第七章 死を通って命へ

A. B. シンプソン

誰でも私に従いたいのなら、自分自身を否み、自分の十字架を負って私に従いなさい。(マタイによる福音書一六章二四節)

ここに、この世の福音と主の福音の大きな違いがあります。この世は、別れを告げる時、「お大事に」と言いますが、主は、「自分を放棄して、他の人々とあなたの神の栄光を顧みなさい」と仰せられます。この世は、「素晴らしい時を過ごして、一番を目指しなさい」と言います。しかし、この世は最後には取り残され、後の者が先になります。すべてを手放す人はすべてを得、堅く握りしめる人は持っているものを失います。そして、主の御言葉が実現します――「誰でも自分の命を救う者はそれを失い、誰でも私のために自分の命を失う者はそれを見いだします」。

ですから、犠牲の法則は地と天で最大の法則です。犠牲の法則は神の偉大な法則です。これは地に記されており、自然界のあらゆる領域に記されています。私たちは、百億の世代の人々の骸を踏みしめています。その人々は、私たちが生きられるように、誕生と死を繰り返したのです。この地球の中心はまさに、代々の時代の残骸であり、前の諸々の世代の命が埋まっています。全自然界は死と生を繰り返します。そして、新たな進歩はみな、より高次の拡大した命であり、先立つ命の残骸の上に築かれます。一粒の麦は地に落ちて死ななければなりません。さもないと、しぼんだ種になってしまいます。しかし、死ぬなら、生きて増殖します。そして、成長して、美しい春、黄金の秋を迎え、何倍にも増えた束になります。高次の世界のいっそう深い命も同じです。あなたは、天然のものから霊のものによみがえります。利己的なものはみな、その身勝手さによって制限されます。流れの止まった川は、澱んだ沼になります。しかし、流れる時、川はますます新鮮に、豊かに、満ち満ちたものになっていきます。

もしあなたが自分の天然の目を自分自身に向けるなら、何も見ることができません。外を見るなら、世界の光景が眼前に開けます。天然の命の法則は、放棄して手放すことにより、他の人々を愛して世話することです。利己的であることは死であり、自分を滅ぼします。

犠牲の法則は神の法則です。神は、父、子、聖霊として、至高の十全性の中に生きておられましたが、ご自身を与えてくださいました。神の栄光はご自身を与えることにありました。それで神は、被造物に、この見事な宇宙にご自身を与えて、その自然法則にしたがってあらゆる種類の幸いが臨むように形造られたのです。次に、神はイエス・キリストにより、ご自身を与えてくださいました。「神は世を愛して与えてくださいました」。神はご自分の最善のもの、ご自分のすべて、愛するひとり子を与えてくださいました。神の法則は犠牲です。神はすべてを与え尽くすほど愛してくださったのです。

次に、犠牲の法則はキリストご自身の法則です。彼が来臨されたのは神の犠牲によりました。そして、彼は犠牲になるために来臨されました。彼はご自分の栄光を下ろし、一世代のあいだ天の社会を離れ、遥か下界の被造物たちと共に生活されました。人の下で地中を這い進む虫よりも低くなられたのです。彼は人々の一人となり、この堕落した人類の兄弟となられました。彼は常に明け渡して、手放しておられました。常に御力を差し控えて、それを用いませんでした。彼は常にご自分より劣る人々の意志に従い、ついに人々は彼を十字架に釘付けました。彼の全生涯は絶え間ない自己否定であり、人々の重荷を担い、人々の悲しみにあずかる生涯でした。このように、愛と犠牲はキリストの法則です。「互いに重荷を負いあって、キリストの律法を全うしなさい」。キリストの律法は、他の人々の重荷を負うこと、他の人々の悲しみにあずかること、他人のために自分自身を犠牲にすることです。

犠牲の法則はキリスト教の法則です。それは聖徒の法則です。これが救われる唯一の道です。最初から、これは常にそうでした。モリヤ山でもそうでした。その山で、忠信な者の父であるアブラハムは、自分の一人子、約束の子をささげました。それはカルバリ山でクライマックスを迎えました。その道はすべて血と犠牲で印づけられていました。アブラハムが自分のイサクを放棄しただけでなく、イサクも自分の命を放棄して、全生涯にわたって人々のために自分を下ろしました。ヤコブがどのように自分の妻のために仕えたのか、私たちは知っています。それなのに、ヤコブは意中の者を得なかったのです。ヤコブの生涯は苦難の生涯、無抵抗な生涯、忍耐の生涯でした。ヨセフも自分の境遇に対して死にました。彼は高く上る定めにあったので、低く下らなければなりませんでした。低く下って流刑になるだけでなく、惨めな投獄にも遭わなければならず、死ぬ寸前の所までいかなければなりませんでした。ヨセフが視界から消え去って、彼に関する神の約束がすべて無に帰したかのように思われた時、前途は絶望的に思われた時、神は彼を拾い上げて、この世の王座に据えられました。

