「キリストもまた教会を愛して、そのためにご自身を捨てられました。それはキリストが教会を聖化し、言葉による水の洗いによって教会を清めるためであり、またそれは、しみやしわや、そのようなものが何もなく、聖くて傷のない栄光の教会を、彼がご自身にささげるためです。」(エペソ五・二七)
私たちの人間生活には社会的・集団的要素があります。したがって、キリスト教は超自然的な人だけでなく、神聖な社会も含んでいます。アダムは人類全体を代表していましたが、キリストも一つの民を有しておられます。その民は有機的なまとまりとして、命と交わりの特定の絆によって共に結ばれており、特定の共通の特徴の下で結ばれています。
人類の物語の初期の頃、人類は二つの大きな社会に分かれていたことがわかります。一つはカインの家系で発達した人の子ら・娘らと称されているものであり、もう一つはセツの家系とつながっている神の子らです。
この二つの系統が分かれると直ちに、創世記四・二六の次のような驚くべき記述があります、「その時、人々は主の御名を呼び求め始めた」。この節をもっと正確に、「その時、人々は主の御名によって自らを呼び始めた」と訳すことができます。これは神の社会の組織であり、神の御名をもって組織されました。彼らは、神ご自身の特別な民として、まさに主の御名によって自らを呼んだのです。
これと見事に調和するように、新約聖書のはじめの章から、信者たちの社会にも特別な名があったことがわかります。それはキリストの御名でした。「弟子たちはアンテオケではじめてクリスチャンと呼ばれるようになった」。この名はおそらく彼らの周りの世人から与えられたものであるだけでなく、自分たちをキリストとより密接に、直接結びつけるために、彼らが自ら名乗ったものであろうと、ある人はさいわいにも示唆しています。彼らは神の社会でした――文字どおり、キリストの者だったのです。
さて、イエス・キリストの教会は神の社会です。主イエスの教会の超自然的な性格と運命ほど、この妥協の時代に強調する必要のある真理はありません。キリストご自身が、この世を去る前に、その天的性格を宣言されました。すなわち、ご自身の神性に言及しつつ、「この岩の上にわたしはわたしの教会を建てる。地獄の門もそれに打ち勝つことはない」と宣言されたのです。
霊感を受けた使徒たちによる聖霊の後の教えでは、教会の教理が実に豊かに展開されています。また、この神の社会の基本原理が、建物・からだ・花嫁という三つの印象的な絵図によって非常に明確にされています。
教会は神聖なかしらを戴いています。「据えられている土台以外の土台を据えることはだれにもできません。その土台とはイエス・キリストです」。キリストは教会と大いに密接に関係しているため、教会についての偉大な章である第一コリント十二章では、教会はまさに御名で呼ばれているほどです。キリストの教会ではなく、キリストと呼ばれているのです(一コリント十二・十二)。「体が一つであっても多くの肢体があり、体のすべての肢体が多くあっても一つの体であるように、キリストも同様です」。人がその体と同一視されるように、彼はここでご自身を教会と同一視しておられます。人のどんな名も、教会を支配するほど偉大ではありません。どんな単一の教理も、キリストの教会に名前と特徴を与えるほど重要ではありません。方法にはそれなりの役割がありますが、メソジスト教会を構成するのに十分なほど重要ではありません。バプテスマはすべての信者が聖書の中で大いに重視しているものですが、バプテスト教会の設立を正当化するほど核心に迫るものではありません。長老主義は奉仕者の平等性を認めていますが、これさえもイエスの御名に代えて長老派と呼ぶ根拠としては不十分です。監督制度は主教の尊厳と教会統治の神聖さを認めていますが、監督教会という名はキリストの教会の尊厳が要求するよりも劣った名前です。
