第五章 祈りの妨げ

A. B. シンプソン

それはあなたたちの祈りが妨げられないためです。(一ペテロ三・七)

祈りの生活に対する最大の妨げは罪である

「主の御手が短くて救えないのではない。彼の耳が重くて聞こえないのではない。むしろ、あなたたちの不義があなたたちとあなたたちの神を隔て、あなたたちの罪が彼の御顔をあなたたちから隠して、彼は聞いてくださらないのだ」。神はイスラエルがアイで打ち負かされることや、捕囚になってバビロンに行くことをあえて許されました。前者の場合、ヨシュアの祈りも聞き入れられませんでしたし、後者の場合、たとえノアとダニエルとヨブがとりなしたとしても聞き入れられなかったでしょう。なぜなら、それらの祈りをかなえたら、ご自身の民の罪を容赦することになっただろうからです。そうです、罪がほんの少しでも聖なる神によって是認されるくらいなら、あの美しい聖別された宮でさえ焼き尽くされて灰になり、エホバの御名でさえ敵によって辱められた方がましなのです。

「もし私が心の中に不義を抱いているなら、主は聞き入れてくださらない」。罪の思いを抱くだけで、このように私たちの祈りは妨げられます。使徒ヨハネはこの心を探る真理に対する自分の証しをきわめて明確に付け加えて、私たちに告げます、「私たちの心が私たちをとがめても、神は私たちの心よりも大きくて、すべての事を知っておられます。もし私たちの心が私たちをとがめないなら、私たちは神に対して確信を持つことができます。そして、私たちが求めるものはなんでも、彼から受けます。なぜなら、私たちは彼の戒めを守り、神の目に喜ばしいことを行っているからです」。

年老いた農夫が、聖徒たちの祈りによって祭壇で平安を得ようとしていました。彼はある晩、大いに正しいことを彼らに言いました。「主はあなたたちの祈りに決して答えてくださらないでしょう」「あの雄牛が不正な牛舎にいるかぎり」。彼は急いで立ち去って隣人の地所に戻り、翌晩帰って来た時、その顔は輝き、その心も軽くなっていました。そして彼は、妨げを取り去った瞬間に臨んだ祝福を証ししたのです。

神は罪人たちの祈りを聞くことができます。そうでなければ、私たちのだれも恵みの御座に近寄れなかったでしょう。しかしこれは、私たちが故意に罪を犯していてそれを差し控える誠実な意図がないにもかかわらず、神は祈りに答えてくださると期待することとは、別の問題です。これは天に対するきわめて冷淡な横柄さであり、厚かましさです。罪の告白と除去は可能であり、主は無代価で祝福してくださいます。しかし、私たちが良心の咎めと悪い意図を保持したまま、神は自分たちの不従順とうぬぼれを容赦してくださると期待している間は、エゼキエル書十四章で彼がイスラエルの指導者たちに与えられた恐るべきメッセージを受け取ることしかできません。「人の子よ、これらの人たちは彼らの偶像を心の中に抱き、彼らの不義のつまずきの石を顔の前に置いている。わたしは彼らの願いをすべて聞くべきであろうか?それゆえ、彼らに語って言え、主なる神はこう言われる、自分の偶像を心の中に抱き、自分の不義のつまずきの石を顔の前に置きながら、預言者の所に行くイスラエルの家のすべての者には、その偶像のおびただしさに応じて、わたし、主が来る者に答えよう。(中略)イスラエルの家と、イスラエルに寄留している寄留者のだれでも、わたしから離れ、自分の偶像を心の中に抱き、自分の不義のつまずきの石を顔の前に置き、預言者の所に行ってわたしについて尋ねる者には、わたし、主が自ら彼に答えよう。わたしはわたしの顔をその人に対して向け、彼をしるしとことわざとなし、彼をわたしの民の間から断ち切る。こうしてあなたたちは、わたしが主であることを知る」。

