「祝福された望み、すなわち、大いなる神また私たちの救い主イエス・キリストの栄光の出現を待ち望むようにさせています。」(テトス二・十三)
「神の日の到来を待ち望み、また早めなさい」(二ペテロ三・十二)
第二ペテロ三章の冒頭で使徒はある思想家の学派について述べています。その学派は終わりの時代に現れて、「彼の来臨の約束はどこにあるのか?先祖たちが眠りに就いて以来、万物は創造の初めからそのままである」と言うでしょう。この言葉は、哲学者や科学者のある学派がまさに今日広めている教義を別の形で表現したものにほかなりません。
これは実質上、進化論の教義的原理です。その主要な原理はこうです――「今あるものは、過去に類似したものから進化してきたものであり、将来も発展し続けて同じように展開していくであろう。自然の成り行きを差し止めるような現実的危機はこれまでなかったし、これからもないであろう。したがって、至高の存在がこの惑星の未来の歴史に直接介入し、人の姿で地球という舞台に来臨するといった、乱暴で不自然な教義は、最も優れた文明的直観と確立済みの科学的原理にことごとく仇なすものである」。
悪魔の手口は、宇宙のすべてを合理的な根拠に還元し、人類の歴史の過去からだけでなく未来からも超自然的なものを排除して、人間と自然だけで十分であり完全であるとすることです。
さて、自然はこの誤った仮定に反対して自ら証言しています。きわめて思慮深い科学者たちが、この世界は自滅的要素を内包していること、そして、事物のまさに性質中に天体の軌道に決定的な一大破局を招く原因となるものが働いていることを、自ら私たちに告げています。科学の第一人者であるフンボルトは、時がたった将来のある時期に地球は大崩壊すると自ら予測しました。ペテロがこの節で私たちに告げているように、私たちの惑星の歴史で最近起きた出来事が途方もない一大激変について証言しています。水の洪水が全人類を一掃したのです。これは来るべきさらに大きな現実を予表するものでした。すなわち、炎の洪水が世界を最後の炎で包むのです。過去が物語るのは進化ではなく激変でした。そしてさらに大きな破局が、自然の観点から見ても預言の観点から見ても、私たちの前に迫っているのです。
さらに、私たちの人間生活のすべての枠組みが証ししているように、現在はさらに偉大でさらに長続きするものの不完全な予表にすぎません。私たちが今日感じ、目にし、知るものはみな、無限の未来の胚子にすぎません。私たちの本性の奥底にある本能は、より広大な領域、より荘厳な生活、より安住できる故郷について私たちに告げます。地上で私たちは、愛する者の上で墓が閉じる時になっても、まだほとんど愛することを学んでいない有様です。死や変化の荒々しい手が構想を打ち砕き、企てを台無しにするときはじめて、計画を立てる有様です。人生は壊れた柱や新たに造られた墓でいっぱいです。被造物は、より良い日、偉大な解放者を求めてうめいています。私たちの内なる声はことごとくこう叫んでいるかのようです、
時の流れの彼方に、
死の支配の彼方に、
確かにより明るい国があります。
彼処では人生は息のようではなく、
愛情は、その火花が上に飛んで消えていく
儚い炎でもありません。
上なる世界があります、
そこに別れはなく、
ただ善のために
永遠の愛が形成されます。
そして信仰は地上で見ます、彼処の輝かしい領域に移された
亡くなった知己らを。
神に感謝すべきことに、この祝福された望みについて、啓示の光は明瞭で曇りがありません。この光は、啓示の夜明けから輝かしい完成に至るまで、弱まることなく、ますます輝きを増していきます。
エデンの門の奥にいたケルビムの神秘的な姿の、まずはその輝かしい頭と、そして最終的にはそのすべての肢体は、贖われた人間の予型でした。獅子の顔は王者の風格を、雄牛の顔は力を、人の顔は完全な人間性を、高く舞い上がる鷲の顔は気高さと神との合一を物語っていました。これはみな、まずキリストにおいて、次に彼に贖われた者たちにおいて成就されるべきものでした。それはエデンの門に置かれた写真のようなものであり、失われたパラダイスから放浪者として出て行く哀れな傷ついたアダムに、彼の種族の将来の栄光を示すものだったのです。