モーセは逃亡者にならなければなりませんでした。モーセは試みて失敗しなければなりませんでした。四十年間、神は彼を教え、訓練しなければなりませんでした。そして、モーセが視界から消え去った時、神は彼の望みをかなえました。最後の時になって、モーセは約束の地に入る見通しを放棄しなければなりませんでした。彼はカナンの門の外側で死に、自分の最も大事な望みを犠牲にして、時が流れるのを待ちました。時が来て、イエスご自身がモーセを中に連れ込んで、変貌の山の上でご自分と共に立たせ、「今こそ、モーセよ、あなたは自分が手放したもの、失ってそれに対して死んだものを得ました。今、あなたは優った復活にあずかっています」と仰せになりました。過去の間ずっとそうでした。サウルは自分を手放そうとせず、肉の予表であるアガグとアマレクを滅ぼそうとしませんでした。ですから、肩と頭が人々より高かったサウルは、人がなりうる最高の者だったにもかかわらず、暗闇の中に下って行き、暗がりと恥の中に沈み込んだだけでなく、おそらく滅びの中に陥ったのです。ヨナもいます。神はヨナを重んじて、ご自分の民を解放させ、ヤロベアム二世の時代に王国を勝利と強大な力に導かせました。この人を神は重んじて、外国への最初の宣教士とされました。この人を神は召し出してアッシリヤに遣わし、「行って、ニネベに宣べ伝えなさい。行って、世が私を知って崇めるようにしなさい」と仰せられました。神は力強く彼を祝福されました。神は大いに力強く祝福されたので、この世がかつて見たことのない最強のリバイバルがその都市に起こりました。それなのに、ヨナは怒ったのです。神がニネベの人々を皆殺しにせず、ヨナの体面を傷つけたからです。「この人々は四十日以内に死ななければならない」とヨナは言いましたが、四十日が過ぎる前に人々が自分たちの罪を悔い改めたので、神はご自分の言葉を改めて彼らを赦されました。それでヨナは言いました、「この取り決めで私はどうなるのです?私は二度と信じてもらえないでしょう。どうしてニネベを滅ぼして、私の体面を守ってくださらなかったのですか?」。ヨナは自分の誉れを手放せなかったので、神は彼に恥を被らせて、しぼんだヒョウタン、ある種のカカシの下に放っておかなければなりませんでした。それは、自分自身の栄光を求めることがいかに浅ましいことなのかを、あらゆる世代の人々に示すためでした。この哀れな年老いた預言者は、しぼんだヒョウタンの下に座って神に対して怒り、死ぬことを請い求めました。神が彼の使命を成就されて、全国民が悔い改めたからです。この光景ほど衝撃的で滑稽な見せ物はないと思います。それで神は、わがままがいかに恥で不名誉なものなのかを示す見せ物として、ヨナをそこに立たせておかれたのです。

新約聖書全体にわたってシモン・ペテロの物語を追う必要はないでしょう。主がペテロを回復した時に彼に語られた最後のメッセージは、「あなたが若かった時、あなたは自分で帯を締め、自分の行きたい所を歩きました。しかし、年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、他の人があなたに帯を締めて、あなたの行きたくない所に連れて行きます」というものでした。主はこう語って、彼がどんな死に方で神に栄光を帰すのかを示されました。そして、イエスは彼を放棄と服従と明け渡しの磔殺の生涯の中に送り込み、人々によって彼の天然的な選択とは反対の方向に彼を導かれました。そして最後には、彼は自分の主の十字架で逆さはりつけにされなければなりませんでした。

この世は「お大事に」と言いますが、イエスは「私ではなくキリスト」と仰せられます。あなたの古い自己だけでなく、新しい人もその力と自信と共に死ななければなりません。イシマエルを去らせて捨てなければならないだけでなく、イサクも放棄して、二度とその頭を上げさせてはならないのです。

これについて述べるのはとても簡単です。私が長生きすればするほど、自分自身や友人たちのことを長く知れば知るほど、「これこそ、クリスチャン生活で私たちが失敗を犯す、隠れた大きな原因である」と私はますます強く確信します。私たちはイエスと共に少しばかり道を進みますが、ゲッセマネとカルバリで止まってしまいます。人々は、ガリラヤにおける彼の務めの間、彼に従いました。山上の垂訓は輝かしい道徳規範でした。人々は数千人の養いに惚れ込んで、「この方なら何と祝福された王になることか!」と言いました。それまでのように働かなくてもよくなります。しかし、彼が立ち上がってカルバリについて話される時、ご自分に対してだけでなく人々に対しても十字架について話される時、そして、いかにご自分と共に歩み通さなければならないのかを話される時、人々は「これは難しい言葉だ。誰がこれに耐えられよう?」と言います。

数日たつと、人々を指で数えられるようになりました。人々は、「自分には彼が理解できません。彼は王になってくれると思っていたのに」と言いました。人々は十字架に行きたくなかったのです。

ここで群衆が立ち止まってしまったのは確かです。人々は自己に対して「否」と言い、神に対して「然り」と言う代わりに、自己に対して「然り」と言い、神に対して「否」と言いました。ああ!話すことは生きることよりもずっと簡単です!聖霊がこれを私たちに打ち込んでくださらない限り、これについて話しても無駄です。筆者は最近、バプテスマされるべき三つのバプテスマがある、と述べました。第一は、罪から神へと向きを変える時の、悔い改めのバプテスマ。第二は、私たちの内に住んでくださる聖霊を受ける時の、聖霊のバプテスマ。第三は、聖霊が私たちの中に到来された後の、死の中へのバプテスマです。このような厳密な区別を支持する聖書的権威はおそらくありませんが、疑いなく、取るべきこの三つの段階があります。あなたが聖霊のバプテスマを受けた後、神があなたの内に生きるために来臨された後、聖霊があなたの心をご自分の住まいとされた後、あなたはキリストと共に彼の死の中に入らなければなりません。ですから彼は、「誰でも私に従いたいのなら、自分自身を否み、毎日自分の十字架を負って、私に従いなさい」と仰せられます。そこで彼はご自身について、「私には受けるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、私はどれほど苦しむことでしょう」と言われました。私には受けるべき葬りがあります。彼は日々、いっそう深い死の中へと進んで行かれ、彼の心はまったくその中に閉じ込められていました。そしてついに、彼はゲッセマネに下って行き、ヨセフの墓に下って行き、ハデスの中に下って行かれました。そして、死者の領域をくぐり抜けて、初めて天の門を開かれました。これこそ、ヨルダン川の岸辺でバプテスマされた後、イエスが眼前に見ておられたものです。