往々にしてこのせいで、祈りは長いあいだ答えてもらえず、神の民は自分たちが求める豊かな祝福の中に入りそこなっています。神は彼らの心を探っておられ、彼らが長らく忘れてきた諸々の罪を彼らに思い出させようとしておられます。神は彼らがそれらの罪を徹底的に対処することを望んでおられます。ですから、私たちが人生の密かな転機にある時――おそらく、全き聖別、聖霊のバプテスマ、重篤で危機的な病の癒し、貴重な友人の命、一大非常時における救いを求めている時、神は炎の目で心を探り、私たちの良心に長らく忘れていた数々の事を思い出させ、私たちが自分たちの道を探って試せるようにして、私たちの心を御前にすっかり開けるようにしてくださいます。その時、私たちは彼の祝福をなんの妨げも制約もなく受け取ることができ、「その違反を赦され、その罪を覆われて(中略)その霊の中になんの狡猾さも見いだされない」人の幸いを知ることができます。

愛する人よ、自分の道を探って試し、再び主に向かおうではありませんか。喜んでこう言おうではありませんか、「私を探ってください、おお、神よ、私を試して私の道を知ってください。そして、私の中に邪悪な道がないかどうかを見て、私を永続する道の中に導いてください」。すべてのアカンを光の中に、そして死の判決に渡そうではありませんか。そうするなら、次のことがわかるでしょう。すなわち、罪といえども、真に除き去られるなら、私たちの祈りや私たちの完全な祝福を妨げられないこと、むしろ、アコルの谷がまさに希望の扉となり、罪の赦しの場所となるのです。そして、自己の磔殺が有用な新しいさらに高い生活の出発点となるのです。

祈りに対するもう一つの妨げは自己中心性と地的願望である

「求めても得られないのは」と使徒ヤコブは述べています。「自分の欲望のために費やそうとして、悪い求め方をするからです」。神は私たちの肉的性質が要求するものをすべて私たちに与えることはできません。それは私たちが自分の子供にピカピカのカミソリ――それに小さな手をのばすことを子供は強く願っています――を与えようとしないのと同じです。私たちが要求するものは時として、鋭い鋼鉄の刃が無思慮な子供を傷つける以上に私たちを傷つけかねません。肉的精神による地的・肉的動機から、多くの良いものを願うかもしれません。多くの人は赦しを求めますが、それは咎める良心の呵責から逃れて、心安らかに再び神なき自分勝手な生活を送るためです。神を真に敬う気持ちを持たない大部分の人は、天の志願者として受け入れてもらう気で満々ですが、それは彼らが彼らなりの方法で世の快楽を享受するのを神が許されるならばの話です。癒しを求める祈りはたんに、痛みから解放されて生活の快楽を楽しめるようになりたいという願望の表明にすぎないかもしれません。魔術師シモンですら聖霊の力を欲しがりましたが、それは徹底的に卑しい聖くない動機からでした。別の状況なら神が大いに喜んで私たちに与えてくださるものでも、時として神は私たちに対して差し控えなければなりません。なぜなら、それらによって私たちがご自身から実際に引き離されてしまうだろうからです。私たちの人生のその後のある時期に、私たちは次のことに気付きます。今や、神はこの同じものを保留せずに私たちに与えることができますし、喜んで与えてくださるのです。なぜなら、その期間のあいだに、私たちはそれらをすべて彼の祭壇の上に置いて、彼の栄光のために、そして彼ご自身との合一の中で用いてもらえるようになったからです。

ですから、主の祈りは、すでに見たように、私たちが自分の全存在を神の足下に全くひれ伏させることと、三重の献身の祈りで始まります、「あなたの御名があがめられますように、あなたの王国が来ますように、あなたのみこころがなされますように」。

これが詩篇三七篇のあの深遠な約束の意味です、「主の中で喜びなさい。そうすれば、彼はあなたの心の願うものを与えてくださいます」。神の中に喜びを見いだした心は、神が与えることのできないものを決して願うことができません。神はまず願いを与え、次にその願いを成就してくださいます。