このビジョンを、神は主イエス・キリストによる回復を受け入れるすべての人に与えてくださいます。私たちは失われていて罪深いかもしれませんが、いつの日か、私たちの高くあげられたかしらと同じくらい栄光に満ちるでしょう。
次に、この祝福された望みは、エノクが最初に宣べ伝え、後に身をもって実証したテーマであることがわかります。彼は再臨を預言した最初の預言者でした。そして、その務めが終わった時、神は彼を連れ去って、彼が証ししたこの輝かしい望みを彼自身において実現させることにより、それに対して証しされたのです。
ノアと彼が通った大洪水とは、主の来臨に関する最も偉大な真理のいくつかを絵図によって示しています。エノクが嵐の前に携えあげられる聖徒たちを表しているのに対して、ノアは艱難を通って彼のようにくぐり抜けて新しい地を受け継ぐイスラエルの民を表しています。ノアの時代は人の子なる方の時代の予型であり、彼の超自然的解放の物語はすべて、キリスト教時代の終わりの時を予表しているのです。
アブラハムも同じように、この来るべき時代の力の下で生きました。彼は約束の地を契約によって受けたものの、彼自身はその地ではよそ者であり、後に受け継ぐことになる嗣業を信じつつ亡くなりました。彼がカナンにおける唯一の所有地であるマクペラの洞穴をあれほど大事にした理由は、そこが彼の愛する妻の埋葬地であり、輝かしい復活のときに将来その地を受け継ぐことになるという神の契約の保証だったからでした。彼に対する神の約束は千代に及ぶものであり、それらの約束が究極的に完全に成就されるのはまだ遥か先のことにちがいない、と結論づけるのは難しいことではありません。
同じようにヨセフは亡くなるとき、自分の骨に関して指示を与えて、超自然的な望みに対する信仰を示しました。彼は、自分がイスラエルの聖徒たちと共に終わりの時代に自分の土地に立つ時、自分の塵が将来受け継ぐ土地の一部となるよう望んだのです。
この希望について、ダビデの詩篇や旧約の預言者たちの歴史を辿るには時間が足りません。旧経綸が、イスラエルの荒廃と、神の御旨を果たしそこなった人類の完全な失敗のただ中で終わりを告げた時、さらに優った希望の光が、この群がる暗闇のただ中で輝き始めた、と言えば十分でしょう。イザヤ、エゼキエル、エレミヤ、ゼカリヤ、そして特にダニエルは、遠い未来を見渡して、諸々の時代に関する素晴らしい展望と、その完成となるキリストの輝かしい来臨とを見て、語りました。新約聖書と同じように、旧約聖書も未来についての壮大な黙示録で幕を閉じるのです。
主イエス・キリストの務めは、将来の来臨を示す荘厳な実物教材で、その頂点を飾りました。ガリラヤでの素晴らしい働きから転じようとしておられた時のことです。彼は弟子たちを連れてヘルモン山の高台に行き、一時の明るい輝きの中、ご自分の神性の表から覆いを外して、来臨の栄光の輝きをことごとく現わされました。彼ご自身の変貌した御顔と御姿の中に、弟子たちは再来される時の彼を見ました。他方、モーセとエリヤの中に、弟子たちは、まず、眠っている死者がよみがえらされる時のビジョンと、次に、携え挙げられる時の生者のビジョンとを見ました。これはみな、主イエスの御力と来臨のビジョンである、とペテロは告げています。このビジョンは、自分たちが直面している暗い艱難を目の前にして、彼自身の心を励まし、他の人々を慰めるためのものだったのです。
しかし、彼の最後の講話の中で、彼はご自身の来臨についてのメッセージを十分に説明されました。地上生活の最後の週にオリーブ山の中腹に座して、非常に明確かつ鮮明に、キリスト教時代に立て続けに起きる出来事と特にその終幕について語られたのです。これらの素晴らしい講話は、来臨に関する後のすべての預言の本質を含んでおり、深く学ぶ価値があります。