キリストの命と交わりの中でこの集団のすべての区分を受け入れるのはよいことですが、すべてがキリストの輝かしい御名の中に失われる方が、遥かにキリストの名誉になるでしょう。キリストは教会のかしらです。彼だけが教会を統治・支配しなければなりません。彼だけが教会の目的・目標、すべてのすべてでなければなりません。
教会には神聖な憲法があります。「山であなたに示された型にしたがってすべてのものを造りなさい」が古代の幕屋の掟でしたが、これは教会にも当てはまります。幕屋は教会の型だったのです。
人は自分の理論や好みにしたがって教会を建てることはできません。神は、その礼拝・決まり・資格の問題に決着をつけられました。教会であると主張していても、再生された構成員、霊感された御言葉、主イエス・キリストの超自然的な臨在・力・権威に基づかないどんな団体も、日曜クラブや文化会館ではあるかもしれませんが、主イエス・キリストの教会ではありません。
教会には超自然的な命があります。私たちは教会の中へと生まれなければなりません。それに加えられることはできません。私たちは主に加えられ――使徒行伝のこの節(五・十四 訳注)は文字どおりにはこう訳されなければなりません――それによって教会に加えられるのです。
「一つ御霊によって(by one Spirit)」もっと正確に言うと「一つ御霊の中で(in one Spirit)ユダヤ人も異邦人も、奴隷も自由人も、私たちはみな一つからだの中へとバプテスマされ、みな一つ御霊を飲むようにされました」。私たちが教会に結合されるのは、聖霊によって(by the Holy Ghost)であるだけでなく、聖霊の中で(in the Holy Ghost)でもあります。この二つの前置詞の違いは簡単な絵図で説明できます。
海の中の船は海とつながっていますが、その一部ではありません。別個の物質です。しかし、大河であるハドソン川は全くそうではありません。ハドソン川は、この瞬間も海に流れ込んで、海と混ざり合っています。ハドソン川は海の一部です。それは海と融合しています。ハドソン川と海は一つです。
これが、私たちが教会の一員になる方法です。私たちは聖霊を通して、このからだの共通の命にあずかるのです。
これは、エバの誕生と婚姻という予型的物語で明らかにされています。彼女はアダムから同じ命をもって造られ、その後、アダムに戻されて彼の花嫁になりました。
同じように、教会はキリストの命から生まれ、その後、キリストの愛する者としてその御腕に戻されます。
この超自然的命以外の何ものも、決して人をキリストの教会の構成員にすることはできません。秘跡では不可能です。教会基金に寄付してもだめです。公職に就いてもだめです。手を合わせることや、叙任・堅信の儀式でもだめです。これは天から生まれた一つです――命による合一です。
エペソの教会には立派な組織があり、多くの働きがありました。正統的であることに大いに熱心であり、異端者たちを念入りに捜し当てました。しかし、それにもかかわらず、キリストは大いに悲しんで、嫌悪感すらも覚えていたので、エペソの燭台をその場所から取り除こうとされるほどでした。それは彼らが初めの愛を離れたためであり、また、別の教会について彼が文字どおり表現されたように、彼らが「死にかけて」いたためでした。
教会には超自然的な目的があります。教会は地的王国ではなく、天的民です。教会の主と同じように、教会は「わたしの王国はこの世のものではありません」と言うことができます。教会は、莫大な寄付金、社会的優位性、宗教議会、市長選、王室の後援と、何の関係があるのでしょう?愛する方の腕に寄りかかって荒野から上って行くのが教会です。偽物の、地的な、堕落した教会の目印は、地上の権力という獣に乗って、肉の腕と同盟を組み、「全世界の上に君臨する者」という誇らしげな銘を帯びている姿です。
