第二章 超自然的な書物

A. B. シンプソン

「あなたたちが再生されたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の生きている、存続する言によるのです。なぜなら、『すべての肉は草のようで、人の栄光はすべて草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に存続する』」(一ペテロ一・二三~二五)。

今日、神の御言葉の霊感性と最高の権威ほど、人の心に強く訴える必要のある証しはありません。悪意あるサタンと傲慢な人間文化は、かつてなかったほど、聖書の中から超自然的なものを排除しようとしています。そして神のこの書を、この世の文学の残骸の中から救い出された、たんなる古文書集に変えようとしています。

聖書は他のどの本とも異なっており、敵のあらゆる攻撃を生き延びてきましたし、これからも生き延びるでしょう。それはニューヨーク湾の水面を照らす電照灯のようです。無謀にもそれに飛び込む多くの海鳥の翼に打たれてきましたが、なおも動じることなく輝き続けています。他方、無謀にもそれに突っ込んだ愚かな海鳥たちは、その足元で血を流して傷つき倒れています。

聖書は、敵対的な批判のハンマーを何度も打ち砕いてきた金床です。この金床は、それを襲ったあらゆるものの残骸のただ中で、動じることなく依然として残っています。

聖書は、他のどの書にも優って崇高で孤高な書です。「私に本を持ってきてください」とウォルター・スコット卿は死の間際、義理の息子に言いました。ロックハートが「どの本ですか、ウォルター卿」と尋ねたところ、「一つしかありません――聖書です」という単純な返答がありました。

アレキサンダー・ダフが、八百冊以上の立派な蔵書を含む大量の素晴らしい荷物を持ってインドに向けて航海していた時、乗っていた船が喜望峰の沖で難破しました。救出された乗客らが海岸に辿り着いた時、彼の荷物の中で唯一助かったのが、波で砂浜に打ち上げられた一冊の聖書でした。彼がそれを拾い上げて、包装を取り除くと、まったく無傷であることがわかりました。彼はこの出来事に深く感動したので、その聖書を開いて、海岸で自分の周りに立っていた小さな群れに、その尊い約束のいくつかを読み聞かせました。彼の立派な蔵書はなくなりましたが、聖書だけが難破から唯一救われました。彼にとって、それは次のことを示す美しい絵図でした。すなわち、後に彼の人生の目的となったものである聖書は、この世の文学の中から残る唯一の本であり、インド――その地で彼は一生過ごそうとしていました――に与える価値のある唯一の本であることです。

諸々の時代の文学はみな、時の流れの中で消え失せることになります。しかし、ダフの救出された聖書のように、神の御言葉は時代の荒波を生き延びて、それを受け入れた人々に、それ自身と同じくらい輝かしい不滅性を与えます。

この聖なる書物の擁護者・教師たるべき人々の多くが、この書物を完全に否定しないまでも、その至高性を損ない、その無誤謬の権威に疑問を呈する人々の仲間入りをして、少しでも安っぽい人気を得、高い教養を身につけようとしている傾向を見るのは、とても悲しくて残念なことです。聖書は、すべてか無かのいずれかです。鎖の強さはその最も弱い箇所によって決まりますが、もし神の御言葉が絶対的かつ完全に真実でないなら、それは私たちが錨を下ろして、私たちの永遠の平和を保証するにはあまりにも弱い綱ということになります。神に感謝します。私たちには、聖書を超自然的な神の超自然的な啓示として、人の言葉ではなく、永遠に生きて存続する神の御言葉として、受け入れる根拠があるのです。

時代は過ぎ去っても、聖書は批判家たちの攻撃を生き延びてきました。聖書は哲学や科学を教えるものではありませんが、哲学や科学はいくら進歩しても、聖書の信憑性に対して一つも反論できません。ある世代の科学なるものが聖書に異議を唱えたとしても、次の世代の高度な知識によって聖書の正しさが確認されることになるのです。

かつて次のような時代がありました。創世記一章は科学上の既成事実と矛盾すると思われていたのです。創世記一章は、最初に光が創造され、太陽や他の天体は四日目まで創造されなかった、と教えているからです。しかし、数年後、神は科学を導いて分光器を発見させられました。そして、それに伴って光が太陽の前に存在していた事実と、モーセは自然界の現実と全く一致していることが明らかになったのです。

