第一章 神の臨在の啓示

サンダー・シング

金井為一郎 訳

(オリーブ園編集版)

一節

弟子――おお命の泉なる主よ!なぜ、あなたはあなたを崇める人々に御自身を隠して、あなたを見たいと願う者たちの目を喜ばせてくださらないのですか?

主―― 一、私の真の子供よ、幸福は目に見えるものによるのではなく、霊的な視覚を通して臨むのであり、心によるのである。パレスチナでは何千もの人がわたしを見た、しかし皆が真の幸福を得たわけではない。朽つべき目で知覚できるのは朽つべきものだけである。なぜなら、肉の目は不死の神や霊的な存在を見ることはできないからである。例えば、あなた自身、自分の霊を見ることができないのに、その創造者をどうして見ることができよう。しかし霊の目が開かれる時、あなたは確かに霊なる彼を見ることができる。(ヨハネ四・二四)。また、あなたが今わたしのことを見ているのは、肉の目ではなく、霊の目によるのである。

もし、あなたが言うようにパレスチナで何千もの人がわたしを見たのだとすれば、彼ら全員の霊の目が開かれていたのか、それともわたしが死すべき存在になったのか?答えは否である!わたしが死すべき肉体をとったのは、それによって世の罪の贖いの代価を払うためであった。そして罪人のために救いの業が完うされた時(ヨハネ十九・三〇)、死すべきものは栄光の中へと変容したのだ。それゆえ、復活後にわたしを見ることができたのは、霊の視力を受けた者たちだけだったのである(使徒十・四〇、四一)。

二、この世には、わたしについて知ってはいても、わたしを知らない者が多くいる。すなわち、彼らはわたしとの個人的関係を持っておらず、ゆえに、わたしを真に理解することも、真の信仰を持つこともできず、わたしを彼らの救い主また主として受け入れないのである。

生まれつき盲目の人に赤、青、黄といった様々な色について話しても、盲人はそれらの魅力や美しさに全く気づかず、何の価値も見いだすことができない。なぜなら、盲人は色についてしか知らず、色の様々な名前を知っているだけだからである。色について真に理解するには、目が開かれなければならない。同様に、人の霊の目が開かれないかぎり、たとえどんなに学識があっても、その人はわたしを知ることはできず、わたしの栄光を見ることも、わたしが受肉した神であることを理解することもできない。

三、多くの信者は、わたしの臨在が自らの心にあることを感じ取り、それによって霊的な命と平安を得ているが、はっきりとわたしを見ることができない。それはちょうど、目は多くのものを見ることができるが、だれかが目薬をさしてもその目薬は見えないのと同じである。しかし、その目薬の存在が内なる目を清め、視力を高めるのを感じるのである。

四、わたしの臨在から生まれる真の平安は、真の信者たちの心のうちに宿るが、それを目で見ることはできない。しかしその力を感じることによって、彼らはその中にあって幸いになる。また、彼らがわたしの臨在の平安を享受するときの幸福感も目には見えない。それはちょうど、舌と甘味の関係に似ている。舌に宿る味覚も、それが知覚する甘さも目には見えない。同じように、わたしは「隠されたマナ」(黙示録二・七)を通して、わたしの子供たちに命と喜びを与える。このマナは、知恵を尽くしてもこの世にはわからないものであり、また知ることのできないものである。

五、病のとき、舌の味覚が損なわれることがある。その間は、どんなにおいしい食事が病人に与えられても、病人にはまずく感じられる。同じように、罪は霊的なものへの味覚を損う。そうした状態では、わたしの言葉も奉仕も臨在も、罪人に対して魅力を失い、益となるどころか、かえって議論や批判の対象となってしまう。

六、多くの信者はまた、生まれつき盲目だった人が視力を受けたときのように、イエスを預言者や「人の子」としては見ることはできても、キリストまた神の子としては認めない(ヨハネ九・十七、三五~三七)。わたしが二度目に力をもって啓示されるときまではそうなのである。

