第六章 どのようにして主の内に住むのか

A. B. シンプソン

そこで、小さな子供たちよ、彼の内に住んでいなさい。それは彼が現れる時、私たちが確信を持ち、その来臨の時に、御前で恥じ入ることがないためです。(ヨハネ第一の手紙二章二八節)

ヨハネは、小さな子供たちだけが主の内に住むことができる、と言っているかのようです。すなわち、私たちが小さくなる時だけ、主ご自身を十分に知ることができ、自分の力を用いるのをやめて拠り頼む時だけ、私たちを保持する主の力を知ることができる、とヨハネは言っているかのようです。ヨハネは自分自身を小さな子供の一人と見なしました。というのは、ヨハネは私たちに呼びかける時、「私たち」と言っているからです。ヨハネは、ボアネルゲ(雷の子)が死んだ時から、霊の中で全く小さな子供になりました。ヨハネはイエスの御胸によりかかって、もはや自分で強くなろうとはしませんでした。そして、イエスの支える御腕から離れた姿が見られることもなくなりました。

私たちはキリストご自身の栄光を見てきました。また、キリストにあることと、キリストを私たちの内に持つことがどういうことかも見てきました。そして今、私たちはこれらのものに強く印象づけられたいと願います。ヨハネは、「小さな子供たちよ、彼の内に住んでいなさい。それは彼が現れる時、私たちが確信を持つためです」と言います。

主の内に住むこの生活をどう維持すればいいのか、詳しく簡単に述べることにします。あなたは明け渡し、自分の意志と力を放棄し、これ以降自分の生活を主に支えてもらうことに同意しました。またあなたは、真の花嫁のように、自分自身、自分の名前、自分の独立性を放棄しました。その結果、彼は今、あなたの主となっておられます。あなたのいのちは彼の内に飲み込まれました。そして、彼があなたのかしらとなり、すべてのすべてとなっておられます。さて、愛する方々よ、この生活をどう維持すればいいのでしょう?主は、私たちは彼の内に住むべきであり、私たちが彼の内に住む程度に応じて私たちに内に住む、と言っておられます。「わたしの内に住んでいなさい。そうすれば、わたしもあなたたちの内に住みます」。

今を生きる

まず第一に、主の内に住む生活は、今を生きる生活でなければなりません。それは惰性で流れ続ける急流ではなく、小さな行いや習慣の連鎖です。あなたは、今この時、主を完全に所有し、今この時、完全に救われ、今この時、勝利を収めます。今この瞬間を満たしたものは、次の瞬間をも満たすのに十分です。ですから、もしあなたが毎瞬この交わりを更新していくなら、あなたは常に主の内に住むでしょう。あなたはこれを学んだでしょうか?あなたの生涯における失敗の大半は、一瞬を失うこと、一針の縫い目の切断、小さな裂け目、岩の割れ目――そこから水の雫がしたたり落ち、一本の急流になります――から来ます。しかし、もしあなたが一歩も歩みを失わず、一つも勝利を逃さないなら、あなたは主の内に住んで常に勝利するでしょう。

ですからまず第一に、この秘訣を学びなさい。すなわち、もはや恵みも勝利も必要としないほどの聖潔に達することはない、ということです。しかし、もしあなたがこの瞬間に恵みを受け、次の瞬間にも恵みを受け続けるなら、生涯の終わりに、あなたは主の恵みの大洋をことごとく所有するでしょう。最初、それはほんの小さな流れかもしれません。しかし、毎瞬流れ続けさせなさい。そうすれば、その水路が終わらないうちに、それは無限の大海原になります。

意志による決断

次に、主の内に住む生活は、意志による決断を続けることによって、また、現実に堅くキリストに信頼し続けることによって、確立されなければなりません。主の内に住む生活は、あなたの意志の有無に関わりなく、不可抗力的な衝動として自然に実現されるわけではありません。あなたは、主に信頼することから開始して、それが習慣になるまで繰り返さなければなりません。これを悟ることがとても重要です。

