第四章 信仰の祈り

A. B. シンプソン

イエスは答えて彼らに言われた、「神を信じなさい。まことに、わたしはあなたたちに言います。だれでもこの山に向かって、『移されて、海に投げ込まれよ』と言い、心の中で疑わず、自分の言うことは成ると信じるなら、何でも言うものを得ます。それゆえ、わたしはあなたたちに言います。あなたたちが祈って求めるものは何でも、受けると信じなさい。そうすれば得ます」。(マルコ十一・二二~二四)

物質界には力に関する目に見えないある原則があります。その原則は、私たちが触れて目にするあらゆる物理的要素よりも遥かに強力です。それは引き寄せる力であり、凝集力と重力という二つの形で、この物理的宇宙を一つに保持しています。この力は物質の極小粒子を凝集して、凝集状態に保つものであり、それにより、ある意味、万物は成り立っており、共に掛かっています。この凝集力がなければ、私たちの体は消散して触れない気体になり、雨粒と海は分解して蒸気となり、巨大な山々は砕けて粉々になり、この大いなる世界それ自体も爆発して破壊と解体という破局を迎えるでしょう。これをさらに広く、遥か彼方まで適用すると、それは私たちの惑星をその軌道に保持し、それをその荘厳な行路に保つ力です。私たちの惑星は一分間に千マイル進み、一年間に五億マイル以上進みますが、この力のおかげで、無限の彼方に突き進むことや、天球内の無標の行路から髪の毛一筋ほどでも逸れることから守られています。また、その通り道の恐るべき速さにもかかわらず、行路が揺るがないよう守られています。この同じ力によって、惑星はみなその空中の軌道上に保たれており、あまたの太陽を周回する星系はみな衝突して滅びることなく各天球内に保たれています。それは強力な重力です。それは全く目に見えませんし、音も聞こえません。その力強い心拍には振動が全くありません。その声からの反響は全くありません。その目には見えないけれども力強い腕の痕跡は全くありません。それでも、それは、宙に浮かんでその行路を行く地球よりも強力です。それは巨大な太陽よりも強力であり、その中心から太陽系の領域をその諸々の惑星の公転領域と共に網羅します。それは全天球のすべての星々よりも強力です。それは、物質的宇宙とそのすべての強力な動きの、偉大な、不可視の、聞き取れず、触知できない、神秘です。このとらえがたい力はなんと単純でしょう。にもかかわらず、なんと十全で荘厳でしょう!

しかし今、物質界から社会・理性・人間の領域に昇ることにしましょう。そこでも、私たちは対応するある原則を見いだします。その原則は、重力の法則が宇宙空間の天体を保持しているのと同じように、社会を一つに保持しています。家族を一つに結び合わせるこの原則、生涯の友情を堅固にするこの原則、商売上の協力関係を支配するこの原則、商売上の信用や最大の商取引の基礎となるこの原則、そして、投資や保証で自分の全財産やすべての物質的利益を危険にさらすよう人々を常に導くこの原則とは何でしょう?もちろん、それは確信、信頼、人と人との間の信用にほかなりません!それ抜きでは、家庭の輪は争いで引き裂かれ、不信と苦痛で損なわれるでしょう。それ抜きでは、政治的・国家的骨組みは崩壊し、政府は存在しえないでしょう。それ抜きでは、商売は破綻するでしょう。その構成員の信頼がなければ、どんな銀行も一日たりとも存立できないでしょう。そして、人々が自分たちの同胞の約束や信頼性を信用するのをやめていたなら、どんな保証も全く無価値だったでしょう。この世は今日、その最も強力な機構のために、まさにこの信用名義を採択しています。今やすべてが商事信託という形を取っています。この用語には何らかの魅力があるにちがいありませんし、確かにあります。なぜなら、それはまさに社会を結束させる原則であり、社会全体に対する重力の法則だからです。

