第五章 どのようにしてこれに入るのか

A. B. シンプソン

主よ、あなたがご自身を私たちに現そうとして、世に現そうとされないのは、どうしてでしょうか?(ヨハネによる福音書十四章二二節)

しかし、キリストはご自身を世に現さずに、どのように私たちにご自身を現されるのでしょう?第一に、彼ご自身が私たちをこの状態に導いてくださいます。彼は私たちを放っておいて、独力でそこに登らせるのではありません。彼は彼方に王宮を建てて、「あそこに行くことができたら、その素晴らしさがわかります」とは言われません。彼は私たちをまっすぐその王宮まで導いてくださいます。

ジョン・バニヤンは、神が認罪をもって自分に臨まれた時、幻の中で美しい幸いな家を見ました。その家の中では、聖なる男女が主の光の中で一緒に歌っていました。しかし、彼は外にいて、中に入れませんでした。まるで、岩壁が彼らと彼を隔てているかのようでした。彼は、彼らの幸いな様子と、その光景の明るさと、その喜びの真実さを見ました。しかし、彼は暗く寒い屋外にいました。これと同じように感じている人々もいます。彼らは言います、「そのような生活を送るのは素晴らしいことです。そこには絶えざる安息と勝利があり、問題に悩まされることもありません。そこでは罪の大渦が私たちを巻き込むことはなく、キリストが私たちを祝福し、私たちを他の人々に対する祝福としてくださいます。しかし、私たちはそこにたどりつけません」。

ある集会でのことです。一人の善良な人が立ち上がって、キリストを受け入れさえするなら、キリストが何を行ってくださるのかを、人々に告げました。「しかし」と彼は言いました。「あなたたちはそのために準備をしなければなりません。まず第一に、清められなければなりません。そうしないと、キリストは来てくださいません」。私は聴衆の顔が曇るのを見ました。「おお、私たちはどうすれば清められるのでしょう?」。私は、「愛する方々よ、その清めこそキリストご自身があなたたちに与えようとしておられるものなのです」と告げたいと思いました。

私たちの聖であるキリスト

「あなたが自力できよくなろうと努力した後、キリストは来てそれに報いてくださる」という教えは、主の教えではありません。キリストご自身があなたの聖です。彼はご自身の聖をもたらし、来て、永遠にあなたの心の中に住んでくださるのです。

私は、ニューヨーク市の上の手の空き地地帯に立っている小屋を、これまで何度か見たことがあります。そこで人々は半世紀もの間、掘っ建て小屋の中に住んでいます。そこの人々は時々小屋を修理しようとします。この貧しい清掃婦の一人は数ドルかけて小屋を片づけ、壁を白く塗ります。それで彼女は、小屋がまともで立派なものになったと感じるかもしれません。このようなことを私たちはしようとしています。しかし、億万長者の一人がその土地を買うなら、彼は古い掘っ建て小屋を修理せず、代理人にそれを取り壊させて、そこに大邸宅を建てます。

あなたに必要なのは、家の修繕ではありません。キリストに空き地をささげなさい。そうするなら、彼は古いいのちを掘り起こし、もっと素晴らしい家を建てて、そこに永遠に住んでくださいます。キリストは祝福であるだけでなく、祝福の備えでもなければなりません。それは、ある偉大なアッシリアの王が進軍した時のようです。彼は国民に道を造るよう命じるのではなく、自分の家来たちを遣わして彼らに木を切り倒させ、倒壊した場所を立て直させ、山々を平らにさせました。もし私たちがキリストを来たるべき王、私たちの信仰の創始者また完成者として受け入れるなら、キリストもそうしてくださいます。