七、ある時、一人の母親が茂みの生い茂る庭の中に身を隠した。幼い息子は母を探して庭中を歩き回り、泣きながらあちこちを探したが、見つけることができなかった。召使いが言った。「坊や、泣かないで!この木のマンゴーや、庭のきれいな花を見てごらん。さあ、いくつか取ってあげよう」。しかし子供は叫んだ、「いやだ!いやだ!ぼくはお母さんがいい。お母さんがくれるごはんのほうが、マンゴーよりずっとおいしいし、お母さんの愛はこの花たちよりもずっと甘い。それに、この庭は全部ぼくのものだよ。だって、お母さんのものは全部ぼくのものなんだから。いやだ、ぼくはお母さんがいい!」。茂みに隠れていた母親はこれを聞くと飛び出してきて、子どもを胸に抱きしめ、口づけで包んだ。そして、その庭は子どもにとってパラダイスとなった。このように、わたしの子供たちもまた、この魅力と美しさに満ちた世界という大きな庭の中では、わたしを見いだすまでは真の喜びを得ることができない。わたしは彼らのインマヌエル(「神、我らと共にいます」の意、訳注)であり、常に彼らと共におり、わたし自身を彼らに知らせる(ヨハネ十四・二一)。

八、ちょうど、海綿が水の中にあり、水が海綿の中に満ちているように――しかし水は海綿ではなく、海綿も水ではないように――両者は常に異なる存在であるのと同じように、わたしの子供たちはわたしのうちに住み、わたしも彼らのうちに住む。これは汎神論ではなく、この世に生きる者たちの心のうちに築かれる神の王国である。そして、海綿の中の水のように、わたしはあらゆる場所におり、あらゆるものの中に存在しているが、それらがわたしであるわけではない(ルカ十七・二一)。

九、木炭を取って、どんなに洗ってもその黒さは消えない。だが、火がその中に入ると、その黒い色は消え去る。同じように、罪人が聖霊(聖霊は父とわたしから出る。父とわたしは一つだからである)すなわち火のバプテスマを受けるとき、罪の黒さはすべて取り除かれ、その人は世の光とされる(マタイ三・十一、五・十四)。木炭の中の火のように、わたしはわたしの子供たちのうちに住み、彼らもわたしのうちに住む。そして、彼らを通して、わたしはこの世に自らを現す。

二節

弟子――主よ、もしあなたがご自身をこの世に特別に現してくださるなら、人々はもはや神の存在やあなたの神性を疑うことはなく、皆が信じて義の道に入ることでしょう。

主―― 一、わが子よ、すべての人の内なる状態を、わたしはよく知っている。そして、それぞれの心の必要に応じて、わたしは各々の心に自らを現す。人を義の道へと導くために、わたし自身を現すこと以上に優れた方法はない。人のためにわたしは人となった――それは、人が神を、恐ろしい存在や遠い存在としてではなく、愛に満ち、自らに似た者として知ることができるようにするためである。なぜなら、人は神に似せて、神のかたちに造られたからである。

人にはまた、自分が信じ、また自分を愛してくださる方を見たいという自然な願いがある。しかし、父なる神は本質的に理解不能であり、彼を理解しようとする者は神と同じ性質を持たねばならない。だが、人は理解可能な被造物であり、それゆえ神を見ることはできない。しかしながら、神は愛であり、人にも愛という同じ能力を賜ったので、その愛への渇望を満たすために、神は人が理解できるかたちを取られたのである。こうして神は人となられ、その子供たちは聖なる御使いたちと共に、神を見、神を享受することができるようになった(コロサイ一・十五、二・九)。それゆえ、わたしは言った、「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ十四・九、十)と。そして、わたしが人の姿を取っている間は子と呼ばれているが、わたしは永遠にしてとこしえの父である(イザヤ九・六)。