祝福を得る時、それ以上なんの努力もしなくても、その祝福は流れ続ける、と考える人が大勢います。しかし、そうではありません。意志の行使、選択の行為は、霊的生活の真の舵輪です。あなたが罪から救われたのは、イエスを自分の救い主として実際に選択することによりました。あなたが聖別されたのは、自分自身を明確に明け渡して、彼をすべてとして受け入れることによりました。

ですから、愛する方々よ、あなたはしっかり舵輪を握って前進し続け、毎瞬毎瞬、キリストに信頼すること、キリストによって生きることを選び続けなければなりません。そうすればついには、主の内に住むことが呼吸するのと同じくらい自然なことになります。それはちょうど、溺死から救われた人のようです。人々が彼を水から引き上げたとき、呼吸は停止しています。呼吸は自然に戻りません。労して人口呼吸を続けることによって、呼吸が戻ります。人々が半時間ほど空気を吸わせたり吐かせたりした後、無意識的な呼吸活動が認められるようになります。そして、呼吸本能がよみがえってきて、自発的な呼吸が始まります。間もなく、その人はなんの努力もせずに呼吸するようになります。

しかし、この呼吸が始まったのは、最初に一定の努力をしたおかげです。そして、徐々に呼吸が自然になっていきます。キリストについても同じです。もし、キリストの内に住むことを自然なものにしたいと願うなら、それを霊的習慣にしなければなりません。預言者は「神にとどまる心」について語り、ダビデは「私の心は主に信頼して揺るぎません」と言いました。私たちは決断をもって始め、いかなる代価を払っても主に従います。そうするなら、少しずつ習慣が確立されていきます。

習慣の法則

第三の原則は習慣です。習慣が育まれるのは、小さな行いの積み重ねによります。どんな習慣も、最初から確立されたわけではありません。習慣は木の根のように、筋肉の繊維のように育まれます。飲み込んだ一口の食物が吸収されて命になるのと同じです。人生の行路を着実に歩んでいる人を見てください。しかし、その人生行路は長年の習慣によって確立されたのです。私の横に座っている速記者は、私が話すのと同じ速さで、私の言葉を書きとめます。最初、その作業はぎこちなく、のろのろしています。しかし、それはついに習慣になります。この時、もはや手を休めて記号の書き方を思い出す必要はありません。私が話す言葉と同じように、自然に記号が出てきます。字を書くのも同じです。最初ペンを握るのがどれほど苦痛だったか、私たちは覚えています。しかし今では、さっと署名することができます。しかも、毎回同じ筆跡で署名できます。友人たちや銀行家は私たちの署名を知っており、それを同定することができます。どうしてそうなったのでしょうか?それは、私たちが長年同じしるしを書き続けてきたからです。愛する方々よ、これがコツコツと努力しなければならない理由です。ついには習慣が必要となり、確立されるにつれてますます容易になります。

悪についても同じです。堕落すればするほど、堕落するのは容易になります。また、向上すればするほど、向上するのは容易になります。イエスを仰ぎ見ることも同じです。それはちょうど、目の動きのようです――まぶたは本能的に動きます。聖書はそれを神の守りの象徴として用いています。「あなたのひとみのように私を守ってください」。ほこりが目を傷つける前に、小さなまぶたが柔らかい眼球を覆います。そのように、なにか話したいと思う時、本能的に舌をおさえることがあります。また、悪がやって来る前にその臭いをかぎ分けて、危険が降りかかる前に、漠然とではあるものの天に向かって祈ることもあります。こうして、従順の習慣も形造られます。それは、常にたゆまず、忠実に、主があなたに行わせることを行うことによってそうなるのです。主はこのような小さな試練によって私たちを教え、この習慣を確立し、従順を容易で自然なものにしてくださいます。

自我の抑制

さらに、もしキリストの内に住むことを願うなら、自分に信頼しないことを常に学ばなければなりません。自我の抑制が、常に神聖な豊かさと能力を得るための第一の要件でなければなりません。なにか非常事態が生じた時、人は飛び出してしまいがちです。ペテロは、自分が敵に立ち向かえるかどうかわからないのに、剣を抜いて飛び出してしまいましたが、これがいかに容易だったかがわかります。なにか関心事が持ち上がる時、衝動に駆られて自分の考えを述べてしまうことがありますが、その後、おそらく、何週間も、自分の考えを撤回して、その代わりに主を受け入れざるをえなくなります。私たちが主の道からどく時だけ、主は私たちを用いることができます。

