第三章 超自然的な生活

A. B. シンプソン

「私は生きています。しかし、私ではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。」(ガラテヤ二・二〇)

聖書の最良の版は聖なる生活です。神はご自分の超自然的な書を、ご自分のすべての子供たちの生ける経験に翻訳することを願っておられます。

ある人がウォルター・スコット卿に「私は本を書こうと思います」と言ったところ、彼は「一冊の本であれ」と答えました。

使徒たちの敵どもは、癒された人が彼らのただ中に立っているのを見た時、なんの反論もできませんでした。聖書と合致している生けるクリスチャンは、どの時代でも、神のための反駁不能な証人であり、キリスト教のための証拠です。キリストご自身こそ福音書の中で最大の奇跡であり、同じようにクリスチャンは皆、そのすべての業よりも偉大でなければなりません。

キリスト教と他のすべての宗教の根本的な違いは、それが生み出す性格にあります。「彼らの実によって、彼らがわかります」が、キリストご自身の試金石でした。この試金石で判断するとき、キリスト教に反駁することはできません。クリスチャンの性格は道徳的文化の産物ではありません。最も聖い人々ほど、自分の内にはなんの善も宿っていないこと、そして美徳や恵みはすべて、自分の内に宿って、誘惑や弱さに対して力づけてくださる神の臨在の力のみによることを、いち早く認めます。

クリスチャン生活における第一の超自然的事実は神の義、もしくは神学用語で言うところの義認です。使徒パウロはとても素晴らしい句を用いて、人が神に対して正しくされるこの根本的原理を説明しています。彼はそれを神の義と呼んでいます。それは私たちの堕落を見過ごす神のたんなるあわれみではなく、私たちの勘定を清算して私たちを彼と正しい関係に置く神の義です。神が願っておられるのは、私たちが自分自身の働きによってではなく、主イエス・キリストの転嫁された義によって、御前によしとされて立つことです。私たちが有罪で、罪に定められ、無価値で、神の好意と臨在から締め出されている時に、神は入口で私たちと会ってくださいます。そして、ご自身の御子の功績を私たちに着せてくださいます。こうして私たちは、御座さえも、また自分の犯罪の被害者や証人さえも、正面から見れるようになります。また、神から見て、自分には責められるべき点がなく、義とされて正しいと認められていることがわかるようになります。まるで一度も罪を犯したことがないのと同じ姿勢で立っていられるのです。これは神の無代価の賜物です。聖なる、超自然的な、神聖な賜物です。私たちは神ご自身の義をまとっています。自分にはなにも誇るものはありませんが、それでも御座のさいわいな光の中で見上げて、こう言うことができます、

イエスよ、あなたの血と義は
私の美であり、私の輝かしい衣です。
これらの衣服を着た罪なき状態で
私はあなたの御座の輝きに向き合います。

クリスチャン生活の二番目の超自然的事実は再生です。再生は義認とは全く別のものです。後者は、私たちの神との関係を正しくします。前者は私たちの性質を正しくするものです。再生とは、神から直接伝達される、神ご自身の存在のように純粋で聖なる新しい命を、神が人間に分与されることです。これは道徳的向上、自己改善、より良い業をすること、より良くなることではなく、恵みの奇跡、新創造です。それはあまりにも驚異的であるため、ユダヤ人の倫理と宗教の教授だったニコデモでさえ理解できず、キリストの御顔を不思議そうに見つめて、どうしてそんなことがありえるのですかと尋ねるほどでした。

自然界にこれに類するものはありません。おそらく、最も似ているのは小さなヒメバチです。ヒメバチはイモムシのきめの粗い皮を通してその体の中に小さな卵を植え付け、そこに放置して、その餌食のぬくもりで孵化させます。最終的に、卵は孵化し、幼虫はイモムシの肉を食べて成虫になり、殻を破って飛び出します。