敬虔な学者たちは、自然界の荘厳な事実に対する神の御言葉の比喩の中にすら、偉大な真理との隠れた調和――この調和を科学はいま発見し始めたばかりです――があることを、日々、見いだしつつあります。ヨブがプレアデスの麗しい影響について語り、ダビデが詩篇十九篇で物言う光について述べた時、彼らは実際に、光学と天文学という壮大な科学の深遠な事実と最新の発見の一部を教えていたのです。どの戦いでも、この神聖な書物はその正当性を証明されて勝利します。

谷間からせりあがり、
中腹に雲をいただいて
恐るべき姿でそびえたつ
高い絶壁のように、

たとえ中腹には群雲が
広がっていても
永遠の陽光が
その頂を照らす。

神の御言葉の超自然的性格と至高の権威を示す五人の証人を連れてくれば十分でしょう。

奇跡。この書は超自然的試練によって私たちに訴えかけます。その証人たちの超人的な力を証拠として主張します。この書は無限の創造主に対して、どんな被造物の力も超えていることがわかるような御業によって、そのメッセージを証明するように訴えかけます。デイビッド・ヒュームの著作で有名になった奇跡に対する標準的な反論は、奇跡は自然の統一性に反しており、したがって真実ではありえない、なぜなら、私たちは自然の画一的証しを信じるべきであって、それと矛盾するように思われるいかなる単一の証言にも反対するべきだから、というものです。この主張は、自然に関する私たちの経験が限定的・部分的であるのと同様に、全く根拠薄弱で愚かしいものです。

ある探検家が、コンゴ上流のある酋長に、北方気候に見られる氷について話し、自分は川が完全に凍りついて水が石のように固まるのを見たことがあると断言しました。「そんなことは自然にまつわるあらゆる経験に反します」と酋長は答えて、探検家を嘲笑しました。そんなことは酋長も、その祖先たちも、いや、中央アフリカのだれ一人として聞いたことがありませんでした。しかし、その酋長の小さな世界は、より広大な世界の一部にすぎなかったのです。

ですから、デイビッド・ヒュームの経験も、彼が追跡・観察した世の人の経験も、自然界の完全な諸事実に対する最終的結論では決してなかったのです。彼が網羅しなかったもっと広い世界があるのであり、その世界では、奇跡はより低い水準における自然の通常の営みと同じくらい現実的なものなのです。事実、いつの日か、私たちはおそらく見いだすかもしれません、奇跡さえも、私たちが理解していない神聖な水準に基づく高次の法則の作用にすぎないことを、つまり、奇跡はあの霊の領域――それはいつの日か私たちにとって普通の領域になるでしょう――の力を一時のあいだ差し止めることであることを。

しかし、満足のいく証拠によって実証された事実こそ、それは神によってなされたという証しの正しさを示す決定的な印であり証拠です。キリストはご自身の御業をご自身の神聖な性格とご自身の教えの正しさを示す証拠として明確に主張されました。もし神が聖なる神であるならば、その主張が真実でないのに、それに応じて、その証しを承認されるとは考えられません。

ストラスブール大聖堂の大時計の製作者兼管理者が、大聖堂の当局者たちから深刻な誤解を被りました。そして、当局者たちに引く気がないのを見て取ると、彼は静かに塔の一本のゼンマイに触れました。すると時計は動きを止めました。人々は怪訝に思い、問いただし、不平を鳴らし、抗議しました。当局者たちは機械工や専門家や熟練した職人を雇いましたが無駄でした。だれもその仕組みを理解できず、時計を動かせませんでした。ついに彼らは製作者に頼んで、製作者の条件を吞まざるをえなくなりました。そこで製作者が再び静かにゼンマイに触れると、すべての機械が動き始めたのです。彼は製作者であって、それを止めることも、その動きを回復することもできたからです。

同様に、御手だけが自然の複雑な機構の強力な車輪を停止できますし、御手だけが停止させられたその力を回復できます。そして、その御手がエリヤの言葉で天を閉ざし、同じ預言の言葉で天を開いて大雨を降らせるのを見る時、私たちは彼が僕の言葉を証ししておられることを知ります。波は静まり、病人は癒され、死人はよみがえらされ、神の御子ご自身が封印された墓から出てこられるのを見る時、私たちにこの御言葉を与えた証人たちがその正しさを断言している以上、頭の固い頑固で盲目な人以外に誰が、これは確かに天からの権威あるメッセージであり、生ける神の御言葉であることを疑えるでしょう?