しかし、ペンテコステの後、聖霊はこの偉大な真理をいっそう豊かに解き明かされました。すべての使徒がその証人でした。ペンテコステの日に、彼らは聖霊と主の来臨の関係をはっきりと指摘しました。イエスが去って行かれる時の最後の約束は、御霊のバプテスマと彼ご自身の文字どおりの再臨でした。ペテロの初期の宣べ伝えの一つは、まず、御霊が主の御前からもたらされる「新鮮にする時季」に、次に、主を迎え入れた天が主の最後の降臨のために主を手放す時に、主ご自身がもたらされる「復興の時」に、非常にはっきりと言及しています。
パウロは、テサロニケ人への二つの手紙を書いたとき、この偉大な真理に言及しました。また、すべての手紙の中でそれについて、さいわいな霊感と期待を与えるものとして、何度も言及しています。
ペテロはこの「祝福された望み」について多く述べています。また、彼らの中で最も実践的で神秘主義やいかなる夢想からも最も遠かったヤコブですら、当時の苦闘している虐げられたクリスチャンたちに、労働組合やストライキによってではなく主の来臨によって自らの過ちを正しなさい、と述べています。また、主の御心に最も近く、最後のメッセージを与えた最後の人であったヨハネは、荘厳な黙示録――それは主の来臨とその前後の出来事についての一つの長大なビジョンです――で聖典を閉じ、霊感された書を封印しました。
新約聖書の大まかな内容と構造は旧約聖書と似ています。第一に事実についての物語、第二により深い霊的真理の教え、第三に御父の預言的啓示があります。私たちがまずキリスト教の諸事実と御霊の深みの中に確立されないかぎり、神は彼の来臨についての輝かしい教理を私たちに託すことはできません。あらゆる教理の中で、この教理は、もてあそんだり、おしゃべりしたり、理論として軽々しく掲げるのに、最も適していません。私たちはキリストの中に深く根ざし、土台づけられる必要があります。そのときはじめて、私たちはこの教理を的確に把握して、伝えられるようになります。しかし、私たちが御霊を豊かに受けた後、御霊がなさる特別な務めの一つは、私たちに来るべきことを示し、ビジョンの扉を開き、預言の言葉を解き明かすことです。
さて、聖霊がこの輝かしい希望を啓示されるとき、その超自然的性格のいくつかの点が現れます。
第一に、それはキリストを超自然的に啓示します。主イエスが超自然的な人としてかつてこの地上に住まわれた事実を受け入れているなら、彼がこの地上を再び訪問し、その至高の主としてさらに長くそこに住まわれることを、どうして奇妙に思うのでしょうか。すべてのクリスチャンはこう信じています、かつてこの地上の舞台を歩まれたこの神聖な御方は今、彼方の天のどこかに、実際の目に見える御方として住んでおられる、と。かつて住んでいた世界に自ら戻ることは、彼にとってほんの少しの移行にすぎません。さて、これが主の来臨の教理の共通認識です。「このイエスは(中略)天に行かれるのをあなたたちが見たのと同じ様で来られます」。もちろん、彼の来臨は次の点で異なっているでしょう。すなわち、彼の地上の務めのあいだ彼の神性を覆っていた謙卑の覆いは永遠に取り去られるであろうこと、また彼の神性と普遍的主権の威光が全く輝き渡るであろうことです。
これは文字どおりの目に見える出現を意味することは、ほとんど証明するまでもありません。この数世紀のあいだ、キリスト教会の大部分は奇妙な理論を受け入れてきましたが、その理論はこの祝福された望みの力と意義を実質的に取り去ります。この霊解された解釈によると、彼の来臨の約束は彼の民の心の中に彼が個人的に住まわれるという形で、また、すべての諸国民の間で福音の真理・原理が勝利するという形で、実質的に成就されるというのです。
さて、この第一の点については、こう言えば十分でしょう。新約聖書の使徒たちは、キリストの内住を豊かに享受していたにもかかわらず――キリスト教時代に人が望みうるかぎり享受していたにもかかわらず――、キリストの実際の来臨を彼らの希望の最高の対象として常に待ち望んでいたのです。