しかし、この場合、この命の胚芽には元の祖先がいます。再生の場合、人の力ではこの命を伝達できません。人はそれを兄弟に与えることはできません。親が子に伝えることもできません。「彼らは血によってではなく、肉の意志によってでもなく、人の意志によってでもなく、神によって生まれたのである」。最も弱い聖徒でも新たな存在であり、天使の目に驚異的に映ります。アダムがエデンという舞台に足を踏み入れて、明けの明星たちが共に歌い神の聖徒たちが喜び叫んだ時のように。

クリスチャン生活における次の超自然的事実は子たる身分です。私たちは直ちに天の家族の一員になります。これもまた、神の統治の先例に全く反する、きわめて驚くべきことです。天使たちはとても高度な存在でしたが、あえて神の家族に加わろうとはしませんでした。しかし、罪深い人が天の宮殿の敷居をまたぎ、放蕩者が御父の懐に戻って、大天使ですらあずかり知らぬ地位を要求したのです。「見よ、なんという愛を、御父は私たちに与えてくださったことでしょう。それは、私たちが神の子供たちと呼ばれるためです」と、御座の中心のすぐそばに立った人であるヨハネは叫びました。

私たちは、神から生まれているので、神の子です。神の子と「呼ばれ」るだけでなく、神の子「である」のです。養子縁組の決定によって子であるだけでなく、新しい心をも持っているのです。この新しい心により、私たちは本能的に飛び込んで御父にまみえますし、子として認知される自分自身の喜ばしい地位を自覚します。

私たちは、神のひとり子であるキリストとの合一のおかげで、さらに高度な子たる身分を主張できます。キリストに嫁ぐことで、私たちは彼の特別な子たる身分にあずかっています。ですから、私たちは長子――キリストが持っておられる名と同じです――と呼ばれています。花嫁が夫の家を相続し、子供として受け入れられるように、私たちも彼と一緒に王の宮殿の最も奥まった部屋に入る一方で、「わたしの父、またあなたたちの父(中略)わたしの神、またあなたたちの神」と彼が言われるのを耳にします。

キリストの内住は、私たちが導かれる次の超自然的事実です。これは、再生そのものと同じくらい驚異的な変化です。「もし人がわたしを愛するなら」とキリストは言われました。「その人はわたしの言葉を守ります。そしてわたしの父はその人を愛され、わたしたちはその人の所へ行って、その人と共に住まいを造ります」。これは絵図ではなく事実です。この事実は大いに栄光に満ちた現実であるため、使徒パウロが、これは世々代々にわたって隠されてきたけれども、ついに聖徒たちに知らされた秘密である、この秘密が自分に委ねられたのは、それを神の子供たちに勝利のお守りとして、また天的生活の秘訣として与えるためである、と宣言したほどでした。

聖霊のバプテスマは、私たちの生活における五番目の超自然的事実です。その効果は本質的にキリストの内住と同じであり、私たちがキリストとの合一にあずかるのは聖霊を通してであるのですが、それでもそれはクリスチャン生活における別個の特権であり経験です。預言者エゼキエルは、回心した魂の経験を描写するとき、主が彼らの内に置かれる新しい心と新しい霊について告げた後、次のようないっそう高度な約束を付け加えました、「わたしは、わたしの霊をあなたたちの内に置いて、あなたたちにわたしのおきてに歩ませ、わたしの規定を守り行わせる」。神ご自身の霊が新しい霊の中に入って来られます。私たちは新しい心を持っているだけでなく、その新しい心の中に住まわれる全能の神をも持っているのです。ペンテコステの日以降、これが使徒たちにもたらした変化はとても大きかったため、すべての人が、彼らがイエスと一緒にいたことを知るようになりました。彼らは新しい力を身にまといました。彼らは神の権威と効力を賦与され、それにより彼らの言葉は人々の良心に認罪をもたらしましたし、復活したキリストの御業が彼らの手を通してなされました。すべての人が、彼らの周囲と彼らの上にある超自然的な臨在と力を感じたのでした。

