第五章 超自然的な体

A. B. シンプソン

「イエスを死人の中から復活させた方の霊が、あなたたちの中に住んでいるなら、キリストを死人の中から復活させた方は、あなたたちの中に住んでいる彼の霊を通して、あなたたちの死ぬべき体をも生かしてくださいます。」(ローマ八・十一)

体の贖いはキリスト教の真理として受け入れられています。クリスチャンの間の主な違いは、その適用範囲に関するものです。多くの人は、私たちの贖いのこの部分は、現在の時代の終わりに、私たちの主が来臨される時、携挙と復活というかたちでのみ実現される、と信じています。他の人たちは、現世で将来の復活の力をある程度先取りできると、また、天の前味わいをするのと同じように、この地上でも自分の救いのこの部分を前味わいできると、信じるよう導かれてきました。

これが、私たちの体における聖霊の働きに関して、いくつかの箇所で使われている「初穂」や「担保」という言葉の意味するところであると、私たちは信じています。担保とは、後で完全なかたちで与えられるべきものの最初の分割払い、現物保証のことです。私たちの霊的な未来の担保として、聖霊は私たちの霊の中に天の栄光の前味わいを与えてくださいます。しかし、からだの復活の担保として、聖霊は私たちの死ぬべき体にキリストの肉体の命を与えてくださいます。そして、来るべき時代に栄光の体で無限に豊かに享受することになるものを、私たちに受け取れる範囲内で、私たちの現在の物質的体に前味わいさせてくださるのです。

この偉大な真理の予兆を、堕落の物語に見ることができます。罪の結果、人は直ちに、不死の肉体の象徴であり源である命の木から引き離されました。しかし、永続する肉体の命のこの供給がやんだとはいえ、永遠に絶たれたわけではありません。というのは、神はエデンの門の所に、御前に近づくための輝かしい手だてを設けられたからです。その手だてはケルビムと炎の剣として描写されており、その炎の剣は命の木への道を守るために全方位に回転していました。ケルビムと剣というこの象徴的絵図は神の裁きの象徴であるとは信じられません。むしろ、神のあわれみの象徴なのです。ここで使われているヘブル語の動詞はシェキナであり、文字どおりには、彼はケルビムと炎の剣をシェキナされた、と訳されます。ご存じのように、後の幕屋の象徴で再登場するシェキナとケルビムは、神のあわれみとイスラエルとのエホバの契約の印でした。炎の剣は超自然的な光、おそらくはシェキナそのものだったのであり、神の臨在と礼拝に臨む祝福とを示していたのである、と考えざるをえません。

私たちがこれまで恐怖や嫌悪の対象としてきたものは、堕落した人のために開かれた最初のあわれみの門だったのです。それは命の木の道を守るためだったという文意は、「守護する」という言葉を用いた方がより適切に表現できるかもしれません。それは命の木への道を守護して、それに導くものでした。この木から罪深い人は天然の面では遠ざけられましたが、今や、より高度な恵みの面に基づいて近づくことができます。肉体の命は堕落によって失われましたが、偉大な贖いによって取り戻せるのです。あのケルビムの印は、この贖いの輝かしい象徴だったのです。

私たちは今、失われた力を取り戻せます。天然によってではなく、超自然によってです。エデンの労苦や肉の努力によってではなく、私たちの贖い主であり生けるかしらである主イエス・キリストによってです。

神聖な啓示を辿っていくと、次にアブラハム、イサク、ヤコブの物語で、私たちの体における神の超自然的命の明確な現れに出会います。ここでは、約束の子が生まれる前に、天然の力は失われました。これは、神の御子の誕生は天然的な方法ではなく超自然的な方法によることを示す予表のようなものでした。約束の子であり、来るべき方の最初の型であるイサクは、両親の天然の命が尽き果てて、神が超自然的に直接触れて彼らの体に新しい命をお与えになるまで、生まれることはできませんでした。

これが、パウロがアブラハムの信仰について述べたときに言わんとしたことです。アブラハムは、自分の体は死んだも同然だと認めながらも、落胆しませんでした。なぜなら、信仰によって力づけられ、神に栄光を帰し、天然では不可能なことを神は超自然的な手段で行ってくださると、直接神を仰いだからです。神は私たちの死ぬべき体にも力を与えるためにご自分の民の心を神聖な源に引き寄せてくだることを示す、これほど明快で強力な実物教材があるでしょうか?キリストはこの超自然的な体をご自分の奥義的からだの肢体たちのために備えておられることを示す、これほど見事な超自然的体の予表があるでしょうか?

