第八章 キリストとの合一

A. B. シンプソン

なぜなら、聖別する方と聖別される者たちは、みなひとりの方から出ているからです。それゆえ、彼は彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされません。(ヘブル人への手紙二章十一節)

この節は、私たちがキリストと一つであることの麗しい絵図です。私たちは性質において彼と一つです。

性質において彼と一つである

子供たちが肉と血にあずかる者なので、彼も同じようにこれにあずかる者となられました。「なぜなら本当に、彼は天使の性質を身にまとったのではなく、アブラハムの子孫を身にまとわれたからである」。この「同じように」という言葉はなんと尊いのでしょう!彼には私たちと全く同じ人性があり、実際に同情心をもって、私たちの衝動、感情、希望、恐れを理解することができます。私たちの主の完全な人性は、どれほど深く理解したとしても理解しきれません。彼には人の体があるだけでなく、理性を持つ魂や精神のあらゆる属性、そして、私たちが持つあらゆる感受性もあります。それだけでなく、彼はこの完全な人性を依然として保有しておられます。彼はこの人間性を神の右にもたらされたのです。

「人の名を持つ彼は、
 我々の成り立ちの脆さを知っておられる。」

彼の神性という卓越した栄光のゆえに、この輝かしい重要な真理を霞ませてはなりません。神の御子である方は、同じように人の子でもあります。しかし次に、彼は子たる身分において一つです。

子たる身分における一つ

「それゆえ、彼は彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされません」。「見よ、わたしと、神がわたしに賜った子供たちを」。彼は下って来て私たちの人性を身にまとわれただけでなく、私たちを彼の神性の中にもたらしてくださいました。なぜなら私たちは、実際に、彼を通して、「神聖な性質にあずかる者たち」だからです。彼ご自身の存在そのものが私たちの中に分与されます。そして、御父に対する彼の実際の関係に、私たちはあずかります。「行って、わたしの兄弟たちに告げなさい」と彼はマリヤに言われました。「わたしは、わたしの父またあなたたちの父、わたしの神またあなたたちの神のもとに行きます」。これは養子にされることではありません。出自不明な可哀想な子供が貴族の家庭に迎え入れられて、法的な息子・世継ぎになるのとは違います。そうではなく、その子供が再び生まれて、その貴族の家庭の血族になるようなものです。私たちは実際に神と同じ性質にあずかる者にされました。ですから使徒ヨハネは、私たちの子たる身分の深遠な現実を、素晴らしい言葉で見事に言い表しました、「見よ、私たちが神の子供たちと称されるために、なんという愛を御父は私たちに授けてくださったことか」。それから彼は、「私たちは神の子たちなのです」と付け加えます。神の子と呼ばれて法的にそう宣言されるだけでなく、神の命と性質を受けたがゆえに、実際に神の子なのであり、私たちの主のまさに兄弟たちなのです。彼の人性において彼の兄弟たちであるだけでなく、それ以上に、彼の神聖な関係においても兄弟たちなのです。彼はこの権利にあずかる資格を私たちに与え、私たちをそれに相応しい者にしてくださいます。彼は私たちを、そのための教育を受けていない不相応な立場につかせるのではありません。私たちの輝かしい立場にふさわしい性質を私たちに与えてくださるのです。そして、私たちが完成されて輝かしい地位につき、彼ご自身の似姿を反射して、御父の栄光の中で輝く時、彼が私たちをご覧になって恥ずかしく思う理由は全くありません。

今この時も、彼は全天全地の前で私たちのことを認めてくださり、私たちを兄弟と呼んでくださいます。ああ、これは最も低い神の聖徒にすら、なんと威厳を与えることか!彼は「私たちを兄弟と呼ぶことを恥とされない!」のですから、私たちはこの世の誤解を少しも気にする必要はありません。イギリスのある将校の話です。その将校は、目立たない地位から高い地位に昇進したせいで、仲間の将校たちから無視され、嘲られていました。彼らはその人の卑しい出生を忘れようとせず、冷たく無視して通り過ぎていました。それを聞いた彼の上官は、ある日、兵営の中に入り、その人の宿営に向かって行って、そこに腰を下ろし、しばらくの間、彼と話をしました。それから、上官はその人の腕をつかみ、将校たちの宿営の前を半時間ほど腕を組んで歩きました。上官が通り過ぎる時、将校たちは深い尊敬を込めて敬礼しましたが、この敬礼に上官の連れもあずかりました。それから、上官はその地を去り、将校たちは驚きかしこんでそのあとを見送りました。その日を境に、この新しい将校は常に敬われるようになったのです。その上官は自分の部下を恥としなかったのです。