さて、この思想をそのあるべき水準に移して、偉大な霊の王国に適用しましょう。天然の事柄はすべて、その不完全な型にすぎません。この信仰の法則は、自然界の原則であるように霊の世界のまさに原則であり、霊の世界を一つに保持する基本的力であり、私たちの失われた天体を天の集団におけるそのあるべき地位に連れ戻す救済的原則であることを見いだして、奇妙に思われるでしょうか?確かにこれはそのようなものです。信仰は神の王国の本質的原則です。信仰の喪失により、エデンで人は神から分離されました。人類の堕落が始まったのは、彼らが「神はそう言われたのですか?」というサタンの示唆に耳を傾けた瞬間でした。そして、人類の回復が始まるのは、魂がその神を信頼し始める瞬間です。こういうわけで、福音の受容と魂の救いには信仰が必要不可欠なのです。こういうわけで、「御子を信じる者は永遠の命を持ち、御子を信じない者は命を見ることがなく、神の怒りがその上にとどまります」という御言葉は永遠に真実なのです。信仰は救いの入口です。それが祈りの入口とされていても、何も奇妙ではありません。

この偉大な学課を思慮深くそして祈り深く考えようではありませんか。どうか聖霊がこの厳粛な問題に関して私たちの心を探ってくださいますように。そしてついには、不信仰は罪であることを私たちが確信しますように。なぜなら、これは、神の御子の御名を信じなかった者たちへの有罪宣告だからです。

受け入れてもらえる効果的な祈りをするには、信仰が必要です。これを私たちの主は、この節でかなり明確に述べておられます。彼は弟子たちに、神を信じなさい、と命令し、次に、「祈る時、受けると信じなさい」と付け加えておられます。しかし、この必要性が強調されているのは、この箇所だけではありません。というのは、ヘブル書でもこう述べられているからです、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。なぜなら、神に来る者は、神がおられることと、ご自身を勤勉に追い求める者たちに報いてくださる方であることを信じなければならないからです」。神の人格的存在と彼の善良さと恵み深さを、そして、神は祈りを聞いて応えてくださることを、信じて認識しなければなりません。

ですから、再び、癒しのための祈りについて述べると、「信仰の祈りは病人を救います。そして、主はその人を立ち上がらせてくださいます」と宣言されています。信仰の祈りという句によってヤコブが言わんとしていることを理解したければ、その一章に向かって、彼がこう述べているのを聞くだけで十分です。「もしあなたたちのうちに、知恵に欠けている者がいるなら、その人は、すべての人に気前よく(あるいはむしろ「もちろん」)与えてくださる神に求めなさい」、「しかし、何事も疑わずに、信仰の中で求めなさい。なぜなら、疑う者は風の吹くままに揺れ動く海の波のようだからです。そのような人は、主から何かを受けると思ってはなりません」。ここで用いられている言葉はとても強い言葉です。「もちろん」神はすべての人に与えてくださいますが、彼らは神が与えてくださるものを信仰によって受け取らなければなりません。さもないと、この施しは無駄です。疑う人は受け取りませんし、受け入れることもできません。病院で苦しみのうちに亡くなったあの哀れな犠牲者のようです。その人の口には水があったのに、一滴も飲み込めなかったのです。それは、人のあらゆる病気の中で最も恐ろしい病によって引き起こされた痙攣のためであり、そのせいで喉が詰まってしまったのです。主が命の水を賜った人々がいますが、彼らは飲もうとしません。そのテーブルを神が信仰の祝福で覆われた人々がいますが、彼らはその賜物にあずかりません。神が答えてくださった祈りがあるのに、私たちはその答えを享受しません。遥か昔に神が赦された人々もいますが、彼らは暗闇と絶望の中にあります。なぜなら、彼らは彼の赦しに信頼しなかったからです。それゆえ、困り果てた父親が子供のことで御前に来て、「追い出してくださいと、あなたの弟子たちに言ったのですが、彼らにはできませんでした(中略)しかし、もしあなたに何かできるのでしたら、私たちをあわれんで助けてください」と叫んだ時、主は、この問題をその人にすべて戻して、「もしできるなら、と言うのか。信じる者にはすべてのことができるのです」とだけ返答されました。