愛する人よ、答えてもらえなかったあなたの祈りの多くは、徹底的に自己中心的な祈りだったのではないでしょうか?あなた自身の霊的益を求めるあなたの願いは、卑屈な恐れか偏狭な自己愛によって促されていたのではないでしょうか?あなたの子供や友人の救いを求めるあなたの祈りは、彼らの生活が円満になるのを見たいというあなたの願いと同じくらい自己中心的だったのではないでしょうか?そしておそらくあなたは、他人の子供のために一度も願い求めをせず、彼らをキリストにもたらす努力もしなかったのではないでしょうか?これらの祝福を私たち自身や私たち自身の身内のために求めるのは一向にかまわないのですが、祈りの真の霊と神との合一が在るなら、たんなる利己的・人間的な愛や願いよりも高度なものが生じるでしょう。

争いと苦々しい精神という障害があるかぎり祈りは答えてもらえない

「あなたたちが立って祈る時」と私たちの救い主は弟子たちに言われました。「だれかに対して恨み事があるなら、赦してやりなさい」。「あなたたちのだれも、心の中で隣人に対して悪を図ってはならない」が、回復された民に対する預言者ゼカリヤのメッセージであり、彼は民が危機的試練の中にあるとき神の祝福を得る秘訣を彼らに教えました。ヨブは自分の敵たちのために祈り、自分の心の中から、病だった数か月のあいだ自分を苦しませてきた人々に対する苦々しい感情を一つ残らず追い出さなければなりませんでした。人々がヨブを苦しめたのは、彼らの無知、誤解、不快なお節介によってでした。そして、ヨブがそうした時はじめて、神は彼を捕われの身から解放し、彼を回復して、以前の祝福よりも優った祝福を与えられました。弟子たちが苦しむ子供から悪鬼を追い出せなかった一つの理由は、誰が一番偉いか、道すがら議論していたことでした。心に抱いた憎しみの精神、胸の奥に秘めた偏見、陰鬱な悪意は、天との私たちの交流・親密さを事実上妨げます。それは、目の水晶体上の塵が私たちの視界を遮るのと同じであり、建物の電動機の電線を交差させると暗闇の中に取り残されるのと同じです。

キリストの教会の中には交差した電線がとてもたくさんあります。そして、その結果は暗い心と悲しい叫びです、「神は恵み深くあることを忘れてしまわれたのか?」「おお、主よ、あなたはいつまで私の祈りを聞いてくださらないのですか?」。兄弟よ、あなたが次の御言葉に従うまでです、「あなたが自分の供え物を祭壇に持ってきて、自分の兄弟が自分に対して恨み事を抱いていることをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておいて、あなたの道を行き、まずあなたの兄弟と和解しなさい。それから戻って来て、あなたの供え物をささげなさい」。

祈りの霊は本質的に愛の霊です。往々にして私たちがなんらかの祈りの難局にあって、とても多くのことが神の答えにかかっているとき、おそらく命そのものや、命よりも貴尊いなにかがかかっているとき、私たちはまさにこのような試練に直面していることに気付きます。だれかが私たちの道に放り込まれるでしょう。そのとき、敵は天然的な心のあらゆる力を、その反感、偏見、自己の意思と共に握って、私たちの勝利を妨げようとするでしょう。ああ、そのような時、思い出そうではありませんか。苛立ったり報復したりしても、他人を傷つけることはできず、自分自身を深く傷つけ、私たちの神の祝福を妨げるだけなのです!無限の愛の前では、憎しみの兆しは一瞬たりとも生き長らえることはできません。素晴らしいことに、この昔の英語の詩の素朴な文章は真実です。

最もよく祈る人は最もよく愛する人です、
大きなことでも小さなことでもあらゆることで、
私たちを愛しておられる偉大な神のために祈ります。
神は万物を造り、愛しておられます。

特にこの愛の問題に関して使徒ヨハネは、私たちの心が祈りのときに私たちをとがめる可能性について述べています。なによりも、それはおそらく、私たちが十中八九見過ごしているけれども神は決して見過ごせないもののためです。「世界で最大のものは」とドラモンド教授は大いに喜んで述べています。「愛です。そして人生の唯一の課題はそれを学ぶことです」。

