第一章 いのちなるキリスト

A. B. シンプソン

このいのちが現れました。私たちはそれを見たので、あなたたちにこの永遠のいのちを伝えます。この永遠のいのちは、御父と共にあって、私たちに現されました。(ヨハネ第一の手紙一章二節)
この方こそまことの神であり、永遠のいのちです。(ヨハネ第一の手紙五章二〇節)

この「いのち」という意義深い言葉は、新約聖書の中で最も深遠な二冊の書、ヨハネによる福音書とヨハネの手紙の基調をなしています。他の書物は真理、人格、義について告げますが、これらの書はいのちについて告げます。他の書物は、何をなし、どうあるべきかを告げますが、これらの書は、そうなる秘訣と、それをなす秘訣を教えます。自然界の神秘はいのちです。人が知恵と力を尽くしても届かないものはいのちです。科学はものの原理を示し、自然界の力を再構成することすらできます。しかし、ただ神だけが、万物に自発的運動を生じさせ、それにいのちを与える、この不思議で精妙な拍動を与えることができます。

山上の垂訓は、理想的な生活がどうあるべきかについて告げますが、ヨハネによる福音書は、どうすればその理想の生活が現実になるのかについて告げます。それは、いのちが始まる神秘的な新生の秘密から始まり、来たるべき時代の最高度に発達した聖化・栄化されたいのちにまで及びます。ヨハネの手紙はさらに詳しく、神聖ないのちの源と発達と流出について示します。五つの連続的な段階により、それを追うことにしましょう。

1.キリストは永遠のいのち――惑星が回転し、昆虫が羽音をたて、天使が歌うよりも前に、キリストは永遠のいのちでした。先述の御言葉の原文は、改訂訳よりも強調的であり、文字どおりにはこう訳されます。「私たちはあなたたちにこのいのち、永遠の命を示します。それは御父と共にありました。そして、私たちに現されました」。二番目の御言葉はこの同じ思想をさらに詳しく表明します。「この方こそまことの神であり、永遠のいのちです」。イエスはいのちであり、あらゆるいのちは彼に由来します。自然界のいのちは、彼の創造的な力の流出です。精神や思想や知性のいのちは、彼の無限の心から放射されたものにほかなりません。巨大な天体から極微の粒子に至るまで、宇宙を動かす力は彼ご自身のいのちです。なぜなら、「万物は彼にあって成り立って」おり、「私たちは、彼の中に生き、動き、存在している」からです。復活節のゆりの花の色彩、ヒヤシンスの香り、植物界の豊かないのちは、すべて彼に由来します。

新生した人はみな、彼のいのちから生まれました。どの時代、どの土地の教会も、彼のいのちと力の新創造です。どの聖徒のいのちも、生けるかしらのいのちによって常に支えられています。彼のいのちは永遠のいのちであり、彼の中には決して涸れないいのちの泉、尽きせぬ豊かさがあります。これを知るのは実に素晴らしいことです。この「永遠」という言葉は、始まりも終わりもない存在という観念を伝えるだけでなく、より高度ないのちの領域に私たちを引き上げます。それは、目に見える一時的なものよりも、もっと高い水準に属するいのちです。その範囲は無限であり、その長さは果てしなく、無限の豊かさと輝かしい十全性をたたえた計り知れない大海原のようです。

光り輝く永遠のいのちの中で私たちの前に立ち、「わたしは生きている者である。わたしは死んだことがあるが、見よ、いつまでも生きている」と仰せられるいのちの君、生ける方、神の栄光の御子をあがめましょう。