自己に対する私たちの死

かつてある婦人が、キリストが彼女に語られた言葉を話してくれました。その言葉は、「わたしはあなたの死となり、そしてあなたのいのちとなります」というものでした。自分で死のうとしてはいけません。自己の磔殺のために、キリストを受け入れなさい。キリストは、自己を根絶し、廃棄し、十字架につける働きを、迅速かつ完全に引き受けて成し遂げてくださいます。解剖室の中にとどまって自分の霊の死骸を解剖したり、自殺用のナイフを持って震えたり、自分を刺し殺そうとする必要はありません。そのような苦行とは手を切ることができます。キリストが自己をほふる力になってくださる、と信頼することができます。あなたがなすべき唯一のことは、自分自身を渡して、こう言うことだけです、「主よ、ここに張本人がいます。私は自己をあなたに引き渡します。私には自己を殺せません。しかし、私は自己に死んでほしいのです。どうか動悸する情欲の脈拍を鎮め、そのかわりに平和を来たらせてください。私にはできません。しかし、私はあなたに、あなたの方法で私を殺す権利を差し上げます。ここで、一度かぎり永久に、私は自分自身をあなたにささげます」。

私たちのいのちと純粋さ

また、キリストは彼の霊と恵みにより、自己の死となってくださり、古い自己を終わらせる力となってくださるだけでなく、あなたの中で純粋な力強い新しいいのちにもなってくださいます。彼はあなたを清め、彼のいのちにあずからせてくださいます。それであなたは、「これは自分のものではないいのちである」と感じるようになります。このようにキリストを受け入れる時、自分の美点のゆえに高ぶりや高慢が生じることはありません。私たちは塵の中に横たわっているかのように感じて、「私は罪人のかしらにほかなりません」と言うようになります。しかしそれと同時に、祝福された純粋な流れが自分の全身を巡っていることも感じます。私たちが誘惑に遭う時、彼は祝福された御霊の供給により、誘惑を解決してくださいます。あなたは高く上げられて、誘惑を超越します。積極的なものが消極的なものを滅ぼします。天的なものが地的で邪悪なものを撃退します。

それは、ある蒸し暑い夏の日に、爽やかなにわか雨が突然降り出す時のようです。すべてが洗い清められたことを、私たちはすぐに感じます。草はみずみずしく青々と生い茂り、花は美と輝きをもって頭をもたげ、大気はいのちに満ちあふれ、自然の甘い芳香が五感を満たします。キリストの霊が到来して、疲弊した罪深い心を新鮮にしてくださる時も、そのようです。あなたは彼と共に歩んで、永遠に彼の臨在にあずかることができます。彼の臨在はにわか雨のようであり、あなたの霊の上に降って、あなたをあらゆる地上の汚れから清めます。また、あなたは流れのほとりにある小石のように、その絶え間ない流れによって洗われ続けます。

私たちの平安

キリストは私たちの死といのちであるだけでなく、さらに私たちの平安にもなってくださいます。これは福音書の中にたくさん記されています。「わたしはわたしの平安をあなたたちに与えます。あなたたちは心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません」。この内なるキリストのいのちの主要な特徴の一つは、静かであることです。キリストのいのちは、生来の騒がしさやいらだたしさを静めます。それは、自己が平衡を保つというよりは、キリストが平衡を保ってくださることです。私たちは静かな力と安息を感じます。人生の嵐をくぐる代わりに、私たちは神々しい静けさを得ます。命の奥深くで、「人知を超えた神の平安が、イエス・キリストを通して私たちの心と思いを守ってくれる」のを私たちは感じます。私たちは「なにも心配することがなくなり」ます。外側には騒動や艱難があるかもしれませんが、キリストはあなたの心の内なる部屋に来て、「わたしにあって、あなたたちには平安があります。あなたたちはこの世では艱難があります。しかし、元気を出しなさい。わたしは世に打ち勝っています」とささやいてくださいます。

私たちの喜び

この内住のキリストは平安以上です――彼は喜びでもあります。「それはわたしの喜びがあなたたちの中にとどまり、あなたたちの喜びが満ち溢れるためです」。ゼパニヤはこの思想を把握しました。「あなたたちの真中におられるあなたたちの神は力強い。彼は喜びをもってあなたたちを喜び、愛にあって安息し、あなたたちのために喜び歌われる」。彼はしばしば、愛の中で黙されます。彼はしばしば喜びの潮をじっと静かに保たれるので、あなたはそれを乱すのを恐れます。その後、喜びがあなたの全身を駆け巡ります。主は安息と喜びを交互に流し出してくださいます。

