梅森豪勇牧師がシンガポールで伝道していた時一九一九年の春、突然不思議な人物が訪問した、それから自分の伝道は積極性を負んで地の果まで行こうという態度をとるようになったとて、個人的に話されたと共に講壇から一般に向っても語られたので自分は今そのままを此処に附記する。
私は植村正久先生の励ましを受けてシンガポールに伝道に行き、先ず日本人伝道を初めようとして僅かばかりの邦人を尋ねて見た。其時移民の先端をなすものは日本から来る醜業婦であって、其の巣窟を私は毎日馬鹿のようになって歩きつつ誰か悔改めるものがないかと同国人のよしみで話しかけて見るが、耳を傾けるものは殆んどなく、伝道も不振で行きづまりを感じていた。その時不思議な人物が私を訪問した。
私どもは一軒の家を借りて下が集会室で二階を住居にしていた。伝道が振わぬので気が腐った様な状態でいたが、一日不思議な人物が尋ねて来た。知らぬ人の名であるから外国の宣教師でもあるかと思って「御上り下さい」と云うと階段を上って来た。其時食後かたずけてはあったが、まだ家内と共に食卓に向いあって居た。階段の方に向っていた妻が「あっ」と驚いたような声をあげた。そこに現れたのが実にキリストを想わせるような姿の人物であったからだ。椅子に腰をかけるようにと案内して暫く彼の言うことを聞いていたが、自分は英語がよくわからないし、話の内容を知ることが出来なかったが聞いている間に非常に明るく喜ばしい霊感を受ける。此様な経験は私にとって初めてであった。そうしているうちに彼の顔が輝いているように思われ、其衣物まで光を放っている様に感じたが、そんな筈はないと思って、只衣物のみを見ると一枚しかない彼の衣物は、此処彼処によごれがあって決して美しいものではないが彼の人格から現れる何ものかが其様に感じさせるのであった。話の終頃になって、彼は肩から横にかける薄い毛布と一冊の聖書とをあげて、「私はこれしか何も持っていないが、主の証人として地の果てにまで行く」との意味を酌みとった。そして日本にも之から行くと云った様だ。然し、これしか何も持たぬ筈はないと思い、自分の聞きちがえで意味がとれなかったのだと思っていた。いざ立って辞去しようとしたから、記念のために何か書いてくださいと紙とペンとを出すと「私は日本語が書けない」の意味を現したから、英語で書いてほしいと云うと、不慣れだが書こうと云って、幾つかの聖句をかき、終にサンダーシングと署名して下に一本のアンダーライン(下線)を引いた。
私は彼を見送って下へ行き戸の錠をあけた。それは前が少しの広場になっていて最も下等な乱暴の労働者バンガリー族がよく群るところとなっていて、それらは手におえぬ連中で時々会堂の中に入ってベンチを破壊したり、よごしたりして叱っても怒っても、きく様な連中ではなかった。それが丁度その時も外で喧嘩か何か大騒ぎをしていたが、彼が戸の外に出ると急に電気にでも打たれた様にパッタリと止んで静になり皆ひざまずいて両手を頭上高くあげまたそれを胸の処で合掌した(これは最敬の礼である)。
するとその人は両手の一方には毛布、一方に聖書を高くあげて答礼しつつ砂上を跣足のまま歩いて行くと風は彼の衣を飜してさながら波の上を歩かれたキリストの貌は此様であったかと思わせられた。
自分は室に入って来て、受けた印象を思い返し、心の中に燃えるものを覚えた。出来るならもう一度彼に会いたい、今晩、どこかで説教があるかもしれないと思って新聞をしらべるとYMCAのホール(キリスト教青年館)で話があることを知って、そこへ出席した。彼は印度語で説教し、此の市に居る知名の宣教師が通訳した。
話の内容を自分は理解し得なかったけれどもその会場に満つる霊的な雰囲気と、霊感とを以て清い喜びにみち、もっともっと長く話してほしいと思った。終って祈ろうとしてひざまずいた時人々は皆ひざまずいたり頭を垂れたりしたが自分はその祈の貌を見たいと思ってある程度まで目をあいて見ていた。彼は斜に顔を天に向け目を開いて見つめる様な態度で祈った。其時の顔は何とも云えぬ崇高なもので、これこそ本当の祈だなと思った。
其時から自分も奮発して積極的伝道にあたろうと大いに勇気づけられた。後になって「サンダーシングの生涯と思想」という日本語の書物が出来たことを知って読み、ああ此人であったと知った。
(一)サンダーシングの友人は、彼が一人で祈る時にはその顔に「ほのかな光」が認められたという。Leslie Weatherhead の His Life And Our's, 108(ハンター「現代のイエス伝」竹森満佐一訳一〇二頁註)に引照されている。