超自然的聖さが私たちの生活の事実となります。聖別は私たちの個人的な美徳、品位や達成ではなく、私たちにおいて現わされるキリストの命だからです。その最善の定義をパウロは一コリント一・三〇で与えています、「しかし、あなたたちがキリスト・イエスの中にあるのは、神によるのです。このキリスト・イエスは、私たちに至る神からの知恵、すなわち、義と聖別と贖いとなられました。それは、『誇る者は、主の中で誇れ』と書かれているとおりです」。

聖別はここでは、私たちの特質としてではなく、私たちの内にあるキリストご自身の命の内なる御業・外なる御業として、明確に認識されています。彼は私たちに至る神からの義と聖別となられました。それは、私たちが自分自身の善良さを誇るのではなく、自分の存在と行いのすべてをキリストの恵みとして認識できるようになるためです。

これはヨハネがその福音書の中で「私たちはみな、彼の満ちあふれたものから、恵みに次ぐ恵みを受けました」と述べている思想と同じです。つまり、彼の恵みは、私たちの中の様々な恵みを構成する供給を与えてくれるのです。謙遜さが欲しいでしょうか?自分の内におられるキリストの霊に謙遜の霊になってもらいなさい。忍耐と愛が欲しいでしょうか?キリストを忍耐と愛として着なさい、そうすれば彼は私たちの内で働いて、私たちを通してご自身の忍耐、無私の生活を生かし出してくださいます。こうして、彼の満ちあふれたものの中から私たちは恵みに次ぐ恵みを受けるようになります。この御業が成就される時、私たちは人々の前に、同輩に優る見本や模範としてではなく、無代価の主権的恵み――これを彼らも私たちと同じように受けることができます――として立つことになります。

キリストは私たちに超自然的な供給だけでなく、聖さの超自然的な基準をも与えてくださっています。この点で、キリスト教は全く人の倫理とは異なります。中国の道徳はあることわざに結晶化しましたが、そのことわざは私たちの黄金律に似ていなくはないものの、それほど明確でも強力でもありません。しかし、黄金律でさえ、新約聖書的聖さの最高基準を表明するものではありません。「自分自身のようにあなたの隣人を愛しなさい」は旧約聖書の道徳です。「新しい戒めをわたしはあなたたちに与えます、わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」。これがキリスト教の超自然的な基準です。「ですから、天におられるあなたたちの父が完全であられるように、完全でありなさい」。これは、世の教師たちの最高の夢さえも超越した目標です。「あなたたちの敵を愛しなさい、あなたたちを憎む者に善を行いなさい、あなたたちを呪う者を祝福しなさい、あなたたちをはずかしめる者のために祈りなさい」。

これは、生き生きとした従順によって実証される時、人の心を畏怖させて、超人的な神聖な力を確信させます。

神の導きはクリスチャン生活の超自然的特権の一つです。聖別されたすべての魂のために、神は明確な計画と神聖な予定を持っておられ、それを平凡な生活全般から引き上げて、際立った崇高なものとされます。それはとても単純な生活で、とても地味な所でなされるかもしれませんが、神がそれを形造り、成形し、用いておられるという事実により、言語を絶するほど高い威厳を帯びます。ヨセフの生涯、エステルの生涯、パウロの生涯は、摂理のロマンスであり、私たち一人一人もそのように魅力的な人生を送ることができます。神は私たちを地上の宮の模範とならせて、立派に建て上げようとしておられることがわかります。

偉大なヒルデブラントが死に瀕していた時、彼は友人たちの何人かに、「自分の人生の秘訣は聖ペテロを自分の全行程の守護聖人としたことであり、自分はこの強力な霊の影響が自分のすべての道を導いてくれるのをずっと感じていたのである」と語りました。なんと優っていることでしょう、ペテロの主を自分の人生の模範とすることは。そして、彼に人生を所有してもらうことは。そうするなら、彼は愛に満ちた誇りをもって、私たちを拠り頼む魂と人生行路の最善の模範としてくださるのです。