神は私たちの祈りに応える前に私たちに信仰を要求されますが、これは全く当然のことです。なぜなら、信仰は新約聖書と福音の経綸の原則だからです。使徒パウロはローマ書の三章で二つの法則について述べています。行いの法則と信仰の法則です。前者は取って代わられました。そして、福音全体の基礎である原則は信仰の法則です。「働きがなくても、不敬虔な者を義とする方を信じる者は、その信仰が義と勘定されるのです」。なぜこの法則が採用されたのか、私たちはすでに示唆しました。疑いなく、永遠の光の中で見るなら、多くの理由がわかるでしょう。今は完全には理解できなくても、人々は不信仰によって堕落したように、信仰によって回復されなければならないことを知るだけで十分です。一言で言うと、間違った方向に進み始めた地点に、私たちは戻らなければならないのです。バンヤンの巡礼者は、困難の山で自分の巻物をなくしたことに気付いた時、それをなくした場所にひたすら戻って、再び進み始めました。同じように私たちも、神から離れた地点から始めなければなりません。彼に信頼することを学ぶことによってです。これがこの経綸の法則である以上、神はこの原則に基づいて行動せざるをえません。この定められた規則にしたがって私たちが嘆願しないなら、彼はそれを正当に承認することはできません。

これがそうである以上、これはきわめて厳粛なことに、両方向で働きます。一方において、素晴らしいことに、「あなたの信仰のとおりに、あなたになるように」は確かです。しかし、他方において、「あなたの不信仰のとおりに、あなたになるように」も同じように真実でなければなりません。もしかすると、まさに整合性を保つために、神は、ご自身を信じる者たちだけでなく、ご自身を疑う人たちに対しても、御言葉を守る必要があるのかもしれません。魂の敵は、神が不信仰な祈りに応えられるとき、欺瞞性と不整合性のゆえに神を非難しさえできるのかもしれません。神はこれを恵みの御座の原則として、嘆願がそれに基づいて注目と顧慮を受けるまさに法則として、宣言されました。確かに、私たちはこの神聖な制約を軽視できません。また、不信仰な不満や無礼な疑いや不誠実さを抱いているときでも御手から何らかの祝福を受けられる、と期待しつつ御前に出るようなむこうみずなことはできません。

しかし、信仰はキリスト教の経綸の法則であるだけでなく、霊の世界でも強力な力です。今、私たちはある主題に触れようとしています。それは最も賢い精神の持ち主でもぼんやりとしか理解できませんが、おそらく、次のことを十分に確信させるのに足る光がそれを照らしています。すなわち、神が約束されたものを何でも信じる行為は、実際に創造する力であり、性格上最も重要な効果や作用を生じさせるのです。確かに、信仰はまさにそれに基づいて神ご自身が行動される原則であり、物質を創造するときの、そして、御旨の事象を命じるときの御力の秘訣であるように思われます。「彼が語られると、それは成り、彼が命じられると、それは堅く立つ」。弟子たちが枯れたいちじくの木に驚いた時、イエスは、それは神聖な信仰の働きである、とだけ仰せられました。神の信仰がそれを生じさせたのです。そして次に、「神を信じなさい」と彼は弟子たちに命じられました。神の信仰とは、神ご自身が行使される信仰を意味するにちがいありません。ローマ書四章は、神の信仰について少しばかり私たちに告げています。その箇所は、アブラハムは「死者を生かし、無いものを有るもののように呼び出される」御方のように行動した、と述べています。この御方は微塵も疑わずに、無いものを命じ、それを期待し、ご自身の命令の効力を信じ、それが直ちに或いは最終的に成就されるよう取り計らわれます。そして、御旨では将来の事柄についても、現在もしくは過去のものであるかのように見なされます。時間がかかったとしても、それは御心にとって全く問題ではなく、結果に関して不確かな点は何もありません。彼は無いものを信じて、実在するもののようにその名で呼び出されます。彼はアブラハムを「多くの国民の父」と呼ばれましたが、それは子供がまだ一人もいない時でした。そして、彼がこの同じ意義深い名を名乗るようにされました。彼はイエス・キリストを「ご自身のひとり子」「世の基が据えられる前からほふられていた小羊」と呼ばれます。十字架は御父にとって、今と同じように代々の時代の前から現実だったのです。彼はあなたや私のことを、すでに来るべき時代にあって天上に座しているかのように、そして、私たちの御父の王国で太陽のように輝いているかのように、述べておられます。

