聖書の最初の文章は、私たちを人間や自然ではなく、神と向き合わせます――「初めに神」とあります。確かに、「創造された」という動詞がその後に続きますが、それに至るずっと前に強調のための間があり、無限の神が私たちの前に立って、無限の空間を満たし、ご自身の内に全被造物と、後に全能の御手から発することになる無数の存在とを抱かれます。聖書は神と共に始まります。すべての本、すべての人生のすべての章が、同じように安らかで崇高な始まり方をしていたら良かったでしょう。
聖書はまた神と共に終わります。その最後のメッセージを見ると、黙示録にこうあります、「わたしはアルファでありオメガである、初めであり終わりであると、今おられ、昔おられ、やがて来るべき者、全能者である主が言われる」。アルファとして始めた方が、オメガとして終えられます。そしてその両端の間に、贖いの物語がすべて含まれます。
黙示録の最後の節を見ると――祈りは除くことにします――この書はイエス・キリストと共に終わることがわかります。この書は神と共に始まり、イエス・キリストと共に終わります。そしてその両者の間に、救いの物語がすべて含まれます。
麗しいことに、同様の偉大な文章を使徒は天の岸辺で記しました、「私の神は、その栄光の富にしたがって、あなたたちの必要をすべて満たしてくださいます。キリスト・イエスによってです」。この御言葉は「私の神」で始まり、「キリスト・イエス」で終わります。そして、その間に、私たちの必要とその無限の供給があります。なんと安らかな祝福された立場でしょう!
この壮大な始まりに応じるかたちで、神は常に啓示と贖いの物語の場面にご自身の性格と臨在を投影されます。聖書には崇高な主我主義が見いだされます。他の人には不似合いなことが、神においては絶対的に正しいと感じるのです。何度も何度も神は自らを主張されます。そして、私たちは、彼の卓越性、主権、首位権を本能的に悟ります。それには、人が知って認識する必要があるもの、すなわち、神の臨在と栄光がまさに込められています。それは、神を知るために、神の臨在を認識して全能者のかげの下に生きるために、他の何ものにもまして私たちの生活に必要なことを示します。
私たちは時々、その人の個性よりも、その人が帯びている神の臨在の方に強い印象を受ける人物に出会います。これがエノクの特徴でした。彼について一つだけ述べられている素晴らしい点は、彼が神の臨在の中を歩んだことです。サムエルやエリヤについては、各々、「神の人」と認められていたことが記されています。
私たちが人生で望んでいるのは、神を知ること、神と共に歩むこと、神の人となること、そして次に他の人々に神を供給することです。
神が人をより親密な関係に召したり、より高度な任務に就かせたりされる時は、その召しにはご自身についての何らかの顕著な啓示が常に伴っていました。
私たちは、アブラハムの生涯の転機のときに神がエル・シャダイとして彼のもとに来て、次に、ご自身が与えた新たな啓示に見合うより高い立場に上るようアブラハムに命じられたのを見いだします。「わたしはエル・シャダイである」と神は言われました。「わたしの前に歩み、完全(まっすぐ)でありなさい」。わたしは全能者、絶対者、無限なる者、十全な神である、と言われました。今、あなたが得たこのビジョン、わたしが与えたこの啓示に見合う生き方をしなさい、と言われたのです。神が与えてくださったこの水準に応じてください。十全な神を持つ者として生きてください。
あなたはこのように生きてきませんでした。わたしの前を歩んできませんでした。サラ、ハガル、環境、あなたの困難や限界や弱さの前を歩んできました。今、そうしたいっさいのものの上に目を上げて、十分な神であるわたしだけを見なさい。そして、妥協なき信仰によってまっすぐに立ちなさい。そしてそれ以降アブラハムは、「不信仰によって神の約束を疑うことをせず、信仰によって強められ、神に栄光を帰し、そして神は約束したことを行うことができると、完全に確信した」のです。