大背教の始まりは、初代教会の初期の主教や司教たちが皇帝の晩餐会で最上の席を得たいという野心を抱いたことでした。誰が最初に晩餐に入るのか、あるいは教会の中に立つのか、に関するこの小さな争いこそ、まさに法王制の始まりだったのです。
ああ!今日の民主主義の時代においてさえ、世の好意や一般群衆の喝采という賄賂によって、教会の純粋性は致命的打撃を受けて、教会はラオデキヤの状態に陥りました。ラオデキヤとは「人々を喜ばせること」を意味します。世の微笑みに浴していますが、侮辱されて憤っておられる主の恐るべき切迫した裁きの縁に立っているのです。
キリストの教会の大きな目的は何でしょう?第一に、教会は神を礼拝し、天におられる自分の御父をあがめなければなりません。第二に、真理を証ししなければなりません。教会は真理の柱また冠と呼ばれています――つまり、柱がアーチ道をその碑文も一緒に支えるように、教会は啓示という偉大なアーチ道を支え、世人の前で神の証しを掲げるように召されているのです。したがって、教会の天的な目的は伝播、伝道、罪深い世人をその懐に集めること、彼らを教えてイエスの命の中に建て上げること、天のための訓練校となって全人類に福音を与えることです。これが教会の天的な召命です。教会は地上における唯一の神聖な社会であり、本質的で、永遠で、時の荒波と崩壊する現世を生き抜く、唯一の機関です。教会の高い召命を理解しようではありませんか。そして、ああ、教会をそれに忠実にならせようではありませんか!
教会は超自然的力を賦与されています。教会に聖霊のバプテスマが与えられています。教会にはキリストの生ける心が宿っており、その一方で、かしらは仲介のために御座に座して、教会の益のために万物を支配しておられます。
キリスト教はこの点で、他のどの組織とも異なります。どの組織にも一人の頭がいますが、その心は死んで冷えています。キリスト教の心は聖霊であり、聖霊は依然として神の全能のかぎりを尽くして教会の懐の中に生きておられ、教会の主の復活の命で教会を生かしておられます。聖霊こそ、教会の証しを用いて世に罪と義と裁きについて確信させる方です。聖霊こそ、教会のメッセージに、信じるすべての人を救う神の力を着せる方です。聖霊こそ、教会の指導者たちに知恵を与え、その計画に効率性を持たせる方です。聖霊の臨在こそ、教会を他のすべての社会から区別し、モーセがいにしえのイスラエルについて述べたように、これを教会の際立った栄光とするものです。教会の目的は、強大な知性でもなく、大きな富と力を持つ組織でもなく、生ける神に寄りかかることです。
また、彼は物理的領域でも、教会に超自然的な力を着せてくださいました。ヨハネがイエスのもとにその務めの正当性の証拠を求めて使者を送ったところ、次のような返答がありました、「行って、あなたたちが見たり聞いたりしていることをヨハネに告げなさい(中略)耳の聞こえない人は聞こえるようになり、死人はよみがえらされ、貧しい人には福音が宣べ伝えられている」。これらは今もなお、キリストがご自身の真の教会にお与えになる確認のための印です。長い間、教会がそれを放棄してきたことを、神が赦してくださいますように!この終わりの時代、教会がそれらを取り戻して、そのあるべき場所に保ち、決して無視したりしないように、神が助けてくださいますように。それらはレベカの衣についていた宝石のようであり、イサクの愛の地的記章です。教会の衣は聖さであり、教会の宝石は力の賜物です。
キリストの御旨は、ご自身の教会があらゆる階層の人々――病人、孤児、異国人、貧者、無知な人、失われている人――の必要を満たすための、あらゆる形の奉仕を擁することです。ああ、使徒的な原始教会の復興が必要です!ああ、太陽を着て、星々を冠とし、地上で真夜中に暗く光る月を足の下にしている、女のビジョンが必要です!