2.現されたいのち――「このいのちが現れました」。この御言葉は、主イエスの受肉と地上生涯全般の物語を含みます。これはまた、ヨハネが福音書と手紙の中で頻繁に用いている「いのちの言葉(the word of life)」という語句の意味をも網羅します。この語句は、原文では「そのいのちの言葉(the word of the life)」となっています。ちょうど、言葉が人の思想の表現であるように、彼は私たちに対する神の御思いと御旨の表現であり、すでに存在していたけれども啓示されずにいた事柄の現れです。神は、書き記された言葉だけを私たちに与えるのではなく、生ける方を送ってくださいました。そして、その実際の詳細に及ぶ地上生活により、神の性格と人類に対する神の愛の御旨を示してくださいました。

福音を生きる

次の物語は、宣教士に関する有名な物語です。彼は数年間コンゴの原住民に宣べ伝えましたが、彼らを認罪に導くことができませんでした。ついに彼は、山上の垂訓の学びの課程を途中でやめて、アフリカ人たちに向かって「私はこの章をあなたたちの間で実践することにする」と宣言しました。その日が終わらぬうちに、原住民たちは彼に家財道具をすべて要求しました。これにより、その宣言を実行する機会がふんだんに与えられることになりました。彼はおとなしく、「求める者には与え、借りようとする者を断らないようにしなさい」という教えに従いました。夕暮れになって、家財道具をはぎ取られ、飢えが目前に迫ってきたため、宣教士の妻は狼狽しました。しかし、それはドラマの第一幕にすぎなかったのです。夜が明けぬうちに、黒人たちは自分たちが目撃した奇妙な実例について考え始めました。彼らは言いました、「この人は商人のようではない。彼は我々に何も求めなかった。それどころか、我々に持ち物を全部くれた。彼は神の人にちがいない。我々は彼の取り扱いに気をつけた方がよさそうだ」。そこで、その翌日、前日とは正反対の光景が見られました。すべての物が複利付きで返されてきたのです。これが第二幕でした。第三幕は、一大リバイバルでした。千名もの人々が回心して、コンゴにある教会の最大の組織になったのです。「このいのちが現れました」。そして、人々はそれを見ました。それは、どんな言葉にもまさる力強い実物教育でした。

そのように、キリストは生活の中で御父のメッセージと福音の意味を現されました。彼の地上生活は、神が真の人間生活に期待しておられるものをすべて備えた完全な模範でした。人類史上初めて、御父は「これはわたしの心にかなう者である」と言える人をご覧になりました。キリストの人間生活は、私たちが維持すべき地上の関係のあらゆる面に及びます。そのいのちは、典型的な人生経験の細部全般にわたって、あらゆる色彩と陰影を帯びて現されました。そのため、「イエスならどうされるだろうか?」という単純な合い言葉を適用できない状況は一つもありません。彼の死に関する偉大な教えに熱中するあまり、彼の生活の価値を見くびったり、神の啓示としての、そして人間性の理想としての、彼の完全な模範の重要性を軽視してはなりません。

血は命である

3.十字架につけられたいのち――私たちはキリストの生活を過小評価するべきではありませんが、他方、彼の死の意義はどんなに高く評価しても評価しきれません。

教師たちのある学派は、キリスト教社会主義や、キリストの模範を社会的・世俗的問題全般に適用することについて多く語ります。しかし、この人々はカルバリの手前で止まってしまいます。彼らは、聖書全体の鍵であり、すべてのクリスチャンの希望と経験の鍵である、あの偉大な出来事を無視します。そのため、霊的に深いこの手紙においてさえ、私たちは「血」というこの表現にすぐにでくわします。この表現は、聖い畏れとやさしさのこもった警告をもって、私たちに立ち止まるよう命じます。ヨハネは手紙を書き始めるやいなや、二色の濃深色――黒い罪のしみとキリストの尊い血――で全編を彩ります。「御子イエス・キリストの血がすべての罪から私たちを清めます」(ヨハネ第一の手紙一章七節)。これこそ、復活節と復活、カルバリの十字架、イエス・キリストの死の背後にある偉大な事実です。彼は犠牲を払って自己を明け渡し、神聖で人間的な麗しいいのちを捨てられましたが、これは私たちにどのように死ぬのかを教える従順と服従の模範であるだけでなく、咎のための贖い、人々の罪に対する神の義を満足させるものでもあります。ヨハネは、イエスの霊といのちに対する深い洞察力によって、キリストの血が持つ贖罪の意義を他の弟子たちにまさって認識しました。「見よ、神の小羊」という言葉が、彼の美しい福音書全体に基調として鳴り響いているようです。「イエス・キリストの血」が彼の手紙の背景です。「私たちを愛して、ご自身の血により私たちを罪から洗ってくださった方に」が、荘厳な黙示録の中で繰り返し歌われる贖いの歌の基調です。イエス・キリストの血が意味するのはまさに、無限の価値を持つそのいのちを、彼は私たちの失われた命の身代わり、贖いの代価として与えてくださったということです。

