「二本のオリブの木と金の燭台」

A. B. シンプソン

勝利者誌 一九四七年 二八巻 一月号 掲載

「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊による』と万軍の主は言われる。」(ゼカリヤ四・六)

この御言葉が示しているビジョンは、聖書の他のどの箇所と比較しても、その優美さと聖なる意味の深遠さという点で比類ないものであり、真の力の源を啓示することをその目的としています。ゼカリヤが眠りから覚めて、彼の能力がその意味を理解しようと活動し始めた時、彼は自分の前に金の燭台を見ました。その燭台は聖所にあった燭台と似ており、磨かれた金でできた七つの枝があって、その頂には油の器とともし火がありました。それから、この燭台の上には、一つの大きな鉢・容器があり、管ですべてのともし火とつながっていて、中には補給用の油が入っていました。しかし、この容器はどのように満たされていたのでしょう?

この素晴らしい精妙な仕掛けを見てください。油の缶はありません。手で仕える必要はありません。人が付き添って扱いにくい機械を操作したり、管を運ぶ必要はありません。二本のオリブの木が絶えず実をみのらせて、二本のオリブの枝を通してそれを容器の中に注ぎ込みます。そして、その容器から一つ一つのともし火に流れ下ります。なんと単純で、美しく、完全なのでしょう、なんと聖なる意義に満ちているのでしょう?

その深遠な霊的意義は何でしょう?

この金の燭台は神の教会と神の民を表しています。「あなたたちは世の光です」「あなたたちの光を人々の前で輝かせなさい。それは、彼らがあなたたちの良いわざを見て、天におられるあなたたちの父をあがめるためです」。

昔のイスラエルは、その世代にとって、今日の教会のあるべき姿――神聖な真理の貯蔵庫、命、光、まことの世の光――でした。燭台は純金でした。同じように、キリストの真の教会は、神の性質にあずかる者たちのみから成っています。金は神の型です。私たちが神のかたちに回復されて、その光と臨在に満たされるときはじめて、私たちは世を照らす光になることができます。

燭台は宮の唯一のあかりでした。宮に窓はありませんでした。その光はすべて神から来ました。神の教会の他に、世に光はありません。御霊に照らされたこの聖なる書には、神、贖い、未来の命に関する知識がすべて含まれています。

自分自身の雄弁さ、哲学、感覚主義というともし火で、自分自身や自分の民を欺こうとする人は愚か者です。

燭台は一つでしたが、多面的でした。それと同じように神の教会には無限の多様性がありますが、それでも、一つの光、一つのからだです。神はすべての人を同じ型にはめこんだりはされません。イザヤ、ヤコブ、ヨハネの個性を保たれます。しかし、彼はみなを神で満たし、その生活を神聖でありながら、全く自然で、単純で、自由で、人間らしいものとされます。

私たちの性質の各部分は新しく創造されなければなりませんが、各部は保たれ、聖められ、神で満たされます。ですから、霊・魂・体全体が主イエス・キリストの来臨の時に責められるところのないように保たれます。

燭台は発光体ではありませんでした。光を掲げるものにすぎませんでした。自分で光を造ることはできませんでした。磨かれたピカピカの表面で光を反射させることはできましたが、別の光源からの光が必要でした。それと同じように、私たち自身の中に光はありません。私たちにできるのは、光を受け入れてそれを掲げることだけです。私たち自身は世の光ではありませんが、「輝かせなければなりません。それは、人々が私たちの良いわざを見て、天におられる私たちの父をあがめるため」です。

私たちがなすべきは、自分の善や自分の美点ではなく、私たちの内におられるキリストを表すことです。また、私たち自身はいかに無力で不十分であるのかを、しかし、なんと十全で力強い救い主を私たちは持っているのかを、そして、この方は私たちだけでなく万人のためでもあることを、すべての人に見せることです。これが世が必要としている光です。人々の暗闇と苦しみと罪を照らすために、聖霊と、イエスのパースンと恵みを示すのです。

燭台の役割は油を貯えることではなく、それを消費し、使い尽くし、燃え続けて明るい炎を放つことでした。ともし火や管が油を吸収して貯えようとしていたなら、自分の役割を果たせなかったでしょう。むしろ、油を与え尽くし、使い尽くしました。絶えず燃やし続けて油を使い尽くしました。人々は時々私たちに言います、「活力を使い尽くしてはいけません。力を使い尽くしてはいけません。余力を残しておきなさい」と。ああ!これは自分を失う道です。与えるときはじめて私たちは得ます。保持するなら失います。