教会には超自然的な支えがあります。摂理的統治のための資源をすべて持っておられるキリストが、教会のかしらであり光です。キリストは教会を遣わすとき、「すべての権威がわたしに与えられています(中略)見よ、わたしは常にあなたたちと共にいます」という十分な保証を与えてくださいます。教会は小羊の妻であり、また彼のかぎりない富の共同相続者です。それなのに、帽子を手にもって、地の醸造業者、蒸留業者、賭博師、投機家たちから、蚊の涙ほどのわずかな贈物を乞い求めて歩き回っているとは何事でしょう。イチゴ祭りや箒訓練やありとあらゆる筆舌に尽くしがたい愚挙のためのチケットを売って、大衆を引き寄せる檀上興業のために文学講演局や安劇場と競い合っている有様です。時には乱れたダンスにまで落ちぶれて、日曜学校に訪問者を集め、説教者の給料不足を補う助けとするほどなのです。どうか神が教会に罪を自覚させてくださり、教会を救ってくださいますように!
教会には超自然的な運命があります。教会の召命は栄光の教会になることであり、いつの日かキリストは、しみやしわや、そのようなものが何もない教会をご自身にささげられます。教会は、黙示録が示す新しいエルサレムの全き栄光をもって輝きます。教会の花婿でありかしらである方の光と麗しさを反射しつつ、燦然と輝きます。教会は宇宙の驚異となります。訪問者がすべての星からやって来て教会を見つめ、その一方で、付き添いの御使いたちは、「ここに上って来なさい、私はあなたに小羊の妻である花嫁を見せよう」と言うでしょう。
美しい古い伝説によると、人の最初のパラダイスのまさに中心には宝石の宮があり、アダムは堕落前の無垢な頃、そこで神を礼拝しました。その床は輝く金で、壁はざくろ石、碧玉、ルビー、エメラルド、紫水晶で、天蓋は輝くダイヤモンドでした。しかし、堕落により荒廃して、その宮は粉々になり、そのかけらはことごとく地上に散らされました。今日、それらのかけらは小さく砕けた宝石という形で山の中心や海の底に見つかります。伝説によると、やがて、来るべき時代には、それらのかけらは再び結晶化されて、さらに輝かしい宮に、すなわち、ヨハネが幻で見た新しいエルサレムになります。
まあ、伝説がどうであれ、少なくとも、今日の神の子供たちは、宝石のかけらのように、あらゆる民族や地方に散らばっていますが、比類なく貴重で価値のある宝石であることはわかります。キリストの次に地上で最も尊いものは、キリストの民です。
地上での私たちの働きはみな、不完全なものでしかありません。建設者たちは、山にいたソロモンの職人たちのようです。石や材木を一つ一つ送り出していますが、まだ建物は見えません。教会は、ソロモンの宮がそびえ立ったように、静かな威厳をもってそびえ立つでしょう。その堂々たる輝き、外側の土台、天空の塔、栄光に満ちた輝き、超自然の光を見る時、私たちは自分が喜んで費やした労苦や涙を悔んだりせずに、しばしば歌ったこの歌を歌うでしょう、
主よ、私はあなたの王国を、
あなたが住まわれる家を愛します、
教会を私たちの祝された贖い主は買い取られました、
ご自身の尊い血をもって。
結論として、イエスの教会についての輝かしい観念を、私たちのちっぽけな宗派の観念と同一視することによって、決して矮小化しないようにしようではありませんか。神の真の教会のあらゆる枝を愛し、大切にしましょう。しかし、立ち上がってそれらを超越して神聖な観念に至り、私たちのすべての交わり・交際・提携において、聖徒のあの偉大な交わり――これは使徒信条と永遠の希望の一部です――を常に保とうではありませんか。「脱落者ではなく、上って行って出かける者になろう」と言われてきました。この句から口語調を取り去ると、これが意味するのはまさに、教会をより高く上げて、死にゆく世界に福音をさらに伝え、そうしてかの日を早めよう、ということです。かの日、彼は、全体の集会と天に記されている長子たちの教会に、新しいエルサレムと御使いたちの無数の群れに、すべての人の裁き主である神に、成就された義人たちの霊に、臨まれるのです。