愛する人よ、これがあなたの祈りを妨げているのではないでしょうか?今この時あなたは、あなたを不当に遠ざけた兄弟や姉妹のことを思い出せるでしょうか?あなたが故意に厳しく取り扱い、無視し、おそらく見下し、あるいは、損害を与えて不正を働いた人のことを思い出せるでしょうか?あなたの兄弟に対して言った言葉――たとえ本当のことでも言ってはならない言葉――を思い出せるでしょうか?あなたが耳を傾けたあなたの兄弟に関する話――本人の前でないかぎり決して聞いてはならない話――を思い出せるでしょうか?心に抱いている疑い、批判、判断――悪いことだと考える権利はあなたにはないのに――を思い出せるでしょうか?どうか神があなたを助けて、かなえられない祈りの原因を見つける道を見せてくださいますように。

疑う習慣は祈りに対する妨げである

「疑う者は風に吹き回されて揺れ動く海の波のようです。そのような人は、主からなにかを受けると思ってはなりません」。これは強い言葉です。しかし、神の観点から見ると、あらゆる霊的状態の中で不信仰の罪が最も有害であることに疑いはありません。それは神との魂の接触を、電線の切断が便りの伝達を妨げるのと同じくらい確実に損ないます。すでに見ましたが、ヤコブ書のこの節の「受ける」という言葉は受け取ることを意味します。それが示しているのは、おもに不信仰に対する神の怒りではありません。なぜなら、神は「惜しみなく、またとがめることなく与え」てくださるからです。むしろそれが示しているのは、神が与えてくださるものを人が受け取れないことです。疑う人は自分の霊的感受性・能力をすべて閉ざして、その時自分に提供されている祝福を吸収・取得できなくなります。神は私たちの疑いに対する責任を私たちに負わされますが、自分自身の意志で信仰――私たちを神の愛と祝福との接触にもたらす信仰――を生み出すよう私たちに要求されません。なぜなら、これは神が授けてくださるものだからです。むしろ神が私たちに要求されるのは、それが――器から漏れ出るように――私たちの悲惨な疑いというすべての穴を通して漏れ出るのを私たちが防ぐことです。私たち全員にできる一つのことがあります――私たちは疑うことを拒むことができます。疑問、恐れ、病的な心配、狡猾なサタン的示唆を弄ぶことを拒むことができます。私たちがこれを行うとき、神が残りのことをしてくださいます。そして、私たちが信仰の中に堅く立って、彼の全き祝福に向かって進めるようにしてくださいます。

ここに敵は最も強力な攻撃を集中します。試練の時が来て、私たちの祈りは拒否・先延ばしされているかのように思われる時を、敵は待っています。そして、火矢と邪悪な示唆を私たちの震える胸の中にすべて打ち込んで、私たちの確信から私たちを追い払い、私たちが敵の邪悪な疑問に同意して私たち自身の信念を裏切るようにさせようとします。それゆえ、キリストは仰せられました、「だれでもこの山に向かって、『動いて、海に投げ込まれよ』と言い、心の中で疑わないなら(中略)なんでも求めるものを受ける」。それゆえ、「アブラハムは不信仰によって神の約束を疑うことをせず、信仰の中で強くされ、神に栄光を帰しました」。それゆえ、私たちは自分が告白してきた信仰を疑わずに堅く保持しなければなりません。なぜなら、「約束してくださった方は信実」だからです。「今や義人は信仰によって生きる。だれでも後退するなら、わたしの魂はその者を喜ばない」。神は、自分の立場に立つ兵士たちに、そして、祝福が臨む時そこにいてそれを要求する者に、ご自身の祝福を与えることを待っておられます。

しかし、おそらくあなたは言うでしょう、「私はすでに疑って、自分の祝福を失っています。祈りをかなえてもらうには手遅れでしょうか?」。いいえ、あなたの疑いを――他のどの罪に関してもそうするように――悔い改めて、悔い改めにふさわしい実を直ちに結び、今からのち永遠に裏切って同じ罪に陥らないなら、手遅れではありません。このような堕落が疑いの罪に関して私たちに徹底的に確信させて、それから私たちを永遠に癒すきっかけとなるのを、私たちはしばしば見かけます。

愛する人よ、あなたはこの祈りの問題に関して神を弄び、祝福を失って、すでに多くの損害を被ってきたのではないでしょうか?どうか主が今日、あなたの顔を火打ち石のようにし、あなたの足を岩の上に据え、あなたの魂を神の上にとどまらせてくださいますように!