神の賜物の一つにしがみつくなら、それは失われます。自分の祝福を自分のために節約して取っておくなら、それはなくなります。それを明け渡すなら、それは永遠に燃え続けます。これらのともし火によって、小さな器の中の油が費やされているとき、残りの油が上から注がれたので、器は常に満杯であり、常に新鮮であり、常に燃えており、常に輝いていました。

ですから、私たちも「光を燃え輝かせ」ようではありませんか。彼が与えてくださったものを私たちが与え尽くす時、彼は補充・供給してくださり、私たちは十分にあり余るほど受けます。そして、私たちもまた、「曲がったよこしまな世代のただ中で輝き」ます。油は聖霊の象徴です。彼こそが私たちに光と命をすべて与えてくださる方です。彼こそが私たちの内に私たちの美点をすべて生み出して、私たちを通して神と人々のための私たちの奉仕をすべて行ってくださる方です。

油の源

この絵図の最も美しくて意義深い箇所――油の源――に移ることにします。これらの源は、人が考えた仕掛けではありませんでした。奉仕する祭司たちが、毎日、大きな容器から油を運んで補充する必要はありませんでした。そうではなく、源は二本の生ける木でした。それらがみのらせた実が目に見えない手で絶えず圧搾されて、二本のオリブの枝と二本の金の管を通して、容器へと、そして、ともし火へと流れ込んでいたのです。それは全く完全に自発的であり、単純であり、静かであり、神聖でした。油は常に流れていました。容器は常に満杯でした。ともし火は常に燃えていました。

これが私たちの神聖な供給源です。この二本のオリブの木は誰でしょう?確かに、人間的なものではなく、キリストにある私たちの命の神聖な源を表しています。主イエス・キリストと幸いな聖霊を表しています。一方は神の側におられ、もう一方は私たちの霊的生活の地上の側におられます。両者とも同じ名で呼ばれています。使徒ヨハネは、イエスのことを御父と共におられる私たちの弁護者・パラクレートスと述べており、聖霊のことを御父から遣わされた私たちのパラクレートスと述べています。一方は彼処におられる弁護者であり、他方は内側におられる弁護者です。

この神格のふたりの幸いなパースンは、その位格は異なるものの、その性質は一つであり、それから私たちは自分の霊の命を汲み出します。私たちはそれを汲み出します。それは、オリブの木が自分の油を自発的に、静かに、絶えず、本能的に供給するのと同じであり、まさに私たちがその中に生きている大気を呼吸するのと同じです。また、血液が私たちの組織を、静かに、自然に、単純に循環して、私たちはその過程に気づかないのと同じです。

このようにして、私たちは彼の中に住み、彼に基づいて生き、自分の力をただ神のみから汲み出すことができます。愛する人よ、私たちはこのオリブの木の秘訣を学んだでしょうか――彼の中に住む秘訣を学んだでしょうか?

しかし、オリブの木と容器をつないで、二本の金の管へと至る、この二本のオリブの枝は何でしょう?

これは「全地の主の御前に立つ、二人の油塗られた者、二人の油の子」です。ああ!これは信じて団結して祈る務めです。これは地上の聖徒たちに与えられた最も高度な奉仕です。それは御座に着いておられるイエスご自身の祭司の奉仕に呼応するものです。

愛する人よ、もし彼にそうしてもらうなら、神は私たちにこの高度な聖なる奉仕を教えてくださいます。第一に、これらの枝は木から伸びて、人々と緊密に接触しなければなりません。それは、彼らが直接交流して、まさに自分の命を汲み出すためです。同じように、祈りの祭壇で奉仕する人は、天の側で、神との完全な接触の中になければなりません。しかし他方の側では、人との完全な接触の中になければなりません。この枝々は容器へと至って、ともし火とつながっていなくてはなりません。

ですから、この祈りの務めを学びたければ、他の人々の必要に対して敏感でなくてはなりません。利己心に対して死ななければなりません。自分の同胞たちとの接触の中になければなりません。同情心と愛に満ちた心と、他の人々と神のために苦しむ覚悟を持たなければなりません。

神はこの栄光の奥義を私たちに与えて、「もしあなたたちの中の二人が地上で調和してなにかを求めるなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます」というこの力強い約束の意味を私たちに教えてくださいます。