ですから愛する方々よ、自我の抑制を訓練しましょう。そして何事についても、主を見上げて、「主よ、あなたの御旨は何でしょう?あなたのお考えはどうでしょう?」と尋ねるまで、決定を差し控えることを訓練しましょう。そうするなら、あなたと主の意向が食い違うことはありません。そこにはさいわいな調和があるでしょう。このようにキリストの内に住む人々は、差し控える習慣、静かにしている習慣を身につけています。彼らは落ち着きのないおしゃべりではありません。彼らはよろずのことについて常に見解を持っているわけではありませんし、自分がなすべきことをいつもわかっているわけではありません。彼らは性急な判断を差し控えて、神と共に穏やかに歩みます。むこうみずで衝動的な精神は、主に聞き従うことを常に妨げます。

依存

もしキリストの内に住むことを願うなら、キリストは人生の非常事態だけでなく、すべてを引き受けてくださることを憶えなければなりません。そして、常に主に頼る習慣を養わなければなりません。主に拠り頼み、至る所で主を見いだし、彼が私たちの生涯の事業を引き受けてくださったこと、そして困難は一つもないこと、もし私たちが主に道を委ねて主に手綱を握ってもらい、ひたすら信頼して従うなら、主が私たちを運び通してくださることを覚えなければなりません。

主の臨在を認識すること

さらに、もしキリストの内に住むことを願うなら、主が自分の心の中心におられることを常に認識する習慣を養わなければなりません。そうするなら、主を見いだすために、彼方の天に上って、主が行かれたあたりをさまよう必要はありません。主はまさにここにおられます。主の御座はあなたの心の中にあります。主の富は身近にあります。あなたは神の臨在を感じないことがあるかもしれません。しかし、聖霊があなたの心の中におられる事実を受け入れて、その事実に従って行動しなさい。すべてを主のもとに持って行きなさい。そうすれば間もなく、主の臨在を実際に喜ばしく感じるようになります。感情から始めてはいけません――主がここにおられるものとして行動することから始めなさい。ですから、もしあなたがキリストの内に住むことを願うなら、主は自分の内におられ、自分は主の内にあるものとして、主に応対しなさい。そうするなら、主はあなたの信頼に応えて、あなたの確信に誉れを与えてくださいます。

すべてのものの中におられる神

さらに、キリストの内に住むことを願うなら、人生に訪れるすべての事柄の中にキリストがおられること、そして、摂理の過程で起きることはすべて、ある意味で神の御旨と関わりがあることを覚えなければなりません。逆境は偶然ではありません。キリストと関係無いものではありませんし、「神は御座についておられるのに、なぜこのような逆境を生じさせるのだろう」といぶかしんで抗議するしかないようなものでもありません。あなたは、神が試みの中に導かれたこと、そして、たとえ洪水の高波が押し寄せても、神は御座に座しておられ、大波のうねりや水の轟きよりも力強い方であることを信じなければなりません。またあなたは、神は「人の怒りを賛美に変え、怒りの余りをとどめられる」ことを信じなければなりません。あなたは、「神は我らの避け所、また力。苦しむ時、そこにある助け。それゆえ、我らは恐れない。たとえ地は移り、山が海の真中に移っても。たとえ、水が立ち騒ぎ、泡だって、山々が揺れ動いても」と言わなければなりません。

私たちはすべての出来事を、私たちが選択しうる最善のもの、あるいは、神があなたに与えうる最善のものと見なす必要はありません。その出来事が臨んだのは、神が御力をあなたに示してそれを征服するためかもしれませんし、あるいは、聖潔、信頼、落ち着き、勇気といった学課をあなたに教えるためかもしれません。その出来事は、その状況下で、なにか神の御目的にかなうものなのです。ですから、あなたは別の境遇を求めるべきではありません。今いる境遇に打ち勝つべきです。あなたは逃避して、「自分の好きな所に行けば、キリストの内に住めるだろう」と言ってはなりません。あなたは、安らかな港にいる時も、嵐の海にいる時も、キリストの内に住まなければなりません。あなたは自覚しなければなりません。すべては神の許しによるのであり、神は万事を共に働かせることができるのです。それだけでなく、万事はあなたの益のためであること、そして、御旨を成就しつつあることを、あなたに知らせてくださいます。

