第二章 罪と救い

サンダー・シング

金井為一郎 訳

(オリーブ園編集版)

一節

弟子――主よ、神に不従順であることと神を礼拝するのを止めることとは罪であるということは、ほとんどの人にとって明らかであり、その致命的な結果は現在の世界の状況に表れています。しかし罪とは本当のところ何なのかは、必ずしも明確ではありません。全能の神の御前で、神の御心に反して、しかも神ご自身の世界の中で、罪は一体どのようにして存在するようになったのでしょうか?

主―― 一、罪とは、神のみこころを退け、自分自身の欲望を満たすために、真実で正しいものを捨てて、自らの意志に従って生きることである。これは、そうすることで幸福を得られると考えてのことである。しかし、そうしても真の幸福は得られないし、真の喜びを享受することもできない。罪には固有の実体があるわけではない。したがって、だれかが罪を創造したとはいえない。罪はたんに状況や状態の名称にすぎない。創造主は唯一であり、善であり、善なる創造主が悪いものを創造することはありえない。そうすることは創造主の本質に反するからである。そして、唯一の創造主以外に罪を創造できる者はいない。サタンは既に創造されたものを損うことしかできず、何かを創造する力はない。したがって、罪は被造物の一部ではなく、創造され得るような独立した存在でもない。それはただ、欺瞞的で破壊的な存在の状態にすぎない。

たとえば、光は実在するものであるが、闇はそうではない。闇とは、ただ光がない状態にすぎない。同様に、罪や悪もまた、それ自体が独立して存在するものではなく、善の不在、あるいは存在しない状態にすぎない。この悪の暗い状態はきわめて恐ろしいものである。なぜなら、それによって多くの人が正しい道を見失い、サタンの岩礁に乗り上げて破船し、地獄の闇に落ちて失われるからである。このため、世の光であるわたしは肉において現れた。それは、わたしに信頼を置く者たちが滅びないためである。というのは、わたしは彼らを闇の力から救い、あの憧れの天の港へと無事に導くからである。そこには闇の名も形跡もない(黙示録二一・二三、二二・五)。

二、あなたは、「なぜ創造の主の御前で、罪というこの暗い状態が生じたのか」と問う。それは、サタンと人が、自らの意志により、不法な誤った方法で自分の欲望を遂げようとしたからである。そして、もしあなたが「なぜ神は人を、そのような状態に陥らないように造られなかったのか」と問うならば、その答えは、もし人が機械のように造られていたならば、自らの選択に従って行動することによってのみ到達できる幸福の状態に、決して到達することはできなかっただろう、ということである。アダムとエバがサタンの策略と欺きに陥ったのは、彼らが罪のない状態にあったために、偽りや欺き等の存在を知らなかったからである。それ以前は、サタン自身も、自らが天から追放される原因となった高慢の存在を知らなかった。彼以前には高慢なるものは存在しなかったからである。そして、人とサタンの両方にこの罪の状態が生じたが、神はその全能の力によって、この状態に新たな様相を与え、そこからさえも最も尊い結果を生み出されたのである。

まず第一に、神の限りない愛が受肉と贖いによって明らかにされた。それは他の状況下では隠されたままだったであろう。第二に、贖われた者たちは、罪の苦さを味わった後だからこそ、天の幸いをいっそう豊かに味わうことができる。それはちょうど、苦味を味わった後に蜂蜜の甘さがいっそう喜ばしく感じられるようなものである。天では、彼らはもはや罪を犯すことなく、柔和さと従順な愛をもって父なる神に仕え、永遠に神とともに喜びのうちに住まうのである。

三、人々は太陽や月の黒点や蝕といった欠陥を見つけることには熱心だが、罪の黒点や蝕には注意を払わない。このことから、人々の持つ光が闇であるとき、人々の中にある闇がどれほど深いかがわかる(マタイ六・二三)。ちょうど癩病人の身体が病によって麻痺し、感覚を失うように、人の心と精神も罪によって鈍くなり、無感覚となって、嫌悪感や苦痛を感じなくなる。しかし、その恐ろしい破壊力に目覚める時が来る。その時には泣き叫び、歯ぎしりするであろう。

四、罪の中に浸っている多くの人はその重さを自覚しない、あたかも水の中に潜る人が何トンの水を身に受けながらも、その重さを全く自覚せず、遂に窒息して死に至るようなものである。しかし水から出て、少しでも水を持ち帰ろうとすると、たちまちその重みを感ずるようになる。かく罪の重荷に気づき、悔い改めのうちにわたしのもとへ来る者は無代価で真の安息を受ける、わたしはこのような者を尋ねて救うために来たからである(マタイ十一・二八、ルカ十九の十)。