平安は永続的であり、喜びは断続的です。世の試練に打ち勝つ必要がある時、喜びの泉が溢れ流れます。パウロとシラスが牢獄でむち打たれて全身の痛みを感じていた時、主は彼らを訪れてくださいました。彼らは喜びを抑えきれず、喜び歌いました。アンテオケの人々が彼らを町から追い出した時、「弟子たちは喜びと聖霊に満たされて」いました。殉教者たちがじりじりと火あぶりにされていた時、彼らは迫害者に向かって、「私たちは炎を感じません。喜びがあまりにも大きいからです。喜びが私たちの全身を満たして痛みを鎮めます」と言いました。これは、十字架にかかる前の晩、ご自分の苦しみに構わずに、「あなたたちは心を騒がせてはいけません」と弟子たちを慰めた方の霊によります。

私たちの信仰

私たちの内におられるキリストは、私たちの信仰になってくださいます。私たちは、「私がいま生きているその命を、私は神の御子の信仰によって生きます」と言うことができます。あなたがこの信仰を持つ時、神を信じることがあなたの第二の天性になります。あなたは超自然的な信仰を感じるでしょう。あなたは信仰を持とうと努力するのではなく、「神の信仰を持ちなさい」という彼の呼びかけに単純に応答するでしょう。

私たちの愛

さらに、神の愛があなたの心の中に注がれます。それはあなたの生来の心の愛ではなく、神の愛です。もしキリストがあなたの内におられるなら、あなたはキリストに対する神聖な愛を感じ、それはあなたの愛ではなく、神の愛であることを知るでしょう。そしてあなたは、彼にあって、ただ彼のためだけに、すべての人に対して新たな愛情と友情を持つようになるでしょう。

私たちの知恵

また、私たちがこの内住のキリストを持つとき、彼は私たちの知恵になってくださいます。彼はなんらかの方法で私たちの思想に触れてくださいます。彼は私たちに真理の新しい理解を与えてくださいます。あなたは、自分のなすべき事、なすべきではない事について、彼から直感的知識を受けるでしょう。それはあなた自身の性質と全く調和し、彼が与えてくださった才能と混ざり合います。そのため、その思想や衝動はあなた自身のものであるかのように思われるほどです。

私たちの力

キリストはあなたの内で神の力となってくださいます。パウロは、「私もまた、私の内に力強く働く彼の働きにしたがって、労しています」と言いました。ですから、それは私たちの行いではなく、キリストが私たちに行わせることです。キリストは御力を私たちに与えて、人々のために働かせ、彼の王国を効果的に建造させます。ですから、か弱い女性や十分な教育を受けていない人でも、「自分は神の力によって語っている」という十分な自覚を持てますし、神の御言葉はむなしく神のもとに戻らないのを経験できます。

キリストの力によって働き、語り、祈ることは幸いです。キリストの力無しでそうしようとすることは、無益である以上に徒労であり、悪いことです。キリストはあなたの力になってくださいます。「天においても地においても、あらゆる力がわたしに与えられています。見よ、わたしはいつもあなたたちと共にいます」。

私たちの祈り

また、あなたの内におられるキリストは、あなたの祈りになってくださいます。彼はあなたの内でとりなしてくださいます。主ご自身のゲッセマネのうめきや涙が現されることもしばしばです。そしてまた、御名によってすべてを要求する祈りも現されます。

私たちの賛美

また、彼はあなたの祈りになるだけでなく、あなたの賛美にもなってくださいます。あなたが願いをささげた後、彼はあなたの心に訪れて、感謝の声をもってあなたの心に触れてくださいます。そして、祈りがかなえられつつあることのゆえに、あなたが神を賛美できるようにしてくださいます。

私たちの健康

また、もしキリストがあなたの心の中におられるなら、彼はあなたの肉体の力や命になってくださいます。彼は力をもってあなたの生体機能を強め、「イエスのいのち」を「あなたの死ぬべき体に現して」くださいます。