外側の感覚に注意する

また、キリストの内に住むことを願うなら、感覚に警戒する必要があります。肉体感覚ほど、私たちを容易にさまよわせ、危険な野原や牧場の脇道にいざなうものはありません。私たちの目は、どれほど私たちを迷わすことか!道を歩いていると、気を散らせる数千のものに出くわします。中には、クモのような目を持っている人々もいます――彼らは前後左右、あらゆる方向を見ることができます。「あなたの目はまっすぐ前を見、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ」というソロモンの言葉はご存じでしょう。この世を心の中に入り込ませるなら、その戸口がいかなるものであれ、私たちは私たちの主の臨在から引き離されてしまいます。

耳も同じです。会話は、それがたとえクリスチャンどうしの会話でも、もしその百分の一でも聞くなら、完全に汚されてしまいます。ですから、あなたは自分の耳を閉ざし、自分の目を閉ざして、小さな範囲に生きなければなりません。なにかする時、一度に多くのことをしようとしてはいけません。それは気苦労を招くだけです。

水グモという小さな生き物がいます。それは、沼地などの湖底の泥の中に住んでいます。泥の表面から数インチ中にもぐり、始終そこで暮らしています。「水の中でどうやって息をして生きていけるのか?」と尋ねる人もいるでしょう。ああ、水グモには不思議な器官があり、それによって自分の体よりも数倍大きな気泡を自分の周りに集めることができます。水面に上がって空気を集めては泥中にもぐります。この小さな気泡は水グモにとっては大気です。水グモはその中に巣を造り、子供を育てます。空気のある所に水は侵入しないことはご存じでしょう。ですから、にごった水で囲まれた小さな家庭は、水上の澄んだ大気中で生活するのと同じくらい安全です。そのように、私たちは自分の生息圏の中に入って、主と共にとどまることができます。たとえ罪に取り囲まれ、下には地獄があり、人々はもがき、誘惑され、罪を犯していても、私たちはキリスト・イエスの中で、天上にいる聖徒たちと同じように安全なのです。

内なる祈り

さらに、キリストの内に住むことを願うなら、内なる祈りの習慣、心の中で神と交わる習慣を養わなければなりません。私たちは、「神は霊ですから、神を礼拝する人は霊と真実の中で礼拝しなければなりません」、「すべてのことについて感謝しなさい。なぜなら、これこそあなたたちに関する神の御旨だからです」という御言葉の意味を知らなければなりません。言葉を口に出さずに心の中で静かに祈るこの習慣は、主の内に住む秘訣の一つです。神秘家が用いた古い用語の一つに「静思」があります。これは静かな霊ともいえるでしょう。

用心

主の内に住むことと関連するもう一つの言葉は「用心」です――よく目を覚ましていることです。これは、漂うことの正反対です。それは固守する精神であり、絶えず警戒していることであり、主に優しく守ってもらうことです。さて、これは、あなたが警護の働きをすべて一人でしなければならない、ということではありません。あなたは手を舵の上に置かなければなりません。そうするなら、キリストが舵を操作してくださいます。それは列車のブレーキのようです――運転手はブレーキのレバーに触れて電流を流すだけです。技師は自分の力で列車を動かす必要はありません。レバーを回すだけです。あなたも私も自分で戦う必要はありません。合い言葉を唱えるだけです。そうすれば、天の力がそれに続いて働きます。ただし、これはその合い言葉がイエスの御名によって述べられた場合です。このようにして毎瞬、私たちは交わりと勝利の中に常にとどまることができ、ついにはキリストが私たちのいのちの構成要素となってくださいます。