二、わたしと父と聖霊とは一つである。太陽に熱と光があるように――光は熱ではなく、熱は光ではないが、両者は一つであり、それぞれ異なるかたちで現れるように――わたしと聖霊は父から出て、世に光と熱をもたらす。聖霊は火のバプテスマであり、信者の心の中にあるあらゆる罪と不法を焼き尽くし、彼らを清く聖なる者とする。わたしは真の光(ヨハネ一・九、八・十二)であり、すべての暗く邪悪な欲望を追い払い、彼らを義の道に導き、ついには永遠のホームへと至らせる。それでも、わたしたちは三つではなく一つである――ちょうど太陽がただ一つであるように。

三、人に神が授けた価値や力や高い能力は、実際に活用されなければならず、さもなければ徐々に衰え、死んでしまう。同じように、信仰もまた、生ける神にしっかりと根ざしていなければ、罪の衝撃によって砕かれ、疑いへと変わってしまう。よく耳にするのは、「この疑問やあの疑問さえ解決されるなら、私には信じる用意がある」という言葉だ。だがそれは、骨折した者が医者に「まず痛みを取ってから骨を治してくれ」と言うようなものである。もちろん、それは愚かなことである。痛みは骨が折れていることによるものであり、骨が正しく整えられれば、痛みは自然と消えていく。同様に、罪の行いによって人と神との絆は断たれ、霊の痛みである疑いが生じた。ゆえに、まず神との合一が再び新たにされなければならない。そうすれば、わたしの神性や神の存在に関する疑いは自然に消え去るだろう。その時、痛みの代わりに、世が与えることも奪うこともできない、あの素晴らしい平安が訪れるだろう。このように、わたしが肉体となったのは、神と傷ついた哀れな人とを一つにして、彼らが天で神と共に永遠に幸せになるためである。

四、神は愛であり、あらゆる生き物に、特に人に、この愛の能力を備えてくださった。ゆえに、命と理性と愛そのものを与えてくださった愛なる御方が、しかるべき愛のお返しを受けるのは当然のことである。神の願いはご自身が創造された万物に対するものであり、もしこの愛が正しく用いられず、私たちが心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、愛を与えてくださった神を愛さないならば、この愛は高みから転落し、自己中心的なものに変わってしまう。こうして、私たち自身にも、また神の他の被造物にも、災いがもたらされる。不思議なことに、自己中心的な人間は、最終的には自らを滅ぼす者となるのである。

わたしはまたこう述べた、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と。さて、ある意味ではすべての人が互いに隣人であるが、ここで特に言及しているのは、日常的に近くに住んでいる者たちのことである。というのは、たとえ親しくない人でも、数日間しか近くにいないなら平和に暮らすのは容易だからである。しかし、日々あなたのそばに住み、絶えずあなたに悩みをもたらす者に対しては、その人を忍んで自分自身のように愛することは極めて困難である。しかし、この大いなる戦いに勝利したとき、他のすべての人を自分自身のように愛することがより容易になる。

人が心を尽くし、思いを尽くし、魂を尽くして神を愛し、また隣人を自分自身のように愛するとき――その人のうちにはもはや疑いのための余地はなくなり、終わりなき神の王国がその人のうちに確立される。そしてその人は、愛の火によって溶かされ、形造られ、天の父――この御方が最初に人をご自身に似せて造られたのである――のかたちへと造り変えられていくのである。

五、わたしはまた、わたしを真心から求める者たちに対して、わたしの言葉(聖書)を通して自らを現す。人の救いのためにわたしが肉体を取ったように、霊であり命であるわたしの言葉(ヨハネ六・六三)は人間の言語で記されている。すなわち、霊感された要素と人間的な要素がその中で結びついているのである。しかし、人々がわたしを理解しないのと同じように、彼らはわたしの言葉も理解しない。聖書を理解するのにヘブル語やギリシャ語の知識は必要ない。必要なのは聖霊との交わりであり、この御方の中で預言者たちや使徒たちは聖書を記したのである。疑いなく、この言葉の言語は霊的なものであり、御霊から生まれた者だけがそれを十分に理解することができる。世の批判に通じた者であろうと、ただの子供であろうと関係ない。この霊の言語を御霊から生まれた人はよく理解することができる。それはその人の母語だからである。だが忘れてはならない。この世の知恵しか持たない者たちには、それを理解することはできない。なぜなら、彼らは聖霊にあずかっていないからである。