五、体のすべての肢体が役に立たなくなって衰弱しなければ、死が訪れないわけではない。心臓や脳が弱くなったり打撃を受けたりすれば、たとえ体の他の部分が如何に強く健康であっても、命を終わらせるには十分である。このように一つの罪は心と精神に有害な影響を与え、一人の魂だけでなく、家族全体、国家全体、さらには全人類の霊的生命を破滅させるのに十分である。アダムの罪の如きはそれである。しかしわたしの一言がラザロを墓から呼び戻したように、わたしの言は永遠の命をすべての人に与えるのに十分である。

六、獣や鳥が長い間人間と共に過ごした後、自分の種族のもとへ戻ることがある。しかし、彼らは歓迎されるのではなく、仲間たちに攻撃され、命を落とすことすらある。それは、長く人間と暮らして馴染んできたことで、その習慣や生き方がすっかり変わってしまったからである。動物が人間の影響下にある同族をその社会に受け入れないというのなら、天の聖徒や天使は、邪悪な人間と親密な関係を持って生きてきた罪人たちをどうして歓迎できるだろう。これは聖徒や天使は罪深い人々を全く愛していないという意味ではない。ただ、天の聖なる雰囲気はこのような人々には耐え難いのである。現にこの世においても、罪人は善良な人々との交わりを嫌う。そうであれば、どうして善良な人々と永遠に共にいて幸いでいられようか。彼らにとって、そのような天は地獄のように不快なものであろう。

神や神の民が罪人を天から追い出して地獄へ投げ込むと思ってはならない。神は愛であり、だれかを地獄へ投げ込むことは決してないし、これからも決してない。罪人を地獄へ導くのは、彼の汚れた生活なのである。人生の終わりが天と地獄を身近に迫らせるずっと前から、各人の心の中に、その人の善悪の性質に応じて、各自の天か地獄がすでに設けられているのである。それゆえ永遠の苦しみから救われたい者はだれでも、心から罪を悔い改めてわたしにその心を与えよ。その時、彼と共にあるわたしの臨在と、聖霊の感化とによって、彼は永遠に神の王国の子供となるのである。

七、この世の王や政府に反逆する者は、他国に逃れることで身を守ることができるかもしれない。しかし、神に反逆する者は、いったいどこに逃れて安全を得ることができるのか。彼がどこに行こうとも、たとえ天であろうと地獄であろうと、神は常にそこにおられる(詩篇一三九・七、八)。彼が安全を得る道は、悔い改めてその主に従うことの中にしかない。

八、アダムとエバにとって、いちじくの葉はあまりにも貧弱な覆いであったため、神は彼らに皮の衣を与えられた。同様に、人間の善行も、やがて来る怒りから自らを救うには、いちじくの葉と同じく無益である。わたしの義の衣を除いては、なにものも十分ではない。

九、蛾は炎の燃え盛る破壊力を顧みず、その輝きに魅せられて飛び込み、そして滅びる。同じように、人もまた、罪の破壊的かつ有毒な力を顧みることなく、その誘惑だけを感じて永遠の滅びへと突き進む。しかし、わたしの光は罪人を死から救い、命と永遠の幸福を彼にもたらす。人は、わたしのまことの光という尊い賜物を受け入れることのできるように造られたのだ。

十、罪は妄想や想像上のものではない。霊的暗黒の状態の中で、人が邪悪な意志を働かせることによって、邪悪の種が生じ、それが永遠に人の霊に感染して遂には滅ぼしてしまう――まるで天然痘が短時間で人の美しさを永遠に損ない、忌まわしいほど醜くしてしまうように。神は悪を創造されなかったように、病気や肉体の痛みも創造されなかった。それらは人の不従順の自然な結果にすぎない。痛みや病気もまた想像の産物ではなく、罪という隠れた目に見えない病が外面的に目に見える形で実ったものである。それは、自分自身の罪であれ、自分が属する家族の罪であれ、同じである。これらの人々が皆悔い改めてわたしに結ばれる時、わたしの健康を与える血は全員を巡り、内なる目に見えない病を癒し、永遠の健康を与える。なぜなら、このような健康な状態のために人は創造されたからである。それは人が王なる主と共に永遠に幸福に住むためである。

二節

弟子――主よ、近頃、一部の学者やその信奉者たちは、あなたの贖罪と血による贖いを無意味で無駄なものと考え、キリストは私たちの霊的生活のための偉大な教師・模範にすぎず、救いと永遠の幸福は自分自身の努力と善行にかかっている、と言っています。

