人々と神との間に立って、至聖所で彼らの礼拝をささげ、彼らの罪や必要のためにとりなすことが、彼の特別な職務でした。彼らのために彼は裂かれた幕を通り、シェキナの下に立ち、あわれみの座で血と香をささげ、エホバの恵みを携えて彼らのもとに戻りました。このすべてに関して、彼は天のまことの幕屋におられる偉大な大祭司のさらに優った務めの型にほかなりませんでした。そこに彼はご自身の血を携えて、ご自身の肉体という裂かれた幕を通って入り、今や、私たちのために神の御前に現れてくださったのです。

アロンの務めは、彼の大祭司職のいっそう深い意味をよく表しています。胸の上に昔の祭司は、宝石に刻まれたイスラエルの部族の名を絶えず担っていました。これは、私たちの大祭司であるキリストは常に私たちの名を心に留めておられることを、私たちに教えるためにほかなりません。私たちの名は御心の中に不滅の文字で刻まれており、天界の栄光のさなかでも、装飾と満足のための宝石として身に着けてもらっているのです。これは、彼は私たちのために時折り祈ってくださるとか、私たちの願い求めを受け取ってそれを御父にささげてくださる、ということだけを意味するのではありません。これを、疑いなく、彼はしてくださいますが、自分自身のために祈ることに関して私たちがあまりにも無知だったり忘れていたりする時に、彼は私たちのために一万回祈ってくださるのです。そして毎瞬、彼は私たちの名を愛のゆえに忘れず、絶えず覚えて、御父の御前に保持してくださるのです。昔の祭司は胸の上だけでなく、肩の上にも名を担いました。それと同じように、全能の力ある御腕の上に、私たちの昇天された主は、私たちの重荷を絶えず担ってくださいます。彼は聞くに早いだけでなく、助けるのに力強い方です。

昔の祭司は額の上に美しくて意義深い印を身に着けました。その印は宝石で飾られた文字の書かれた宝冠で、「主に聖なるもの」という意義深い言葉が記されていました。これを彼は、聖所に入るたびに、絶えず身に着けなければなりませんでした。それは彼が、聖なる事柄に関するイスラエルの子らの咎を負うためでした。同じように、私たちの祝されたとりなし手はご自身の額の上にこの印章を身に着けておられます。それは彼ご自身のためではありません。彼の聖潔には何の疑問もないからです。それは、私たちの聖潔と完全な受容を宣言するためです。彼は私たちの最も聖なる奉仕の欠け目をご自身の完全な義で覆い、聖なる天使たちと心を探る無限の神の前で私たちが絶えず受け入れてもらえるようにしてくださいます。何という無限の意義をこれらの絵図は「御名の中で!」という単純な言葉に与えることでしょう。何と広くこれらの絵図は祈りの門を開き、何と完全な慰めを気弱な心に与えてくれることでしょう!「私たちには諸々の天を通って行かれた大祭司、神の御子であるイエスがおられるのですから(中略)私たちがあわれみを受け、時機を得た助けとなる恵みを見いだすために、大胆に恵みの御座に進み出ようではありませんか」。

「御名の中で」は、私たちの祈りはキリストの成就された御業と、彼の死と贖いを通して私たちが持っている贖いの諸権利とに基づくべきことを意味します。

確かに、私たちのための彼のとりなしは彼の苦難と血に基づいています。十字架と完成された贖いという立場に基づいて、彼は私たちのために、ご自身の血によって買い取ったすべてのものと、永遠の契約によるすべての約束とを要求してくださいます。