もし私たちが許されていない立場の上に立つなら、あるいは、主のみこころからなにかを差し控えるなら、私たちの祈りは妨げられる

意図的な罪あるいは道徳律に関する実際的悪行や違反を犯すまでもありません。奉仕や証しへのなんらかの明確な導きにおける御霊の御声に対する、たんなる不従順かもしれません。私たちは人々の多くの事例を知っています。彼らは聖霊のバプテスマを求める祈りに対する十分な答えを受けませんでした。なんらかの件で――彼らはそれから尻込みしたりためらったりしていました――神の御声に明確に従うまで受けなかったのです。私たちは人々の多くの悲しい事例を知っています。彼らは癒しを求める祈りへの答えを受けそこないました。なぜなら、彼らは禁じられた所に立ち、神のための証しを差し控えたからです。それは、臆病心や人に対する恐れのせいでした。あるいは、聖霊が命じられたなんらかの信仰の歩みを踏み出すことに失敗したせいでした。神との争いと苦い悲しみの数か月あるいは数年後にようやく、彼らは教訓を学び、迅速かつ徹底的な従順により、完全な解放と素晴らしい祝福を受け取ったのです。

聖書は善良な人々に関するいくつかのとても厳粛な事例を示しています。彼らは禁じられた立場に立ち、自分の力と守りが自分から離れていくことに気づきました。力持ちのサムソンは、分離の立場を離れた瞬間、神の支えをすべて失いました。アブラハムには、エジプトで妥協的姿勢の中にある間、なんの力もありませんでした。ヤコブには、放浪の年月の間、神のビジョンが全くありませんでした。そして善良なヨシヤですら、天の保護を失い、自分の貴重な命を犠牲にしました。なぜなら、彼は神のみこころを踏み越えて、命じられてもいないのにエジプトの王であるパロ・ネコに立ち向かったからです。パロ・ネコは、もし軽率な思い込みにこだわるなら悲惨な運命をたどるだろう、と彼に警告しました。聖別された立場に立っていても、特別な奉仕への神の明確な召しに従わなかったり、神が「否」と言われた場所に進み出たりすることにこだわっていたなら、おそらく命すら失っていたであろう人は、私たちの中に一人だけではありません。

御霊にあって歩んでいる人々が御声を軽視すること、あるいは、その最も小さな命令に不従順であることは、とても厳粛なことです。このような不従順により交わりはすべて遮断され、祈りはすべて妨げられます。

しかしまた、禁じられた手段は私たちの御父の祝福を確実に妨げる

適切な態度と精神で神の助けを求めておきながら、その後すぐに出て行って、自分の祈りを恐ろしい方法でかなえるよう神を促すおそれがあります。疑いなく、ヤコブは自分が望む祝福を誠実に神に求めましたが、後に、自分の目的を遂げるためにきわめて卑劣な手段を取りました。そして、待機と悲しみの年月を送りました。四十歳の時、疑いなく、モーセは自分の手でイスラエルを解放してくださるよう誠実に神に求めましたが、きわめて軽率かつ不適切な態度で自分の愛国的願望を果たすためにエジプト人を殺し、犯罪と王の手による危機の中に陥りました。疑いなくアブラハムは、ハガルに関して妥協することにより、息子に関するご自身の約束を神が果たす助けとなる、と考えていました。しかし、それにより彼は天の御声を長年にわたって閉ざし、家庭内に争いと問題を招き、心中の目的を妨げただけでした。疑いなく、タルソのサウロは救いのために長年誠実に祈りましたが、それを自分自身の義によって追い求め、神の義に服さなかったため目的を果たせませんでした。そして、彼の民族は今日、あわれみを求めて空しく祈っています、彼らは神の定められた唯一の道を拒否することによって、あわれみを拒否しているからです。