ああ、聖霊のバプテスマを受けた、愛する人よ。あなたは彼の死の中へ下って行かなければなりません。さて、私たちが自分をキリストにささげた時、ある意味において、私たちはこれを信仰によって受け入れたことは承知しています。私たちはそれをすべて現実と見なし、神もそれを現実と見なしてくださいます。しかし、親愛なる友よ、あなたは一歩一歩死の中を通らなければなりません。それはすでに成就されているかのように、私たちは彼方の御座に座しているかのように、神が私たちを取り扱ってくださることは承知しています。しかし、私たちは狭い道、地下の秘密の場所を通らなければなりません。ここに誤魔化しがあってはなりません。あなたは、それは完全に成就した、と見なすかもしれませんが、一歩一歩、それはあなたの心の記憶に書き記されなければなりません。

さて、私の友よ、これはいったい何を意味するのでしょう?自分の意志に対して死ぬことです。あなたが自分を神にささげた後、戦いが臨みます。明日の朝になると、あなたは人生で最も恐ろしい戦いに遭遇するでしょう。あなたが自分の意志を放棄したからこそ、あなたが自分の意志を取り戻すことを悪魔は願っています。「そこは至福の地である」と、あなたは考えているのでしょうか?いいえ、そこは戦場です。龍や火矢との戦いです。それがいかに馬鹿げたことか、あなたが立って自分の意志を持つことはいかに正しいことか、悪魔はあなたに示そうとします。おそらく一週間か一ヶ月の間、生きるか死ぬかの戦いが続きます。イエスは四十日間荒野に行かれ、悪魔は彼に自分自身の意志を持たせようとしましたが、彼はこの試みに耐えました。彼は自分自身の意志を去らせて、「私が来たのは自分自身の意志を行うためではなく、私を遣わされた方の御旨を行うためです」と仰せられました。

神が彼を導く者とすることができたのは、彼が導かれているからでした。いかなる人も、治めてもらわない限り、治めることはできません。ヨセフは人々から攻撃を受けて、次に、謙遜なへりくだった霊を持つ砕かれた人として座すようにならない限り、エジプトであの地位に就けなかったでしょう。世は「自分たちの卑しさと邪悪さを連中に思い知らせてやれ」と言ったでしょうが、神は「いいえ、あのことは忘れさせてあげなさい」と言われました。そこでヨセフは、「自分のことを責めたり悔やんだりしてはなりません。神は善を図ってくださったからです」と言いました。もしヨセフがへりくだっていなければ、エジプトの統治者と同じようにだめだったでしょう。いかなる人も、導いてもらわない限り、導くことはできません。ダビデには訓練の九年間が必要でした。さらに九年間の訓練を受けた方が、彼にとってよかったでしょう。そうすれば、王座に就いた時、恥ずべき方法で権力を乱用することはなかったでしょう。ダニエルは、クロスやネブカデネザルと共に宰相として座せるようになる前に、苦難による訓練を受けなければなりませんでした。神があなたを役立てようとされる時、あなたの意志を完全に御手に委ねなさい。最初の明け渡しの時以降、あなたは多くの試みに遭うでしょう。しかし、これらの試みはまさに、働きの成就を促す機会なのです。

次が自己耽溺であり、自分のしたいことをすることです。快楽を目当てにして、自分がそれを気に入っていて好きだからという理由で、事を行う権利を持っている人は誰もいません。好きだからという理由で自分の夕食をとる権利は、私にはありません。そんなことをすれば、私は獣になってしまいます。私が夕食を摂るのは、それが私を養ってくれるからです。楽しいからという理由で事を行うこと、自分自身の権益を求めることは、間違いです。「まず、神の王国と神の義を求めなさい」。何事であれ、自己を追求する神聖な権利は、私たちにはありません。神を求めなさい、そうすれば、神はあなたの益を求めてくださいます。神の事柄を顧みなさい、神があなたを顧みてくださるからです。みな、自分のことを考えるのではなく、他の人々のことを考えなさい。

また、自己満足もあります。これは自分がした仕事にこだわることです。何かの奉仕をしたり、何らかの勝利を得た後、「何と素晴らしいことか」とすぐに思ってしまいます。これはたちまち虚栄に通じます!自分の真の姿よりも人々の評判の方を気にしている人が、何とたくさんいることか。