神の導きに従う

キリストの内に住むことを願うなら、神に自分を助けさせようとすることをやめて、神の道の中に入り込み、神に導いていただかなければなりません。私たちは「自分はキリストに仕えることを選んだのであり、キリストに助けてもらわなければならない」という考えを自分の中から取り除かなければなりません。むしろ、私たちは理解しなければなりません。私たちはキリストの道に入ったのであり、キリストが信者を担っておられるのです。なぜなら、キリストは他の道を行くことができないからです。川の中に居続けるには、川と共に下らなければなりません。神の懐にとどまるには、神と共に進まなければなりません。神に自分自身を明け渡しさえするなら、あなたのいのちはなんでもできるほど強くなり、天のように素晴らしくなります。

不慮の出来事

おそらく、不慮の出来事についてお話ししておいた方がいいでしょう。主はしばしば、私たちに警戒させるために、突然誘惑が襲いかかることを許されます。そのようなことがあなたの生活に起きたら、それを主からのものとして受け入れなさい。それがあなたに送られたのは、あなたに警戒させて、危険を暗示するためです。まつげが閉じて目に危険を知らせるのと同じです。しかし、あなたがキリストの御傍近くにとどまるなら、そのような誘惑がすぐに臨むとは私は信じません。誘惑は、しばしばあなた自身の不注意から生じます。あなたが道から外れていて、主の望まれる所にいない時、おそらく、不慮の出来事があなたに臨んで、あなたが敵国にいることを知らせてくれるのでしょう。もし私たちが主の内に住んでいるなら、主を経過せずに悪が私たちを打つことは決してありません。おそらく、あなたが中心から少し外れていたので、キリストは敵を招来してあなたを驚かせ、あなたを御許に戻らせようとされるのです。それはちょうど、羊たちを柵の中に追い込むために、牧羊犬が放たれるようなものです。最終的に大きな災いに遭うより、小さな失敗を犯す方がましです。

失敗

しかし、十分注意していたにもかかわらず失敗してしまったとき、大失敗して落胆するとき、「自分は祝福を失ってしまった」、「こんな生活は自分には実行できないことがわかった」などと言ってはなりません。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、主は真実でただしい方ですから、私たちの罪を赦し、すべての不義から私たちを清めてくださる」ことを思い出してください。

神を現実に経験する方法

ある友人が先日、「どうすれば神を現実に経験できるのですか?」という質問を私に尋ねました。多くの人は神を現実の方として感じていません。男性にとって、自分が抱えている困難な仕事の方が神よりも現実的です。女性にとって、自分の仕事や試練の方が神よりも現実的です。病人にとって、自分の病の方が神よりも現実的です。私たちはどうすれば神を現実の方として経験できるのでしょう?私が知る最善の方法は、神を現実の物事の中に迎えることです。頭痛は現実です。その中に神を迎えなさい。そうすれば、頭痛が現実であるように、神も現実となられるでしょう。そして、さらに素晴らしいことに、頭痛が去った後も、神の臨在がとどまるでしょう。試みは現実です。それはあなたの人生に燃え移ります。神はそれ以上です。洗濯やアイロンがけは現実です。神をあなたの家庭の中に迎えなさい。そうすれば、神は現実となってくださいます。あなたの生活を神に結びつけること――これが神を現実の方とします。

バンヤン樹もこのように成長します。まず、幹と枝々が天に向かって伸びます。次に、枝々が地面に向かって成長し、土地に根をおろします。そして徐々に、数百の枝々が互いに織り混ざり、絡み合って、嵐や風にも動じなくなります。インド洋の熱風ですら、引き裂けなくなります。そのように、神が一人の人を救われる時、神は一本の枝を植えられます。しかし、神が困難の中にあるあなたを訪れて、あなたを満たし、聖別し、助けてくださる時、その一つ一つが新たな枝となります。こうしてあなたの人生は数百の枝々によって神に根ざし、神に結ばれます。地獄の全勢力といえども、その交わりを破れませんし、あなたを主の愛から引き離せません。

主イエスよ、あなたご自身を私にとって、
生ける輝ける現実としてください。
いかなる外側の事物よりも、
信仰のまなざしにはっきりと見せてください。
甘美な地上の絆よりも、
さらに親しく、さらに親密にならせてください。

さらに私に近づいてください、
生ける愛する救い主よ。
あなたの御顔の幻をさらに明るく輝かせ、
あなたの恵みの御言葉をさらに栄光で満たしてください。
人生が愛に変わるまで、
地上の天が天上の天に変わるまで。