キリストと共に死ぬこと

さて、主の受難を感傷的な方法で味わい、彼の恥と苦難に同情して泣くだけでは十分ではありません。私たちは人の悲痛な悲話を聞いて泣くかもしれませんし、感動的な雄弁の魔力によって泣くかもしれません。しかし、それでもなお、キリストの血の力を知らないかもしれないのです。キリストの死はある偉大な潜在的事実を表しています。そして、この事実を信じて彼との協力関係の中に入り、個人的に「彼の苦難の交わり」にあずからないかぎり、キリストの死は私たちにとって何の価値もありません。キリストの死は私にとってまさに次のことを意味します。すなわち、キリストが死なれた時、私も死んだのです。そして、神の目から見て、私は今や自分の罪のために処刑された者のように見えるだけでなく、キリストと共によみがえって以前の罪から義とされている者のように見えるのです。なぜなら、「死んだ者は罪から解放されました」とあるように、私は自分の罪のために処刑されたからです。それだけでなく、キリストの死は聖化の秘訣でもあります。なぜなら、あのカルバリの十字架上で、私――罪深い自己――は死に渡されたからです。また、私が十字架上の主に自分を渡して、「自分は死んだ」と認めた時、キリストの復活のいのちが私の内に入って、生きているのはもはや私のもがきや、善や、悪ではなく、私の主になられたからです。それゆえ、キリストの内にとどまっているかぎり、私はキリストと同一視され、キリストが歩まれたように歩むことができます。

愛する方々よ、あなたはキリストの死の中に入って、それを自分のものにされたでしょうか?そしてそれを通して、今あなたは「彼の復活の力」によって神に対して生きているでしょうか?

4.復活したいのち――十字架に至らずに止まることが間違いであるように、十字架で止まることも間違いです。私たちの神学の中からキリストの死を削除することが間違いであるように、死せるキリストしか持たないことも間違いです。キリストの死は彼の復活のための背景にすぎません。手放されたいのちは再び取り戻されて、今彼は「わたしは死んだが生きている者である」と言って、私たちの前に立たれます。救い主は今も十字架にかかっているわけではありません。主はかつて十字架にかかりましたが、もはや十字架上にはおられません。彼が横たわられた墓は今や開かれて、不朽のいのちへの門そのものになっています。ですから、この節は復活の主を大いに暗示しています。「私たちが手でさわったもの、すなわち、いのちの言葉について」という御言葉は、「わたしにさわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたたちが見るとおり、わたしにはあります」と主が弟子たちの間に立って語られた朝を直ちに思い起こさせます。ヨハネが記したこのような言葉には、何かしら無量の感慨があります。それは、彼が主の胸によりかかり、主の復活の事実をまぎれもなく目撃し、主との親密な立場と愛の接触を再び求めたからでしょう。