予言。人間の鋭い知性は、将来についてある程度の確度で推測することに成功するかもしれません。しかし、異教徒の神託や賢者・賢人のこのうえなく大胆で賢明な推測と、聖書の明確な決定的予言との間には、無限の隔たりがあります。

予言の基準はきわめて単純かつ明白です。

第一に、予測された出来事は十分遠い未来のことでなければなりません。

第二に、予測は明示的なものでなければなりませんし、地域、状況、名前など、間違いなく特定可能な目印を帯びていなければなりません。

第三に、懸案の出来事を引き起こす可能性のある明確な原因や一連の状況を、その予測の著者が知りえないことです。

第四に、その成就は、開かれた公のものであって、十分な目撃者がいなければなりません。それは虚偽を全く不可能にするためです。

これらは、人間の知恵による推測と区別する、予言の試金石のほんの一部にすぎません。これらの点で、聖書の予言は真理の明るい陽光の中で輝いています。

ここで、三種類の予言について見ることにしましょう。第一に、この世の国々や政治体制に関する予言があります。それらの予言が成就される何世紀も前に、イザヤ、エレミヤ、ダニエルなどの多くの預言者たちが、世界の大帝国の実際の推移、すなわち、バビロン、メド・ペルシャ、ギリシャ、ローマ、ローマから発する政治・教会制度の興亡について予言しました。世界政治の将来についての完璧な展望が示されました。その後、何世紀にもわたって、それらの予言は文字どおり成就されてきました。さて、人間のどんな推測も、これらの驚異的結果を予見できなかったのではないでしょうか?それらの出来事はあまりにも遠い未来のことだったので、人には予測できなかったのです。また、予言は全世界の面前で公に成就されたのです。

ニネベ陥落、バビロン捕囚、クロスの経歴、エドム・エジプト・ツロのような国々の歴史に関する特別な予言を詳細に取り上げる時間があれば、同じ結論に達していたでしょう。これらの予言の光に照らして見るとき、神が存在することと予言は正確に成就されることがわかります

予言の二番目の区分はユダヤ人に関するものです。大昔のモーセの時代から旧約聖書全体にわたって、一連の明確な予言の系譜があります。それらの予言は次のことを指し示すものでした。すなわち、彼らの民族史的大事件、国々の間における彼らの優位性、彼らが異邦人征服者たちの力の下に陥ること、罪のために捕囚にされること、メシヤを拒絶すること、すべての国々の間に散らされること、他のすべての国民との区別が保たれること、最終的に彼ら自身の土地に回復されることです。

これはみな、すでに示した試金石を満たしていることは明らかです。このような結果になりそうな状況は全くありませんでした。その予言は見事に成就されました。また、その歴史は摂理の印を大いに帯びていたため、偉大な政治家がヨーロッパの君主の一人からキリスト教の正しさを示すどんな根拠があるのかと尋ねられた時、彼は単純に「ユダヤ人です、陛下、ユダヤ人です」と答えたのでした。

予言の三番目の偉大な区分は主イエス・キリストに関するものです。古代の予言は彼の初臨と再臨に伴うすべての状況をなんと明確に、なんと正確に指摘していることでしょう。彼の名、処女の母からの誕生、誕生の場所であるベツレヘム、同胞からの拒絶、謙卑と苦難の生涯、銀貨三十枚のために裏切られること、磔殺と死にまつわるあらゆる状況、復活、再来について示しているのです。一連のメシヤ予言はあまりにも完璧だったため、福音史家は彼の苦悩の最後の悲しいドラマのすべての段階で、起きたそれぞれの出来事がいかに「聖書が成就されるため」であったのかを書き留めたのでした。その絵図はあまりにも完璧なので、旧約聖書の予言だけからキリストの伝記を書けるほどです。誰がこの巨大な予言的証しの重みに口答えできるでしょう?誰が神の超自然的書物のこの神聖な正当性に歯向かえるでしょう?誰が聖なる崇敬と謙虚な信仰をもって、「永遠に、おお主よ、あなたの御言葉は天において堅く定まっています」と言うのを躊躇できるでしょう?