多くの人は聖めを求めて祈りますが、この祝福の中に入りそこないます。なぜなら、イエス・キリストと御霊の内住による神の定められた方法を知的に理解せず、信仰をもって受け入れないからです。他の人々の救いを求める多くの祈りが妨げられています。なぜなら、自分の友のために祈っている人が、その立派な目的をすっかり台無しにする手段に訴えているからです。自分の夫の魂のために嘆願している多くの妻たちを私たちは知っています。彼女たちは夫の機嫌を損ねかねないものをすべて避けることによって夫を勝ち取ることを期待しており、夫をキリストに引き寄せることを願って夫の世的なあらゆる嗜好に屈しますが、それは無駄です。神が祝福できる、神に対する忠誠の姿勢や、恐れずに彼を証しすることの方が、遥かに効果的だったでしょう。多くの教会は主に祝福を求めますが、その後働きに出かけて、神が決して容認できない世的手段に訴えることによってそれを台無しにします。多くの会衆は、「なぜ自分たちはこんなに貧しく、苦労していて、財源を求める祈りをかなえてもらえないのだろう?」と不思議に思っています。しかし調べてみると、その財政的手段は全く非聖書的であり、時として、一般的に敬意を受けるのにふさわしくないこと、また、優れたこの世の施設なら当てにしたくないものであることがわかります。なんらかの祝福を神に求める時、その答えをもたらす歩みを導くことを、私たちは神に許さなければなりません。神に手綱を握ってもらうすべての人の心に神は御力を与えてくださいます。多くの病人が癒しを求めて祈っていますが、病気に対する神の処方箋を真っ向から無視して、神がよしとされない手段に訴えています。その手段は、おそらく、「単純な信仰の姿勢を取っている」と主張している者に対しては特に、神が全く禁じておられるものです。神の答えは彼ご自身の使者たちによってもたらされなければなりません。そして、その答えをもたらす私たちの歩みは、神の絶対的指示に基づかなければなりません。

ダビデの即位後、ペリシテ人が彼の領土に二回目に侵入した時に、彼が取った行動を例にとりましょう。ダビデが前回と全く同じことをして、彼らに向かって真っすぐ行進し、その後、神に自分を祝福してくださいと求めたとしましょう。彼は敗北していたでしょう。なぜなら今回は、命令が前の時とは全く異なっていたからです。「上ってはならない。彼らの後に回りなさい」。つまり、円を描いて進み、最初は彼らから離れるように行進し、次に側面に回り込みなさい、ということです。「そしてバルサムの木の向かい側から襲いかかりなさい。バルサムの木の上に行進の音が聞こえたなら、あなたは奮い立たなければなりません。その時、主があなたの前に出て行き、ペリシテ人の軍勢を打たれるからです」。答えは主の指示に対する明確な従順にかかっていたことがわかります。

愛する人よ、これが私たちの答えてもらえない祈りの多くの理由ではないでしょうか?私たちは私たちの主の命令を待ち望み、彼が命じられた指示にしたがって答えを求めてきたでしょうか?ああ、「あなたたちがもし励んで、あなたたちの神、主の声に従うなら、このようになります」という神の最も尊い約束に関する預言者ゼカリヤの言葉は、なんと厳粛でしょう。そして、これはアブラハムに関する神の御言葉の反響にほかなりません、「わたしが彼を知ったのは、彼がその子らと彼の後の家族に、主の道を守って義と公正を行うように命じ、主がアブラハムについて語ったことを、彼の上に成就するためです」。

