第七章 超自然的な働き

A. B. シンプソン

「私たちは神の傑作であり、良い働きのために、キリスト・イエスの中で創造されました。神は、私たちがその良い働きの中を歩くようにと、あらかじめ定めてくださったのです。」(エペソ二・十)

使徒はここで、私たちの働きは「用意されていた」と告げています。というのは、これが「定めて」という言葉の正しい訳だからです。それは「私たちがそれらの中を歩くため」です。それらは私たちの働きではなく、神が聖霊とキリストの内なる働きを通して私たちに供給してくださったものであり、私たちは「(私たちの中に)力強く働く、彼の働きにしたがって」成し遂げるにすぎません。私たちの全生涯は最後まで超自然的なものでなければなりません。私たちは奉仕を受け取ってはじめて奉仕できるようになります。「私たちは揺り動かされない王国を受けているのですから、恵みを持とうではありませんか。この恵みによって、私たちが敬虔と畏れをもって、神に喜ばれる奉仕をするためです」。

私たちは自分の働きのために超自然的な力を持たなければなりません。自分の天然的な意気込み、エネルギー、熱意に死の宣告を下さなければなりません。そして、自分自身の力に対して死に、聖霊を通して力を受け、彼の中で自分の働きをしなければなりません。

モーセは四十歳の時、イスラエルを解放しようという熱意をもって進み出ましたが、拒絶されるしかありませんでした。その後、彼が八十歳で戻って来た時、彼は砕かれた人、へりくだって自分の欠点を自覚している人になっていました。神は彼を、ご自身の杖すなわちエホバの御手の中にある道具として、用いることができました。

キリストご自身、奉仕のための力は神から供給されたものであることを、常に自覚しておられました。「わたしは自分自身からはなにもすることができません」。彼は言われました、「わたしは聞くとおりに裁きます」「わたしの中に住んでいる父が、御業を行なっておられるのです」。ですから、彼は聖霊を受けるまで公の務めを開始されませんでした。そのとき、彼の神聖なパースンに第二の神聖なパースン――神格の第三のパースン――が加えられました。そして、彼の地上の務めの間ずっと、彼の働きでは神の御子と神の霊という二つのパースンが結合していました。彼は御霊に依存することを選ばれました、それは彼が依存という点で私たちのより完全な型となるためでした。

ですから、彼の弟子たちは、高き所から力を与えられるまでエルサレムにとどまるよう命じられました。彼らは自分自身の力で出かけて行かなければならなかったのではなく、知恵と勇気と信仰と全き効力を求めて御霊に拠り頼まなければなりませんでした。

最もつつましい奉仕といえども、聖霊の神聖なバプテスマを受けないかぎり、だれもそれにふさわしくなることはできません。母親は育児室で、日曜学校教師は授業で、説教者は講壇で、魂を勝ち取る人は求道者と接するときに、聖徒は隠れた部屋で祈りの務めをするときに、このバプテスマが必要なのです。

この小ざかしさと人の自己充足の時代にあって、なによりも強調する必要がある真理は、効果的なキリスト教の働き全般に対する条件である聖霊のバプテスマの絶対的必要性です。私たちは行く前に待たなければなりません。

待つことが大事です。敵に追われている旅人が、馬の蹄鉄を直してもらうために鍛冶屋で五分ほど待ちました。そのように時間を浪費するとは愚かな人だと思う人もいたかもしれませんが、それでも実は彼は賢明だったのです。というのは、その最後の瞬間に敵が迫ってきて、勝利の雄叫びを上げた時、旅人は鞍に飛び乗って、たちまち遠くに行ってしまったからです。信仰と力の源で過ごした一週間は、最高の賜物と最高に素晴らしい才能のエネルギーでなされる人の努力による奉仕よりも、遥かに効果的な奉仕を生み出します。

私たちは超自然的な計画を持たなければなりません。軍事作戦を遂行するとき、司令官は部下の将校らの賢明な協力に拠り頼みます。もし軍隊の一部門が指導者の計画を無視して攻撃に突入するなら、助けどころか邪魔になるかもしれません。とても小さな部隊でも攻防の要所で用いられるなら、敵の側面を迂回して決戦の行方を変えることがしばしばあります。