神の働きにおいて、虚栄ほど警戒すべきものはありません。これがヨナの呪いでした。セラフィムは二枚の羽で顔を覆い、二枚の羽で足を覆いました。彼らが自分の顔を覆ったのは、自分たちの美しさを見たくなかったからであり、自分の足を覆ったのは、自分たちの奉仕を見たくなかったからです。あるいは、誰にも見られたくなかったからです。彼らは飛ぶために二枚の羽しか用いませんでした。あなたが人を誘惑にさらす別の方法に注意しなさい。「神があなたを祝福してくださいますように」と働き人たちを励ますのは、まったく構いません。しかし、賛美してはなりません。「何と美しく、雄弁で、愛らしく、輝かしいのでしょう!」とは、神は仰せられません。これはイエスに属する冠を人の頭にかぶせることです。あなたに益を与えられるようにしてくださる聖霊を私は欲しますが、この世の誉れを自分にもたらす力は欲しません。もしそんな力を持っていたら、それを人生最大の危機と感じたでしょう。私たちには、イエスの御座に着いて天使たちに自分たちを礼拝させる権利はありません。それと同じように、地上でキリストの誉れを横取りする権利は、私たちにはありません。人々を祝福するために神が私たちを用いられる時、私たちは大いに注意しなければなりません。神からではない麗しさがあります。誘惑者が織りなすこれらの罠から、神は私たちを救ってくださいます。

ピリポは、宦官をイエスに導くとすぐに、宦官の道からいなくなりました。愛する人よ、男性どうし、女性どうし、男性と女性との間に臨む、巧妙な魅惑があります。それらの魅惑は麗しくて正しいもののように思われますが、あなたは自分の霊を純粋に保ってくださる聖霊を大いに必要とします。私がここで述べているのは罪深い愛のことではありません。確かに、それについて話す必要はありません。私が述べているのは、遥かに巧妙で洗練されたしみのない魅惑のことであり、この魅惑は神にとっていっそう不名誉なものであり、あなたにとっていっそうに危険なものです。なぜなら、この魅惑はとても純粋だからです。聖霊によるものではなく、イエスのみに誉れを帰すものではない、あらゆる奉仕、友情、思想から、神は私たちを守ってくださいます。

次に自信です。自分の力や、自己の霊的・道徳的義や、善人になる力や善をなす力の感覚です。神は私たちを導いて、そのようなものをすべて放棄させ、私たちが徹底的に無であることを悟らせなければなりません。

過敏さという自己の命について話すには時間がありません。過敏さとは、「傷つけられた」とすぐに感じる繊細な感受性であり、「愛されたいから、人に自分を愛してほしい」と願う自己愛です。神の愛は、祝福を与えて善を行うことを愛されます。あなたが愛さなければならないのは、それが自分に喜びを与えるからではなく、それが人々を祝福するからです。「私はあなたたちのために喜んで費やし、自分を費やしましょう。たとえ、私が熱心にあなたたちを愛すれば愛するほど、ますますあなたたちから愛されなくなったとしても」と、パウロは言うことができました。「あなたたちが私を愛してくれる間だけ、あなたたちを助けましょう」とは、パウロは言いません。いいえ、私は最後の血の一滴まで喜んで費やし、いかなる代価を払っても、あなたたちを祝福します。たとえ、あなたたちが私に少しも感謝しないとわかっていたとしても。これがあなたたちの問題です。人々はあなたを傷つけ、あなたに感謝しません。結構です、愛されなくなればなるほど、ますます費やして、自分を費やしなさい。

利己的な願望、強欲、利己的な動機、自分自身の財産、自分自身の子供について述べるには、時間が足りません。これらのものは、問題、苦労、心配の種となります。これらのものを所有することに私たちがこだわっているからです。

利己的な悲しみもあります。自分自身の悲しみのために流す涙ほど利己的なものを、私は何も知りません。神はイスラエルが泣いているのを見て、怒って言われました、「あなたたちは自分たちの涙で私の祭壇を汚した」。あなたが泣いているのは、上等なパンがないからです。あなたが泣いているのは、キリストよりも愛している他の何かが、あなたにあるからです。あなたが泣いているのは、あなたがまったく喜んでおらず、満足していないからです。

私たちの犠牲や自己否定さえも利己的です。そうです、私たちの聖化も利己的かもしれません。皮肉屋の私の友人は、人々が自分の潔白さを証しするのを聞くと、よくこう言っていました、「哀れな年老いた魂よ、彼女は人生最大の罪を犯した。というのは、最大の嘘をついたからだ」。自己が起き上がり、祈り、座して、「何と麗しい祈りだろう」と言うかもしれません。自己が説教をして人々を救い、家に帰ってから、自分をねぎらってこう言うかもしれません――あるいは、自分を通して悪魔にこう言わせるかもしれません――「素晴らしいできばえだった。お前は何と有能なのだろう!」。自己が火に焼かれて死に、その不屈の精神を誇るかもしれません。そうです、肉的な自己を持つおそれがあるだけでなく、宗教的な自己を持つおそれもあるのです。

これはどうすれば取り除けるのでしょう?とりわけ私が思うのは、このことの現実性と危険性を見なければならず、これは自分の罪であることを見なければならない、ということです。私たちはそれをありのままに見て、それを去らせることを選ばなければなりません。その極悪さは、私たちを欺く点にあります。「それは私ではなく、誰か他の人にぴったりです」と、それは言います。あなたたちの多くは、それを他人になすりつけて、自分のこととして受け止めません。しかし、神はあなたのことを言っておられるのです。それに死の宣告を下しなさい。さもないと、それがあなたに判決を下すでしょう。あなたはそれを好きなだけ保持することができます。それは、宝石のような小さな斑点を持つ、可愛い小さな蛇のようです。ああ――しまいには――蛇に咬まれてしまうのです。