おそらく効果的な祈りに対する最大の妨げは、そして、疑いなく祈りの生活に対する最大の妨げは、聖霊と内なる生活に関する無知である

大多数の人にとって、祈りは自然に心に浮かんだことをあわただしく述べることです。それでは、苦しんでいる動物の叫びや、ほとんど意識のない赤ん坊の泣き叫ぶ声と大差ありません。確かに、不幸な人が発した不信仰な叫びを神は聞いてくださいますが、これは祈りではありません。御父の耳に必ず届く声は、信頼している子供とその子供の心の中に息づいている聖霊の声です。真の祈りは聖霊に促されたものでなければなりません。なぜなら、多くの人は聖霊をほんの少ししか知らず、彼から遠く離れて歩んでいるからです。そのため、彼らは天的交わりの言語に比較的不案内なのです。

祈りの生活は内なる生活、霊的生活であり、多くの人はこれを知らず、これを欲しません。それは心を常に探りますし、私たちが私たちの神と静かに歩むべきことを徹底的に要求します。多くの人は自分自身が主人になることを好みます。そして、一歩一歩神と共に歩んで、あらゆる考えと願いを内なる忠告者に服従させる習慣は、彼らの横柄な自己意志には耐えられませんし、少なくともあまり経験したことがありません。

しかし、これこそ真に祈りの生活の要素なのです。それは内なる生活です。その故郷は「いと高き方の秘密の場所」であり、その住まいは「全能者の影」です。それは分離不可能な神聖な交友の交わりです。その例は神と共に歩んだエノクです。自分の主人にすがりついて「主は生きておられ、あなたの魂も生きています。私はあなたを離れません」と言ったエリシャです。それはまさに内なる人の呼吸であり、人の心臓の鼓動や人の胸の呼吸のように必要であり絶え間がありません。

愛する人よ、結局のところ、これがあなたの祈りの問題ではないでしょうか?あなたの祈りは、天の命の習慣的交流というよりはむしろ、一大緊急時の突発的な叫びではないでしょうか?もしあなたが常に彼の傍を歩むことに慣れていたなら、あまり遠く離れておらず、窮地の時に大声で長時間叫ぶ必要はなかったのではないでしょうか?常に祈る習慣によって、私たちは大いなる祈りの戦いのために備えられます。この重要性を無視する人は、緊急時に用意ができていないことに気づきます。神はあなたに、もっと親密にご自身と共に歩むこと、ご自身の絶えざる内住のためにあなたの心を開くことを命じておられます。また、あなたの胸の中に恵みと嘆願の御霊を受け入れて、この御方があなたに対して力強い弁護者となることを命じておられます。御霊はあなたに嘆願をすべて息吹き込み、それらをご自身の愛と力の強力な翼の上に担って、高き所にいる弁護者にもたらされます。この御方を通して、あなたはあの御父の答えを受け取ります。御父は彼が息吹き込んだ祈りに常に答えてくださいます。

私たちの巨大な金融機関が「自分はすべての巨大な商業の中心との間に私的な回線を持っている」と宣伝するのを、私たちは時々見かけます。自分の心の中に聖霊を有している人は御座への私的な回線を持っており、いつでも天との直接回線を開いて維持し、必要ならその全軍団を動員して直ちに助けてもらえます。ああ、愛する人よ、あなたが献身の生涯に入ること、そして、あなたの愛する主があなたの心を彼の宮・彼の御座とされるのを許すことは、確かに価値あることです。そこでは祈りにより常に、幸いな子供と常に傍におられる御父との間で、親しい交わりが途切れることなく続くのです。

ああ、なんと幸いなことか、すべての必要に対する供給とすべての傷のための香油が、このように常に手の届くところにある人々は!悲しみが影を落とし、サタンが攻撃し、困難が四方を包囲するかもしれませんが、祈りを通して、常に新たに救われ、戦いのたびに力強く勝利の霊が新たに戻ってきます。不死鳥のように自分自身の灰の中からよみがえり、そのつど新たな新鮮さと喜びをもって成長するのです。