墓の中のラザロがよみがえるよう命令・強制したのは、イエス・キリストの信仰でした。それは抗えない力、神聖な力であり、諸々の二次的要因の上に実際に働いて強制的に従わせました。もし神の信仰が私たちの中にあるなら、それは相応の力を及ぼして、効果的に働く祈りを私たちの中に生み出します。それは大いに効果的な祈りであり、私たちがその祈りをささげてそのために信じるまさにその瞬間、何かを動かしたり、だれかの心に働きかけたりして、神の御力の臨在をだれかに意識させます。

確かにこれは、信仰の中で祈るべき十分な理由です。これは霊の力であり、この力を神は私たちに要求されます。それは神がそれと協力するためであり、その中に入るためであり、ご自身と共にそしてご自身の栄光のために用いるためです。自然の強力な力は人の協力がなければ、失われて浪費されてしまいます。電気は、私たちがそれを私たちの意志に従わせて、それ自身の諸々の法則にしたがって用いなければ、無駄になります。ですから、神の全能の力を私たちは深い謙遜と、しかしながら聖なる確信をもって、私たちの信仰によって握らなければなりません。それは彼ご自身の偉大な諸々の御旨を遂行するためです。不可視の世界のとばりの後にあるものを見れたなら、私たちは天からの霊的影響力の生ける流れを辿れたにちがいありません。その流れは、信仰の祈りが寂しい部屋から立ち昇ったまさにその瞬間に始まり、御座の前で人々の名が挙げられたまさにその瞬間、その人々のもとに最終的に至ります。天の力の二つの流れがはっきりと見えるでしょう。一つはひざまずいている嘆願者から昇る祈りの流れであり、他方は遥か彼方にいるだれかの心の上に降る力の流れです。このような現象を無数の事例で実際に辿ることができます。エリヤがカルメル山上で祈っていた時、彼方の水平線上では雲が実際に集まりつつありました。ヤコブがペニエルで祈っていた時、エサウの心は、その晩彼が天幕で横になっていた時、昔の記憶を思い出して和らぎました。その結果、その真昼時に、彼はかつては憎んでいた弟を優しく迎えたのです。遥か遠くの国の特別な平原を神に思い出してもらったとき、まさにその瞬間、その祈った平原の上に祝福の雨が実際に降りました。妻や母親が夫や息子のために泣きながら祈っていた時、その夫や息子は数百マイル彼方で回心しているところでした。ですから、信仰は一つの力であり、私たちが制御する力――電気ボタンに触れるときや、エンジンのバルブを開けるときや、岩山を吹き飛ばす強力な地下の爆弾を爆発させたり沈んだ機雷を爆破させる小さな電線を引くときに、制御する力――と同じくらい強力です。ですから、信仰の中で祈るよう私たちに要求されるとき、神が私たちに要求されるのはただ、彼ご自身と手を組んで彼ご自身の全能の力を行使すること、そして、彼の力強い御業にあずかる者となることだけなのです。