他方の点については、次のことを思い出せば結論が得られます。すなわち、キリストの来臨について述べるとき、聖霊は一様に、彼の出現時の世界は、神の霊の真理の影響下には決してなく、むしろ実際には罪と霊的衰退のどん底にあることを示しておられるのです。もし主の来臨が本当に真理の勝利なら、以下のような節をどう考えればいいのでしょう?「人の子が来る時、地上に信仰を見いだすでしょうか?」「ノアの日々にそうであったように、人の子の日々もそうでしょう」。予言のホロスコープは現経綸下におけるキリスト教の発展と世界大の義の未来を決して啓示していません。この予言のビジョンは次のような時代を描いています。すなわち、不信仰と世俗心と罪が終末に向かってますます悪化し、他方、小さな群れであるキリストの真の教会は、蔓延する衰退のただ中に立って、キリストを証しし、彼の出現を待ち望んでいる、という時代です。この出現は、明確な印を帯びた明白な出来事として常に描写されています。天の端から端まで輝き渡る稲妻のように明確で圧倒的なのです。これは偉大な超自然的事実です。そして、その中心人物はキリストご自身です。キリストご自身の栄光が、感嘆する聖徒たちだけでなく驚嘆する世の目前で、ことごとく啓示されるのです。
第二に、信者たちは超自然的に変容させられます。この祝福された望みは、栄光を受けたキリストだけでなく、その聖徒たちの栄化をももたらします。眠っている者たちは、キリストの全能の力の超自然的・瞬間的な顕現によって、死者の中からよみがえらされ、生きている者たちは、その直後に変化させられることになります。両者に臨むこの変化により、彼らは栄光を受けたかしらの完全な似姿に全く変容させられます。
この出来事は並外れた言葉で描写されています。彼は「万物を彼ご自身に服従させることができる彼の活動にしたがって、私たちの卑しい体をも変容させ、それを彼の栄光の体に似たものに変えてくださいます」。
第一コリント十五章の類推による議論の中で、使徒パウロは復活の体の比類ない栄光について、いくつか暗示を与えています。それは霊の体であり、天の体である、と彼は述べています。それは墓に沈んだ体とほぼ同じものですが、それでも言語を絶するほど異なっています。土に植えられた種と、それから芽生えて花と豊かな実で覆われた美しい植物との関係に、それは似ています。新鮮な香り高い花を咲かせて金色の実を垂らしているオレンジの木と、土に植えられた小さな乾いたオレンジの種の関係と同じことが、栄光の体と、私たちが死ぬときに横たえるこの朽ちた体との関係にも言えます。「朽ちるものでまかれ、朽ちないものに復活させられます(中略)弱さの中でまかれ、力の中で復活させられます。天然の体でまかれ、霊の体に復活させられます」。
復活と栄化された体についてのこのさいわいな真理は、人の哲学や科学の探求を超えたものです。人が知識を得る通常の過程では学べない真理です。それは明らかに超自然的なものであり、神が啓示された教理として信仰によって受け入れなければなりません。
しかし、自然界にもそれに関する美しいたとえが存在します。埋められた種が発芽する過程は復活の神聖な型です。極上の銀の宝石を、化学者が酸の中で溶かすと、それは目に見えなくなりますが、次に、その溶液に新たな酸を加えて沈殿させることにより、それを元に戻すことができますし、それをるつぼに入れてもっと美しい形に造り直すこともできますが、これもまた型なのです。
これは神の輝かしい超自然的な贖いに対する人のお粗末な予測にすぎません。この途方もない真理の最高の絵図・証拠は、常に次の単純な事実でなければなりません。すなわち、人類のかしらであるキリストは死んで死から復活されたのであり、彼の栄化された体は私たちの復活の型であり保証である、という事実です。
第三に、物質界は超自然的な変容を遂げます。人が変化させられるだけでなく、人の住まいも素晴らしい変容を遂げるのです。罪の痕跡、苦しみと死の記憶は消し去られます。墓場はなくなります。死という恐ろしい事実は遠い過去の記憶にすぎなくなり、墓場は死者を明け渡すだけでなく、分離と破壊の業をやめます。低次の被造物の野性的で野蛮な本能は服従させられます。獅子は雄牛のように温厚になり、狼は小羊と共に伏し、コブラやサソリは刺さなくなります。自然界の弱者階級は、強者の餌食になる法則の下でもはやうめき声を上げなくなります。