主イエス・キリストの生涯と人物像。イエスの物語は福音書が真実であることの最も強力な証拠です。このような物語は、それが文字どおり真実でないかぎり、全くなんの説明もつきません。このような人物像は私たちにとって奇跡です。それを思いつき、考え出し、このような記録というかたちで展開する精神の持ち主はだれでも、素晴らしい文学的業績のゆえに、神聖な者として不滅の栄誉を受けるに値するでしょう。

誰がこの素晴らしい理想像を考えたのでしょう?誰の頭脳がこの本を――もしそれがただの本だとするなら――生み出したのでしょう?ルソーの「このような作り話を創作することの方が、この事実は真実であると信じることよりも、大きな奇跡だっただろう」という言葉は名言です。

フィッシャー博士は、この人物像は独創的である、と言わざるをえませんでした。そのような人物像は、これまで世界にはありませんでした。優しさと強さ、知力と道徳的完全さ、明け渡された自己とそれでいながら崇高な威厳と自尊心というあらゆる要素が、一つに混ざり合っています。弱さはなく、それでありながら頑なさや、利己主義や、高ぶりや、人類史上の他の英雄たちのように他人を犠牲にして自分自身を高めようとする専制的野心はありません。明らかに、罪のない、しみのない、完全な人物像です。どこにも欠点は一つもありません。この理想像は終始一貫して維持されます。そして、死というまさに悲劇の中にさえ、地的成功よりも偉大な道徳的崇高さと人格的勝利があるのです。

次に注目すべきは、この人物像は文学的技巧の成果ではなく、理想像を創り出すためにあらかじめ構想された計画にしたがって書き上げられたものでもなく、実生活の中で起きた多くの普通の出来事――日々繰り広げられる、著者にも私たちにも予見できないもの――の中から偶然生まれたものだったということです。この人物像が、繰り広げられる諸々の事実から自然に発達します。そして、その外見は、単純さ、優しさ、絶対的現実性という印象を帯びています。これらの福音書の物語を素直に読んで、次のような感覚を覚えない人はだれもいないでしょう。すなわち、自分は超自然的な生命の前に立っており、それを記しているこの書物は神の御言葉にちがいない、という感覚です。

偉大なナポレオンですらこう述べました、「私は人間の性質をいくらか理解しているつもりです。私はあなたに言いたいのですが、これらの人々はただの人であり、私もただの人ですが、彼のような者は一人もいません。イエス・キリストは人以上の方でした。アレキサンダー、シーザー、シャルルマーニュ、そして私自身も、偉大な帝国を築きましたが、私たちの才が創り上げたものは力に基づくものにすぎませんでした。イエスだけが愛の上に帝国を築かれたのであり、今日でも数百万の人が彼のために喜んで死ぬでしょう。福音書はたんなる本ではありません。その持ち主を全員征服する力を持つ生き物です。この机の上にあるのは本の中の本なのです」。

この本の影響力。この本は人間社会を変革しました。受け入れた国々を文明化しました。プロテスタント諸国の偉大さと力の秘訣はこの本にあります。それが異教徒の集団の中に入り込むと、見よ、フィジー諸島の人食い族は優しいクリスチャンになり、野蛮なインド人は平穏なキリストの弟子となり、利己的な中国人は英雄的な殉教者となり、劣悪なアフリカ人はきわめて気高い大人になります。一夫多妻制の人は妻たちを手放し、魔術師は迷信を捨て、数千の男女は信仰のゆえに郷里から追放されて時には殉教者になります。人間社会の全局面がこの神の書の高揚力と天的影響力の印を帯びています。無神論者は笑って話の種にするかもしれませんが、ヴォルテールはかつて、不信心な友人たちが自分たちの理論を食卓で議論していた時に言いました、「諸君、召使たちがいなくなるまで静かにしていなさい。もし彼らが我々と同じことを信じていたら、我々の命は無事ではなかっただろうから」。

経験的証拠。神の子供の経験、そして、従順と信頼をもってこの書を額面どおり受け入れるすべての人にこの書がもたらす内的証拠は、この書の超自然的性質の決定的証拠です。ユダヤ教の幕屋は、外見は非常にざらざらしたありふれたものであり、その美しさは内側からしか見えませんでしたが、それと同じように、このさいわいな書を理解・評価するにはそれを愛さなければなりません。この書は神の子供の霊に語りかけて確証を与えます。その確証は、神の子供の新たにされた存在の自然な感性を目覚めさせて、サマリヤの人々のように「私たち自身が聞いて、この方こそまことにキリスト、世の救い主であることを知りました」と答えるようにさせるものです。