イスラエルの物語は、神がご自分の子供たちに与えることのできる超自然的な体の命を示す意義深い絵図でした。荒野にいる間ずっと、彼らは神の直接的御業によって肉体的に支えられました。彼らの生活の象徴はまさに燃える柴であり、燃えているのに燃え尽きなかったのです。イスラエルのエジプトからの召し出しに先立つこの偉大なしるしは、途方もない圧迫も無限の力と神聖な守りによって克服されるという思想を自ら体現するものだったのです。これが始終一貫して選ばれた民の物語でした。

実に、モーセ自ら、それを振り返ってこう述べています、神が彼らをあのように巡礼の道に導かれた目的は、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉によって生きることを、彼らに教示することだったのである、と。それは超自然的な肉体の命の絵図であり、この命は神と共に歩んで神から直接得るものだったのです。

これはこの国全体に言えたように、その国の最も優れた個々人にも言えました。ですから、モーセの人生は明らかに超自然的でした。彼は、たいていの人なら遺書を書き、葬式の準備をしているであろう八十歳の時に、偉大な働きを始めました。そして、百二十歳になっても、彼の目はかすまず、体力も衰えなかった、と記されています。それどころか、彼は険しい山に悠然と登り、円熟した姿で神の戦車に乗り込み、勝利の力と自発的明け渡しをもって栄光の中へと進んで行ったのです。

カレブの人生も超自然的でした。確かに彼は、逆らう民――彼らのせいで彼は約半世紀のあいだ約束の地の外に留め置かれました――の抵抗によって、心を痛め、消耗し切っていました。しかし、八十五歳のこの老人が、ヨシュアの前に立ち、カナン人の砦であるヘブロンの古城砦への攻撃を率いる機会を人生最高の名誉として求めて、こう宣言したのです、「私は完全に私の神である主に従いました(中略)今、ご覧ください、主は私を生き長らえさせてくださいました。今日、私はなおも、モーセが私を遣わした日のように強健です。戦いにも、出るにも入るにも、私の力は今も、あの時と同じままです」。彼は、自分の肉体の力はすべて神の祝福のおかげであり、従順と忠誠のさいわいな結果である、としたのです。

しかし神は、サムソンの素晴らしい物語によって、超自然的な体のこの偉大な原理について、より明確な実物教材を私たちに与えてくださっています。彼の人生の一つの目的は、肉体の力と神との正しい関係のつながりを示すことだったように思われます。ナジル人の分離の誓いを守って神の霊で満たされていた時、彼は比類ない筋力を持つ巨人でした。しかし、この聖なる分離の誓いを破って聖霊を失った時、彼は麻屑のように弱くなり、力なく敵の手中に陥りました。おそらく、体重は一オンスも失わなかったでしょうが、力の秘訣である聖霊の命を失ったのです。電線の強さを決めるのはその大きさではありません。電流に満ちた電線は、髪の毛一本ほどのものでも、レバノン杉の一本よりも強力です。電線を流れる電流が、電線を強くするのです。

同じように、この超自然的な命――神は学び従うことを望んでいる人々をこの命の中で導いておられます――は、肉体の鍛錬の結果ではなく、神の命の開示であって、来るべき世の目に見えない力の兆しなのです。

この同じ原理がダビデの物語にも示されています。ダビデは、自分の武勇と勇気と輝かしい手腕は神の助力のおかげである、と常々自覚していました。彼は超自然的な体を着せられていました。そして、エホバについてこう述べることができました。「彼は私の手に戦うことを教えてくださるので、鉄の弓は私の腕によって砕かれます」「彼はあなたのすべての病を癒し、あなたの命を滅びから贖い(中略)あなたの口を良いもので満たされるので、あなたの若さは鷲のように新しくなる」。

しかし、新約聖書に目を向けると、私たちの偉大な教師であり模範である主イエス・キリストについて最初に目にするのは、これと関係しているものです。彼は荒野に立ち、サタンとの最初の戦いをくぐり抜けて、私たちの人生に対する偉大な見本を私たちのために示してくださいました。その誘惑の最初のものは肉体的なものであり、肉体の力を人間的源から得るよう誘惑するものでした。彼はそれにどう対処されたのでしょう?――すでに申命記から引用した節によって、荒野におけるイスラエルの物語から学んだ教訓によってです。悪魔は、なんらかの手段でこの窮地を脱しなければならない、地的救済策に頼らなければならない、と彼を説得しようとしました。彼はサタンに、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉によって生きる」と返答されました。彼は、人の命を支える人間的なものや地上のものを否定されたわけではありません。そうではなく、人間的なものや地上のものに頼ることに抵抗されたのです。