重力の法則も変わります。新エルサレムでは、通りは水平方向だけでなく上下方向にも伸びており、前後に移動するのと同じくらい自由に上下にも移動できます。なぜなら、地球の重力は永遠に断たれて、重心は主ご自身になるからです。不毛な砂漠はバラのように花咲きます。地球の気候は変わり、「彼らを照らす太陽の光や熱」、また厳しい霜や雪が、彼方の愛の夏国を悩ますことはもはやありません。地上は下界の天となります。パラダイスが回復されます。呪いは取り消されます。そして、無限の知恵・愛・力によってこの惑星は自然界の模範となり、全き贖いの輝かしい御業を飾るものとなります。
第四に、この祝福された望みは、神の摂理と世界・宇宙の統治とに超自然的な変容をもたらします。人の政府は検査され、試され、あわれな失敗であることが判明しました。
ダニエルの幻では、地の王たちは多くの野獣の破壊的勢力として描写されていますが、いと高き方の聖徒たちが最終的に王国を受けるという輝かしい約束が与えられています。「主権と大いなる王国は、いと高き方の聖徒である民に与えられます。彼の王国は永遠の王国であり、すべての主権は彼に仕え、従います」。キリストご自身が世界の主権的支配者になられます。ゼカリヤはきわめて明確な言葉でこう述べています、「主が全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる。(中略)エルサレムに攻めて来るすべての諸国民のうち、生き残った者はみな年ごとに上って来て、王、万軍の主を礼拝し、仮庵の祭りを守る」。
贖われた聖徒たちはまさにこう歌います、「あなたは私たちを私たちの神のために王とし、祭司とされました。私たちは地上で支配します」。黙示録の最後のビジョンではこう約束されています、「第一の復活にあずかる者は、幸いであり、聖である。これらの者たちに対して、第二の死は何の権威もない。彼らは神とキリストの祭司であり、千年の間、彼と共に支配する」。
地上の巨大な重荷の一つに、腐敗した政治体制の呪いがあります。その政治・社会システムは、支配権を持つ方が来られないかぎり、決して正しくなることはないでしょう。キリストの来臨は、社会の悪と政治体の病とに対する唯一の治療薬です。クリスチャン市民としての責任を果たしましょう、しかし、常に覚えておこうではありませんか、私たちの国籍は天にあり、そこから地の真の王が来られるのを私たちは待っているのです。
この地球が新たに整えられるとき、それは他のすべての世界に影響を及ぼすでしょう。キリストの贖いは天と地の万物を和解させるものである、という感覚があります。それが一体何を意味するのかを十分に予言することは、聖書に照らしてみても不可能です。しかし、千年期を超えて、代々の時代がさらに広大でさらに壮大な形で展開していくであろうことは確かです。その結果は最終的に、義のみが宿る新しい天と新しい地です。そして、人類の贖いの物語の中で展開され確立された偉大な原理が、何らかの形で、宇宙の遠く離れたすべての天体や神の宇宙帝国の全領域に対して適用されることになるでしょう。おそらく、それらの天体群はこの贖われた惑星の遠い植民星になるかもしれませんし、聖徒たちは地球での奉仕と忠誠に対する報いとしてそれらの天体群を大いなる主権と支配権をもって統治することになるのかもしれません。
来るべき時代の人間生活の諸形態について述べられていることから、少なくとも次のことは十分に明らかです。すなわち、千年王国時代には三つの異なる人々がこの惑星上にいるのです。第一は地の諸国民です。彼らは今日と同じように依然として人の水準にありますが、キリストの王国の臣民となり、彼の義と平和による普遍的支配の幸いな特権を享受することになります。
次にユダヤ人国家です。アブラハムとダビデに対する千代に及ぶ約束が成就して、ユダヤ人国家は存続することになります。これは最高の国家であり、イスラエルは神ご自身の直接統治下にある首都エルサレムから世界的影響力を行使します。そして、古代の神政政治の高遠な理想を欠け目なく、また嘆かわしい失敗を犯すことなく実現します。ダビデはキリスト直々の副君主として彼の古代の王国を統治することになります。アブラハムはそのすべての子孫と共に、長らく待ち望んできた壮大な約束の輝かしい成就を享受することになります。イスラエルは古代へブルの預言のいまだ成就されざるビジョンを国家として文字どおり実現することになります。