この書が真実であることを知りたければ、この書を額面どおり受け取りなさい。それを心に受け入れて、単純・率直に読み、従うことによって試しなさい。そうすれば、この書が主張するとおりのものであることがわかるでしょう。

かつて私が牧師をしていたある町に聡明な弁護士がいました。その弁護士には、私の牧会に参加している若い妻がいました。彼女は熱心なクリスチャンでした。彼は悪名高い懐疑論者であり、その地域の代表的な自由思想家と目されていました。彼と議論するのは無駄であることを私は知っていましたが、多くの人が彼のために心を込めて祈っていました。そしてついに、この美しい女性が亡くなりました。彼女の死の数日後、彼は私を彼の事務所に呼んで、率直に、自分はクリスチャンになったばかりであることを、すぐさま私に話し始めました。私は大いに驚いて、どうしてそうなったのか尋ねました。「そうですね」と彼は言いました。「私は何年も前からこのテーマに関するあらゆる文献を読んできましたが、結論に達することはできませんでした。一方の側の議論を読むと部分的に納得するのですが、もう一方の側の議論を読むと判断が逆転して、どちらかに決めることは到底無理に思われました。この重りの釣り合いを取るのに十分なほど頭脳は強くなかったので、私は生涯、正直に不決断を貫いてきました。しかし、妻が一緒に暮らしている間、私は彼女の中に自分にはないもの、そして本物だとわかるものを見ました。彼女が亡くなった時、それには私のすべての持ち物にまさる価値があることを理解しました。そして、死別の苦しみの中で、ある日突然、私は自分が彼女の神に祈っていることに気づいたのです。直ちに理性が戻って来て抗議しました。私は『なぜ自分は信じていない相手に向かって祈っているのだろう』と自問しました。しかし、私が祈りをやめる前に、その祈りは天に届き、神はそれに答えてくださったのです。かつて感じたことのないなにかが私の心に臨みました。それは超自然的な臨在の感触でした。それはとても絶妙で心地よかったので、私はひたすら祈り続けました。神はまさに今に至るまで答え続けてくださいました。私にはそれを説明することも、理性で正当化することもできませんが、それでも、それが真実であることはわかります。この御方は神であること、自分はクリスチャンであることを、私は知っています。頭脳によってではなく、自分の心によってです」。

愛する人よ、これこそ信仰の秘訣です。これこそ最高の試金石です。思い切ってこれを試してみなさい。

おお、御言葉を試してみなさい、
経験からわかるようになります、
主の真理に信頼する者たち、ただ彼らだけが
大いに幸いであることを。

頭脳で聖書が理解できない時、それをあなたの胸にしまい、あなたの心に刻み込んで、あなたの悲しみ・罪・必要に適用しなさい。そうすれば、それが真実であることがわかります。聖書はあなたを探り、回心させ、満足させてくれるからです。

ある盲目の少女が瀕死の状態で横たわっていました。彼女の麻痺した指では、大切な聖書の点字をさわって読めなくなりました。悲しい叫びと共に、彼女は聖書を落とし、「私の大切な聖書、あなたの尊い約束にもうさわれないわ」と言いました。そして、情熱的な愛の衝動に駆られて、彼女は唇を聖書に押し当てて別れを告げました。その時、突然、彼女は大きな喜びの叫びを上げて言いました、「まだ聖書を読めるわ。唇で感じられるわ」。そして、鋭敏な唇を何度も何度も、次々にページに押し当てました。それは、まるでその慰めを飲んでいるかのようでした。そして、天の約束という枕に頭を横たえて眠りに就いたのでした。

愛する人よ、他のすべての感覚が失われても、あなたは愛を込めて聖書を読み、理解することができます。聖書は話の種にするための本ではありません。もてあそぶための本でもありません。知的な議論や、解釈の鋭さを見事に発揮するための本でもありません。愛するための本なのです!生ける複製と聖なる模範に翻訳するための本なのです。

「私たちは各自、聖書(Bible)であるか誹謗(libel)であるかのいずれかです」。聖書を敬いましょう。信じましょう。愛しましょう。生きましょう。滅びつつある世に与えましょう。

主よ、あなたのあわれみは永遠です。
永遠の真理があなたの御言葉に伴います。
あなたの賛美が岸から岸まで響き渡ります、
太陽が昇ってもはや沈まなくなるまで。