私たちはみな、かの勇敢な兵士の事例をよく知っています。彼は自分のしょうもない弟のためにたびたび赦しを乞うて、任務放棄による公の処刑からその命を救ってきました。しかし遂に、彼の優しい将軍からこう言われました、「これ以上嘆願しても無駄です。あなたの弟が犯罪を繰り返すなら、公の秩序を守るために必ず刑罰を下す必要があります」。不幸なことに、その見境の無い男はすぐに犯罪を繰り返しました。そして、軍事裁判で情け容赦ない判決が下されようとしていました。その時、将軍はあの勇敢な老兵士が黙って泣いているのに気づいて、「あなたの弟のために何か言うことはありますか」と尋ねました。しかし、この年老いた歴戦の兵士はただ立ち尽くして、切断された自分の腕の残りの部分を高く上げました。彼がそれを黙って高く掲げている間、大粒の涙が彼の両頬を流れ落ちていました。そして彼の周りにいた多くの兵士も、それが物語る祖国への犠牲と献身を思って泣きました。これが精一杯の彼の嘆願でした。今や言葉は役に立たないことを彼は知っていました。しかし、彼は自分の苦難と愛の印を高く掲げて、それによって奪われようとしている弟の命のために、言葉以上に雄弁な嘆願をしたのです。そして、それは実に雄弁な嘆願でした。というのは、感動の涙を流しつつ、その老司令官は答えたからです、「座りなさい、勇敢な私の仲間よ。あなたの弟の命はあなたのものです。あなたの弟はそれに値しませんが、あなたはあなたの血によって弟の命を買い取ったのです」。このように私たちの昇天された贖い主は私たちのために嘆願してくださいます。買い取ったものではないたんなる無償のあわれみを乞い求めるのではありません。ご自身が買い取った権利であるもの、そのためにご自身の血を犠牲にされたものを、大胆に要求されるのです。受肉と十字架の遥か昔、彼は御父との契約の中に入られました。そして神は、変わらぬ誓いによって、もし彼が人々の罪を担って、神聖な律法の刑罰をすべて忍ぶなら、彼は仲介権として次のものを受ける、と約束されました。すなわち、彼の福音を受け入れるすべての悔い改めて信じる罪人のための赦しと、すべての罪人の救いを完成するのに必要なすべての恵みの資源です。そして今や彼は、この約束の効力によって、ご自身の贖いによる権利と私たちの権利を要求してくださるのです。

イエスの御名の中で求めることは、それゆえ、そのためにイエスが苦難を受けて死なれたもの、そして、ご自身の者たち全員のために惜しみなく完全に彼が買い取られたものを求めることです。しっかりとそのような根拠を携えて、私たちは大胆に恵みの御座に進み出て、カルバリの尊い血潮が要求しうる限りのものを求めることができます。それがどれほどかを述べるには永遠の時が必要でしょう。救いを求める私たちの祈りの強固な基盤は、この救いは買い取られており、この赦しはすべての信じる悔悟者の生得権である、ということです。これが聖別を求める私たちの祈りの根拠です、「一つのささげものによって、彼は聖められた者たちを永遠に完成されました」。これが肉体の癒しを求める私たちの嘆願の基礎です。なぜなら、「彼は自ら私たちの弱さを身に受け、私たちの病を担」い、私たちの苦しむ体のために贖いを買い取ってくださったからです。そしてこの根拠に基づいて、私たちは他のすべての必要な祝福を要求することができます。なぜなら、「ご自身の御子さえも惜しまずに、私たちすべてのために渡された方が、どうして彼と共に、万物を無代価で私たちに賜らないことがあるでしょうか?」。

恵みの御座で信じて嘆願する者の強固なすべてに優る根拠である、彼の御名と彼の十字架と血の力の意味を私たちは学んだでしょうか?

「御名の中で」は最後に、彼との合一と
彼との完全な一体化を意味する

この句は御父に対する彼の関係だけでなく、彼に対する私たちの関係をも表しています。この句は、彼のパースンの中で、彼の代わりに、彼のゆえに、を意味します。まるで、嘆願者はまさに御子ご自身であるかのようです。人の名前と紹介にどれほど効力があるのか、私たちはみないくらか知っています。私たちが自分の名で紹介する友人は、ある意味、私たちが受け入れられるのと同じように受け入れられます。私たちが愛している人との親密な関係に基づいて、その人が私たちに推薦される場合はなおさらです。妻は、まるで夫の一部、彼らの血縁であるかのように、夫の家族から受け入れてもらえます。夫の名において妻が来ることは、夫が来るようなものです。時々、私たちは、さもなければ一考の余地すらない人々の場合について、この関係がとても強烈にかつ異様に示されるのを目にします。