パンにはパンの役割がありますが、大事なのは「パンだけ」ではありません。人が発すべき、「生き延びなければならない」という言葉よりも大事な言葉があります。人が真に発すべきは、「私は試練の中で神にまみえ、教訓を学び、ここに自分を連れてこられた神の御旨を成就しなければなりません。神が自分をここに連れてこられた御旨は、神は私の体に対しても十分であることを示すことです。この御旨が成就されるまで、私はここに立っていなければなりません。神が私に救いと解放を与えてくださるまで、神に身を委ねなければなりません」という言葉なのです。

それで、彼は悪魔の処方箋を拒んで、神の口から出る命に信頼しつつ待たれました。しばらくして、御使いたちが彼に供給しました。まず、御父が神の命を供給され、次に、御使いたちが天然のパンを供給したのです。

とても意義深いことに、この引用でキリストは「人の子」とは言わずに「人」と言われました。この教訓はご自分のすべての弟子に対するものであることを彼が言わんとされたのは明白です。この教訓は彼だけでなく、私たちのためでもあります。

極端に走るおそれがあるのは事実です。どの真理にも行き過ぎるおそれがあります。無謀にも天然のものを無視するおそれがあります。そのようなことを教えるつもりは神にはありません。食物や睡眠にも果たすべき役割がありますが、たとえそれらがなくても必要な時に神は力づけてくださることを学ばないかぎり、私たちはそれらを正しく享受することを学んだとは言えません。

愛する人よ、私たちの問題は、試練の時、神の御思いに応えて神の恵みをあがめることよりも、救い出されることを切望することにあるのではないでしょうか。キリストがあの戦いの中で配慮されたのは、パンを得ることよりも、むしろ、神の十全性を示し、御父の愛に絶対的に信頼して、御父のみこころに従順に立つことだったのです。

私たちの祝された主は、この深い霊的真理をきわめて深遠な講話の中で私たちに教えてくださっています。そして、偉大な原理をキリスト教時代全体を通して私たちのために残してくださいました。この原理は、その上に主ご自身が自らの生活を建て上げて、ご自身の体において敵の攻撃に勝利されたものです。その講話は、その教えがあまりにも際立っており、その範囲があまりにも深くて心を探るものだったため、弟子たちの多くはそれを受けいれられませんでした。実に、十二人の例外を除いて、彼のガリラヤの群れ全体がそのような深い教えにうんざりして、そのために彼を全く見捨ててしまったのです。「これは難解な言葉だ」と彼らは答えました、「誰がこれを聞いておられよう?」。

その説教とは、ヨハネによる福音書の六章にある生けるパンについての素晴らしい講話でした。その講話にみなぎっている一つの思想は、主イエスが御父から力を引き出されたように、私たちも霊的・肉体的命を主イエスから直接引き出さなければならない、というものです。その一つの基調を成すのは、「生ける父がわたしを遣わされ、わたしが御父によって生きているように、わたしを食べる者はわたしによって生きます」という深遠な節です。

彼を食べるとは、彼が明確に説明しておられるように、命と力の源として彼の肉と血を取ることを意味します。これが私たちに永遠の命を与える、と彼は私たちに教えておられます。復活に至るまで流れ続ける命です。というのは、これに関連して彼は、わたしはその人を終わりの日に復活させる、と付け加えておられるからです。赤ん坊が母親の命によって生きるように、信者はイエスの命によって生きます。そして、「神のうちに、私たちは生き、動き、存在しているのです」という深遠な御言葉が、どんな言葉よりも真実なものとなります。

しかし、この深遠な真理は、使徒パウロの務めと模範を通して、後の聖霊の教えの中で、きわめて深くかつ壮大に解き明かされています。この真理は、彼の教えと経験全体を、天の泉から発する金色のパイプのように貫いています。

非常に生き生きと、彼は私たちの生けるかしらであるイエス・キリストとの合一の教理を展開しています。「私たちは彼のからだ、彼の肉体、彼の骨の一部なのです」と彼は述べています。主は私たちの体のためであり、体は主のためです。私たちの体はキリストの肢体であり、聖霊の宮です。私たちの内に住んでおられる御霊は、私たちの死ぬべき体を生かしてくださいます。これは、墓からよみがえらされるであろう私たちの将来の体を意味するものではありえないことは確かです。それはロザハムがうれしそうに訳しているように「死の運命にある体」であり、御霊が今その中に宿っておられる体であり、死に瀕しているけれどもまだ死んでいない体です。そして、聖霊の内住の命によって神が備え、活気づけ、新しくしてくださる体です。