キリストは仲介の御業の計画を持っておられます。彼が私たちを遣わされるのは、私たちに運任せで弓を引かせ、気の向くままに駆け回らせるためではありません。私たちが彼の方法を理解し、彼の偉大な御旨にしたがって働くことを望んでおられます。御霊の約束(使徒一・八)に予表されているように、福音はまず中心に、次に周辺に、そして地の果てに伝えられます。

この計画は、使徒行伝十五章に記されているキリスト教会の最初の大会議でさらに詳しく解き明かされており、三つの大きな区分から成ります。第一に、異邦人を訪れて彼らの中から御名のために一つの民を連れ出すこと。第二に、主の帰還とイスラエルの回復。第三に、すべての異邦人を集めつつ千年間統治することです。

賢い働き人なら、この計画にしたがって働くでしょう。今日、すべての異邦人を集めようとはせず、彼の再来のための初穂となる少数の人々を異邦人の中から連れ出すことに専念するでしょう。また、もっぱらイスラエルに注意を集中することもないでしょう、なぜならイスラエルの回復は主の帰還と共に実現されるからです。異邦人に福音を与え、彼らの中から御名のために一つの民を集めることを、彼は主な任務とするでしょう。

これにより、私たちは多くの苦い失望から救われます。私たちは、世界のすべての人々を回心させようとはしないでしょうし、今日の虐待をすべてやめさせようともしないでしょう。これは次の経綸に属することです。むしろ私たちは、この時代の偉大な宣教の働きと、私たちの王を連れ戻すこととに、熱心に取り組まなければなりません。

私たちは超自然的な指示を持たなければなりません。神の計画を持っていても、自分自身の衝動に駆られて自分の働きに邁進するおそれがあります。それがサウロの過ちでした。神は敵を滅ぼすために彼をイスラエルの王として遣わされましたが、サウロは手綱を自分の手に握って、サムエルの指示を待たずに前に進み出て、その僭越さによって自分も自分の王国も滅ぼしてしまいました。

この過ちをヨシュアも犯すおそれがありました。神は彼を遣わして、イスラエルを約束の地に導くために彼を祝福すると約束されました。ヨシュアは自分がイスラエル軍を率いなければならないと考えていました。そのため神は、彼の出陣にあたり真っ先に、抜き身の剣を持って彼と会って彼をひれ伏させ、ヨシュアではなくご自身が主の軍勢の将であることを思い出させなければなりませんでした。そして、ヨシュアは勝利の指導者に従うだけで勝利者となったのです。

使徒行伝の最初の箇所で、ピリポはこの学課を学ばなければなりませんでした。サマリヤでの宣べ伝えで素晴らしい成功を収めたので、人間的考えでは、それが彼の当面の使命であるように思われました。しかし突然、御霊は荒野に下って行くよう彼に命じられました。彼は賢明かつ忠実だったのでそれに従い、サマリヤでの働きから離れ、百マイルも離れた荒野に下って行きました。最終的に、その導きの理由が明らかになりました。エチオピヤの皇子が神に回心して、大アフリカ大陸における福音の先駆者となったのです。

パウロとシラスですら、自分たちの超自然的な指導者の指示に刻々と従って進まなければならないことを、厳しく教わらなければなりませんでした。彼らが自分たちの計画を遂行するためにビテニヤ、ムシヤ、アジアを突き進んでいた時、聖霊によって突然止められたのです。「御霊は彼らにそうさせなかった」。彼らは自分たちの個人的な指導者である方よりも先走ってしまったのです。彼らは道を戻って神の御前に静まり、新しい命令を待つことを余儀なくされました。彼らは良いことをしているようでしたが、神は喜んでおらず、それを望んでもおられなかったのです。

もしそれが、まさにその時の私たちのための神の働きでないなら、神は良い働きすら望まれません。自分はなにか良いことをしている、自分の知るかぎり最善のことをしている、と言うのは正しくありません。真の奉仕は、神が私たちに望んでおられる当のことを行うこと、それを彼の力によって行って彼を喜ばせることです。もし私たちがそうしていないなら、私たちのキリスト教の働き自体が神の妨げになるかもしれません。今日の宗教的な働きの多くが神のみこころから全く外れているのではないかどうかは、深刻な問題です。今日、アメリカの講壇で説教している多くの人は異教の地にいてしかるべきである、と私は信じています。神のみこころの中にいないせいで、彼らは自分の祝福を損なっており、自分の教会を愚行、俗世、時には不義の中に陥らせているのです。