主―― 一、霊的・宗教的思想は、頭脳よりもむしろ心と結びついていることを決して忘れてはならない。心は神の宮であり、心が神の臨在で満たされるとき、頭脳もまた光に照らされる。真の光がなければ、精神および理解力の目は役に立たないからである。それは、肉眼が日光なしでは役に立たないのと同じである。暗闇の中では、ロープを蛇と見誤ることもある。同じように、世の知者たちは霊的真理を歪め、素朴な心を迷わせることがある。だからサタンはエバを欺くとき、羊や鳩ではなく、最も狡猾な動物である蛇を用いたのである。こうしてサタンは賢者の知恵と学者の技量を取って、それらを自分の目的にかなう道具とする。しかし、博学で利発であるだけでは十分ではない。鳩のような純真さも必要である。それでわたしは言ったのである、「蛇のように賢く、鳩のように柔和であれ」(マタイ十・十六)と。

二、わたしの十字架と贖いは、青銅の蛇がイスラエルの民に為したのと同じ働きをする。というのは、信仰の目でそれを見上げた者は皆、救われたからである(民数記二一・九、ヨハネ三・十四、十五)。しかるに或る者は信じる代わりに、それをただの青銅だと考えて、批判して言い始めた、「もしもモーモが解毒剤を与えるか、あるいはこれらの毒蛇に効く薬や特別な薬を与えてくれたなら、それは信仰の対象となったであろう。しかし有害な毒に対してこの竿にどんな力があるというのか?」と。彼等は皆死んだ。今日も、神が定められた救いの方法を批判する者は、自らの罪の毒によって滅びるのである。

三、一人の若者が崖から落ち、重傷を負い、多量の出血で瀕死の状態になった。父親が医者の処へ連れて行くと、医者は言った、「生命は血にある、この若者の血は尽きかけている。しかしだれかが自らの命を犠牲にするならば、回復するかもしれない。そうでなければ、死ぬであろう」と。息子への愛で溢れていた父親は、自らの血を差し出し、そしてその血が若者の血管に注入されると、若者は回復した。人は聖き高嶺マウントオブホーリーネスから落ち、罪のために砕かれ傷ついている。そしてこれらの傷によって、その霊の命は衰え、死に瀕している。しかしわたしを信ずる者には、わたしの永遠にして霊的なる血を注ぎ込む。それは彼らが死から救われ永遠の生命を得るためである。このためにわたしは来たのである。すなわち、彼らが生命を得、豊かに得て(ヨハネ十・十)、そうして永遠に生きるためである。

四、古代では、人々は動物の血を飲むことや特定の食物を食べることを禁じられていた。これは、そうすれば特定の病から免れられると信じていたからであり、また、人間は動物の体を持っているため、肉を食べたり血を飲んだりすることで動物的な性向が強まることを恐れていたからでもあった。しかし今や、「わたしの肉は真の食物、わたしの血は真の飲物である」(ヨハネ六・五五)、なぜなら、それらは霊的な命を与え、完全な健康と天的な幸福と喜びもたらすからである。

五、罪の赦しは完全な救いを意味するものではない。なぜなら、救いは罪からの完全な解放によってのみ得られるからである。というのも、たとえ罪に対する完全な赦しを受けていたとしても、罪という病によって死ぬことがありえるからだ。例えば、ある人が長年の病のために脳に障害を抱えていて、そのせいで他人を襲って殺してしまった。その人に死刑判決が下されたとき、親族が事情を説明して慈悲を求めたので、彼は殺人の罪に対する赦しを得た。しかし、友人たちがその朗報を携えて彼のもとへ向かっている途中で、彼はその殺人を犯した原因となった病で死んでしまったのである。

この赦しはその殺人者にとって何の益があっただろうか。彼の真の安全は、その病を癒されることにあり、そうして初めて赦しによる真の幸福を得られたはずである。だからこそ、わたしは肉体において現れた。悔い改めた信者たちを罪の病、その罰、そして死から救い出し、こうして原因と結果の両方を取り除くためである。彼らは罪の中で死ぬことはない。わたしが彼らを救うからである(マタイ一・二一)。そして彼らは死から移って、永遠の命の相続人となる。