アメリカ内戦後の日々、戦場や南部の病院での友誼と苦難の優しい絆に関して、多くの事例が語られました――その絆により、よそ者でも時として、自分の友人だった戦死した兵士の息子と同じように愛される地位を家庭で得ました。そのような一つの事例が、ある哀れな放浪者について語られています。その人はある日、西部のある農家を訪問しましたが、その家の主婦は、当然のことながら、彼を不審に思って拒絶しました。しかし、そのよそ者は自分のすり切れたポケットから一枚の紙きれを取り出して、それをその女性に渡しました。それは彼女の息子が書いたものでした。それによると、この人は自分の横で戦って、その後、最後の時が来るまで病院で自分を看病してくれた、とのことでした。また、これらの文章を書きつつ、自分の瀕死の体と、家庭と母親に対する自分の最後の使信とを彼の手に委ねた、とのことでした。そしてそれは、もし会うようなことがあれば、自分を愛し育んでくれたように、この人を受け入れて愛してくれるよう、自分のためにまた自分の名において頼んでいました。それで十分でした。

そのよそ者の痩せ衰えた顔、浮浪者のような外見はすっかり忘れて、このボロボロの男を母親は両腕で抱き締めました。そして、その人はもう一人の人のゆえに、その家庭の輪の中に子供として受け入れられました。

このように私たちはイエスと一体化されて、私たちの御父は彼の御名の中で、彼を受け入れるように私たちを受け入れてくださるのです。彼の御名の中で進み出る時、信仰によってこれを要求することができるのです。私たちは彼の権利にあずかり、彼に基づいて求め、彼が愛されているように自分たちも歓迎されて愛されることを期待します。これがヨハネによる福音書一七章のとりなしの祈りで彼ご自身が私たちに残してくださった遺産です。「あなたが私を愛されたように彼らをも愛されたことを、世が知るためです」「あなたが私を愛してくださった愛が彼らの中にあり、私も彼らの中にいるようになるためです」。彼ご自身が私たちの特権・権利の地位として私たちのために求めてこられたものを、私たちが求めるのは大胆すぎるでしょうか?

しかし、私たちは彼の権利を要求できるだけではありません。私たちは彼のみこころと霊の中で進み出て、彼ご自身が求めるものだけを、彼が要求するように求めなければなりません。この特権は、まさにその性質上、制限されています。キリストご自身が祈りの中で求めないものを、私たちはキリストに代わって求めることはできません。「御名の中で」は、それゆえ、彼の御心との調和と彼の御霊の促しを必然的に意味します。私たちは、ですから、罪深いものや利己的なもの、他の人に害を及ぼすもの、キリストの御旨を妨げるものを、神に要求することはできません。私たちの求めはすべて、「あなたのみこころが天でなされているように地にもなされますように」という永遠の制約の範囲内でなければなりません。しかし、このみこころは私たちの存在の極みと同じくらい広大です。この広大なゆったりした空間の中には、霊、魂、体、家族や友人、現世の状況、霊的奉仕、人が持ちうる極限の願い、希望、祝福を求める、あらゆる合理的な願い求めのための余地があります。

そして、最後に、彼とのこの一体化は、彼が信仰の霊として私たちの中におられて、それを彼の祈りとし、効果的な勝利するとりなしの霊と条件を供給してくださることを意味します。

愛する人よ、これが神が定められた祈りの経路です。ああ、これは無価値な弱い者を、信仰の全き確信をもってあわれみの座に進み出るよう、何と励ましてくれることでしょう!あなたは哀れな罪人かもしれませんが、彼方であなたを代表している御方は神の義なる方であり、その額の上にあなたの名を記した、輝く宝石で飾られた宝冠をかぶっておられます。その宝冠には「主に聖なる者」というあなたの立場が刻印されています。あなたは無名の取るに足りない弟子かもしれませんが、あなたの嘆願を保証してくださる方は地と天で最も力強い御名を持っておられます。あなたは臆病な精神の持ち主で、弱々しい心を持つ不信仰と恐れの子かもしれませんが、あなたに命じる御方は神の信仰を持っておられます。また、ご自身を信仰と勝利する祈りの霊としてあなたに与えてくださる御方は、「父よ(中略)あなたがいつも私の願いを聞いてくださることを私は知っていました」「父よ、あなたが私に与えてくださった者たちも、私がいるところに共にいるようにしてください」と地上で仰せられた方です。そして彼の信仰の中であなたは大胆に彼のすべてのみこころを要求することができます。そして、この上ないへりくだりの中で、しかしこの上なく崇高な確信をもって進み出て、こう言うことができます。

私に理解する能力はありません、
何が神のみこころで
何を神は計画されたのかを。
しかしこれを私は知っています、彼の右手には、
私の救い主なる方が立っておられるのです。