祈りのときに神が私たちに要求される信仰は、私たち自身の霊的幸福に必要不可欠です。たとえ実際の応答にさしあたって何の結果もなくても、信仰の祈りが私たち自身の霊にもたらす祝福という点で、それは豊かな報いを受けます。なんとそれは私たちの恐れを和らげ、私たちの動揺を鎮め、私たちの悩める霊をなだめてくれることでしょう!それは神に服従して「あなたのみこころがなされますように」となんと言えるようにしてくれることでしょう。このように祈ることは、私たちに対するみこころは愛と祝福だけであることを信じるとき初めて可能になります。確かに、祈りの主観的益はとても素晴らしいので、多くの人は「これが祈りの価値のすべてである」と極言しさえします。これはとても愚かな結論であって承認できません。なぜなら、客観的に現実でない夢想によって慰めを受けるだけ、という祝福はおかしいからです。神の実在と祈りの事実を排除するなら、私たちの主観的慰めの基礎も排除することになります。なぜなら、神が現実ではなく、祈りの答えが実際的なものではないなら、もちろん、私たちの慰めは偽りになり、私たちの将来の平安は欺瞞的な夢になるからです。しかし、神は現実であって、そして約束は実際に成就されることを知るとき、確かに私たちは自分の悩める頭を御胸の上に、自分の心を御約束の上に安息させて、静まって彼こそ神であることを知ることができます。

自分が求めるあらゆることで神に信頼することを学んだ心は、なんと充足していて静穏でしょう!この二つの気持ちはピリピ書における使徒の優しい言葉の中で、なんと甘く結び合わされていることでしょう。「何事も思い煩うことなく、あらゆることで、感謝をささげることを伴う祈りと願い求めによって、あなたたちの要望を神に知らせなさい。そうすれば、あらゆる理解力を超えた神の平安が、あなたたちの心と思いを、キリスト・イエスを通して守ってくれます」。この御言葉は、あらゆることについて祈るよう命じており、心配、疑い、不安を持たずに祈るよう要求しています。そしてその後、神の平安が私たちの心と思いをイエス・キリストを通して守ってくれる、と約束しています。

しかし、神は私たちの信頼を要求されます。それは、私たちが自分自身のせわしない活動や逃避によって、祈りに対する神の応答を邪魔しないようにするためです。自分たちのために何かしてくださるよう神に求める時、私たちはそうする時間を神に与えなければなりません。そして、不信仰なせっかちさで出て行って、御計画を大いに妨げかねない何かを行うことを、注意深く避けなければなりません。多くの時、神が私たちの祈りに対する答えを携えて来られても、私たちはそこにおらず、恐れと疑いで逃げてしまっているのを見いだされるでしょう。私たちはまず歩哨のように自分の銃を撃ち、その後、全速力で逃げてしまうのです。イスラエルが紅海で神に叫んだ時、神を信じず、後ろに突進して敵に向かったと仮定してみましょう。あるいは、前に突進して海に向かったか、遠くの山々に向かったと仮定してみましょう。その場合、神は決して海を分けて彼らの祈りをかなえられなかったでしょう。これを防ぐために彼は彼らにまず、「堅く立って、主の救いを見よ」と言い、その後、ご自身の道を前に進んでそれを要求するよう彼らに命じなければなりませんでした。

もしヨシュアの軍勢が神を信じてその命令でエリコの周囲を行進しなければ、七日目の七周目を待っている答えを決して得なかったでしょう。イザヤ書の三〇章では、預言者が彼の民に、静かにして解放――彼らが神に求めたセナケリブとその軍隊からの解放――の邪魔をしてはならない、と嘆願しているのを私たちは見ます。しかしその代わりに、彼らは自分自身を助けるために何かをすることを主張しました。彼らはパロとの同盟を求めてエジプトに大使を送りました。エジプト人の助けは無益であり、彼らの力は静かに座すことにある、と預言者は彼らに警告しましたが無駄でした。「穏やかにして信頼しているなら、あなたたちは力を得る。しかし、あなたたちはそうしようとしないで、『いや、私たちは馬に乗って逃げよう』と言った」。そこで神は、好きなだけ馬を得るがよい、あなたたちはすぐにそれらを必要とするようになる、なぜなら、「あなたたちを追う者は速い」からだ、と答えられました。それから預言者は付け加えて言います、「それゆえ、主は待っていて、あなたたちに恵み深くあられる」、なぜなら、「彼を待ち望む者はみな幸い」だからである、と。いずれ彼らは気づくでしょう。エジプトとの同盟は折れた葦であり、それに寄りかかる手を刺し通す葦であることを。エジプト人は無力でした。そしてセナケリブは、彼らがエジプトに向かったことに激怒して、激しい残忍な冷笑と共に戻って来て、檻の中の囚人たちに破滅に備えるよう命じました。その時、彼らは信仰にたてこもって、ただ主に向かって叫びました。すると見よ!一瞬のうちに、彼らは何の計画も立てなかったのに、神が夜にひとりの天使を遣わされました。その天使が、シリア人の宿営の列に沿ってさっと通り過ぎて、まどろんでいる軍勢の上で炎のような翼を羽ばたかせただけで、彼らの命の息は止まり、翌朝には屍の軍隊になっていました。そして素晴らしいことに、檻の中に包囲されていた都は解放されたのです!