このように、私たちの祝された兄弟は、私たちの親類であることを、天地の前で宣言してくださいます。このように、彼は私たちの祈りを御座の前にささげ、御父の御顔の前で私たちの名を認めてくださいます。そして、死すべき人の名を、この宇宙の最高法廷で誉れあるものにしてくださるのです。

霊的経験における一つ

しかしまた、彼は霊的経験において私たちと一つです。私たちが受けるのと同じ恵みを、彼もまた受けなければなりませんでした。私たちが行使すべき同じ信仰を、彼は行使されました。この節で、私たちが神に信頼するのとまさに同じように彼も神に信頼したこと、そして、私たちが祝福を受けるとき教会のただ中で神を賛美するのとまさに同じように彼も神を賛美したことについて、彼は述べておられます。この偉大な先駆者は私たちの行程とクリスチャン生活を経過されました。羊が従って行く所がどこだろうと、彼は以前すでに行っておられるのです。

これはとても素晴らしいことであり、理解するのがやや困難です。私たちはキリストのことを、全く異質で崇高な命をもって天から私たちの所に下って来られる方と思いがちです。そのため、私たちはキリストの教えの完全な意義をよく考えないで受け入れてしまいます。キリストは私たちと同じように、信仰と従順の生活の訓練をすべて通るよう導かれました。キリストは、「わたしは自分からはなにも行うことができません。わたしは聞くとおりに話します。わたしが来たのは自分自身の意志を行うためではなく、わたしを遣わされた方の御旨を行うためです」と心から言うことができました。「子は自分からはなにもすることができません」、「父がわたしを遣わされ、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者はわたしによって生きます」。彼は祈りの助け、神との交わり、聖霊の絶え間ない供給に、私たちと同じように頼られました。彼は私たちが霊的生活で経験する戦いをすべて、実際に親しく理解してくださいます。

ですから、こう告げる預言的描写の中に、私たちは彼を見いだします。「わたしを義としてくださる方が、わたしのそばにおられる。わたしと争う者は誰か?それゆえ、わたしは自分の顔を火打ち石のようにした。わたしは辱められることがないことを、わたしは知っている」。これは信仰の言葉であり、私たちが勝利するのと同じように、試みの時に勝利する信仰でした。彼は私たちと同じ経験をしただけでなく、私たちをご自身の経験の中にもたらしてくださいます。真の聖化の性質とは実際のところ、キリストの聖さを私たちに分与することです。これが、「聖別する方と聖別される者たちは、みなひとりの方から出ているからです」という節の意味です。彼は私たちにご自身の聖さを与えて、聖潔の霊の中で私たちをご自身と一つにされます。「彼らのためにわたしは自分自身を聖別します。それは、彼らもまた実際に聖別されるためです」と彼が言われた時、彼が言わんとされたのはまさにこのことです。彼はご自身を私たちにささげてくださいました。それは、私たちの内に生きて、彼ご自身の純粋で完全な命を私たちの経験の中に複製するためでした。聖潔はこのように聖なるキリストの内住であり、人の霊のイエスの霊との合一です。

しかしまた、彼は試みにおいて私たちと一つです。

試みにおいて私たちと一つである

「万物はこの方のために存在し、この方によって存在しています。多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの将を苦難を通して完成することは、この方にふさわしいことでした」。「ですから、彼には罪がありませんでしたが、あらゆる点で私たちと同じように試みをお受けになりました」。ですから、人のあらゆる苦難を彼は通られました。そして今、彼は自分の経験に照らして、試みを受けている者たちを同情して助けることができます。そして、彼らは試みの中にあっても決して一人ではないこと、彼の同情心により理解されていること、彼のあわれみと愛によって支えられていることを、彼は彼らに悟らせてくださいます。それだけでなく、彼はこの同情する力を依然として保持しておられ、私たちが感じるあらゆる痛みの疼きを感じておられます。なぜなら、彼は「私たちの弱さを感じ取って同情する」ことができるからです。「同情する」という言葉には大きな意味があります。それは、私たちの問題は彼の問題であること、私たちが苦しむとき彼も苦しまれることを意味します。これは感傷的な同情ではなく、苦しむ同情です。