アブラハムの信仰の秘訣は、彼が超自然的な神を知っていたことでした。ですから、使徒はローマ四章で彼について描写する際、こう述べたのです、彼は「彼が信じた者、すなわち死人を生かし、無から有を呼び出される方の御前」で神の基準を満たしたのである、と。
神がモーセのもとにやって来て、途方もない働きに送り出そうとされた時、神がモーセの心に一つだけ印象づけようとされたのは、ご自身の超自然的な臨在が彼と同行するということでした。モーセのすべての恐れと疑いに対して、神はただ「わたしは在りて在る者である」とお答えになりました。神はただご自身の大いなる小切手を振り出して、それに署名し、モーセが何でも望みのままに書き込めるようそれに空欄を残されました。神はこう言っておられるようでした、「あなたが困難の中にあるとき、わたしが勇気です。あなたが弱さの中にあるとき、わたしが力です。わたしはパロに対する勝利であり、紅海に対する主権であり、荒野におけるパンであり、岩からの水であり、砂漠を導く者であり、ミディアン人とカナン人を征服する者です。わたしはあなたが導く反抗的な民に対するあわれみと赦しです」。それから、ああ、モーセはもう一つ追加してもらいました、「わたしは、良き地を失わないようにあなたを保つ恵みと力です」。
そしてモーセがなおも論じてぐずぐずした時、神は「確かにわたしはあなたと共にいる」という決定的言葉でお答えになりました。後の荒野における物語では、モーセがこの偉大な約束に頼って、「もしあなたの臨在が私と共に行かないなら、私たちをここから上らせないでください」と叫んだところ、「わたしの臨在があなたと共に行こう」という返答があったのを、私たちは見ます。モーセをあのような者にし、イスラエルをあのようにならせたのは神であり、ただ神だけだったのです。
モーセの後を継いで勝利するためにヨシュアに与えられた備えはこれに尽きました。「強くあれ、勇敢であれ。恐れてはならない、おののいてはならない。あなたがどこに行っても、あなたの神である主があなたと共にいる」と神は保証されました。「わたしはあなたと共にいます。わたしはあなたを見捨てず、あなたを見放しません」。少しして、ヨシュアの指揮権が強大になりすぎるおそれが生じた時、神は彼に会って彼を塵の中に伏させ、自らイスラエルの勝利の信仰の軍隊を指揮されました。エリコの城壁を偵察しに出かけたとき、ヨシュアは抜き身の剣を持つ一人の人に出会い、軍人としての直感にしたがって、その人に立ち向かい、「あなたは私たちの味方ですが、それとも私たちの敵の味方ですか?」と叫びました。それに対する返答によって彼はひれ伏しました。「どちらでもありません、しかしわたしは主の軍勢の将として今、来たのです(中略)あなたの足から履き物を脱ぎなさい」。わたしは指導者であり、あなたはわたしの命令を行って、あなたを通してわたしに勝利を得させるだけでよいのです。
神のビジョンによってイザヤは務めに召されました。また、それによって強められて、同胞の拒絶に耐え、反抗的な民のただ中でただ神と共に立つことができました。
聖書の中で、エレミヤに対する神の壮大な約束ほど素晴らしいものはありません。「主はこう言われる、それを造った者、それを形造って確立した主、主がその名である。わたしを呼べ、そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたの知らない大いなる素晴らしい事をあなたに示そう」。
これはとても輝かしい、感動的な約束ですが、その最も輝かしい部分は、神がご自身を預言者に紹介された序文と御名の箇所です。「主(エホバ)はこう言われる、それを造った者」――宇宙の創造者のことではなく、エレミヤが求めようとしているものを造る者のことです。それは、今はまだ存在しないものであり、そのための材料もまだ現れていないものです。それは、当然ながら、不可能なことです。それは、神が布地からではなく、布のないところから切り出さなければならないものです。実体化されるには創造される必要があるものであり、それについて神はこう言われます、「わたしはそれを造る者であり、あなたの信仰の呼びかけによってそれを創造します。わたしはそれを形造って確立します」。