ですから神は、ご自身に信頼すること、そして、私たちに応えてそれを私たちの生活の中で成し遂げるまでじっとしていることを、私たちに要求されます。信仰がなければ、きっと私たちは彼を妨げるでしょうし、あるいは、応答を完全に受け取れる所から出て行ってしまうでしょう。

まだ見えない応答を信じることは理にかなっています。自分の知らないことや、実際にそうであるのを見ていないものを、どうやって信じられるのでしょう?まさに次の理由によります。すなわち、他の証拠から見て知ることは、信じることでは全くなく、感覚の証拠から知ることなのです。信じることができるのは、見ていない時だけです。「信仰は見えない事柄の証拠です」。私たちに対する神の道は、彼の約束という単純な証拠に基づいて信じることであり、他の証拠が全くなくても信じ続けて、見ないで自分の信仰を証明するに至ることです。その時、事実の顕現によって私たちが見て知ることを彼は許されます。

これは私たちが人間生活の諸事で毎日している以上のことではありません。私たちの商取り引きでは毎週、電報や日刊紙の記事に対する単純な信仰に基づいて、数百万ドルの投資がなされています。値打ち物が紙の上で売買されていますが、双方とも現物は見ていません。保証について購入者たちは常に交渉していますが、それは単純な信頼に基づきます。私たちが電報を送ってそれに基づいて行動する時は毎回、それを送る通信士や、それを伝達する電線や、それを配達する使い走りの少年を信じる単純な信仰に基づいています。それが送られるところや、受け取られるところを見たわけではありませんが、私たちは安息します。そして、電報は伝わって一件落着したという確信に基づいて、おそらく、きわめて重要な行動を取ります。使い走りの少年の忠実さを信じるのと同じくらい、私たちの神の御言葉を信じることができないのは、確かにとても恥ずかしいことです。

次にまた、私たちは常習的に次のように認めています。すなわち、まだ実際には決定されただけで、それが実際に果たされるのを目にするには何週間か何か月もかかるようなことでも、「ことは成った」とよく認めているのです。私のある友人は議会に年金を申請しました。それは彼女や、彼女の無力な夫や、家族にとってすべてを意味しました。一方には苦役と苦難の生活があり、他方には、彼女が自分の命よりも愛している者たちのための慰めと幸福がありました。かなりの遅延と不確定要素があったものの、ついにある日、電線を通ってワシントンから知らせが舞い込みました。彼女は直ちに急いで私にその良い知らせを喜びの涙を流しながら告げました。彼女は言いました、「私は夫の年金を得ました、主を賛美します!」。しかし、もし私たちの批評家の一人がそこにいたなら、彼はこう言っただろうと思います、「奥方、あなたは作り話をしています。あなたは年金を一ドルも得ていませんし、数か月のあいだ一ドルも得ないでしょう」。その批評家は、ある意味において、正しかったでしょう。なぜなら、彼女自身が私に同時にこう告げたからです、「私が年金を実際に得るのは数か月かかります。たいへんな量のお役所仕事を経なければならないからです。しかし、それによって何の違いも生じません」。そしてこの親愛なる女性は単純な信仰の中で前進し、しばらくしてからお金を得ました。彼女の将来の生活のためのすべての案配が、まるで銀行で最初の入金をしてもらったかのような静かさと確かさでなされたのです。彼女にとっては、最高権力機関の布告で十分でした。時間の問題は何でもありませんでした。彼女は、批評家の面前でも、信頼に満ちて「私は年金を得ました」と述べることができました。実際のところ本当に、それを確実なものにして、その恩恵を彼女に与えるのに必要なものを、すべて彼女は持っていたのです。