南アメリカのある旅行者が、かつて彼が目撃した奇妙な戦いについて述べています。それは小さな四つ足の動物と大きな恐ろしい毒蛇の戦いでした。その小動物は、自分を滅ぼそうと威嚇している相手に全くかなわないように思われました。一撃でやられてしまう無力な餌食のように思われました。しかし、それは恐れずに強力な敵に立ち向かい、その顔めがけて突進し、激しい有効打を立て続けに浴びせました。しかし、反撃を受けて、敵の毒牙による深い致命的に見える傷を負いました。毒牙が怒りの攻撃を一閃させて、次にこの勇敢な小さな攻撃者の肉の中にしっかりと食い込みました。一瞬、すべて終わったかのように思われましたが、その賢い小動物は直ちに森の中に退却し、バナナの木に駆けつけて、その葉の一部をしきりに貪り食って、すぐに戻ってきました。見たところ生き生きとしていて、新たな活力と決意で戦いを再開できそうでした。何度も何度もこの奇妙な見世物が繰り返されました。蛇は獰猛に攻撃し、大いに消耗させ、何度も何度も相手を傷つけて死に至らしめるかのように思われました。しかし、この小動物は繰り返しこの単純な処方箋に訴えて治療し、新たな勝利を目指して戻ってきました。ついに、一、二時間後、戦いは終わりました。巨大な爬虫類は死んで静かに横たわっていました。そして、この小さな勝利者は、無傷でその巣と無力な小さな子らのただ中にいたのです。その子らはこうして滅びから救われたのでした。

何度私たちは龍の牙によって傷つけられ、死にそうな傷を受けることでしょう。そして、なんらかの長い儀式を経て命の源に至らなければならなくなると、気絶して死んでしまうのです!しかし、御名に祝福あれ!私たちのために癒しの木が常にあるのです。それは森がその影の下に宿している木のように近くにあります。それによって私たちは常に治療してもらえます。新鮮活発にされて戻ってこれます。彼のように変容されて戻ってこれます。彼は山上で祈られた時、天の光で明るく輝かれました。園で祈られた時、死の恐怖に勝利して立ち上がり、高き所から力づけられて、私たちの贖いのための途方もない戦いに勝利されました。

ああ、祈りによる数々の勝利!それらは聖書の高嶺です。それらは私たちをマムレの平野に、ペニエルの浅瀬に、ヨセフの牢獄に、モーセの勝利に、ヨシュアの勝利に、ダビデの解放に、エリヤとエリシャの奇跡に、主の生涯の物語全体に、ペンテコステの秘訣に、パウロの比類ない務めの基調に、聖徒たちの生涯と殉教者たちの死に、教会の歴史と神の子供たちの経験の中で最も聖なる甘美なあらゆるものに連れ戻します。そして、私たちの最後の戦いが終わって、祈りの足台が賛美の竪琴に場所を譲る時、永遠の輝きで飾られることになる時の中の場面は、最も深い悲しみと最も暗い夜としばしば関係していたものでしょう。その上に私たちは「エホバ・シャマ:主はそこにおられる」と刻印するでしょう。神が触れてくださったものだけが記憶に残りますし、永遠に記憶される価値があります。これらは不滅の記念碑です。ああ、今より後、祈りが私たちの人生の旅のすべての道、すべての歩みを覆いますように。そして、なにがあろうとも、私たちはそれを祈りへのさらなる召しとして、神がご自身の栄光を現わしてご自身の勝利の愛の永遠の記念碑を打ち立てるさらなる機会として、認めることができますように!

このささやかなメッセージを、第一章を開始した時の思想で終えることにします。すなわち、主が弟子たちに祈りを教える方法は、直ちに祈り始めさせることによってだった、という思想です。

今この時、必要だとあなたの心に最初に思い浮かぶことのために祈り始めてください。そして、すべてを祈りの中にもたらしてください。あなたの心が満ち溢れて、中断せざるをえなくなるまで、そしてそれをすべて賛美に転じざるをえなくなるまで、そうしてください。そして、「今や、私たちの中に働くその力にしたがって、私たちが求め、また思うすべてを、遥かに超えて豊かに行うことのできる方、この方に、教会の中で、キリスト・イエスにより、栄光がすべての時代にわたって、かぎりなくありますように。アーメン」。