これは、心が疲れている人にとって、大いに助けになります。これは彼の祭司職の基礎です。それが私たちにとって絶え間ない慰めの源となるよう、神は意図されました。私たちは私たちの偉大な大祭司と一つであることを、もっとよく理解しようではありませんか。そして、苦しむ愛という彼の偉大な御心に、私たちの重荷をすべて委ねようではありませんか。苦しんでいる自分の子供の痛みを痛切に感じたことがあるなら、私たちの悲しみがどれほど彼の御心に触れて、その高く上げられた体を震わせるのか、ある程度わかるでしょう。母親が自分の赤ん坊の痛みを感じるように、友人の心が友の苦悩の叫びに共鳴するように、天においても、私たちの高く上げられた救い主は、その幸いな世界の歓喜のただ中にあっても、その霊の中では苦しんでおられ、その体はすべての子供たちと共に耐え忍んでおられるのです。「ですから、私たちはこのように偉大な大祭司を持っているのですから、恵みの御座に大胆に進み出ようではありませんか」。そして、忍耐と勝利をもって、このくびきを担おうではありませんか。彼はこのくびきの重い方の端を担ってくださいます。しかし、彼はまた死において私たちと一つです。

死において私たちと一つである

彼は私たちの分である試みをすべて受けただけでなく、死すべき私たちの運命からのがれることもされませんでした。なぜなら、御言葉を読むとわかるように、彼が万人のために神の恵みにより死を味わうべきこと、死を通して死の力を持つ者を征服すべきこと、死の恐怖によって一生縛られている人々を解放すべきことを、神は定められたからです。私たちの最後の獄屋である暗闇の門にまで、彼は入られました。「彼は万人のために死を味わわなければなりませんでした」という表現はとても示唆に富んでいます。これは、彼はご自分に結合されるすべての者のために苦い杯をすべて飲み干されたこと、そして死を味わわれたことを示唆するように思われます。今や、その杯に毒はなく、その刺に毒性はありません。彼はそれを味わわれました。しかし、私たちが彼にあるなら、私たち各人にとって死の苦さは過去のものです。「わたしの言葉を守る者は、決して死を見ることはありません」。その人が見るのは、私たちの祝された主と開かれた天の門だけです。その杯の中にあった死をキリストはすべて飲み干されました。今や私たちは喜びの叫びを上げて言います、「神に感謝します。神は私たちの主イエス・キリストにより、私たちに勝利を与えてくださいます」。

「死と呪いがその杯の中にありました。
 ああ、キリストよ、あなたに対してこの杯は満ちていました。
 しかし、あなたはその最後の黒ずんだ一滴までも飲み干されました。
 この空の杯が今や私のものです。
 私のために、主イエスよ、あなたは死んでくださいました。
 そして、私はあなたにあって死にました。
 あなたはよみがえり、私の縄目はすべて解かれました。
 そして今、あなたは私の内に生きておられます。」

最後に、彼は栄光の未来において私たちと一つです。

栄光の未来において私たちと一つである

この節は詩篇第八篇からの引用であり、この詩篇は人の将来の威厳と運命について描写しています。詩篇作者は人の輝かしい威厳についてこう述べています、「あなたは万物を彼の足の下に従わせられました」。使徒は、「もしこれが文字どおり本当のことなら、従わないものがなにもないほどの威厳が人にあることを意味します」と論じます。しかし、実際の観察の結果、「万物がこのように人の下にあるのを、私たちは見ていません」と使徒は述べます。では、この御言葉は人にどうあてはまるのでしょう?これを説明する輝かしい解き明かしは、この御言葉は人の子、人類の偉大なかしらにあてはまる、というものです。「私たちはまだ万物が人の下にあるのを見ていません。ただ、栄光と誉れを冠せられたイエスを見ています」。彼は人類の誉れを担って、人類のために主権の冠を勝ち取り、次にそれをすべて私たちと分かち合ってくださいます。なぜなら、彼が勝ち取られたものはみな、それを彼は人として、贖われた人類のために勝ち取られたからです。そして、彼は私たちをご自分と共によみがえらせて、天上に座らせてくださいました。それは来たるべき代々の時代に、彼の恵みの卓越した富を、私たちに対する慈愛の中で、キリスト・イエスによって示すためでした。彼がかぶっておられるすべての冠を、彼は私たちと分かち合ってくださいます。「勝利を得る者はその御座に座す。それは、わたしが勝利して父と共に御座についたのと同じである」。これは、神のすべての子供の高貴な輝かしい希望です。これが、私たちが神の御子に結合されている意味です。使徒がこう述べるのももっともです、「神の子らである私たちがどうなるのか、まだ明らかにされていません。しかし、彼が現れる時、私たちは彼のようになることを、私たちは知っています。なぜなら、私たちは彼のありのままの姿を見るからです」。このような希望は神の子供たちを鼓舞して、筆舌に尽くしがたいほど励まします。