第二コリントの四章で、彼は他のどの箇所よりもさらに十分に、この超自然的体の教理を展開しています。そこで彼は私たちに告げています、彼の天然の命は絶えず死にさらされているが、それはイエスの命もまた、彼の死ぬべき肉体において現わされるためである、と。

このイエスの命は、パウロ自身の天然の命とはもっと別のものであり、遥かに超越しているものです。人々がパウロをルステラの通り中引きずり回して、死んだと思って舗道に放り投げた時、パウロは死にかけていました。しかし、その時、「イエスの命」が臨んで彼を救ったのです。そして、弟子たちが彼を取り囲んで立って祈ったところ、彼の沈みかけていた心は天に引き上げられ、そこで活気づける神の接触を受けて、自分の足で立ち上がりました。そして、天から賜った働きに再び出かけて行ったのです。

このように彼は生涯進み続けました。彼自身が強かったわけではありません。彼が述べているように、私たちはこの「宝を土の器の中に持っています。それは、この卓越した力が神のものであって、私たちからではないことが現れるためです」。そして、ロザハムの素晴らしい訳から引用すると、彼はこう付け加えました、「四方から私たちは激しく圧迫されますが、窮することはありません。道がないようですが、抜け道がないわけではありません。追及されますが、見捨てられることはありません。投げ倒されますが、滅ぼされません。絶えずこの体にイエスの致死力を帯びています。それはまたイエスの命が私たちの体に現わされるためです」。

この崇高な思想を仔細に追うことは紙面と時間の都合で許されません。これに関するもう一つの例を追加するだけにします。それは、彼が述べている肉体の棘についてです。これは多くの研究者や注解者を困惑させてきました。

さて、これまで説明してきた原理により、この難問を解くことができます。さしあたってパウロの棘は肉体の病気だったとしても――それに関して私たちは深刻な疑念を抱いていますが――、また、彼の祈りに応えて文字どおり取り除かれなかったのだとしても、依然として次の事実は残ります。すなわち、その代わりにパウロになにかが与えられたのです。それは棘を取り除かれるよりも良いものであり、棘を取り除く代わりになるようなものでした。彼はそれをキリストの力と呼んでいます。キリストの愛の慰めでも慰安でもありません。棘を負うための忍耐でもありません。それは実際的な力であり、その力を通して、棘を取り除いてもらう場合よりも多くのことを行えたのです。ですから、少し後に彼は、「まことに、使徒のしるしは、あなたたちの間で、しるしと不思議と力あるわざとによって、忍耐を尽くして現されました」(二コリント十二・十二)と言うことができました。実に、この棘がまだ残っているときに、彼は「私が弱い時、私は強いのです」と断言したのです。

ですから、その棘が肉体的な弱さであって、取り除かれなかったのだとしても、それでもなにかが彼に与えられたことは確かです。そのなにかとは、実際の力、十分な力、彼自身の全き健全さや健康に優る力を成すものでした。

これこそ、まさにこれまで述べてきたものです。それは目に見えない命でした。超自然的な活力の源でした。より太い電線ではなく、電線を流れるより強い電流でした。パウロの命ではなくイエスの命だったのです。

さて、神癒にまつわる多くの不可解な経験はこれで説明がつきます。あなたの体の実際の状態は常に治してもらえるとはかぎりませんが、イエスを仰ぎ見続けさえするなら、あなたに与えられている内なる力、あなたの存在の深みにある超自然的な泉、活力と生命力を、あなたは見いだすでしょう。この活力と生命力によりあなたは、自分の上にのしかかるあの重苦しい症状を克服し、肉体の命に対するあらゆる圧迫をその症状にもかかわらず軽々と飛び超えることができるのです。

神はこのように私たちに、目に見えない領域に生きること、霊の領域の水の上を歩くこと、空虚に思われるものを信仰によって踏みしめてその下に岩を見つけることを、教えようとしておられるのです。

ですからパウロは、第二コリント四章の超自然的な体についての崇高な議論を次の節――この節はこの原則から離れるなら不明瞭になってしまいます――に要約しています。「こういうわけで、私たちは落胆しません。それどころか、私たちの外なる人が朽ちていっても、内なる人は、日ごとに新しくされていきます」。この議論は完全に肉体の命に関するものなので、彼が言わんとしているのは次のことにちがいありません。すなわち、私たちの霊的力の天然的・物質的源は衰えても、私たちの存在中にある隠された神聖な源は新しくされて強められつつあるのです。しかし、彼が私たちに告げているように、それは私たちが見えるものではなく見えないものに目を留めている間だけです。それは、私たちが非物質的な領域、見えない領域における信仰経験にとどまっている間だけです。その領域に神は住んでおられ、私たちも神と共に住みます。そして、世人の知らない食物を食べて、復活した神の御子の御心から私たちの命をいただくのです。