ですから、私たちの嘆願が御座を通るその瞬間、自分は求めるものを得ると信じること、そして彼女のように、「私は答えを得ました、主を賛美します!」と言うことは、正しいことなのです。これをダニエルに教えることが神の御旨でした。ダニエルが二十一日間祈った後、神は天から御使いを送って彼にこう告げさせました、「あなたが心を定めて理解しようとし、またあなたの神の御前であなた自身を戒めようとした初めの日から、あなたの言葉は聞かれていました。私はあなたの言葉のゆえに来たのです。しかし、ペルシャの王国の君が二十一日間、私に立ちはだかりました」。まさに最初から彼の祈りは天の御座に届いていました。この三週間の間ずっと、答えは与えられたと見なしてもよかったのです。しかし、祝福と使信の伝達は敵の反対によって妨げられました。しかし、地や地獄のどんな反対も神の御旨を妨げられません。御心と信仰心にとって、神の御旨は最初から、それらが堅固な山々のような形を取って実際生活上の事実や記憶になった後と同じくらい確かなのです。

確かに、ご自身の子供たちに対する神の諸々の約束はこの基準に基づいています。悔い改めた罪人に対して、キリストの御言葉は即時的かつ決定的でした、「あなたの信仰があなたを救ったのです」。弟子たちに対する彼の清めについての御言葉は、「今や、わたしがあなたたちに語った言葉により、あなたたちは清いのです」でした。病人や苦しんでいる人に対して次のような命令が常に発せられました、「清くなれ」「あなたの視力を受けよ」「あなたの願うとおりにあなたになるように」「あなたの息子は生きている」「あなたの信仰のとおりにあなたになるように」。アブラハムに対する約束は、それと共に将来に関するすべての約束を伴っていましたが、「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と完了時制で述べられました。それについて与えられた説明は、神は、ご自身の統治のまさに原則として、「無いものを有るもののように呼び出される」ということでした。多くの人が尻込みするこの点こそ、あらゆる真の信仰のまさに本質なのです。そして、その有無によって、効果的な信仰とたんなる希望にすぎない信仰との間の境界線がわかるのです。

ですから、愛する人よ、信仰の合理性を認めようではありませんか。全く神を必要としないで人々でも昇れるたんなる確率論や希望や励ましの水準よりも高く昇ろうではありませんか。私たちのあらゆる根拠や感情、人々のあらゆる保証、成就することを示すあらゆる実際の証拠よりも、神の御言葉の方が真実である、と見なそうではありませんか。なぜなら、前者は長続きしないかもしれませんが、「神の御言葉は永続する」からです。また、「すべて成就されるまで、律法の一点一画も過ぎ去ることはない」からです。