彼のいのちによって救われた

そして、これは私たちの注意を、「キリストの血」という言葉が持つ、復活に関するいっそう広大深淵な意義に引きつけます。なぜなら、「血はいのち」であり、私たちをすべての罪から清めるのは彼の贖いの死だけではなく、彼の復活のいのちでもあるからです。私たちは彼の死によって救われるように、「彼のいのちによって救われます」。出エジプト記の昔の予表の一つに、次のようなものがあります。モーセは山のふもとで雄牛をほふり、その血を祭壇上に注ぎ、血の一部を鉢にとって民の上に注ぎました。それから、モーセはそれを持って山に登り、そこで神とまみえ、血のゆえに受け入れられました。この二番目の血の効力は、キリストの復活のいのち、一度捨てられた後再び取り戻されたいのちを示しているように思われます。ですから、私たちは感謝に満ちた愛をもって私たちの復活の主の勝利を祝い、いのちの君、生ける方を賛美します。主は今、死を征服した方として、また新しいいのちの所有者として生きておられます。主は、彼の死と復活にあって彼に結合されるすべての人に、この新しいいのちを与えてくださいます。

5.内住するいのち――このいのちは彼ご自身のためではなく、私たちのためです。死人の中からよみがえった彼は、今私たちのもとに来て、私たちの中で再び生きてくださいます。これこそ、ヨハネ第一の手紙の中に記されている聖化の秘訣であり、この手紙に関する難問をすべて解く鍵です。おそらく、新約聖書の中で、この手紙ほど聖潔の問題について多くの矛盾らしきものを抱えている書はないでしょう。たとえば、第一章では「もし自分に罪はないというなら、私たちは彼を偽り者としているのであって、彼の御言葉は私たちのうちにありません」(八節)と言っているのに、その少し後のところでは、「神から生まれた者はみな罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができません」と言っています。さて、これらの御言葉はどうすれば調和させられるのでしょう?それは全く簡単です。第一に、人間である「私たち」が罪を持っており、罪を犯したのは事実です。私たちの内には何の善もありません。私たちは自分を無価値で無力なものとして放棄しました。しかし他方、私たちは彼を自分のいのちとして受け入れました。彼のいのちには罪がありません。彼が私たちの内に植えられる種は、美しい球根や花――たとえ不潔な土地に植えられても、周囲の土壌によって汚されることなく、天使の翼のように清らかに成長する――のようにしみがありません。それは他の要素に属しており、それ自身の性質は元々本質的に純粋です。

罪の無いいのち

このすべての奥義を解く鍵は、この手紙の二つの節にあります。「彼のうちに住む者は罪を犯しません」(ヨハネ第一の手紙三章六節)。ここに聖潔の秘訣があります。私たちの聖潔ではなく、彼の聖潔です。ここでは私たちの完全さについては何も述べられていません。私たちが罪から守られるのは、私たちが彼にすがりついて、毎瞬彼からいのちを汲み出す時だけです。それは内住のいのちです。

さらにこう記されています、「神から生まれた者はみな罪を犯しません。神から生まれた方が守ってくださるので、あの悪しき者は触れることができません」(ヨハネ第一の手紙五章十八節)。ここで再び、この同じ真理が別の言い方で表現されています。私たちの内に住んでおられる神のひとり子は、私たちを罪の力とサタンの攻撃から守ってくださいます。私たちはちょうど、一枚のガラスによって猛禽から隔てられている小さな昆虫のようです。悪魔がたびたび攻撃しても、「あの悪しき者は触れることができません」。

これに関連する節がもう一箇所あります。「神の御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持ちません」。ここに主イエスご自身との結合があります。この結合は霊的生活の源です。ですから、使徒パウロが発見した「あなたたちの内におられるキリスト、栄光の望み」という秘訣は、主の胸に親密によりかかった弟子の秘訣でもありました。どうか神が、これを私たちの生活の秘訣にもしてくださいますように。そして、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠のいのち、現されたいのち、十字架につけられたいのち、復活したいのち、内住するいのちの豊かさを私たちに完全に知らせてくださいますように。私たちの主イエス・キリストに栄光が世々かぎりなくありますように。アーメン。