六、自然という書物――それもまた、わたしが著者である――において、わたしは自由に自らを現している。しかし、この書物を読んでわたしを見いだすには、霊的な洞察力が必要である。そうでなければ、人はわたしを見いだすどころか、かえって道に迷ってしまう危険がある。

このように、盲人は指先を目のように使い、触覚だけで本を読むが、触覚だけではその真実性を真に評価することはできない。不可知論者や懐疑主義者の探究がこれを証明している。彼らは完全さの代わりに欠陥しか見ないからである。あら探しをする批評家はこう問う、「もし世界を造った全能の創造主がいるのなら、なぜこの世界にはハリケーン、地震、日食、苦しみ、死などの欠陥があるのか?」と。この批判の愚かさは、未完成の建物や描きかけの絵のあら探しをする無学な人の愚かさに似ている。やがてそれらが完成したのを見るとき、その人は自らの愚かさを恥じ、ついには讃美を歌うようになる。このように、神は一日にしてこの世界を今の姿にされたのではなく、また一日にして世界が完全に到達するわけでもない。全被造物は完成に向かって進んでいる。もしこの世の人が、神の目で遠くから完成された世界――もはや欠けたところのない世界――を見ることができたなら、彼もまた神の前にひれ伏し、こう言うだろう、「見よ、すべては非常に良かった」(創世記一・三一)と。

七、人の霊が体の中に宿っているのは、雛が卵の殻の中に宿っているのととてもよく似ている。 もしその殻の中の雛に、「外には広大な世界があり、あらゆる果実や花、川や雄大な山々があり、あなたの母もそこにいて、殻から解放されたらそれらをすべて見ることができる」と告げることができたとしても、その雛はそれを理解することも信じることもできないだろう。たとえだれかが、「あなたの羽や目は今や使用可能になり、それによって見たり飛んだりできる」と教えても、その雛はそれを信じないだろうし、殻から出るまではその証拠も示せないだろう。

同じように、多くの人々が来世や神の存在について確信を持てないのは、この殻のような肉体の向こう側を見ることができず、彼らの思いも繊細な翼のように脳という狭い枠組みを越えて飛ぶことができないからである。彼らの弱い目は、神がご自身を愛する者たちのために備えておられる、永遠に朽ちることのない宝を発見することができない(イザヤ六四・四、六五・十七)。この永遠の命に至るために必要な条件は、私たちがまだこの肉体にある間に、信仰によって聖霊から命を与えるあの温もり――ちょうど雛が母鳥から受ける温もりのようなもの――を受け取ることである。さもなければ、死と永遠の喪失という危険がある。

八、また、多くの人は言う、「物にせよ命にせよ、始まりのあるものは必ず終わりを迎える」と。これは真実ではない。なぜなら、思いのままに無から有を造り出せる全能の神は、ご自身の力ある御言葉によって、造られたものに不死を与えることができるのではないだろうか?そうでなければ、その方を「全能」とは呼べない。この世の命は衰えて滅びる運命にあるように見える。なぜなら、変化と衰えの対象であるものに従属しているからである。しかし、もしこの命がこうした変化と衰えをもたらす影響から解放され、永遠の命の源であり泉である永遠不変の神の顧みの下に置かれるなら、死の支配から逃れて永遠へと至るのである。

わたしを信じる者たちには、「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びることがなく、だれもわたしの手から彼らを奪い去ることはできない」(ヨハネ十・二八)。「わたしは、今おり、かつており、やがて来る全能の主なる神である」(黙示録一・八)。