どうか神が私たちに、私たちの内にある探る炎に耐えられないものを、すべて示してくださいますように。とりわけ、私たちのいのちよりも大きな福音を持たないようにしようではありませんか。あなた自身の上に死の判決を下し、イエス・キリストと聖霊を受け入れて、御業を行ってもらいなさい。それと戦おうとしてはなりません。

次に、試みがやって来て、神があなたを導いてその試みに遭わせる時、正直でありなさい。正直でありなさい。あなたが勝利を得た後、まさにその路線で試みが臨みます。そして、戦いが臨む時、自分自身のことは忘れなさい。自己防衛するのではなく、「主が私を守ってくださいます」と言いなさい。おそらく、あなたを挑発しようとする人もいるでしょう。おそらく、あなたを褒め称えようとする人もいるでしょう。ただこう言いなさい、「そうです、主があなたを私の所によこされたのは、感謝されることを私が望むかどうかを調べるためです」。私たちが思いきって与えようとするものを聖霊はなんでも受け入れてくださり、私たちが思いきって受け入れようとするものを聖霊は何でも与えてくださいます。「彼はあなたたちを堕落から守って、あなたたちを傷のない者としてささげることができます」。これは何と幸いな交換でしょう!十字架を取りなさい。そうすれば、いつの日か、私たちは冠をかぶり、御座に着いて、彼のようになるでしょう。そして、彼が持っておられるすべてのものに、私たちはあずかるでしょう。

上昇ではなく、復活
(「ですから、もしあなたたちがキリストと共によみがえらされたのなら」コロサイ三・一)

よみがえった私の救い主と共に復活させられ、
 彼と共にその右手に座らされた。
これこそ復活節が私に告げる輝かしいメッセージ。
 ここに私は信仰によって立つ。

人々はあなたに命じる、起き上がって高い水準に至れ、と。
 しかし、人々はあなたを人の水準に置き去りにする。
私たちは天的な復活を得なければならない、
 キリストと共に死んで、復活しなければならない。

かつては、私の内に別の人が生きており、
 地的な子供、サタンの奴隷だった。
しかし、私は彼をイエスの十字架に釘付けた。
 その人は今や私にとって無である。

今、別の方が私の内に生きておられる、
 この方の幸いな命を、私は自分のものと見なす。
私は自分自身の命に対して彼と共にまったく死に、
 神聖な彼の命によみがえった。

ああ、イエスと共に死ぬこの甘さよ!
 死により、自己と罪から解放された。
ああ、イエスと共に生きるこの甘さよ!
 死から生じた命を彼は内側で生きてくださる。

上昇と復活との間には大きな違いがあります。人はある水準から別の水準に上昇するかもしれません。しかし、人が復活させられる時、人は無から有に、死から命に移されます。この移行はまさに無限です。真のクリスチャンは上昇させられた人ではなく、復活させられた人です。自然宗教や人の道徳にすぎないあらゆる教えの大問題は、より高い水準に上昇するよう教えていることです。福音の素晴らしさは、上昇するよう教えるのではなく、私たちは自分では善を何も行えないことを示し、私たちをまったくの無力さと無の中にもたらして直ちに墓の中に葬り、それから私たちを新しい命の中によみがえらせることです。私たちは完全に天から生まれ、ただ天の資源によって養われます。

クリスチャン生活は自己を改善することではなく、まったく超自然的であって神聖です。さて、死なない限り復活はありえません。これが前提条件であり、死が現実のものになればなるほど、復活の命と力の度量は大きくなります。ですから、死ぬことを恐れないようにしましょう。後に置き去りにするものに対して死ぬこと、それから離れるものに対して死ぬこと、自分自身に対して死に、本当に存在しなくなることを、恐れないようにしましょう。手放して失うものは何もありませんし、出て行かない限り、入ることはできません。彼と共に死ぬなら、彼と共に生きるようになります。

しかし、コロサイ人への手紙三章一節の御言葉は、私たちはすでに死んでよみがえっている事実を示しており、私たちは今やこれが自分にとって成就した事実であるという態度を取るべきことを示しています。使徒はここで、キリストと共に再び死んで、キリストと共に新たに復活するよう――そうした人たちはそれにふさわしい水準に基づいて生きてしかるべきであるという理由で――コロサイ人たちに要求しているのではありません。使徒は後に、「なぜなら、あなたたちは死んでおり、あなたたちの命はキリストと共に神の中に隠されているからです」と彼らに告げています。

ローマ人への手紙の六章で、この思想がもっとよく展開されています。「キリストの中へとバプテスマされた私たちはみな」と使徒は言います。「彼の死の中へとバプテスマされました。ですから、私たちはバプテスマにより、彼と共に死の中へと葬られました。それは、キリストが御父の栄光により死者の中からよみがえらされたように、私たちも命の新しさの中を歩むためです」。次に、この決定的事実をさらに力強く強調するために彼は言います、「死者の中からよみがえらされたキリストはもはや死ぬことはなく、死はもはや彼を支配することはありません。なぜなら、彼が死なれたのは、罪に対して一度だけ死なれたのであり、彼が生きておられるのは、神に対して生きておられるからです」。ですから同じように、使徒は私たちに命じます、「自分はイエス・キリストにより罪に対して死んでおり、神に対して生きていると見なしなさい。そして、死者の中から生かされた者として、自分を神に明け渡し、自分の肢体を義の道具として神に明け渡しなさい」。