その実際的適用について、いくつか考えることにしましょう。第一に、私たちの信仰の秘訣を学びましょう。この信仰はキリストの信仰であり、私たちの心の中に芽生えて、試みの中でも信頼する信仰です。ですから、私たちも歌います。「いま私が生きているこのいのちを、私は神の御子の信仰によって生きます。御子は私を愛して、私のためにご自身を与えてくださいました」。このように「私たちの信仰の創始者であり完成者である」イエスを見上げる時、神の諸々の約束に自力で到達しようともがくのではなく、それらの上に幸いな安息のうちに横たわり、それらによって信仰をもって支えられるようになります。この信仰は、その基礎である約束が私たち自身のものではないように、もはや私たち自身のものではありません。新たな必要が生じるたびに、私たちは信頼と勝利のための恵みを求めて、新たに彼に拠り頼みます。

さらに、私たちはここに真の祈りの霊を見ます。それは私たちの内におられるキリストの霊です。「教会のただ中で、わたしはあなたに賛美を歌います」。キリストはなおも、信頼している人の心の中で、この賛美を歌っておられます。そして、私たちの祈りを勝利の歌へと高めてくださいます。これが真の祈りの霊です。パウロとシラスがピリピの牢獄で祈りを賛美に、夜を昼に、悲しみの夜を喜びの朝に転じたように、信仰の霊である方が私たちの内におられる時、この方は賛美の霊にもなってくださいます。

しかしまた、これは試みの時に私たちを慰めてくれます。私たちの兄弟は、私たちが担うものをすべて担ってくださっています。そして、彼はそれにもちこたえられるのですから、私たちも必ずもちこたえられます。彼の御父は、愛する御子が不要な痛みを受けることを許されません。ですから、私たちが担うよう召されることには必ず、その「必要性」があることは確かです。くびきのもう一方の端をキリストが担ってくださっているのですから、その重荷は正当なものであること、そしてその重荷に押しつぶされてはならないことがわかります。ですから、私たちはキリストの苦しみにあずかる者たちであることを喜びましょう。それは、「彼の栄光が現される時、私たちもまた大いに喜ぶためです」。

最後に、勝利が不完全にしか経験・実現されないときでも、これから慰めを受けましょう。「万物が彼の下にあるのを、私たちはまだ見ていません」。これは私たち全員になんとあてはまることでしょう!私たちよりも強いように思われるものがなんとたくさんあることか。しかし、御名はほむべきかな!それらのものはみな彼に服従しています。そして、万物の上に君臨しておられるイエスを私たちは見ています。イエスは私たちのかしら、私たちの代表、私たちのもうひとりの自分であり、イエスがおられるところに私たちも必ず到達します。ですから、神が約束してくださっているものや、私たちが経験することを求めているものが、なに一つ見えなくても、上を見上げて、それが彼にあって実現されているのを見ようではありませんか。そして、それを自分自身のために彼の中に求めようではありませんか。私たちの側は半円にすぎず、天の側はすでに完全です。私たちが見ている虹には上半分がありませんが、いつの日か、御座を完全に取り巻く虹となり、今は成就されていない私たちのいのちのもう片側の半球を補ってくれるでしょう。ですから信仰によって、私たちのすべての嗣業の中に入ろうではありませんか。私たちの目を上げて北と南、東と西を見て、「あなたが見ている土地をわたしはすべて彼らに与える」と彼が仰せられるのを聞こうではありませんか。この円は完全であり、嗣業は無限であり、万物は彼の足の下に置かれているのを思い出そうではありませんか。私たちは「これは真実である」と余さず認めているでしょうか?それとも、それを認めずに、その豊かさを失っているのでしょうか?今後、「万物の主である方に栄冠を帰し」、すべてを彼の足の下に置きましょう。そして彼と歩調を合わせて、これまで長く恐れてきた困難や逆境を足の下にしましょう。今から後、彼の昇天の戦車に乗って進み行き、昇りつつ「神に感謝します。神は私たちの主イエス・キリストにより、私たちを常に勝利のうちに導いてくださいます」と歌いましょう。