この信仰こそ、使徒がへブル人への手紙で述べているものです。「信仰によって、私たちは、宇宙が神の言葉によって組み立てられており、こうして、見えるものは現れているものから造られたのではないことを理解します」。つまり、それは、見えないもの、まだ実在していないものを信じる信仰なのです。それは、あなたの気性に欠けている優しさを、神に求めることができる信仰であり、あなたが風に揺れる葦のように震えている時に勇気を、あなたが漂う砂のように不安定な時に堅固な意志を、先天的性質や後天的傾向性によって下降線を辿るよう誘われる時に義と聖さを、あなたの体がボロボロになって健康がすっかり失われた時に健康と力を、神に求めることができる信仰です。金剛石のようにかたくなに思われる人々のために、扉はすべて閉ざされて努力はすべて無駄であるように見える奉仕のために、神に求めることができる信仰です。これこそ、私たちが相手にしている神、超自然の神、「それを造った者(中略)エホバがその名である」方です。彼を認識し、彼に信頼し、その無限の十全性を活用しようではありませんか。
ハガイ書には美しい約束の数々があります。それらの約束の中で神は、ご自身の奮闘している小さな群れに向かって――彼らは困難な時にわずかな力しかないのに回復の偉大な働きを成し遂げようとしていました――告げておられます、「わたしはあなたたちと共にいる。わたしの霊があなたたちの間にとどまっている。あなたたちは恐れる必要はない。強くあれ、そして、成功を確信しつつ働きなさい」と。この美しい段落では、預言者が「万軍の主はこう言われる」とこの高貴な御名を何度も繰り返しているのが印象的です。それはまるで、神がご自分の震える子供たちに、神の顔を見上げて、神が語っていること、神がそこにいること、神はこの緊急事態にも対応できることを再確認せよ、と絶えず命じておられるかのようです。
これは、パウロの弱さに対してキリストがされた約束の、あの美しい訳文に対応しています。「彼は私に言われました」、あるいはギリシャ語では、「彼は私に言い続けられました、わたしの恵みはあなたに対して十分である、と」。何度も何度も彼は私たちに、ご自身の臨在と十全性を繰り返し保証してくださるのです。
キリストは、使徒たちに出て行って諸国民を福音化するよう命じた時、彼らにご自身の全能性と偏在性を力強く強調されました。「天においても地においても、すべての力がわたしに与えられています(中略)見よ、わたしは世の終わりまで常にあなたたちと共にいます」。
これこそ、私たちの宣教事業、このうえなく大胆な信仰、このうえなく崇高な努力、このうえなく困難な企てに対する保証です。私たちには、主権者たちや権力者たちや地と地獄の勢力に立ち向かうときに私たちを導いてくださる、超自然的なキリストがおられるのです。
結論として、神がご自身の至高性を強調されるのは、人間の無知で愚かな高ぶりのためなのです。私たちは、人間が自己満足している時代に、驕った人間が「さあ、行って、その頂が天に届く都と塔を建てよう」と言っている時代に生きています。それに対して神はあわれみとさげすみをもって、「さあ、下って行って、彼らの言葉を混乱させよう」と言っておられます。
しかし、神が常にご自身を主張されるのは、私たちとはちがって、ちっぽけな利己主義的精神からではありません。ご自身の主権が、ご自身の栄光のために必要であるように、宇宙のために必要だからなのです。神がこの人称代名詞を繰り返して、崇高な自覚をもって私たちの前に立たれる時、私たちはこう感じます、人にはおこがましいことが神には正しいのであり、そして、神がすべてのすべてとして認識されることが、宇宙の秩序と幸福のために必要不可欠なのである、と。