私たちの忍耐

また、もしキリストがあなたの内におられるなら、彼はあなたの忍耐になってくださいます。キリストの生涯には苦難がありました。ですから、あなたの生涯の大部分も、キリストと共に苦難を受けることです。あの十字架が、あなたの生涯のカルバリの丘の上にも立てられます。そして、あなたは彼と共にそれにあずかります。それは、不必要な苦しみを受けることでも、敵を喜ばせるために苦しむことでもありません。その苦しみは、一杯の冷たい水を人々に与え、人々が自分の重荷を負うのを助け、人々が沈みそうなところで彼らの必要を背負って担うためのものです。また、主がこの世の苦しむ人々のために重荷を負われるのを助けるためのものです。彼は反対者や悪魔から苦難を受けました。そのように苦難があなたに臨む時、彼はあなたを圧倒的な勝利者にしてくださいます。

スコットランドにいた時、私はスターリング市とその古い共同墓地を訪れました――そこの一つの灰色の記念碑を見つめながら昔を回想していた時、カベナンターたちの物語が心に思い浮かびました。その記念碑はマーガレット・ウィルソンのものでした。その愛らしい若い聖徒、十代の少女は、イエスへの愛を貫き通しました。そのため、父母や友人たちの懇願も彼女を死から連れ戻せなかったのです。彼らは「マーガレット、ほんの一言、ほんの一言でいのちが助かるのですよ」と言いました。しかし、彼女は「私はイエス様を辱める言葉を言えません」と答えました。父親は彼女が亡くなる前の晩、「お父さんの悲しみを考えておくれ」と懇願しました。彼女は父親の白髪をなでながら、「私はお父様が言えとおっしゃる言葉を、言うことができません」と言いました。

翌朝、乱暴な荒っぽい人々が彼女を外に連れ出し、杭に縛りつけて海の中に立てました。彼らはもう一人の白髪の年老いた聖徒を縛り、マーガレット・ウィルソンが彼女の死に様を見れるように、荒海の少し沖合に立てました。そして彼らは言いました、「マーガレット・ウィルソン、お前にはあの老婆の苦しみが見えないのか?そろそろ信仰を捨てたらどうだ」。彼女は答えました、「いいえ、私に見えるのは彼女ではなく、苦しむ僕の内にあってあそこで戦っておられるイエス様だけです」。こうして数刻の後、主の戦車は彼女の勝利した霊を天のホームに運んだのでした。

私たちの合言葉は、「ご自分の肢体の一人の内におられるキリストが、そこで苦しんでおられる」、「私ではなく、キリスト」です。こうして私たちは勝利し、生き、苦しむことができます。こうして、私たちは「私たちを愛してくださった方を通して圧倒的な勝利者」になることができます。

私たちの意志

もう一つ最後の思想です。もしキリストがこのように私たちの内におられるのなら、彼は私たちの存在のまさに中心――意志――におられるようになります。意志は性格の舵輪です。しかし、キリストはその意志を引き受けて柔軟にしてくださるので、意志はもはや頑固ではなくなります。キリストは私たちの意志を御旨に従わせ、彼の選ぶものを選ばせます。彼は、私たちの意志を喜びに満ちた自発的なものにしてくださいます。少年の時、私は自分のソリの滑走部を造りましたが、次々と壊してしまいました。しかしある日、一人の大工が良い方法を教えてくれました。私がそれを大工に渡すと、大工はそれを蒸気釜の中に入れました。すると、それはたやすく曲がるようになったのです。

キリストはあなたの意志を損なうことを望んでおられるのではなく、それを彼の愛の炎の中に入れることを望んでおられます。そして、あなたの内に働いて、私たちに彼の御旨を願わせ、行わせることを望んでおられます。こうして、彼は私たちの意志を引き受けて、強めてくださいます。ソリの滑走部を曲げてもらった時、大工は、それが元に戻らないよう固める方法を教えてくれました。そのように、キリストは私たちの意志を堅固にすることができます。彼はあなたの顔を火打ち石のようにすることができますし、「あなたの心の岩」となることができます。