さて、今日の教えの多くは、「十字架につけられるために、そして、新たにもっとよく死ぬために、自分を神に明け渡しなさい」と私たちに命じます。しかし、使徒はそんなことをここでは何も述べていません。それどころか、私たちは十字架を後にしたことを悟って、すでに死んで死者の中から復活した者として、自分を神に明け渡さなければなりません。そして、まさにこの理由により、自分を神にささげて、神の奉仕と栄光のために用いていただかなければなりません。

あなたは見事な鳥が中空を滑空するのを見たことがないでしょうか?その鳥は素晴らしい翼を空に広げて、晴天を舞います。羽を羽ばたかせず、見たところ、筋肉も動いていません。鳥は中空を舞い、彼方の空に浮かび、地の遥か上空にいます。上昇する必要はありません。すでに上っており、かなりの高度にあります。小さなひばりの動きとは大違いです。ひばりは地面から飛びはね、その翼を努力して羽ばたかせ続け、同じ高さまで上って、朝の歌を歌います。それから、再び地面に戻って来ます。一方の姿勢は上ろうとする姿勢であり、他方の姿勢はすでに上っているという姿勢です。

おそらく、あなたはこう言うでしょう、「自分が生きている証拠がこんなにたくさんあるのに、自分は死んでいると、どうして見なせるでしょう?私を低い水準に連れ戻すものがこんなにたくさんあるのに、自分は復活させられたと、どうして見なせるでしょう?」。あなたの間違いは、自分を引きずり戻すものを認めて、それにとどまっていることです。「古い命が依然として生きている」と見なしているから、古い命が現実のものになって、あなたはそれを征服できないのです。信仰によって見なすことに応じて、私たちは受けます。これが福音の体系全体の基盤的原則です。信仰という魔法の杖は、あなたの魂の墓場からよみがえる幽霊をすべて葬ります。あなたが疑問を持ち続ける限り、疑いの霊は墓から幽霊を生じさせてあなたを悩ませるでしょう。絶えず死に続けることができる唯一の道は、自分をキリストに明け渡して、「自分はキリストと共に死んだ」と見なすことです。

驚くべきことに、心霊主義には死者の霊をよみがえらせて、肉と血の形で呼び戻す力があるように見えます。亡くなった父親が子供に現れることも珍しくありません。亡くなった父親が、昔の懐かしい口調で娘に語りかけ、父親しか知りえないことを告げます。そのため、騙されやすい心の持ち主は、「これはまさに父親と同一人物であり、埋葬された父親は本当に生きている」と信じずにはいられない気持ちになります。しかし、それは真実ではありません。嘘です。父親は墓に葬った時と同じように死んだままです。たとえ父親が生きているように思われても、その体はまだそこにあって地中で腐敗しており、その霊は永遠の世界にあります。これは何を意味するのでしょう?それは悪魔の嘘の一つなのです。サタンがこの父親の真似をしているのです。サタンには超自然的な力があり、死者の姿を空中に描き出し、その口から語ることができます。そのため、その死者たちは現実であるかのように思われます。これは今日の不思議の一つですが、現実でもあります。賢い人や熟知している人なら誰も、これに異議を唱えようとはしないでしょう。しかし、その解き明かしはこうです――それはサタンがあなたを欺くために、あなたの感覚の前に造り出したものなのです。その解決法は何でしょう?その人を認めることを拒みなさい。その人は死んでいると見なしなさい。その顔に向かって、「お前は私の父親ではなく、悪魔の眷属の一匹だ」と言ってやりなさい。そうするなら、それはすぐに消え去るでしょう。サタンにとって耐えられないことが一つあります。それは無視・軽視されることです。サタンは注意を浴びることで生きており、無視されると死にます。ですから、心霊主義のこの顕現を認めることを拒否するなら、それは消え失せて、その運動を継続させる力がなくなることがわかるでしょう。それはあなたが自分の意志で同意することにまったくかかっているのです。

さて、これは福音の原則の良い絵図です。あなたはキリストに自分を明け渡してキリストと共に十字架につけられ、自分の古い命をすべて去らせ、今後、天から生まれてただキリストのみによって活かされている者として生きます。すると突然、あなたの昔の悪い特徴が再び現れ、昔の考えや悪い性向が自己を主張して、「自分たちは死んでいないぞ」と大声で騒ぎ立てます。さて、もしあなたがこれらを認め、恐れ、屈服するなら、あなたは必ずこれらのものに命を与えてしまいます。そして、これらのものがあなたを支配して、あなたを昔の状態に引きずり戻してしまいます。しかし、それらのものを認めることを拒んで、「これらはサタンの嘘です。私は確かに罪に対して死んでいます。これらは私のものではなく、悪魔の産物です。ですから、私はこれらを拒否して、ものともしません」と言うなら、神はあなたをこれらのものから引き離して、それらをまったく死なせてくださいます。それらはあなたの一部ではなく誘惑にすぎないことを、あなたは見いだすでしょう。サタンはこの誘惑をあなた目がけて放ち、あなたにまとわりつかせて、それがあなたの一部であるかのように思わせようとしたのです。

これが誘惑や罪のあらゆる働きに対する真の解決法です。恐るべきことに、人が自分のことを悪人と見なす時、その人は悪人になってしまいます。純粋な少女に「自分は堕落していて、もはや善人ではない」と信じ込ませるなら、その少女は純粋であろうとする意欲を失います。無謀にも罪の深みに落ち込んでしまいます。神の子供に、自分が受け入れられていることを疑わせて、渋面の御父の御顔を見るようにさせさえするなら、その神の子供は聖なる者になろうとする意欲を失い、不従順、落胆、罪に陥ってしまいます。