神の主権と至高性は、私たちの必要をすべて満たします。私たちが減少して彼が増し加わるほど、私たちの幸福と祝福はますます増し加わります。私たちの自尊心は、神が私たちの心と生活の中に啓示されるのを妨げる最大の障害です。神が入って来るには、自己は出て行かなければなりません。自己に対して死ねば死ぬほど、神を完全に受け入れる余地が増すのです。
勉強の進み具合が悪くて父親に叱られた少年の話は教訓に富んでいます。その少年は、自分は最善を尽くしているのに、読んだことを覚えられない、と不満を漏らしていました。父親は少年の部屋に黄表紙の本がたくさんあることに気づき、「チャーリー、食器棚の上にあるリンゴの入ったかごを空にしておくれ」と言いました。チャーリーがリンゴを出すと、父親は、「隣の大工の店に行って、かごいっぱいのこっぱと削りくずを持ってきておくれ」と言いました。少年は父親に言われたとおりにしました。かごが戻って来た時、それは削りくずでいっぱいでした。「さて」と父親は言いました。「リンゴを入れてごらん」。チャーリーがリンゴをいくつか入れると、リンゴは転がり落ちてしまいました。「リンゴを入れなさい」と父親は言いました。「全部入れなさい」。「できないよ」とチャーリーは言いました。「入らないよ」。「どうして入らないんだい?」と父親は言いました。「だって」とチャーリーは言いました。「かごは削りくずで半分埋まっていて、もうリンゴは全部は入らないんだもん」。「ああ」と父親は言いました。「それがお前の問題なんだよ。お前は有益な知識を自分の頭に詰め込もうとしているが、お前の頭はすでに馬鹿げた物語の本でいっぱいなんだよ」。
この物語を少し応用すると、私たちの霊的失敗の隠れた理由がわかります。私たちは聖霊に心を満たしてもらおうとしてきましたが、心はすでに多くのもので満たされていたのです。キリストを王としようとしてきましたが、その間ずっと、古い反逆者の自己が彼の邪魔をして、彼の王座を奪おうとしていたのです。
最後に、私たちの心と生活の中に啓示される神の啓示は、あの輝かしい神の出現――これを時代は待ち望んでいます――の前味わいにほかなりません。私たちはあの祝福された望み、偉大な神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの輝かしい出現を待ち望んでいます。キリストは待ち望んでいる花嫁の心にご自身の性格を投影しておられます。ご自身をその人々に対して大いに実際化しつつあります。そして彼らのために、ある日、感覚の覆いを破って出現されます。彼らは彼を見つめつつ叫ぶでしょう、「見よ、この方こそ私たちの神です。私たちはこの方を待っていたのです」。
昔、ニューイングランドで、ピルグリム・ファーザーズの一団が窮乏の中にありました。彼らはイギリスからの物資を積んだ船をずっと待っていました。その群れの中の一人の善良な女性は、強い信仰を持って祈り、その船はやがて着くと人々に話していました。すると確かに、ある晩、彼らがボストン湾を見渡すと船が見えました。彼らの心は喜びと希望に満ちました。しかし、朝になると、その船は消えていたのです。彼らの中のある者たちは言いました、あれは蜃気楼だったか、おそらく、船本体が現れる前に光の屈折によって投影された近づく船の虚像だったのだ、と。しかし彼らは、その幻を見た以上、必ずやその船を見ることになる、と感じていました。そして、彼らはその船を見たのです。その週の終わる前に、船は港に停泊して、飢えた植民地の人々に積み荷のパンを供給したのです。
このように、神はまず私たちに、生ける、個人的な、栄光のキリストのビジョンを与えてくださいます。まもなく、私たちの目は彼を見るでしょう。そして、私たちは永遠に彼と共にいるようになるでしょう。全き栄光の中におられる彼のことを理解しようではありませんか。いつの日か、ありのままの彼を見る時、私たちは彼のようになるのです。