しかし、三番目の種族もいるでしょう。すなわち、復活させられて携挙された聖徒たちです。彼らは地上で統治しますが、天的命と霊の体を持っています。彼らの世界統治は、常にいます彼らの王である主イエス・キリストご自身の直接的指示下にあります。彼らはこの王国の執政官になります。彼らの力は御使いたちの力に似たものになるかもしれません。今、御使いたちは自然界の諸問題において非常に重要な役割を果たしており、神は彼らを用いて諸国民の諸問題を管理し、人間の諸問題に関してサタンの憎悪や邪悪な人々の反対・妨害を食い止めておられますが、そのような力を持つことになるかもしれないのです。
千年王国時代の復活させられた聖徒たちは、物質界と人間生活の体系すべてに自由にいつでも出入りできるでしょう。人々を訪問したり、時には彼らとの戦いに従事することもできるでしょう。しかし、はるかに高い水準で生活することになるでしょう。アブラハムのもとに来た御使いたちや、復活後の四十日間の主ご自身のように、彼らはきっと人の食卓や地上の家族の団欒で座して食べ飲みし、単純な愛の交わりを持つことができるでしょう。しかし、食物による養いも、眠りによる回復も、現在の肉体に必要なものを供給してもらうことも、必要ないでしょう。彼らの生活は超自然的なものになり、主ご自身から直接支えてもらうことになります。キリストが私たちに語られたように、彼らはある意味で、めとったりとついだりしない御使いたちのようになります。復活の子らであるので、もはや死ぬことはありえません。もしかすると、私たちが栄光を受けた私たちの主と共に住むのは、地上ではなく新しいエルサレムにおいてであるかもしれません。新しいエルサレムが、千年王国時代だけでなくその後も、聖徒たちの住まいになるのかもしれません。この都は天から下って来ますが、地に接して、地の住民と常に関わりを持つことになります。
もちろん、私たちの現在の思考や概念の範囲をはるかに超えた事柄について、理想論的な大胆な推測をすることには注意が必要です。しかし私たちは、私たちの主の四十日間の復活生活について知っているので、私たちの心はこのうえなく喜ばしい期待で励まされます。その期待は、間もなく私たちに臨むことになる輝かしい生活に対するものであり、また、彼が私たちにとって大切な多くの望み――それらはおそらく証明できないけれども私たちが大事にしているものです――に関して私たちに告げられた、「そうでなければ、あなたたちにそう話していたでしょう」という御言葉に対するものです。
結論として、主の来臨という超自然的望みは現在の真理です。なぜなら、第一に、それは現代の人間中心主義に対する真の解毒剤だからです。自己充足している人は、自分のバベルの塔を建てて、自分の未来の理想郷を野心と想像力で夢見ています。しかし、これらすべてに対して、神は天から笑って語られます、「しかし、わたしはわたしの王を、わたしの聖なる山シオンに立てた」と。人々には好き勝手な愚かな夢を見させておきましょう。来るべき諸世紀のための投資や計算をさせておきましょう。しかし、私たちは「土台のある都」を待ち望んでいます、「その建設者と建造者は神です」。
第二に、この祝福された望みは、人類の歴史と摂理とそれらが生み出す問題や困惑という事実を解き明かす唯一の鍵です。過去は、それを神の計画の光の中で読むとき、すっかり明らかになります。また、現代の歴史も、そのすべての動きの中心に神の明確な御旨を見るとき、単純なものになります。神の御旨は、地上の政府は失敗であることを証明すること、国々や諸国民の諸問題を支配して全地からご自身の民を召し出すこと、アブラハムの子孫を他のすべての民族と区別してそれらよりも高く保つこと、そして、イスラエルと教会に関する御旨を妨げる不法の体系を打ち倒すことです。