よく熟慮して祈ることを学ぼうではありませんか。多くの人々はあまりよく考えずに無分別な嘆願を見境なく注ぎ出します。それはまるで、シャボン玉を宙に吹いて、もうそのシャボン玉を見ることは二度とないだろうと思っている少年のようです。そのような人々が、十の嘆願のうち一つは確かにかなえられると信じようと努めたり試みたりするかどうかは疑わしいです。確かに、これらの嘆願がかなえられたら、その答えをすべて握って実際の口座に繰り入れるのに大忙しの生活を送ることになるでしょう。見境なく祈る習慣は、信じる力そのものを消耗させます。放棄しなければならないもの、あるいは、何の価値もないと告白せざるをえないものを、そもそも神に求めるのは哀れなことです。私たちの神の御名を空しく用いるのはとても深刻なことです。そして、何の意味も効果もなく御名によって求めるものは何でも、この性格を帯びています。自分たちの祈りに効力がないことを見いだすたびに、次に祈ろうとする企ては弱まって、しばらくすると、立て続けに加熱と冷却を繰り返した鉄のように、私たちの信仰の硬度は擦り減り、その繊維も錆びた金属のように崩れてしまいます。そもそも信仰の祈りを学ぶには、よく熟考して祈ること、主がご自身の約束を熟慮されるように――と言うのは「主の御言葉は炉で試された銀のよう」だからです――私たちも主の御前で自分たちの言葉を注意深く熟慮することを学ばなければなりません。信仰の秘訣は常に次のとおりです。すなわち、求める前に、彼のみこころにしたがって求めているかどうか確かめること、そして次に、愛された弟子であるヨハネの「何事でも、私たちが彼のみこころにしたがって求めるなら、彼は聞いてくださいます。私たちの求めるものは何でも、彼は聞いてくださることを知っているなら、私たちが彼に願った嘆願は、かなえられていることを知るのです」という単純な立場を取ることです。

このように祈った時、明確に信じる習慣を育もうではありませんか。その問題を神に委ねて、それを今から後、彼が約束して承認してくださったもの、また、未決着の問題として再び祈ることはできないものと見なそうではありませんか。信仰は、少なくともある程度、明確な意志の問題です。私たちは信じることを選んで、船員が舵を取るように自分の意志を定めなければなりません。そうするなら、神は私たちの帆を進めて、私たちの舵を私たちのために握り、私たちが取った進路に進めてくださいます。私たちは信仰を作り出せませんが、信じることを選ぶことはできます。神は私たちの選択を維持し、私たちの信頼を支えてくださいます。

私たちは信仰を維持するために、神の信仰、イエスの御霊、彼の信頼の付与を要求しなければなりません。私たちは信じることを選ばなければなりませんが、彼に彼ご自身の約束を信じられるようにしてもらわなければなりません。これは、もちろん、キリストの内住の命の教理の必然的帰結です。私たちの愛と聖潔と同様、私たちの信仰のためにも、私たちは彼に信頼しなければなりません。しかし、いずれにせよ、私たちは自分を明け渡して、立つべき立場に立ち、そして、自分自身を彼に委ねて支えてもらわなければなりません。これを彼は行ってくださいます。彼は私たちを祈りと確信の霊でバプテスマしてくださいます。それにより私たちは、彼がすでに命じておられる祝福を要求し、つつしんで命じることができるようにされます。

その後、私たちは堅く立って、遅延や拒否のように見えるものによって動揺せず、彼の拒絶のように見えるものからさえも慰めと励ましを引き出さなければなりません。最終的に、主がツロ・フェニキヤの女をご覧になったように私たちをご覧になるようになるまでそうしなければなりません。主はこの女に、称賛のこもった愛をもって、「あなたの信仰は立派です。あなたの願うとおりあなたになるように」と仰せられました。

愛する人よ、理解しようではありませんか。神は私たちをさらに高い天命のために教育しておられるのです。そして、日々、私たちの上にますます重くなる訓練の重荷を課しておられるのです。それは、こうして信仰のさらに素晴らしい働き――これを、永遠の世で、私たちは王座についておられる私たちの主と共有することになります――のために私たちが訓練されるためです。こうした重荷の下でよろめくのではなく、昔のアブラハムのように、「信仰の中で強められて、神に栄光を帰し、『彼は約束されたことを成し遂げることができる』と信じ」ようではありませんか。そうすれば、「私たちの束の間の軽い艱難」は私たちのために働いて「遥かに卓越した永遠の重い栄光」をもたらすことがわかるでしょう。