これに、神の摂理は神の子供の人生と直接関わっている、と付け加えられるでしょう。特に、私たちの全生涯が神にささげられて彼の高い召命に適うものとなる時、そう言えます。その時、「神を愛する者、すなわち、彼の目的にしたがって召されている者たちには、すべてが共に働いて益となります」という約束が私たちにとって真実のものとなります。これはすべてのクリスチャンに対して同じような意味で当てはまることではなく、文脈にあるように、御子の形に同形化されるという神の御旨にしたがって生きている人にのみ当てはまります。

もしこれが私たちの生活の特徴であるならば、そしてもし私たちがこのように神を真に愛して、二心ではない単一さとその力で神のために生きているならば、私たちは自分を導いている御手の接触によって摂理の車輪が動くのを見るでしょう。

神の御言葉の中に記されている摂理の物語、特に真に神に属する人々の生活における摂理の物語は、なんと素晴らしいのでしょう。ヨセフ、モーセ、ネヘミヤ、ダニエル、荒野で宦官と出会ったピリポ、牢屋から見事に解放されたペテロ――他方、同時刻、彼の追手は神の御手によって打たれました――の物語では、神が支配して状況を変えられました。私たちは、「天においても地においても、すべての権威がわたしに与えられています(中略)見よ、わたしは世の終わりまで常にあなたたちと共にいます」という、私たちの道をすべて覆っているこの約束を、いかに不十分なかたちでしか理解・要求していないことでしょう。なんと私たちは、国家情勢やこの世の事業さえもキリストとその民のために動いているにすぎないことを忘れがちなのでしょう。キリストは万物の上におられるかしらであり、それはご自身のからだである教会のためです。私たちの広大な政治組織や商業活動は、福音を証しして世界を福音化するための道を彼が整えられる機関にすぎません。ああ、彼と共に彼の戦車に乗り、私たちのすべての敵と彼の敵に対する彼の勝利を見ることができるのです!これこそ神の子らとキリストの奉仕の超自然的特権です。

信者の生活で、祈りの神秘と務めほど、超自然的で神聖な不思議はありません。力ある政治家のダニエルは、公務や自分を待っている宮廷からの訪問者たちから離れて、丸三週間、クロスよりも偉大な王の御座の前で顔を伏せて祈り続けました。彼が祈っている間、地上最強の征服者は眠れませんでした。彼は自分の国の保存文書とユダヤ人に関する記録を求め、夜が明けて朝になると、書記官を呼んで、次のような勅令を口述しました、「地のすべての王国を、主なる天の神は私に賜った。彼は私に、ユダにあるエルサレムで彼に家を建てるように命じられた。彼の民であるあなたたちのうち、そこに行く者が誰かあるか?その者の神がその者と共におられる、その者を上って行かせよ」。

この異教徒の征服者は、主なるエホバについてどうやって知ったのでしょう?どうして彼はイスラエルの神を顧みたのでしょう?どうして、自分の土地にいる小さなイスラエルの捕囚の一団を、畏怖あるいは好意のゆえに、顧みたのでしょう?御座からの接触以外の何が、彼の心にそのような考えを抱かせ、彼の口にそのような言葉を述べさせられたのでしょう?ああ、これはダニエルの祈りに対する答えだったのです。小部屋での無言の祈りが王笏に触れて動かしたのです。捕囚の民は立ち上がり、ゼルバベル、エズラ、ネヘミヤと共に帰途につきました。宮は廃墟の中から興され、都の城壁は回復されました。時代は流れて、ついに神の御子ご自身が王国の福音を宣べ伝える時が来ました。ダニエルの祈りに応えて彼に与えられたこのビジョンは、最後の時代がすべて過ぎ去り、諸々の帝国の行程が終わり、預言のビジョンが成就し、異邦人の時が終わり、主ご自身が来臨されるまで、閉じることはありません。

不思議中の不思議!神秘中の神秘!奇跡中の奇跡!御父の御腕に触れる子供の手が宇宙の車輪を動かします。愛する人よ、これがあなたの超自然的地位であり、私の超自然的地位です。その門の上に、次のような感動的な招きが読み取れます、「主はこう言われる(中略)わたしを呼べ、そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない大いなる素晴らしいことをあなたに示そう」。