預言の光の中で読むと、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマの興亡が理解できます。ヨーロッパの引き裂かれた版図とバラバラになった過去の王国も理解できます。教皇やイスラム教勢力の興亡を理解できます。英国民の優位性を理解できます。北方ロシアの力の増大を理解できます。トルコの大虐殺、アルメニアの恐怖、狂信的イスラム教の台頭、イスラエルに対する迫害を理解し、素晴らしい将来展望を享受することができます。すなわち、シオンの旗の周りに、また、国家の速やかな回復という希望の周りに、ユダヤ国民が集結する、という展望です。私たちは、現代の商業活動の高まりと奇妙な邪悪さを理解することができます。小さな群れのより深い生活と、世界大の宣教というより広範な事業を見ることができます。からだである教会のために万物のかしらである御方は、最後の大きな戦いを用意されつつあり、主の日のために地と天の勢力を集結されつつあります。
また、この超自然的望みはクリスチャンの生活と働きにおける最高の励ましです。この真理ほど私たちを励まして、この絶望的な地上から召し出し、私たちの希望と志を来るべき王国に堅く据えさせるものはありません。この真理ほど私たちを聖別して、聖潔という白衣だけでなく、いっそう深い愛という婚礼衣装をも確保するよう私たちを促すものはありません。この婚礼衣装だけが、私たちを花婿に会うのにふさわしくすることができます。また、この真理ほど、器の中の油である聖霊のバプテスマを受けるよう私たちを召すものはありません。この油は、あの愚かな処女たちが犯した愚行や失敗から私たちを救います。
同様に、それは勤勉で忠実な奉仕へと促す大きな誘因です。私たちは、明確な目的と輝かしい期待をもって、理性的に働いています。宙を打っているわけでも、世界の回心を空しく求めているわけでもありません。むしろ、私たちの来るべき主と協力しているのであり、主の来臨に先立つ最後の条件として、すべての諸国民に証人として福音を与えているのです。クリスチャンは、この偉大な働きの必要性と重要性を最も強く意識するようになった人々です。というのは、彼らは時を理解し、イスラエルのなすべきことを知り、私たちの時代の最後の二つの運動において、街の通りや路地にこのメッセージを与え、大通りや垣根やこの世の数百万の追いやられた者たちにこのメッセージを与えているからです。
そして、私たちはこう信じています、この超自然的な望みが、失われている人々に対する、特に現代の未伝道国に対する、最も説得力のある確信に満ちたメッセージであると。「王国の福音」という句が特に強調されているように思われますが、この句は、終わりが来る前にすべての諸国民に対して証しをすることに関連して使われています。
少なくとも、使者たちは出て行って王の差し迫った来臨を特に警告しなければならないことが示唆されているようです。私たちは、世界を目覚めさせる力を持つこの偉大なメッセージを、可能なかぎり明確に力強く用いてこなかったのではないでしょうか。
ヨナがニネベ人の所に天の使者として赴いた時のことを私たちは覚えています。彼は、四十日以内に王の王なる方が地上の邪悪な諸国民の一つを裁かれる、と厳しく宣告しました。王から最も低い奴隷に至るまで国民全体が恐れて悔い改め、荒布と灰をまとって座し、エホバのあわれみを得ました。
パウロがテサロニケ人に宣べ伝えた時、これが彼らに対する彼のメッセージだったにちがいありません。というのは、彼は彼らに最初の手紙の中で、彼らは偶像から転じて生ける真の神に仕え、天におられる御子を待ち望むようになった、と述べているからです。
また、黙示録の最後の宣べ伝えの絵図では、すべての種族・国民・部族・言語の人々に永遠の福音を伝える御使いが、神の裁きの時が来たことを彼らに宣言して、裁き主に会うように召す驚くべき呼びかけをしています。これは、神の教会がキリスト教国における世俗主義や懐疑主義に立ち向かうための現在の真理であるだけではありません。特に、私たちがキリストのための大使としてそれを携えて行って、神聖な権威をもって伝え、異教世界の不敬虔な諸国民に対する彼の最後のメッセージとして力強く指し示すべきものでもあるのです。
現在、現場にいる海外宣教士の大多数がこれを全く信じきっていることは、心強い事実です。