聖霊の御業の効力

1.それはまず、障害物を征服することにおいて現れます。「おお、大いなる山よ、お前は何ものだ?」。信仰の道には困難という山がつきものです。神の臨在と力の最善の証拠は敵の働きです。しかし、聖霊が責任を負っておられるなら、信仰は最も高い山といえども恐れません。むしろ、信頼して静かに立って、「おお、大いなる山よ、お前は何ものだ?平地になれ」と言います。聖霊は信仰を与えるだけでなく、山々を除いてくださいます。信仰に関する私たちの主の教えと、この節の類似性に感銘を受けずにはいられません。彼は言われました、もし私たちにからし種一粒ほどの信仰があるなら、私たちが山に向かって「除かれて、海に投げ込まれよ」と言うとき、そのとおりになると。

信仰は山に移るようお願いしません。信仰は山を登ることすらしません。単純に、山に消えるよう命じて、神の権威と力を行使します。これが、聖霊が人々――彼に信頼して従っている、神の霊に導かれている人々――の心の中で働かれる方法です。

2.聖霊の御業はすべての栄光を神に帰します。「彼は『恵みあれ、これに恵みあれ!』と叫びながら、かしら石を運び出す」。

人の働きは栄誉を人に帰します。しかし、私たちが神に満たされて、その十全性を認識するようになる時、私たちは自分を意識せずに御業について述べられるようになり、使徒と共に「私ではなく、私の内におられるキリストの恵みです」と言えるようになります。

3.聖霊は御業を成就されます。彼は壊れた柱や屋根のない壁を残したままにされません。むしろ、御旨を果たされます。そして、私たちを導いて、私たちの期待がかなえられて、私たちの働きが成就されるようにされます。ゼルバベルの両手がこの宮の基礎を据えました。彼の手がそれを完成させます。そして、「あなたたちは、万軍の主が私をあなたたちに遣わされたことを知るであろう」。

人の野心や衝動による働きは、弱々しく、不安定で、突発的です。しかし、神が鼓舞された働きは成し遂げられます。

4.聖霊の御業はまっすぐな御業であり、全く正確です。「彼らはゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぶ」。下げ振りは義の象徴です。鉛直な壁はまっすぐな壁、垂直な壁です。同じように、神の御業はまっすぐな御業であり、純粋な御業であり、正しい御業です。彼が鼓舞して遂行される御業には、妥協は一切ありません。人々を喜ばせようとする必要はありません。むしろ、聖書的基礎に基づいていて、その壁は義であり、その門は讃美です。

5.最後に、聖霊の御業は弱い僕を通して成就されます。「誰が小さい事の日をさげすんだのか?」。これがそれが始まる方法です。「なぜなら、神は強い者を困惑させるために、この世の弱い者を選ばれたからです。また神は、この世の生まれの卑しい者、蔑まれた者を選ばれました。有るものを無いものとするために、実に無きに等しい者を選ばれたのです。それはいかなる肉も御前に誇ることがないためです」。

この御言葉を読む時、私は必ず一八八一年のある寒い十一月の午後を思い出します。七人の小さな群れがこの都市の二階の部屋に集まった時のことです。それは、この大都市でおろそかにされている教会なき人々に全き福音をもたらすことについて、相談し、祈るためでした。私たちはみな貧しくて、それに取り組んでいるのは私たち僅か数名だけでした。私たちは、この問題に関心のある人は集まるように、という公の招集に応じて集まったのでした。

私たちはもの寂しい集会所に座り、凍えないように火の周りに集まって、互いに見つめ合いました。確かに、それは小さい事の日でした。次に、私たちは神に語ってくださるよう求めました。そして、その午後、私たちの聖書を開いたら、ゼカリヤ書の四章が開かれました。無意識のうちに、まさにこの節が目に留まりました、「これはゼルバベルに対する主の言葉です、『権力によらず、能力によらず、わたしの霊による』と万軍の主は言われる。(中略)誰が小さい事の日をさげすんだのか」。

あの午後のあのメッセージほど、奇妙な刺激的力を帯びたメッセージが人の心に届いたことは、おそらく決してなかったでしょう。私たちは共にひざまずいて、神に私たちの心の中でご自身の祈りを祈ってもらいました。そして、その後の年月で、幸いな答えが与えられたのです。

小さな始まりを恐れてはなりません。むしろ、大きな見せかけの力を恐れた方がいいでしょう。しかし、取るに足りない七人に神が加わるとき、それは毎回、数百万人に匹敵するのです。