六、多くの人々にとって人生は危険に満ちており、彼らは小川に張り出した木の枝にある蜂の巣を見つけた猟師のようなものである。その猟師は木に登り、蜜を味わい始めたが、自分が死の危険にさらされていることには全く気づいていなかった。というのも、彼の足元の小川には、口を開けたワニがいて、彼を飲み込もうと待ち構えており、木の根元には狼の群れが集まり、彼が降りてくるのを待っていたからである。さらに悪いことに、彼が座っていた木は、根を虫に食われており、倒れる寸前だった。まもなく木は倒れ、この不注意な猟師はワニの餌食となった。このように、人の霊もまた肉体の中に安住し、頭脳という蜜の巣の中に集められた虚しく儚い罪の快楽を一時的に楽しむが、自分がこの恐るべき世の密林のただ中にあることに気づかない。そこではサタンが霊を引き裂こうと待ち構え、地獄はワニのように口を開けてそれを飲み込もうとしている。そして最悪なことに、罪という小さな見えない虫が、肉体と生命の根本を食い尽くしている。やがて魂は落ちて、永遠に地獄の餌食となる。しかし、わたしのもとに来る罪人を、わたしは罪から、サタンから、地獄から救い出し、「だれも奪い取れない」永遠の喜びを与える(ヨハネ十六・二二)。

七、サタンは巧妙な言葉と誘惑で人々を引き寄せ、呑み込んでしまう。まるで蛇がその輝く眼で小鳥を魅了し、餌食にするのと同じである。しかし、わたしを信じる者たちには、わたしはあの古き蛇と、この魂を滅ぼす世の誘惑からの解放を与える。わたしは彼らを自由にする。鳥が地の重力に易々と逆らって、開かれた天空を自由に飛び回るように、彼らは祈りの翼に乗り、わたしの愛という甘美な引力に引かれて、ついには安らぎの住まい、慕わしい故郷へとたどり着くのである。

八、黄疸にかかった人にはすべてが黄色く見えるように、罪人や哲学者に対して真理はその人の罪や理論の形や様式を取る。そして、そのような人々がさらに一歩進んで、わたしを自分たちと同じ罪人であると見なすようになるのも、さほど驚くには当たらない。しかし、罪人たちを救うわたしの働きは世の評判に左右されるものではなく、信じる者たちの生活の中で絶えず妨げられることなく進んでいく。レビがまだアブラハムの腰の中にいて生まれていなかったにもかかわらず、わたしに十分の一を捧げたように、すべての時代の信者たちもまた、まだ生まれていなかったにもかかわらず、十字架にかけられたわたしにあって、自らの罪のための贖いと代価を捧げたのである。この救いは、世界中すべての民族のためのものだからである。

九、人は自らの努力と善行によって救いを得られる、というこの言説は、人が新たに生まれていないかぎり、愚かで不条理なものである。世の支配者たちや道徳の教師たちは「善行によって善人になれ」と言うが、わたしは言う、「善行をする前に、まず自らが善人になれ」と。新しい善なる命に入ったとき、善行が自然に生じるのである。

苦い木でも実を結び続ければついには甘くなるなどと言うのは、愚か者だけである。実際、苦い木は甘い木に接ぎ木されることで甘くなる。甘い木に固有の命と性質がその苦い木に移り、本来の苦さは消えていく。これが、いわゆる新創造である。同様に、罪人は正しいことをしたいと願っても、結局は罪を犯すだけである。しかし、悔い改め、信仰によってわたしに接ぎ木されるとき、彼の中の古い人は死に、新しい被造物となる。そして、救いに由来するこの新しい命から、善行が実として生じ、その実は永遠に残るのである。

十、人の生来の善良さは真の心の平安を与えることも、救いや永遠の命を確信させることもできない、これを経験から学んだ者は多い。永遠の命を求めてわたしのもとに来たあの若者がその好例である。わたしに関する彼の最初の考えは間違っていた、今日の世の賢者たちやその追従者たちの考えと同じようにである。彼はわたしのことを、白く塗られた墓のような教師たち――その生活の中に真の善良さが一かけらもない者たち――の一人だと考えた。だから、わたしは彼にこう言った、「なぜわたしに善について尋ねるのか。善であるのはただおひとりである」と。しかし彼は、わたしの中におられる善と命の唯一の与え主に気づかなかった。そして、わたしが彼をわたしの仲間に加え、真に善良な人間にし、命を与えようとしたとき、彼は悲しみ、わたしのもとを去った。しかし、彼の人生は一つのことを完全に明らかにしている。それは、戒めを守り、善良であったとしても、彼は満足せず、永遠の命の確信も得られなかったということである。もし善行によって平安が与えられていたなら、そもそも彼はわたしのもとに尋ねに来なかったはずだし、たとえ来たとしても、悲しみつつ立ち去るのではなく、わたしの言葉を信じ、喜びつつ去って行ったことであろう。

その後間もなく、パウロという若者がわたしを認め、その心の願いは完全に満たされた。彼は悲しみつつ背を向ける代わりに、持ち物をすべて捨ててわたしに従った(ピリピ三・六~十五)。同様に、自分の義に頼るのをやめてわたしに従う人は皆、わたしから真の平安と永遠の命を受けるのである。