そこでパウロは、一時停止して、指導者なる方が道を示されるのを待ったところ、道を見いだしました。その道は、彼が開拓していた土地から彼らを導き出し、エーゲ海を渡って、ヨーロッパ大陸とギリシャ王国に通じるものでした。

パウロには予見できなかったことの中に、神の大きな究極的御旨がありました。近代の国々がこの広大な大陸を活動の舞台とすることを、神はご存じでした。そこに私たちの祖先が生まれ、その結果私たちが現れることになっていました。パウロが神の導きに従って、自分の働きを放棄して主の働きに取り組んだことを、神に感謝します。

愛する人よ、あなたは神があなたのために用意された働きをしているでしょうか?利己的な娯楽や、あるいは、中途半端な慣習的形式にすぎないいわゆるキリスト教の働きに、自分の人生を費やすことから神はあなたを御旨のために救われたでしょうか?ひざまずいて、自分の人生は失敗に終わるのではないかどうかを、また、自分は道を失って力を空しく費やしたことが手遅れになってからわかるのではないかどうかを、調べてみてください。

最後に、超自然的な効力が必要です。神は、道を導くだけでなく、成長させて成果を生じさせてくださいます。神はご自身にあってなされる最もつつましい務めにも効力を与えてくださいます。種は静かに横たわっているように見えるかもしれませんが、必ず芽を出して収穫をもたらすのです。

次の安息日の礼拝のために大工たちが修理していた空っぽの広間でスポルジョン氏が語った一文が、隣接する店の作業台の所にいた機械工の耳に届きました。二十五年後、スポルジョンはその人が死の床にあった時、たまたま放った矢によってその人が救われていたことを知りました。それはその矢が聖霊によるものだったからでした。

ある英国の少女が、家族と牧者以外のだれにも知られることなく生涯を終えました。しかし、彼女の生涯の美しい物語が、彼女の牧者だったレイ・リッチモンドによって、「酪農家の娘」という小冊子に記されました。その小さなトラクトは、素晴らしい知性を浪費していたイギリスの若い貴族の手に渡り、それを読んだことでウィリアム・ウィルバーフォースは聖別されたクリスチャンとなり、大英帝国内の全奴隷の解放者となりました。ウィリアム・ウィルバーフォースは「宗教についての実践的見解」という小さな本を書き、それがある気楽なスコットランド人説教者の手に渡りました。その説教者は講壇を去って数学を教えようかと考えているところでしたが、その小さな本からトーマス・チャルマースの力強い魂が生まれ、そして彼の生涯からスコットランド分裂、自由教会、キリストのための偉大な運動と宣教の働き――それはその高貴な教会が導いたものであり、私たちの多くはそのおかげでキリスト教に望みを抱いています――が生じたのでした。

神の働きの連鎖はなんと驚異的なのでしょう!小さな一言の効力はなんと強力なのでしょう!永遠に生き続ける神の御言葉はなんと不滅なのでしょう!

私たちは常にその力を意識するわけではありません。実際、神が最もよく用いられるのは私たちの弱さなのです。大いなる謙虚さの中で語られたささやかなメッセージは、他のだれかの心の中で種となり、その実はレバノンのように揺れ、その祝福は地を覆って天を満たすようになります。「神は知者を辱めるために、この世の愚かな者を選ばれました。また神は強い者を辱めるために、この世の弱い者を選ばれました。また神は、有るものを無いものとするために、この世の生まれの卑しい者、さげすまれた者、すなわち無きに等しい者を選ばれました。それはどんな肉も、神の御前に誇ることがないためです。しかし、あなたたちがキリスト・イエスの中にあるのは、神によるのです。このキリスト・イエスは、私たちに至る神からの知恵、すなわち、義と聖別と贖いとなられました。それは、『誇る者は、主の中で誇れ』と書かれているとおりです」。

「いったいアポロは何者ですか?パウロは何者ですか?主がそれぞれに与えられた分に応じて、あなたたちを信仰に導いた奉仕者にすぎません。私は植え、アポロは水を注ぎました。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、植える者も水を注ぐ者も取るに足りません。重要なのは、成長させてくださる神です。(中略)ですから、だれも人を誇ってはなりません。なぜなら、すべてのものは、あなたたちのものだからです。パウロも、アポロも、ケパも、この世も、命も、死も、現在の事柄も、来たるべき事柄も、すべてはあなたたちのものです。そして、あなたたちはキリストのものであり、キリストは神のものです」。