才能のある人が二重人格者について描写して書いた不思議な物語があります。その二重人格者は、「自分は高潔な人間である」と信じている間は、高潔で真実な者となり、そのような者として生きます。しかし、それとは反対の考えに取り憑かれて、「自分は堕落している」と感じ始めると、そのように堕落してしまいます。「人は心に思う通りの者になる」。認めたことが現実に反映されます。ですから、神はこの信仰の原則を、個人の義しさと聖潔の原動力とされました。この信仰の原則はとらえにくいですが崇高な力であり、人々を自分自身から神の命そのものの中に導くことができます。

愛する人よ、よみがえりについて主から教えてもらう以上に、私たちはすでによみがえらされていることを思い出そうではありませんか。私たちはキリストと共に死者の中からよみがえらされており、自分の無価値さやそれ以上に悪い状態という墓から復活させられています。そして、キリストと共に天上に座しています。御父は私たちのことを理解しておられ、私たちが自分のことを「キリストと同じような」者であると見なすことを許しておられます。

私たちの姿勢が私たちの目標に影響を及ぼします。人々は自分の立場に基づいて生きます。高貴な生まれの貴族の子供の振る舞いには気品が漂っており、その表情は「自分は高貴な家系の者である」という自覚を帯びています。それと同じように、高い身分を持っていて、自分の高い天的な地位を自覚している人たちは、王国の子供として歩みます。この章の残りの部分は、この極めて実際的な思想の効用にあてることにします。なぜなら、私たちはキリストと共によみがえらされたからです。ですから、それにふさわしく生きようではありませんか。

嘘をついてはならない理由は、私たちは古い人を脱ぎ捨てて新しい人を着たことです。私たちは貧乏人ではなくなって、皇子になりました。ですから、乞食のボロを脱ぎ捨てて、皇子の肩章を付けるべきです。私たちは新しい人を着ました。ですから、優しさ、へりくだった心、柔和さ、忍耐、とりわけ愛を着ようではありませんか。愛は衣全体を束ねる完全な帯です。私たちの最善の衣はキリストご自身であり、私たちはキリストを着なければなりません。この復活の命は大いに実際的です。使徒はこの復活の命を、ごく身近な関係に、家庭内に、主人と奴隷の関係に、生活上の世俗的義務全般に及ぼします。復活の命は私たちの振る舞いや目標全体に影響を及ぼして、どこであろうと召された所を歩くよう私たちを導きます。

これにより、「私たちはキリストと共によみがえらされた」というこの輝かしい事実には実際的力があることがわかります。まず第一に、この事実には私たちの希望と救いの保証を確かなものにする力があります。なぜなら、イエスの復活は仕上げの働きであり、贖いの代価が支払われて贖いの御業が完成されたことを人々や御使いたちに保証するものだからです。イエスが勝利のうちに墓から出てこられた時、彼がそこに行かれた目的は成就されたこと、彼が手がけた働きは十分に成し遂げられたこと、御父は彼が成就した贖いに満足されたことが、全世界に対して明らかにされました。ですから、永遠の土台である彼の復活に基づいて、信仰により安息することができますし、「罪に定める者は誰ですか。死んで復活したキリストが擁護してくださるのです」と言うことができます。

また、キリストの復活は私たちを聖化する力です。そのおかげで、「自分自身の命、自分の古い自己は消滅した」と私たちは見なすことができます。ですから神の目に、私たちはもはや昔の自分ではありませんし、自分自身のものでもありません。私たちは自信をもって自分自身を否むことができますし、昔の悪い性質に従ったり、それを恐れたりするのを拒むことができます。まさに、よみがえったキリストご自身が来て、私たちの内に住んでくださり、私たちの内でこの新しい命の力と輝かしい従順になってくださるのです。復活の事実だけでなく、よみがえった方との交わりが、私たちに勝利と力をもたらします。「私はキリストと共に十字架につけられました。それにもかかわらず私が生きているのは、私ではなく、キリストが私の内に生きておられるのです」という崇高な逆説の意味を私たちは学びました。信じる従順な人の内におられるキリストの内住の命、復活した方。ただこれだけが永続するまことの聖潔です。

また、復活には私たちを癒す力があります。復活節の朝に墓から出て来た方は、体を持つキリストでした。キリストのこの体は、私たちの体のかしらであり、私たちの霊の命だけでなく私たちの体の力の土台でもあります。キリストを受け入れて彼に信頼するなら、キリストは私たちの霊を世話してくださるように私たちの体も世話してくださいます。そして、私たちは自分の死すべき体の内に新しい超自然的な力を見いだすようになるだけでなく、自分の肉体の中に将来の復活の鼓動を見いだすようになります。

キリストの復活には、私たちの信仰を力づける大能の力があります。また、祈りに対する答えを神に求めるように、神に難しいことを求めるように、私たちを励まします。墓は開かれ、墓石は転げ去ったのですから、一体何が難しかったり、不可能だったりするでしょう?「信じる私たちに対して、その大能の力にしたがって働く、御力の卓越した偉大さ。神はこの力をキリストの内に働かせて、彼を死者の中からよみがえらせ、ご自分に右に据えられました」。神はこの「御力の卓越した偉大さ」を私たちに教えようとしておられます。これほどのことを神は、クリスチャンの経綸時代、イエスの御名によって、行うことができますし、喜んで行おうとしておられます。キリストの復活は、私たちの求めに対する保証であり、この復活の力を十分に信じるなら、かつて私たちがなしたことを遥かに超えるものを受けるでしょう。