結論として、この超自然的な体の偉大な真理は、不信仰に反駁するためのきわめて実際的な現在の真理です。それはこの時代の不信仰に対する反証です。ティンダル教授は、キリストの弟子たちに肉体的奇跡を実際に起こすよう要求しました。賢明な人でそのような僭越な要求に挑む人はいませんでしたが、神はそれを引き受けられました。その日以降、文字どおり数千の神癒の事例があり、それらの事例は多くの点で使徒たちの記録と同じように顕著なものだったのです。

神が望んでおられるのは、私たちが今日、不信仰な世に、ご自身の臨在と力は人間の生活と経験のあらゆる面で現実のものであることを示すことです。私たちがしるしを求めて神を試みても、神は私たちにしるしを与えてくださいませんが、私たちを不信仰な世に対するしるしとし、御言葉をそれに続くしるしによって確証してくださいます。ただしそれは、私たちが忠実に証しして、信仰によって神ご自身の約束の成就を要求するならばの話です。

超自然的な体の経験は、魂のより深い命に付随して与えられる祝福です。体は、神と調和しているかあるいは神との実際の接触がないかに応じて、聖霊がご自身を霊に伝達する媒体になったりならなかったりします。ある人は「回心した体」という句を用いました。神の接触を受けている体もあれば、私たちの足下にある土くれのように冷たくて汚い体もあります。神が心の中に入るために、低次の肉体器官という媒体を通らなければならない時、そこには明らかに妨げがあります。食事を熱い皿で取るか、冷たい皿で取るかには、大きな違いがあります。冷たい皿は、これまで出された最高の夕食ですら冷ましてしまいます。ですから、聖霊はご自身を私たちの霊に伝達する媒体が霊的であることを望まれます。私たちの体全体が神の臨在と聖霊のバプテスマで浸透されている時、私たちは神の御思い、影響、提案に、より明確に接触することができます。私たちの環境は聖なる天的なものになり、都の城壁は要塞のように敵の侵入から守られるようになります。

たんなる天然的健康や物質や器官には、生まれながら利己的で天然的な欲求への傾向があります。しかし、キリストが私たちの心を満たされる時、聖くないものに対する欲求は取り除かれます。そして私たちは、死すべき肉体に神の接触を受けたことのない人々の強い感覚的命から発する、無数の悪の暗示から救われます。

神癒は、その最も深遠で最も高度な意味においては、自己耽溺や地的な考え・感覚・行為に向かう多くの傾向性から救うものです。私たちの全存在が、神が奏でられるよく調律された楽器となります。そして私たちは自分の体で神をあがめることを学びます。私たちの体は神の体でもあります。しかしそれは、霊が天然のあらゆる低次の領域で神の接触に共鳴し、私たちの存在の通路が神の臨在の啓示に対してすべて開かれて、それにより、どこまでが体でどこからが霊かわからなくなって、「主に対して聖」と私たちの存在のすべての繊維に書き記されるほどになるならばの話です。

この超自然的な命を経験することにより、私たちの奉仕の効率は大いに向上します。それにより、私たちは無数の肉体的障害や自己憐憫・つぶやき・落胆から救われるだけではありません。困難な奉仕のための活力や能力が高まって、辛抱強さを与えられるだけではありません。神の接触を受けている体が行う奉仕の質は遥かに高いのです。神のために語り歌う声には、たんなる土くれの楽器を使う場合よりも、強い響きがありますし、恵みをより直接的に供給することができます。神に触れている足は、神の使信をより早く伝えるだけでなく、より直接的に霊的な結果を成し遂げます。手の感触が異なるのです。この天の接触がなければ決して表明されえなかったものが、この手の感触によって伝達されるのです。

それは神の使信・神の使者であるだけでなく、それを伝える媒体そのものが、天の命と力の泉に浸されることにより、霊化されて聖なるものとされているのです。

最後に、神の教会は特に今日、世界に対する、特に異教世界に対する証しを確証する、超自然的な力の新たな接触を必要としています。

前の章で述べたように、この真理は誇張されがちですが、それよりも大きな危険があります。それは、人類に対して証しするとき、この真理を見落として、自然主義や合理主義といった低い次元に落ち込んでしまうことです。いつの時代でも、この真理は依然として真実でなければなりません。神もまた、みこころにしたがって、しるしと不思議と聖霊の賜物とをもって、それを証ししておられます。キリスト教のキリストは昨日も、今日も、永遠に同じである以上、キリストのキリスト教も、昨日も、今日も、永遠に同じでなければならないのです。