主イエス・キリストの復活は真の奉仕の力です。キリストの復活の証しを、聖霊は人々を救いに至らせる神の力として、常に格別に用いられます。これが初期の使徒たちの務めの主要な題目でした。使徒たちはイエスと復活を常に宣べ伝えました。これはクリスチャン生活やクリスチャンの働きに格別な明るさと魅力を与えます。多くのクリスチャンは、自分の葬儀に向かうところであるかのように陰気に見えます。そう遠くない昔、私たちは一人の小さな少女の話を聞きました。その少女は道で陰気に見える人々と出会い、「お母さん、あの人たちはクリスチャンじゃないかしら?」と言いました。母親が、「どうしてそう思うの?」と尋ねると、少女は言いました、「だって不幸そうに見えるんだもん」。

これは修道院や十字架に由来するようなキリスト教です。これは復活節のようなものではなく、確かに、より高い類のものでもありません。イエスの宗教は、春の花、さえずる小鳥たちの歌、よみがえる自然のみなぎる鼓動のように明るくなければなりません。私たちの主は、この明るい朝、女たちと出会い、「平安あれ」という励ましのメッセージを与えられました。これと同じように、年の初めに、新しいクリスチャン生活の朝に、主は私たち一人一人と会ってくださいます。そして、私たちの力である私たちの主の喜びと共に前進するよう、私たちに命じられます。

この喜びは復活から発しなければなりません。そして、墓の向こうの昇天した主と共に天上にある命によって、維持されなければなりません。これこそ、哀れな罪深い世が今日必要としているメッセージです。その標語は、裁きの間の「エッケ・ホモ(見よ、この人を)」ではなく、復活節の朝の喜ばしい「平安あれ!」でなければなりません。クリスチャンの働きの中に、この内住のキリストと復活の命が増し加われば増し加わるほど、この世を引き寄せ、聖化し、救う生ける力は、ますます増し加わります。

また、キリストの復活は、人生の最も困難な局面に直面して、その極めて辛い試みに耐えることを可能にします。ですから、ピリピ人への手紙を読むと、キリストの復活の力は私たちをキリストの苦難の交わりの中に導くこと、そして、私たちを彼の死に同形化することが記されています。私たちが復活の命の中に入るのは、私たちが十分に強められて、キリストと共に、またキリストのために苦しむためです。

さて、ここで誤解しないようにしましょう。これは、私たちは病や自分の霊的生活の苦闘を通して自分のために苦しまなければならない、ということではありません。このような苦難は初期の経験に属すべきものです。私たちの主には聖潔に関する問題はありませんでしたし、一生戦うべき肉体の病もありませんでした。ですから、このようなものを担うことは、キリストの苦難を担うことではありません。そうです、キリストの苦難は他の人々のためであり、キリストの復活の力は、苦しんでいる教会や死にかけている世のための彼の気高い聖なる悲しみにあずかるようにさせます。事実、私たちの立場が困難なものになればなるほど、また、私たちの労苦と苦難の領域が低くなればなるほど、それに処するための彼の恵みと栄光の増し加わりを私たちはますます必要とするようになります。私たちは高みから、どん底に達しなければなりません。ですから、私たちを天上に引き上げるこれらの手紙は、どの手紙も、私たちをごく普通の義務に、ごく普通の関係や極めて辛い試練の中に連れ戻すのです。エペソ人とコロサイ人へのこれらの手紙は、極めて高度な信仰と力について述べていますが、他のどの手紙にもまして、ありふれた誘惑、夫と妻の義務、信実さ、節度、正直さ、正しさの必要性、そして、人間生活に関する極めて無粋で実際的な諸々の経験についても述べています。

イザヤ書の中にとても素晴らしい節があります。その節は前に引用しましたが、ピリピ人への手紙のこの思想と似ているように思われます。この節は、鷲の翼で上る人々について私たちに告げます。しかし、その直後、この同じ人々が生活の普段の歩みに降りて来て、「走ってもたゆまず、歩いても疲れない」のを私たちは見ます。まるで、上るのはまさに走ったり歩いたりするためであるかのようです。また、恵みと栄光のいっそう高い経験は、まさに労苦と試みの低い水準を歩めるようにするためであるかのようです。これは、使徒が艱難を喜ぶことについて述べているのと一致します。「栄光」は魂の最も気高い姿勢を表し、「艱難」は最も深い苦しみを表しています。ですから、この御言葉が私たちに教えてくれるのは、私たちがどん底の最も低い場所に至る時、私たちは最も気高く最も天的な精神でそれに応じなければならない、ということです。これは変貌の山を降りて、下界の平野で悪鬼に憑かれた人に直面し、苦しむ世からサタンの力を追い出すことです。そうです、これがキリストの苦難です。キリストの復活の力の目的は、キリストの輝かしい生涯のあらゆる高嶺に上るよう私たちを整え、力づけ、助けることです。それは、私たちが出て行って、それを祝福のうちに他の人々の生活の上に反射するためであり、神との心地よい交わりで経験するよりも甘い喜びを聖なる愛の奉仕によって見いだすためです。